嘆きと諦め
「旦那様、奥様がまた……」
使用人の声で、シグルド・ブレイア・マギシェンは浅い眠りから目覚めて、反射的にベッドから飛び起きる。
今日も妻はかんしゃくを起こしているのだろうか。それとも怖い夢でも見たと泣いているのだろうか。
「今日はまたどうした」
「はい、ヴィクトール様がいないと泣いておいでです」
思わずシグルドは頭を抱えた。
ヴィクトールなら、ドールドレス職人に型紙などを作るためにということで預けたのだ。
「旦那様、どういたしましょうか、その」
「どうもこうもないわ、アリアの部屋へ向かう。ガウンをよこしなさい」
ガウンの腰紐を結びながら、大股で廊下を歩く。
廊下の大きな窓にはすでに明るくなり始めていた。どうやら夜明けが近いぐらいの時間らしい。
それほど歩くこともなくアリアの部屋の前にたどり着き、シグルドはドアを開けた。
部屋の中は相変わらず……いや、いつもよりもさらに酷い状態だった。
カーテンやベッドリネンはぐちゃぐちゃ、クローゼットからはめちゃくちゃになった衣類がはみだし、ぬいぐるみや絵本が散乱している。
そして、アリアは部屋の中央で、看護師兼メイドのレリーチェに向かってぬいぐるみや本を投げつけていた。なにか硬いものでも投げつけられたのか、レリーチェの額からは血が流れていたのだが、レリーチェは根気よくなにかをアリアに向かって話し続けているようだった。
「アリア! やめなさい!」
小さな花瓶を手に持ち投げつけようとするアリアを、シグルドは後ろから抱きしめるように抑える。
「シグルド……ヴィクトールが、私のヴィクトールがいないのよ、きっと誰かが私からヴィクトールを奪ったんだわ。また奪ったんだわ……」
「誰も、奪ってなどいないよ。大丈夫だよ。ヴィクトールはドールドレス職人が預かってくれているんだよ。すぐにヴィクトールは帰ってくるから、そう、明日にでも帰ってくるさ」
そうアリアの耳元でささやくと、アリアは少しだけ力を抜いてくれた。
「本当に、帰ってくるのね。『あの時』みたいな姿で、帰ってくるんじゃないのよね?」
「あぁ、そうだよ。大丈夫だ。さぁ、いい子だからもう眠ろうか、アリア」
「そう、ね……なんだか疲れてしまったし、眠るわ……。ねぇシグルド、私をベッドまで運んでくれるかしら?」
妻のアリアが甘えるような声音でおねだりをしてくる。こんなときの返答など、ひとつしか無いに決まってる。
「仰せのままに」
リネン類がぐちゃぐちゃだったベッドは、メイドたちの手よってすでに整えられていた。アリアのお気に入りのぬいぐるみたちも、枕のそばにそれぞれ座っている。
アリアを丁寧にベッドに横にさせて、薄い布団をかけてやる。
「それじゃあアリア、よくおやすみ」
「おやすみシグルド」
眠る前のキスを交わして、シグルドはアリアの部屋を静かに出る。
ドアを閉じきった瞬間、深いため息が漏るのは抑えようがなかった。
さて、ほとんど夜明けに近いこの時間だ。確かに身体は疲弊してはいるが、シグルドは休む気になどなれなかった。
……自室に茶でももってこさせよう、濃いめに淹れたモルグネ紅茶あたりがいい。
自室のソファに身体をあずけ、ミルクティーにしたモルグネ紅茶を飲み、シグルドは目を伏せた。
こんなときは、少し考え事をしたかった。
――自分たち一家が、どうしてこんなことになってしまったのか――
シグルドとアリアの出会いは社交界でだった。
当時のアリアは美しい栗色の髪の美少女で、社交界では誰が彼女の心を射止めるのか、それは話題になったものだった。
シグルドは始めは軽い気持ちで、彼女に近づいた一人だったが、次第に彼女に心惹かれ――そして求婚した。
「お受けいたします、シグルド・ブレイア・マギシェンさま」
跪くシグルドの手を取り、そう言ったアリアは、とても美しかった。
そして貴族としては短い、一年ほどの婚約期間を経て、シグルドとアリアは結婚した。シグルドの父が亡くなったので、急遽婚約期間を短くしたのだ。
そう、アリアは結婚すると同時に、いや、その前からすでに、跡取りを生むプレッシャーに苛まれていた。
彼女の思いが天に通じたのか、アリアは結婚半年ほどして懐妊、十月十日を経て、子供たちが生まれた。
……子供は、女の双子だった。
それも姉は人間、妹は子供を授かることのない種族ジュエリゼとして。
マギシェン家の掟では、女児を跡取りとして育てるならば男の名前を付けて男の服装をさせて男として育てなければならない。
「……今思うと、それが全ての過ちだったのかもしれないな」
シグルドとアリアは、姉娘ヴィクトリアだけを男のように育てることを決意した。
そして子を成せないジュエリゼである妹娘ウルリカは、女の子として育てることにした。
「ウルリカには、子供が産めなくとも、せめて、せめて女性の幸せを与えてやりたいと思ったのに……このざまだ」
アリアは出産で身体を悪くして、次の出産には耐えられそうになかったので、次の子供が男の子であることを期待することすらできなかったのだ。
ヴィクトリアはヴィクトールという名前で呼ばれ、立派に成長した。立派に、そう、自分たち親は思っていた。
「だが、どこかしらでひずみは出るものだな……」
ヴィクトールが14歳の夏だった。
……ヴィクトール、いや、ヴィクトリアがこの別荘で行方不明になった。この別荘の近くにある農村の青年とかけおちしたのだ。
ヴィクトリアとその青年はすぐに見つかった。
……アルフェンカ湖から、無残な姿で引き上げられたのだ。
アリアは、ヴィクトリアが行方不明になってからずっと不安定な様子でいたのだが、湖の魚たちにさんざん食い荒らされたのであろうヴィクトリアの服を着た遺骸を見て、とうとう心が壊れてしまった。
そして妻アリアは、あのように子供のようになっていき――
「失礼します、旦那様」
涼やかなリンとした声とともに、部屋の重たい扉が開かれる。
この鈴のような声はアリアの看護師兼メイドのレリーチェだ。
レリーチェは看護だけでなく医術の知識も大したもので、心が壊れてしまった妻アリアの世話をいつもよく見てくれている。彼女の働きにもにもいずれ報いなければいけないだろう。
「奥様がとてもうなされておりましたので、いつものお薬を使いましたが、よろしかったでしょうか?」
「あぁ、構わない。妻が心安らかに眠ってくれるなら、なんでも構わない……」
レリーチェは緑色の瞳を細める。喜ぶような、憐れむような、悲しむような、そんな瞳だ。
「よろしければ旦那様にもお薬をお持ちしましょうか? それは、とても――とても幸せな気持ちでよぅく眠れるお薬でございますよ」
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