真夜中のころ
高梨來
第1話
深夜のファミリーレストランは白々と明るく、時の流れが滞留したかのような不思議な静けさに包まれている。
昼間の時間帯は学生や主婦連れでにぎわうその店は、終電もとうに過ぎたこの時間帯となればたちまち様相を一変させる。
夜の仕事だと思われる身なりをした男女に、行き場所も無いままぐったりとした顔をした女の子、そんな彼女の気をどうにか引こうと一生懸命に話題を模索する若い男の子、泣きはらした瞳をして恋人とのもめごとを打ち明ける女の子を前に、懸命に彼女を宥める優しい親友、それぞれの織り成す人生模様にどこか引きずられてしまいそうになりながらも、目の前に広げた問題集の世界に没入する予備校生。
それぞれの抱えた混沌がそのままに投げ出され、それでも決して混じり合うことは無く。
暗闇の中、光に吸い寄せられた虫たちのように集い、朝を待ち続ける私達を静かに守ってくれるその場所はまるで、都市の夜に突然現れたシェルターのようだと私は思う。
私がその人の姿を初めて見たのもまた、そのシェルターの中でのことだ。
視界の端に飛び込んできた瞬間、まず目を引いたのは、しなやかなその体躯だった。
一八〇センチを優に超えるであろう長身で、いやに手足が長い。すらりとしたその体を包み込むようなシンプルな黒いシャツとスラックスは、一目見れば上質な物である事が伺い知れる。日中ならばともかく、泳ぎ疲れた魚たちの漂着したようなこの空間の中では、静謐なその佇まいはどこか浮き上がっているかのように見える。
視界の端で密かに彼が斜め前の席に腰を下ろす姿を確認しながら、私は持参したiPodのボリュームを、イヤフォンをしたままそっと下げる。
無表情なウェイトレスを前に、まるで弦楽器を爪弾いた時のようなよく通る美しい声で「アメリカンコーヒーを一つ」と、男はそう呟いた。
それからも月に数度、同じその店の中で彼の姿を目にすることはあった。
夜半過ぎ、常にひとりでふらりと訪れては空が白みはじめる前には席を立つ。仕事の資料らしきものを広げていることもあれば、専門書と思しきずっしりとしたハードカバーの本を広げ、時折何かを書き連ねていることもある。
ここが専門店の軒を連ねるような街中のもっと気の利いた店ならともかく、行き場のない若者ばかりが屯する深夜のチェーンのファミリーレストランであるという事実が男の輪郭を際立たせている理由だろう。
歳の頃は私とさほど変わらないように見えるが、幾つくらいなのだろうか。どんな仕事をしているのだろうか。この店にはいつ頃から通うようになったのだろうか。
身勝手な想像ばかりが空回りをしては、すぐ目の前に居るはずのその人の実像をぼやけさせる。
そのくせ、その実像に自らの手で触れて確かめようとする勇気などは生憎持ち合わせていないというのだから、我ながら滑稽な物だ。
決して交わることは無く、歩み寄ることも無く。
ただ限られた時間を、同じ場所で過ごす。そんなひと時に僅かな安らぎを覚えるようになり始めてから、どのくらい経った時のことだろうか。
いつものように持ち込んだ仕事にも粗方のけりをつけ、店の外に出たのは朝方四時前のことだった。
明け方の空が僅かに白み始めるこの時間帯の住宅街には、未だジョギングや新聞配達、朝帰りの少女などの先客も殆ど居ない。薄ぼんやりとしたヴェールに包まれた街の中では、朝の訪れを告げる鳥の囀る歌声を邪魔するかのような靴音が嫌に目立って聞こえる。
いつもならひとり分しか聞こえないはずのその不協和音が、今日は何故かもうひとり分響いていたのがふと、気にかかった。
革靴か何かだろうか、高いヒールのような鋭利な音色ではないが、不揃いなそのリズムは、ずっしりとした重みを感じさせながらも、どこか軽妙で小気味良い。振り向いて音のその主を確かめる勇気もないそのまま少しペースを落として歩けば、相手も少しゆっくりとした歩調になり、こちらが立ち止れば、向こうの足音もぴたりと止む。
こちらを追随してくる辺り恐らく、この通りを抜けた向こうが彼・もしくは彼女の目的地であることは確かなのだろう。
薄いヴェールに包まれたかのような、微かな気配を忍ばせたこの道を共に歩くその人にいつしか、不思議な連帯感のような物を感じていたのはきっと、私だけではないはずだ。
