ロックンロールは降り注ぐ
高梨來
第1話
「いろいろあるもんですね、ほんと。ちゃんと思い出になってるならまだいいけど、これなんてほとんど現在進行形の話じゃないですか? つい二・三カ月前ですよ?」
ピックアップされたメールのうちの一つ、高校生の女の子からの文面を前に、どこか照れくささを感じずにいられないまま俺はつぶやく。
「これから思い出にしていくんですよ、その踏ん切りのためにメールしてくれたんじゃないですかね?」
片岡さん、ちゃんと親身になってアドバイスしてあげてくださいよ。チクリと釘を刺すようにそう忠告を投げかけてくるのは、数少ない女性スタッフの溝口さんだ。
「こっちはえーと、三十八歳自営業。竹越さんと同じ歳じゃないですか」
「案外年齢層幅広いよね、うちの番組。いいけど、偏りがないようにしてよ? 若者と中年、どっちかに媚び売るような番組作りにはしたくないからね」
「それいつも言ってますよね、任せてくださいって」
「片岡さーん、追加のメールとBBSの書き込みからいくつかピックアップしたの、ここに置いといていいです? あと、渋滞情報のニュースが途中で入る事になりそうなので進行表組み直しました。合わせて確認お願いします」
「りょーかいです、いつもありがとうね」
段取りを確認して、頭の中で何度も組立直す。何度経験したって同じ日は二度と無い、慌ただしくも充実したこんなひととき。
たとえばそんな時にもこうして、無遠慮に顔を出す気のおけない親友が、俺には一人いる。それが誰なのかと言えば紛れもない、あの頃の俺自身なのだけれど。
「でさー、俺こないだの北高の子マジ狙いで行っちゃおうって思うからお前ら協力してくれるー?」
「シュージンそれマジで言ってる? 理沙ちゃんだっけ。あの子なんかすげえヤリって感じだったじゃん。あの喋り方とかさ、チョー狙ってバカキャラやってんのバレバレっていうか」
「そっこがカワイイんじゃん、あざといくらいがいいっていうか。そのくらい分かって乗ってあげんのが男じゃん?」
「うっわシューちゃんかっけえ!」
「惚れんなよ~? 俺のハートは理沙ちゃん専用だかんな」
くだらない、くだらない、ああなんてくだらない。
あくびのふりをした溜息を洩らしながら、俺はただぼんやりと周囲から聞こえてくる会話に相槌を打つふりをする。
この場合、本当にくだらないのはこうやって自分に何もないのを棚に上げて、優位に立ったつもりになって周囲をバカにしてる俺自身だって事くらいは百も承知だ。
「あれ、コースケ居ないじゃん、どしたん?」
唐突な指摘を前に、俺はようやくその場にいるはずの仲間の不在を知る。不義理ですまないね、悪気は無いわけよ? ひとまずそんな言い訳などしてみるが、どこに向けてるのかなんて、自分でもよく分からない。
「ああ、なんか隣のクラスの嶋崎くんとこだって。借りた教科書返しにいくとかなんとか言って」
「ああそっか、去年同じクラスだっけ? 仲良いもんね、今頃イチャついてんのじゃねえの?」
「ちょ、キモイ言い方すんなっつうの。後でコースケに言いつけんぞ。そういやさ、嶋崎くんって女居るってほんと?」
「え、なにそれ初聞きなんだけど」
「なんかねー、非常階段の方まで女連れだって行くの見たってヤツが居て」
「えー、出来てんじゃんソレ」
真意はともかくとして、噂されるその彼女が、この中の誰かの想い人でない事を祈るくらいの優しさはまだ俺にはある。
「あっれ、マーくんさっきから喋ってないじゃん。どしたん、ハライタ?」
気遣いのつもりか、一番のムードメーカーの武雄は唐突にそう話しかけてくる。まったく、モテる男は違うねえ。塾で知り合った彼女のナツミちゃんとはその後いかがですか。やる事はもう一通りやっちゃいましたか? 我ながら大人げないそんな嫌味をぶつぶつと心の中だけでつぶやきながら、取り繕うように俺は言う。
「ああ、ごめんごめん。俺昨日遅くまでゲームしてたもんで眠くて」
「え、何やってんの。SIREN?」
「それ終わって今はバイオ。あれさ、夜中に真っ暗にしてイヤホンしてやると臨場感あってさー」
「ああ、んでお前今日の新井田の授業の時、寝ながら『殺してやるぅ』つってたわけ?」
「ちょ、ニッシー、そやって話盛るのやめね? 俺、おとなしく寝る方なんで寝言とか言わねえし」
「寝てんのは認めてんじゃん」
途端にわざとらしい笑い声が上げる悪友たちのその声に紛れるみたいにして、俺もまた力なく笑い声を上げる。そうしておけば、安心感があるからだ。
がやがやと騒ぐクラスメートの頭の間をかき分けるみたいにちらりと壁時計に目をやり、俺はポツリとつぶやく。
「あ、もうこんな時間じゃん。悪ぃ、帰るわ」
「えー、デートぉ?」
「居たらおめーらなんかに付き合ってねえっつうの。ったく、お前らも適当に帰れよ、最近ヤエセンうるせえじゃん」
「ハイハイーっと」
この分なら、少し走れば間に合うはずだ。乱暴に机の上に置いたカバンをひったくるみたいに掴んで、俺はそのまま廊下に飛び出す。
「こら、廊下は走らない!」
「サーセン、早歩きのつもりだったんですけどー」
「言い訳はいいから、次から気を付ける事!」
「ハイハイハイっと」
「ハイは一回!」
嫌に熱心な新任の教員の言葉を適当にやり過ごした所で、下駄箱の前まで来た俺は、思わずそっと息を呑む。廊下のその向こうに微かに見えたのが、少しだけ知っているその人の姿だったからだ。
多分向こうは気づいていない。その事に気を良くしながら、俺は下駄箱の影からそっと、その姿をちらちらと盗み見る。誰かと立ち話をするその子の肩から下がっているトートバッグのロゴが目に入ったその途端、俺は少しだけニヤリと笑いたくなるのを必死に堪える。どうやらあの日あの会場に、あの子も居たらしい。会ったわけでも、ましてや話をするわけでもないのに、ただそれだけの事に無性に誇らしい気持ちになるのが、自分でもどれだけばかばかしいことかなんて、分かっているのに止められない。
「ただーいまー」
「お帰りなさい、洗い物先に出しちゃいなさいよー」
「わーったわーった」
「あと、あんまり大きな音立てないのよ、ご近所迷惑になるでしょ」
一番うるさいのはその注意の声ではないですかねお母様。反抗期だのなんだの言われるのが面倒で、特に反論はしないまま、言われるがままに体操着と弁当箱をそれぞれ所定の場所に投げ込んだ後、部屋へと駆け込む。
壁時計を確認し、息を荒げながらラジオのボタンをつける。よし、バッチリなはずだ。
『~電工プレゼンツ、ビートエモーション。本日も僕、一瀬直己がパーソナリティとしてお送りしております。さて、ここで本日のゲストにご登場願います。先日のクアトロでのライブでの大熱狂もまだ記憶に新しいのではないでしょうか? ただ今大人気のロックバンド、○○○○の……』
目当てにしていたゲストの名前が呼ばれる。それに合わせるように、MDデッキの録音ボタンをポチリと音を立てて押すのを俺は忘れない。
二つ年上の姉は、今年から花の女子大生(自称)とやらになった。多少化粧が派手になったのと、帰りが遅くなった程度で俺の生活になんら影響は無い。本人曰く「暗黒の受験期」を乗り越えたのだから浮かれ騒ぎで空回りしている事くらいは多めに見てやるべきかと、長きに渡って弟の身分に甘んじている俺は思っている。そんな事はどうでもよくて、問題はそれがもたらした思わぬ変化についてだ。
リスナーの誰かから送られてきたライブの感想を読み上げるDJの言葉、それに相槌を打ったり、時折突っ込みを入れたりしながら、どこか誇らしげに音楽への熱い思いを語るフロントマンの言葉にニヤニヤと聞き入りながら、俺は古びたビデオデッキとテレビに目をやる。
今までずっと、姉の部屋とリビングでしか見れなかったテレビ。受験のご褒美という名目でリビングにあった大型テレビと最新型デッキのおさがりを譲り受けた姉の恩恵に授かり、俺の部屋にはそのまんま、姉のおさがりのそれら一式がやってきたのだ。
「要するにうちのを買い替えるからそのおさがりって事でしょ、いっちゃん得してんのは将生じゃん」