ふいに私は、今では青々とした葉を茂らせるだけの桜の木の下で足を止める。それにつられるかのように、後ろを歩くその人も足を止める。気配を押し隠すようなその動きに、どこか不思議な緊張感のような物がさっと流れるのを感じる。
何かに突き動かされるかのように、私は立ち止ったまま、ゆっくりと足音の主の方へと向き直る。
その途端、目を合わせた私たちは思わず、互いに言葉を失ったまま立ち尽くす羽目となる。そこに居たのが、ほんの僅か前まで、あの店で共に居たその人だったからだ。
「あ……」
気まずさを感じながら、思わずそんな真の抜けた声を出す私を前に、彼は黙ったまま、姿勢の良い背を僅かに折り曲げるようにして軽く会釈をして見せる。
途端に、彫刻のように整ったその骨格がそっと柔らかに緩む。
「あの店で、お会いしましたよね?」
「……ええ」
立ち尽くしたままの私を前にしたまま、しなやかな指先をすっと伸ばすようにしながら男は答える。
「不審に思われたのでしたら申し訳ございません……この先に住んでいるんです。葛原町の、三丁目の」
男が告げた住所は、私の住まいから目と鼻の先の場所だ。
「一丁目……です」
ぎこちなくそう答えるのが精いっぱいの私を前に、ニコリ、と穏やかに彼はほほ笑む。
管弦楽器を爪弾いた時のようなよく通る美しい声で、男は答える。
「申し遅れました、遠峯と言います」
僅かに白み始める空のその下で、曖昧なままだった輪郭がゆっくりと像を結んでいく。
そっと息を吸い込むようにしながら、私は答える。
「……有川、です」
何の疑問も感じずにごくありふれたその名前を名乗ってしまった事を、私は今でもほんの少しだけ後悔している。
「駅前なんかでよく、美容に関するアンケートだなんて言うキャッチセールスの人が居るじゃないですか。人助けのつもりで何度か協力してあげた事があるんですけれどね」
「そんなのがあるんですね」
「ああそっか、男の人はないか」
「女性の方も色々大変なんですね、それで」
首を傾げながらくすりと微かに笑う横顔を、そっと盗み見るようにしながら私は続ける。
「まぁ要するにエステや化粧品の勧誘なんですけれど、悪用されたりしたら怖いので勿論偽名を書くんですね。たった数分だけれど、見知らぬ人の前で身分を偽ってるっていうその状況がなんだかおかしくって。それでふと思い出したんです、遠峯さんに名前を聞かれた時、何か偽名でも名乗れば面白かったかもしれないのにって」
「キャッチセールスか宗教の勧誘かもしれないしって?」
「いえ、そんなつもりじゃなくって」
そっと首を横に振り、私は答える。
「この歳にもなると、仕事以外での新しい出会いなんて滅多にないじゃないですか。それならいっそ、つかの間だけでも普段の自分なんて捨ててしまえば良かったのにって」
「僕がもしFBIの捜査官で、身辺調査の為に貴女に近づいたのだとしたら、どうしますか?」
「残念ながら、叩いて埃の出るような人間ではありませんので」
微かな乾いた笑い声が、薄いヴェールに包まれたかのような明け方の空気に儚く静かに溶けていく。
「ああ、そういえば思い出しました」
そっと顔をあげるようにしながら、遠峯は呟く。
「知人の音楽家に、自分の職業を関わりのない相手に悟られる事を嫌う人間が居るんです。電車やバスなんかに楽器を持って乗る事も嫌がるようなタイプで。そんな彼がある日、行きつけになった近所の小料理屋で職業は何かと尋ねられたそうなんです」
「それで、なんて」
「スタイリストだ、と」
薄い唇をそっと歪ませ、いかにもおかしそうにくすくすと笑いながら彼は答える。
「でも、彼の気持ち、分からなくもないんです。特に芸術家なんて、名乗ったもの勝ちな所がありますからね」
研究者だって同じような物です。どこか自嘲気味に答えるうっすらとした笑顔が、何故か胸にすっと、透明な刺のように柔らかに突き刺さるのを私は感じる。
「ああ、もうここまで来てしまいましたね」
顔を上げたその先、私の住むアパートへと続くなだらかな坂道を見上げるようにしながら遠峯は呟く。
「お気をつけてお帰りください、おやすみなさい」
舞台の上で台詞を口にする俳優のようななだらかな発声で囁かれるその言葉は、裏腹に私を現実へとそうっと押し返すのだ。
「ええ、遠峯さんもお気をつけて。またお会いしましょう」