「いいじゃん、ねーちゃんだってコンポ壊れたからって新しいの買ってもらったんだろ。俺のなんて正月の年賀状整理のバイトで買ったラジカセだよ? 贅沢言うなっつうの」
「ほらほら、またそうやってどうでもいい事で喧嘩する。唯花も将生も、ちゃんと勉強しないとすぐ取り上げるわよ。特に将生、テスト期間は今まで通りコントローラー没収だからそのつもりでね?」
「はーい」
我が家最高権力者、カーチャン(トーチャンは仕事で不在気味なので、そこまでの力を持ってはいないのだ)の有り難いお説法を前に、俺と姉はガキみたいにしおらしくそう返事をしたのは、記憶にまだ新しい。
『これでようやく、三種の神器の一つが手に入った』(残り二つが何なのかは教えて欲しいくらいだけれど)その満足感と期待を胸に、地元のCDショップで受け取ったばかりのライブビデオを手にスキップでもしたい気分で帰路を急いだ日の事を、俺は今更のようにぼんやり思い返したりする。
「マサキぃー、今週のジャンプってあんたの部屋にあったわよね?」
申し訳程度のノックのすぐ後、部屋いっぱいに響くのはお馴染みの姉の声だ。
「姉ちゃんさぁ、何度も言ったけどノックと同時に開けんのって意味なくね?」
「男のくせにうじうじうるさいのよ。大体まだこんな明るい時間にやましい事なんてしてたららそっちの方が問題じゃない」
ねー、いいからジャンプどこー? 今にも家探しでもはじめそうなその態度に毎度の事ながら辟易しながら、しぶしぶと少年漫画雑誌の王様を俺は差し出す。
「ジョシダイセーならジャンプなんて読むのいい加減やめたら?」
「あんただって毎週買ってるくせに」
「わかんねえじゃん、やめ時」
「ハンターハンターが終わったらってのは?」
うわ、今週の作画アラっ。ぶつぶつ言いながらどっかりと床に腰を下ろした姉は、よそ行き用の服と化粧もそのままに悠々とマンガ雑誌をめくり始める。こうなると長い。経験則として既にいやという程叩き込まれた事実を胸に、追い出すことは最早諦めて俺は答える。
「姉ちゃんさ、こないだのライブで買ってきたTシャツ無いんだけど知らね?」
「あー、あれなら洗濯に出してるから」事もなげに姉という名の暴君は答える。
「勝手に着んなっつってんじゃん」
「いーじゃん、カワイイし。男の子にもウケんのよ、趣味いいねーって」
それは俺の趣味ですけどね。たてつくのも面倒なまま、とりあえず俺はラジオに全神経を集中して耳を澄ませるのも諦めて、カラーリングされた姉の髪を束ねたシュシュに付いた星のスパンコールが揺れるそのさまを、ただ黙ったままぼんやりと眺める。
だいいち、カラオケで歌う為のはやりの恋愛の歌と、街でしきりにかかってるドラマや映画のテーマソングしか聴かない姉ちゃんに趣味もへったくれもねえじゃん。これだから女は、と言いかけた所で、下駄箱ですれ違ったあの女の子の事を思い出して気まずい気持ちになる。簡単にレッテルを貼るヤツなんて、一番忌み嫌う人種のはずだったのに。
「うっわ今週も掲載順いっちゃん後ろじゃん。これちょっとヤバいよね。ハガキ一通くらいじゃ効果なしかぁ、やっぱ十冊は買うべき?」
「……あのさぁ姉ちゃん」
呆れながらそう声をかけた所で、脈絡も無く姉が返してくる返答はこんなものだ。
「あんたさぁ、友達とかちゃんといる? 上手くやってんの?」
「別に関係ねーじゃん、ねーちゃんには……」
「無くないわよ。世界にたった一人の姉に何でそんな口聞けるかなぁ? 心配してあげてんのよ?」
「んな暇あれば自分の心配すりゃいいじゃん。なんでオトコと長続きしないのかとか」
「あ~、言ったわね?」
わざとらしくこぶしを振り上げるその仕草につれて、裾を結んで着ただぼだぼのTシャツの裾からちらりと花柄のキャミソールが見える。そうやって着たら裾が伸びるから止めろと何度も言ったのに。姉のうわべだけのロックファッションに影響を与えたと思われる無責任なファッション雑誌を思い、俺は心底うんざりしてくるのを感じる。
「そのカッコ腹見えんぞ。はしたねえ」
「別にいいわよ、あんたに見られても減るもんじゃないもん」