「また、あの店で」
答えながら、綺麗な会釈をするその姿を瞼の奥に静かに焼き付ける。
大学院での近代映画史の研究室に務めている。それが、遠峯から聞かされていたプロフィールだ。
それが件の音楽家のように限定された時間や場所だけでの偽りであっても構わないと、私はそう思っている。何にせよ、彼がいままでの私が出会った事のない類の興味深い人物である事に変わりはないからだ。
週に数度、灯りの気配に吸い寄せられるかのように真夜中のあの店を私は訪れる。遠峯はその時、いつでも確実に店に居るわけでは無い。
待ち合わせをしているわけでも無い私たちは、月にほんの数度だけあの店で顔を合わせる。互いの存在を認識するようになってからでもそれは変わらないままで、店の中ではまともに会話をすることも殆ど無い。
私が席を立つ準備をすれば、彼もまた、後を追うようにそっと席を立つ。そうして自らの意志でシェルターを離れた私たちが共有する数十分間のこの時間が、私と彼を繋ぐ全てだ。
「自意識過剰だと思われるかもしれませんが」
心の中でだけ、軽く咳払いをしたのち私は答える。
「なんだか送って頂くみたいな形になってしまって、ありがとうございます」
「あぁ」
ゆっくりと首を横に振り、彼は答える。
「それなら気にしないで下さい。あまり長居しすぎるのも良くないなと思っているので……目安と言ってはおかしいですが」
一定の距離を保ちながら、それでいてこちらを萎縮させる事のない穏やかな微笑みに否応なしに心が解けて行くのを感じる。
この人は不思議と、凝り固まった気持ちを緩ませるのがとても上手い。
「お仕事、いかがですか」
取り澄ましたような様子でそう尋ねる彼を前に、私は答える。
「ええ、順調です。深夜に外出する余裕がある程度には」
「そりゃあ良かった」
台詞のように滑らかな言葉と共に、街灯にぼんやりと照らされたすらりとした影が微かに揺れる。
「最近はどんな物の翻訳のお仕事が多いんですか?」
「そうですね、電化製品の説明書だとか……深夜のテレビショッピングでよく海外製の商品を紹介しているでしょ? あの手の商品の解説書なんかが散々回ってきました」
「腹筋マシンだとか、電動ジューサーだとか、トレーニング機器だとか?」
「そうそう、よく御存じで」
「次に目にする機会があれば、あなたの事を思い出すようにしますね」
「ありがとうございます」
努めて冷静に。そう言い聞かせるようにしながら、澄ました顔をして私はそう答える。本当はもっと相応しい受け答えがあるのかもしれないが、こんな冴え冴えとした明け方の空気の中では、どれだけ頭を捻らせて考えたもっともらしい言葉だってみんな朝靄の中に溶けてしまって、発するまでもなくもろく崩れ去っていくのだ。
恋でもなく、愛には程遠く。それなら、この持て余した感情は一体何と呼べばいいのだろうか。
とうの昔に見切りをつけたはずのそんな煮え切らない感情が、頭の中でぐるぐると渦を描く。何よりも恐れているのは、こんなある種の欲望の形を、隣を歩くその人に気づかれてしまう事だ。そうすればきっと、この人とはもう二度と共に明け方の道を歩けなくなってしまう。
私は果たして一体、何を恐れているというのだろうか。
「……有川さん」
弦楽器を爪弾くかのような、あのよく通る美しい声で、ふいに遠峯は私の名を呼ぶ。
「ご自宅、あちらでしたよね?」
促すような視線が指し示すその先は、私の住むアパートへと続くゆるやかな上り坂だ。
「……ごめんなさい、少しぼんやりしていたようで」
「こちらこそ、差し出がましいような事を言ってしまって申し訳ない」
小さく会釈をしながらそろりと頭を下げるその仕草はまるで、機械仕掛けの人形の動きのように滑らかで美しい。
精一杯に取り澄ました笑顔を作りながら、私は答える。
「謝らないでください、あなたは少しも悪くなんかないでしょ」
私の言葉を前に、遠峯はぎこちなく笑う事で答える。
「ああ、そうだ」
微かに白みはじめた空を背に、遠峯は言う。
「来週から学会に招待されていまして、その関係もあって今月いっぱいは暫くあの店に足を運ぶ事が出来なくなりそうなんです」
予告するのもおかしいかもしれませんが、いきなり死んでいきなり蘇ったかのようにあなたの前に何食わぬ顔で現れるのもおかしいでしょ?