尚も憮然とした表情を張り付けたまま、姉は続ける。
「音楽とかさぁ、好きなモンがあんのはいいと思うのよ? でも、そういうのも程ほどにしてちゃんと付き合いとか大事にした方がいいってあたしは言ってんの。自分は他の奴らとは違う、特別だって。そういう思い上がりって案外分かるんだからね」
「……なんだよいきなり。男に振られたハライセかなんか?」
「べっつにー。ただあんたさ、最近カブレてるじゃん。ちょっと前からだけど」
投げやりなその視線の先にあるのは、CDショップからもらってきたロックバンドのポスターだ。
「お姉ちゃん的にはね、グラビアアイドルのポスターとかの方がある意味安心なわけよ。健全な男子高生の証って感じでしょ」
「アニメのポスターじゃないだけましじゃん」
「あんたいま全世界のアニオタを敵に回したわよ」
言い争うそのうち、退屈しのぎにでも読もうと思った枕の横に置いたままの音楽雑誌へ手を伸ばす気分はすっかり失せてしまう。
あの子――阿藤璃玖(あとうりく)と出会ったのは、去年の秋のクラス委員の時だ。いや、出会ったというよりは一方的に知ったと言った方が正しい。
生年月日、知らない。血液型、知らない。星座、知らない。得意な科目と不得意な科目、知らない。仲の良い相手、知らない。
知ってるのは一年の秋に生活委員だったこと。好きなバンド幾つか。たぶん赤と紺色が好きな事、そのくらいだ。
「それではここまで、何か意見のある人」
議長の発したそんな言葉を前に、ただ板書を書き写すだけで中身などロクに頭に入っていなかった俺は、あくびを噛み殺しながら周囲の様子を伺い見る。その時まで顔も名前もロクに知らなかった隣のクラスの女子の姿が目に入ったのは、ほんの偶然だった。
目の前で繰り広げられている事などうわの空の、どこか思いつめたように見えるその眼差し、顎の下辺りで切り揃えられた、カラーリングなどされていない素のままの黒い髪、少し斜めに歪んだ前髪から覗いた眉。それに何より―女子がよく持っている布のペンケースに付いた、バンドのロゴの入った缶バッチが、一番のひっかかりだった。確かそれは、大手の外資系レコードチェーンでの購入特典だった。良く覚えているのは、特典目当てに街中のショップで買うか、手間を考えて近所のツタヤで予約をして買うか悩んだからだ。
なんだ、あの時面倒がらないで街のレコードショップで買っていれば『一緒だね。』とか何とか、向こうから話かけてくれるチャンスだってあったかもしれないのに。RPGで仲間を勧誘するための重要アイテムをみすみす取りこぼしたみたいな気分になって、その後ますます話し合いの場に身が入らなかったのは言うまでもない。
出来たのはノートの表紙に書かれたクラスと名前をこっそり覚えたその後、学年名簿で改めて氏名を確認したくらいだ。(自分でもストーカーじみてキモイと思ったのは確かなので、せめてその弁明だけは許してほしい)
どこの中学だったか、何市に住んでるのかは知らない。一年のクラスはC組で、E組の俺とは離れているので接点は生活委員のほんの僅かな時間しかない。進級の時には少しだけ期待もしたけれど、変わらずE組の俺は、A組の彼女とはまた随分離れてしまった。教室には時々他のクラスの女子生徒が遊びに来るが(中にはカップルもいたりなんかして、腹立たしい事このうえない)、生憎その群れに彼女の姿を探しても、居たためしはない。まぁ、居たからって何か変わるわけでもないけれど、一応は。
好きなのか、とかそういうのとはたぶん違うと思う。そもそも、性格がどうかなんて事なんてまるで知らない。話したことも無い。声も殆ど聞いた事が無い。もしかしたら凄く嫌な子かもしれないし、そもそも持ってたバンドのグッズだってオトコの受け売りかなんかで、うちの姉貴みたいに音楽なんてまるで好きじゃないのかもしれない。
共通点が見つかっているくせに自分から関わろうとするのは何となく怖くて、ただ一方的な仲間意識を抱いて遠巻きに見て居られればそれで満足で。まあよくある、ゲーノージンなんかがどこかのメディアで言ってた『最近のお気に入りバンド。』のラインナップが偶然自分とかぶって、何となく親近感を感じて嬉しくなって。そういうのと全く同じで、それ以上でもなければ以下でもない。ただそれだけだ。
「ぶっちゃけ趣味が合う合わないなんてどうでもいいもんよ?」そう語るのは、仲間内でも唯一の彼女持ちの武雄の談だ。
「俺、あいつの好きなジャニーズジュニアの顔と名前なんて一向に一致しないし、曲だってどれが誰のかわかんねえもん。でも『たっちゃんの分からず屋! だいっきらい!』なんて言われた事ねえし。そういうもんだって」
「……なんか、それはちょっと違わね?」
「なくねーよ。まぁアレですよ、歩み寄りは大事って話。俺、これでもアイドル番組とか見てんのよ。話、合わせたいし」
モテる男は違うねえ。思いながらもそのまま伝えるのは癪で、俺はそのドヤ顔から眼を逸らしたまま、窓の外の飛行機雲をぼんやり眺める。
そうは言ってもまぁ、センスとか価値観とか、そういう物はお互いなるべく相違が無い方がいいんじゃないだろうかと俺は思うのだけれど、そんなの所詮理想論にすぎないのだろうか。
「ユウマくんはモデルになるんだよねー?」
「そんな上手くいくわけないない。まぐれみたいなモンだって。 そもそも、高卒のモデルなんて終わってるでしょ、こけた時にツブシ効かないじゃん?」
いやに長い脚を持て余したように机の上に乗せて得意げに女生徒に話すそいつは、少し前ファッション雑誌の読者モデルとして掲載された事で校内でも少し噂になった事があった。なんでも「妹が勝手に応募したらまぐれで当たっちゃっただけだし」だそうだが、それが何世代も前から伝わる模範解答である事くらいは百も承知だ。まぁ実際の所はどうでもいい、それでも、そいつの言う通り、うんざりするほど長い将来を見据えて勉強はしておいたほうがいいのは確かで。
進路調査票
藁半紙に黒々と刷られたその文字を、俺はしげしげと眺める。
1 進学を希望する者 志望校(第二志望まで)
2 就職を希望する者、その他の進路(具体的に記入すること)
3 1にあたる者、その後の進路の希望(おおまかで構わない、未定の場合はそう書く事)
1、2はともかく3はどうなのか。折れ曲がったプリントの皺を伸ばしながら、俺は何度目かの首を傾げながら決まりきったその文言をじろりとにらみつける。
小学生の『しょうらいのゆめ』の作文じゃあるまいし、せいぜい男はサラリーマン、女はOLか専業主婦がいいところだと思うのだけれど。
聞かれたからにはと、提出期限を間近に控えた今となって、俺は何度目かの将来設計に明け暮れてみる。
勿論、同じ働くなら自分が興味を持って働ける場所―今なら音楽業界一択だが、生憎俺には演奏や歌の才能は無い。それならレコード会社や音楽関係の放送局? 興味が無いなんて言えば嘘になるが、マスコミ業界の就職難は聞きしに勝る者だなんて言うぞ、相当な覚悟と情熱でも無ければ無理なはずだ。
外資系レコードチェーンなんて手もあるが、ああいった仕事はアルバイトからして狭き門だなんて言うし、そもそも進路指導の調査票に書くには浮ついていると一蹴されて終わりに決まっている。ライターや編集者……を目指せる程の企画力や文章力もあるわけがない。まだ何とか現実的なラインならイベント企画会社? その場合は何の勉強をすればいいのだろう。そもそも、コネも無ければそこまでの情熱もないくせに、調子のいい事ばかり言っているこんな自分でも潜り込める仕事がある程、世の中は甘くはないはずだ。
漫然とタイムリミットは近づいてくるばかりなのに、改めて何が出来るか・何がしたいか・その為に何をすべきなのか。何も勉強をしてこなかった自らの愚かさを改めて思い知らされ、ぼんやりと眩暈にも似た症状に襲われてくるのを俺は感じる。
「てかマーくんまだそれ出してないんだ。まーじめー」
「その呼び方やめろっつったじゃん、そういうお前はなんて書いたわけ?」
ずきずきと響く頭を押さえる俺を前に、涼しげな顔をして武雄は答える