取り澄ましたような表情を崩さぬままで紡がれる、如何にも彼らしい物言いを前に、私は思わず声を立てないようにしながらそっと笑う。
「突然居なくなられたって良かったんですよ。そしたらこっちにだって、想像する楽しみがあったかもしれないのに」
「想像って、例えばどんな」
「……駆け落ち、とか?」
「あなたの中の僕は、随分ロマンチストのようですね」
見上げた視線の先で、やわらかに彼は微笑む。私はその瞳からそっと目を逸らすようにしながら、彼の背後にぽっかりと浮かぶ月を探す。
季節はいつの間にか、冬へと差し掛かろうとしていた。如何にも上等の黒いコートにチャコールグレーのウールのマフラーを巻き、夜明け前の道をゆっくりと歩きながら遠峯は呟く。
「ひと昔……いや、ふた昔前かな。その時代のSF小説によくあった話だとは思うのですが。自分が住んでいる世界は実は既に、自分以外の人間は皆息絶えた世界で、周囲を取り囲む人間は皆プログラム通りに動くアンドロイドに過ぎない。そんな空想、したことありませんか?」
「わかります」
私のその答えに気を良くしたのか、微かにそっと笑みを浮かべるようにしながら、遠峯は続ける。
「あの店って、なんだかそんな気がするなとそう思っていたんです。周囲が皆寝静まったような時間でも変わらずにあり続けて、沢山の人たちの人生が行き来しているのに、誰も干渉し合わない。無表情なウエイターの一つも無駄のない動きも、別れ話を拗らせているカップルも、問題集にかかりっきりの受験生も、遊び疲れてどんよりした目をしている若者たちも。確かに同じ時間軸を生きているはずなのに、まるで見えない薄い幕の向こうに居るみたいに遠くて。そういう感覚って、何故か不思議と安心しませんか? 自分がひとりだって、改めてそう思わせてくれるからでしょうか」
「本当の意味でひとりになれるってこと?」
「そういうこと、かもしれませんね」
微かな風に乗って、冬のにおいが鼻先を掠める。遠くに聞こえる赤ん坊の泣く声はまるで、もうすぐ訪れるはずの夜の終わりを告げる目覚めの合図のようだと私は思う。
「でも、私たちは今は、ひとりじゃない」
「あなたが僕を見つけてくれたから、ですね」
「そんなこと……」
白々とした街灯の下に映し出される表情には、何か特別な物は見えない。それでも、否応なしにその言葉やまなざしに心を震わされてしまう事は変わり用のない事実だ。
「不思議ですよね。あの日、同じタイミングでこの道ですれ違っていなかったら。その後も、同じようにこの道を歩く事なんてなかったら。ずっと、互いに舞台の脇役のまま通り過ぎて行くはずだったのに」
アンドロイドのままだったはずの私の心に、彼が触れた。その瞬間から私たちは、自らに組まれたプログラムの道筋を外れた道を歩き始めるようになったのかもしれない。
「でも、この出会いすらも全てプログラムの筋書き通りだったとしたら皮肉なものですよね。道筋を離れたと思っているのは僕たちだけで、どこかで僕たちを見守っている想像主は、思い通りの動きに安心感でも得ているのかもしれない」
「私は、それでも構いませんよ」
ニコリ、とぎこちなく笑いながら私は続ける。
「たとえ誤作動でも、プログラムに仕組まれた行動に過ぎなくても、こうしてあなたと過ごせる時間が私は好きです」
「良かった」
どこか安堵の滲んだような、穏やかな口ぶりで彼は答える。
「僕も、同じように思っていました」
月明かりにそっと、黒くなだらかなシルエットが静かに浮かび上がる。儚く舞い落ちるような言葉のたおやかなその響きも、振り向きざまに目にした、立ち姿の美しさも―ひとつひとつ、そのすべてが舞台役者のように滑らかで美しく、おおよそ現実世界のにおいがしない。まるで、この世界から切り離された影だけがここに佇んでいるかのようだ、と私は思う。