「そこそこの企業の正社員になってナツミと結婚して都内郊外に夢のマイホーム庭付き一戸建て。子どもは男1と女2で合計3人」
「……お前に聞いた俺がバカだったわ」
「いいんだぞ、羨ましいならそう言えば」
「おめでたいですね、全く」鼻で笑うようにそう答えながら、俺はシャーペンを取り出してガリガリと乱暴に書き連ねる。
1 ●●大学人文社会学部 △△大学文化学部
3 なるべく残業が少ない会社
呼び出しを喰らわないような現実的なラインなら、まぁこんな所だ。
進学校でもない、特にクラブ活動が盛んな訳でもない、ごくごく平均的なラインを歩むこんな学校でも、それなりに名を上げているヤツは居るらしい。
ブラバンの主将になった二年は入部当初から将来有望と見込まれていたらしく、県大会で上位に入ったのもヤツのおかげだとか、同じ学年に大学生とバンドを組んでいるヤツが居るらしいとか、放送部の一年に音楽雑誌に投稿したレビューが掲載されたヤツが居るらしいとか、ここに並べるのも癪ではあるが、読者モデルとして雑誌に載ったヤツだって同じクラスに居る。
凄いなぁと、素直にそう思う気持ちはある。そもそも、何も成し遂げようともしない俺には、奴らの事をとやかく言う道理はない。まるで別世界の出来事のようだとは思うが、この胸を埋め尽くすかのようなもやもやとした感情は果たして羨望なのか、それとも嫉妬なのか。自分でも良くわからないし、正直言ってわかりたくもない。
「あんたもやればいいじゃない、バンド」
「無理無理、俺、歌下手だし音感ねえもん。姉ちゃんだって知ってるじゃん」
「若者ならもっと夢くらい持ちなさいよ、つまんないわね」
「二つしか変わんねえし……」
「んな事言うけどねえ、女子大生なんてババアよ、ババア。後は商品価値なんて下がってく一方なんだからね」
ぶつぶつとそう答えながら、まるで上の空の様子でぼんやり眺めるTVのブラウン管には、ステージの上で衝動の全てをぶつけるみたいな熱いパフォーマンスを繰り広げるバンドマンの姿が眩しく映し出されている。
「ねーねー、こういうライブってなんか決まったフリとか掛け声とか? そういうのってあるの?」
「……んなもんねえよ、アイドルじゃあるまいし」
その手の文化の事は良くわからないけれど、たぶん、何か決まりきった型があるようならこんなに熱中していなかっただろうなとは思う。ロックは自由だ。フリなんてないから、自分の思ったように、自分だけの踊り方でノればそれでいい。接している間だけ、気持ちが解放されたみたいに思えるのは多分それもあると思う。
「大体、姉ちゃん音楽興味ねえじゃん。こんなの見てどうすんの」
「ライブ一緒に行かないって誘われたんだから予習くらいした方がいいじゃない。ねえねえ、定番でこれ覚えておけ! みたいな曲とかってないの??」
「……次の曲」
白けた気分になりながらも、もう何度も繰り返し見てもう早擦り切れそうな、その日のライブのハイライトだった一場面を脳内再生しながら俺は尋ねる。
「そういや姉ちゃんさぁ、大学出た後どうすんの」
「聞いてどうすんのよ」
「いやまぁ、参考に?」
目を逸らして見つめた画面の中では、汗まみれの笑顔を輝かせながら、熱っぽく曲へ込めた思いを語るボーカリストの姿が映し出されている。
「予定でいいなら、まぁ」
前置きの後、姉は答える。
「輸入雑貨の企画営業の仕事がしたいなーって。今の学科だってその為に選んだわけだしね。ま、最初っから望んだ通りの部署に配属されるかはわかんないけどね。やれるだけの事はやんなきゃって」
「ふぅん……」
思いの外まともだった答えを前に、自分を恥じるような居たたまれない気分にさいなまれたまま俺は僅かに唇を噛みしめる。そんなこちらの様子に当然気づいたのか、じろりとわざとらしく視線を注ぐようにしながら、姉は続ける。
「花嫁修業ー、とでも言うと思った? マーくんの思ってるほどお姉ちゃんはバカじゃないですよーだ。がっかりした? ね、がっかりした?」
「……いいから黙って見ろよ。この曲、一番いい曲だってさっき言ったヤツだから」
画面の中では、ついさっきまでのリラックスして見えた表情からは一転しての、祈りを捧げるような神妙な面もちのボーカリストの姿が画面いっぱいに映し出されている。
「気持ちはわかるけどさー、そやってまだ何もしてないのに消去法でつぶしてくのはどうかと思うわけ。マーくんの悪いクセよ、そういうとこ」
「……えらそぶってんじゃねえよ」
「ほーら、そういうとこ」
素直じゃないでしゅねー。ガキをあやすみたいな口ぶりでそう答えながら、あくまでもこちらを責めようとはしない武雄の気配りに俺は少しだけ感謝の気持ちを抱くが、勿論口には出さない。女が居るヤツっていうのはやっぱり、その辺の心の余裕だとか細やかさが他のヤツとは一味違うのかもしれない。
「マーくんはさぁ、やりたいこととか、将来どうなりたいとかってのは無いわけ?」
「……だからその」
いちいちふざけたその呼び名を改めさせるのも面倒になり、諦め一辺倒の気持ちでふかぶかと息を吐きながら俺は答える。
「別に……十年二十年先でもライブ行きたいなーとか、そのくらい」
出来る事ならうんと隅っこで構わないから、音楽業界に関わりたい。正直なその意見を口に出す勇気は到底持てないまま、その場を濁すみたいな酷く惨めな言い訳を俺は呟く。こんなしょうもない言い分、どうせならうんとバカにして笑い飛ばしてでもくれればいいのに。イヤに気遣いに長けた悪友の返してくるのは、こんな返答だったりする。
「でもさー、その金だってちゃんと仕事して稼ごうってつもりでしょ?」
「……まぁ」
どこか得意げに、ニヤリと笑いながら悪友は答える。
「ならいいじゃん、それで。何もニートになろうってんじゃないんだしさ。やりたい事とかやれる事ってのはちゃんと後からついてくるもんだし、焦んなくていいじゃん?」
「そういうお前はどうすんの、これから」
「とりあえず努力次第で行ける一番いい大学に入って、それから考えるかな。可能性ってヤツは広げてなんぼのもんだって、ヤエセンも言ってたじゃん?」
「……なるほどねぇ」
ぐうのねも出ないというのはこんな気分の時の事を言うのだろうか。
「まぁそれは置いといてなんだけどさ、明後日の政経の授業あんじゃん。あれの課題の――」
頭の中のスイッチをゆっくりと切り替えるようにして、泳がせていた視線をそっと傍らのそいつの方へと向けた、その時の事だ。
少し小さな肩、その上でさらさらと揺れる髪、少し袖の長めの黒いカーディガンに、膝の上までのスカート、それに、缶バッチのたくさんついたバンドのロゴ入りのキャンバス地のトートバッグ。見間違えるはずなんてない、何度も目で追いかけたあの子だ。
すたすたすた。控えめな足音と共に駆けていくその子にかけられる言葉は当然無い。ぼんやりとした無力感に苛まれるのを感じながら、ひとまずは気づかれないようにと視線の端でその姿を追いかければ、ふいに立ち止まった彼女の表情が、一瞬にしてパっと明るくなる。
「しまくん」
少し鼻にかかったような声をあげ、見上げるその表情はやわらかだ。呼びかけられたその相手の姿にはぼんやりとだけれど見覚えがある。コースケの話にも時折出てくる、A組の嶋崎くんだ。
「どしたの、ボーっとして」
「ああ、ごめん。なんかちょっと考え事してて。で、何だっけ?」
取り繕うように俺はそう答える。その視線の片隅を、肩を並べて話す二人の影がゆっくりと遠ざかっていく。
いいヤツなんだろうな、と思う。なんせ、悪い噂は一つも聞いた事がないのだから。
実際の所がどうで、二人がどういう関係でなんて、そんな事はどうだって構わない。ただ今の俺には、あの子に名前を呼ばれる事も、肩を並べて歩く事も、恐らくこの先ずっと叶わない。俺は嶋崎くんにはなれないし、彼女はいつまでも俺に気づかない。ただそれだけの事だ。
「で、それからどうなったんですか」
「どうにもなってないですよ。三年になっても違うクラスだったし、結局学校の外で会う事もなかったし」
あまずっぱいねえ。けらけらと笑いながら答えるディレクターを前に、俺はただ肩を竦めて苦笑いをかみ殺すくらいしか出来ない。