「遠峯……さん」
そっとそう呼びかけてみたその時、自らの声が微かに震えている事に気づき、私は思わず苦笑いを零す。
「どうされましたか?」
「あぁ、ごめんなさい。特になんでもなくて。何か言おうと思ったのに、忘れてしまったみたい」
どこか遠慮がちに見えた、微かなその微笑みを胸に焼き付けるかのように、私は静かに瞬きをする。半歩先にある、少し大きくて骨ばったその掌に、もしかしたら触れたいのかもしれない。ふいにそんな願いに気づき、慌ててコートのポケットの中につめたい自らのそれを押しやる。
「もう少しすれば、氷がはるようになりますね」
「子どもの頃、水溜りにはった氷を踏みならして歩くのが好きだった」
呟きながら、革靴の音を鳴らすようにして半歩先を歩むその姿を私はそっと眺める。
背が高く、その分歩幅の大きい彼は、時折私に合わせるようにペースを落としてゆったりと歩く。その時に刻まれる、どこかいびつなリズムが私は好きだった。
いつか聞けなくなる、そして、いつの日か完全に記憶からも消え去ってしまうそのはずのこの音色を、それでも胸の奥にどうにかして焼き付けたいと思うこの感情は、一体どこから来るものなのだろう。
「春が来れば、ここら一体も桜でいっぱいになりますね。いつもは何でもない木だと思って通り過ぎているはずなのに」
「その頃には、この時間でも騒がしかったりするのかもしれませんね」
楽しみなような、不安なような。
苦笑い混じりに、彼は呟く。その頃の私はまだ、こうしてこの人と共に歩く事が出来ているだろうか。
「歳を取ると時間が過ぎるのが早くなる、だなんて言いますが、あれは嘘ですよね。もう今年の夏のうだるような暑さだって、いつのことだか思い出せないくらいに遠いのに。この木に花が咲き乱れる姿を見たのなんて、うんと昔のように感じます」
「じゃあ、私と遠峯さんが満開の桜を見るのはうんと先の未来の話になりますね」
「なんだかそう話すと、SFの世界に身を置いているみたいだ」
「ほんとう」
笑いながら、私はそっと見慣れたマンションの灯りをぼんやりと眺める。
分かれ道は、もうあとほんの少し先だ。もうこの先の道を進めばすぐに、桜の咲き乱れる未来への道が切り開かれていればいいのに、と無責任なことを私は少しだけ思う。
この現実を流れる時間は、あまりにも長すぎる。その先の未来にいつまでも、私たちふたりが歩くことの出来る夜明けが続いているとそう信じられるほど、私は幼くもなければ無知でもない。
「……有川さん」
不自然に宙を漂わせた視線に気づいたのか、どこか遠慮がちに彼は尋ねる。
「どうされましたか」
「あの……」
肩越しをそっと目線で追うようにしながら、私は答える。
「いま、猫が横切ったんです。遠峯さんの、少し向こう」
「ねこ」
どこか不可思議そうにそう問い返す遠峯を前に、私は続ける。
「昔、家で飼っていた猫に似ていたから」
「そう。それならよかった」
やわらかに微笑みながらそう答える彼の肩越しをもう一度、幻の猫がそっと横切る。
この夜に、出口が無ければいいのに。
願うことすらほんとうは許されないはずのそんな思いを、私はそれでも、ぼんやりと空に放つ。
見上げたその先に浮かんだ月は、銀色の滑らかな糸のように細くしなやかで、今まで見たどんなそれよりも美しく見えた。
真夜中のころ 高梨來 @raixxx_3am
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