「ありますよねー、そういうの。私は反対でしたけどね。好きな男の子が熱中してたバンドの事、近づきたい一心で深夜番組もラジオも雑誌もくまなくチェックして、インディーズ時代のCDまで探してきて買ったりしましたもん」
ひょい、と横から顔を出すようにしてかけられた言葉を前に、まるで助け船を出されたかのような心地になりながら俺は尋ねる。
「で、その後どうなったんです?」
「貯めたバイト代で東名阪ツアー全通しました、友達と二人で」
まぁ、この人たちの事なんですけどね。そう言って彼女の指し示すTシャツの胸には、今も変わらず活躍しつづけるベテランロックバンドのロゴがどこか誇らしげに刻まれている。
「試合に負けて勝負に勝った、みたいな感じですね」
「どうなんだろうね、まぁ」
アッシュブロンドのショートカットを揺らしながらニヤリと笑うその笑顔は、どこか誇らしげだ。
「そういや溝口さんの夢って何でした? やっぱライターとかライブハウスのスタッフとかそっち関係です?」
「いや、保母さん」
「えっ」
「ちょっとそこ、なんで笑うかな」
ぎろり、とにらみつける鋭い視線を前に、ぎこちなく笑いながら俺は答える。
「や、笑ってない、笑ってない。ねえ、竹越さん?」
「そうそう、随分勇ましい保母さんだなーとは思ったけど」
「すみません、本番十分前です」
ADの言葉を前に、身が引き締まる思いを感じるのはいつまでたっても変わらない。原稿の束にぱらぱらと視線を落としたまま、おもむろに俺は尋ねる。
「そういえば竹越さんの夢ってなんでした?」
「宇宙飛行士だよ、今も諦めてないけどね。そういう片岡くんは?」
「何か音楽に関係する仕事に就けたらな、とは」
「今やおつりが来る勢いじゃない」
力強いその言葉に、そっと背中を押してもらえたような温かい感触を覚える。
今でも自分が、あの時夢想した自分ではない何かになれたなどとは思っていない。
結局自分は自分にしかなれないのだし、確かにロックンロールは目の周りに見えた世界を変えてはくれたけれど、世界そのものを塗り変えてくれた訳ではない。それでも、その力が確実に未来を照らしてくれた事、その道を辿った事で見えたのが、今こうして歩いている場所である事。それだけは、変えようがない事実だ。
「CM明け本番入ります。一分前です」
ほんの一瞬、僅かに目を閉じたその瞼の裏に写るのはあの頃の自分の姿だ。
いつも何か満たされなくて、いらだちばかり募って、すれ違った女の子に勝手な夢なんて押しつけて、それでも何も出来ないまま、スピーカーから流れ出す音楽がすべてを壊してくれる未来ばかり無責任に夢見て。
願わくば、今もそんな時間をやり過ごしている誰かに、とうの昔にそんな日々を乗り越えて笑い話にしている誰かに、そして贅沢を言う事が許されるのならば、あの頃、話しかける勇気も出せないまま通り過ぎていった彼女に届いていればと俺は思う。今も昔もきっと、願う事くらいはきっと自由なはずだから。
ヘッドフォン越しに、すっかり耳に馴染んだオープニングBGMが流れてくる。それに合わせて、頭の奥で見えないスイッチがカチリと音をたてるのが聞こえる。
すっと息を呑み、俺は語り始める。スピーカーの向こう側の誰かの為に、そこにいるかもしれない、いつかの自分の為に。
「時刻は金曜深夜二時になりました。ビートクルージング・沖谷レイカさん、生放送お疲れさまでした。ここから深夜四時までは○○興産プレゼンツ・ミュージックブリーズフライデーを僕、片岡将生がお送りさせて頂きます。早速ですが本日のメール・BBSのテーマ、『忘れられない恋の思い出』すでに沢山頂いておりますが、引き続き募集しております。生電話お繋ぎしても可能な方はその旨と今からおかけしてもいい番号を添えてお送りください。メールアドレスは……」
ロックンロールは降り注ぐ 高梨來 @raixxx_3am
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