リビングデッド・ラヴァーズ⑦
「おやすみ」
納屋の柱に両親を縛り付けてからおやすみを言って、扉を閉める。
もう日課になった一連の行動は歪だけれど止める訳にはいかない。俺の両親は鬼に魅入られてしまった。俺の住む声合に伝わる鬼憑きの伝説。陽の沈んだ山で鬼に出遭う、鬼に魅入られてしまえば鬼になる。とある日に、俺の両親は血相を変えて下山して来た。夜が来れば、父さんと母さんは金切声を上げてのた打ち回る。
あの日を境に、日常が変化した。夜が、怖くなった。
納屋の扉を閉めて月を見上げる。夜になれば村の誰もが戸締りをして家に引き籠る。外に居るとすれば、心配性を拗らせて家の様子を見に来る吉村の爺さんくらいだ。
今日もまた、虫の音だけが埋め尽くす夜。誰も居ない夜。暗い夜。
独りで家に戻り、食卓へ。独りきりの夕食にはもう慣れた。テレビの音だけが俺の相手だ。
そんな日常の初めての違和は、七月二十六日夜の事。
山間に差し込む陽射しの一切が消える刹那。夜が訪れるほんの数瞬前、家の電話が鳴り響いた。
食卓から手を伸ばせば届く場所にある受話器を取る。
「もしもし、朝霧です」
「夜分に申し訳ない、一片お兄ちゃんだよ」
「兄貴面すんなよ」
「酷い言い草だ!」
電話先の一片に先制打。特に意味はなかったけれど、自然とおちょくる様な言葉が出てしまうのは気を許している証拠だと思う。
それにしても、電話で一片と話すのは初めてだというのに、一言だけで俺だと理解して対応するのには感服する。仮に失敗して、母さんや父さんに「一片お兄ちゃんだよ」などと宣っても笑われるだけだろうが。
「で、なんの用?」
「譲さんか綾さんは御在宅だろうか?」
一瞬だけ、俺しか居ない食卓に目をやる。
在宅はしているけれど、此処には居ない。
「居るけどもう寝たよ。うち寝るの早いんだよ」
気の利いた言い訳が思い付きそうにないから、なんの面白味もない言葉を返す。
「なんと、お礼を言いたかったのだけれど、それは後日にしよう」
「なに、なんかしたの?」
「いやあ、今日も夕ご飯の御裾分けを頂いてね」
一片と桜が冷凍食品ばかりだと聞いた母さんが、ここ数日お節介をかけているのは知っている。自慢ではないが、母さんの料理は美味しい。だから、俺は他人が母さんの料理を食べる時は、自分の事の様に誇らしかった。
もしも、父さんと母さんが鬼に憑かれていなければ、同じ食卓を囲っていたのかな、と少しだけ思った。
「俺から伝えておくよ。別にいつもの事なんだから、一々お礼の電話なんかかけてこなくてもいいじゃんか」
「いや、そうじゃなくてね。桜が宿題を終わらせる為に明日は早起きしたいからって、もう夕食を食べてしまったんだよ。それで、空いたタッパーを洗い終わったから、今から返しに行こうと思ってね」
なんて事のない会話に、瞬間緊張が走る。
気怠い電話対応を強制された夜の一時、弛緩した空気が一瞬で締まるのを感じる。
一片を、夜に放ってはいけない。
「取りに行くよ!」
思わず叫んで、受話器を叩き付けた。そのまま準備も必要がないから家を飛び出して、隣の東雲宅に向かう。虫の音は風切音で掻き消されて、大した距離ではないのに一秒でも早くと腕を振る。
まだ、納屋から声は聞こえない。
「一片!」
乱暴に玄関の戸を開いた。なんて不用心なのだろう、施錠がされていない。
時たま、田舎の町は施錠をしていると近所受けが悪い、なんて話を聞くけれど、ことうちの地方に関してそれは当てはまらない。地域性というのはあらぬ誤解を招きがちだ。うちの様な閉鎖的で小さな村は、まさにそんな風に見えるだろうけれど。
「なにもそんなに慌てなくとも」
ちょっと隣の家に行くにしては険しい表情をしていたのだろう。息を切らしている訳でもない俺に、一片は少しだけ奇異な視線を向ける。
「あー……いや、ほら、夜遅いしさ」
取って付けた言葉は道理が通っていない。
「それなら尚更だ。子供を夜遅くに出歩かせる訳にはいかないから、僕が行ったのに」
「あー……で、タッパーは?」
「台所。取って来るよ」
当然の返答は整合性の塊だ。返す言葉がなくなってしまう。苦し紛れに焦りとは別のところにある目的を口にしてお茶を濁す。
「はい、これ。明日またお礼に行くけれど、美味しかったですと伝えておいて」
「ん、分かった」
夕食の御裾分けが入っていた空のタッパーを受け取る。
「それにしても、なんていう焦り様で此処まで来たんだい。声合の人はやたら鬼憑きを恐れていると見える」
一片が口にしない筈の言葉が宙へ飛び出して、顔が強張った。別に隠し立てたつもりじゃないけれど、一片と桜には伝えていない筈の伝承。本来であれば眉唾で笑い飛ばしてしまえるもの。しかし、俺の一番近い場所で顕現した、絵空事。
「あれ、一片に話したっけ? その事」
とぼけた態度で話を続ける。
「いや、深からは聞いていないけれど、凉ちゃんから聞いたよ。夜にふとアイスが食べたくなったら態々街まで車を走らせなければいけないのは億劫だし、元より声合では夜間外出が禁止されているからね。僕達は余所者だからその規律をしっかり守っていたけれど、理由も知らないってのはどうも釈然としない。だから、凉ちゃんに聞いたら話してくれたよ。声合に伝わる鬼憑きの伝説」
「別に、それにびびっている訳じゃないからな、俺」
「それは勿論さ。びびっているなら、届け物は相手にさせるだろう?自ら家を飛び出して僕を訪ねて来るなんて、僕の身を心配してくれたのかい?」
「いや、そういう訳じゃ——」
「それとも、声合では夜に余所者が外に出ると困る事があるとか?」
俺の言葉を遮った一片は、いつもとどこか雰囲気が違った気がした。鋭い言葉が差し込まれたのは予想外で、思わずかっと目を見開いて一片を見てしまった。
その言葉は図星だ。
タイミング的に、一片が外に出て、父さんと母さんの鬼憑きの叫びを聞く可能性があった。だから、それだけは止めなければいけなかった。
あと一日。あと一日でいいんだ。両親を治してくれという願い。百日詣にかけた俺の願い。
それこそ眉唾であるけれど、鬼憑きが実際に存在したのだから、百日詣だって同じ筈だ。だって、そうじゃなければおかしい。割に合わない。
悲劇だけが存在しているなんて、許されない。
「一片弱そうだからな、俺が鬼から守ってやったんだ」
事実を隠す様に憎まれ口を叩くと、一片は笑った。
「それは頼もしい」
「じゃあ、俺は帰る」
「桜に会って行かないのかい? もう直ぐお風呂から上がると思うけれど」
「いいよ。どうせ明日……明日は宿題してるんだっけか。明後日には会うし」
「そっか。それじゃあおやすみ」
「おやすみ」
空のタッパーを持って、外に出る。一層深くなる夜色の中で、差異があるとすればもう一つ。
虫の音の中にはっきりと輪郭を持って浮き出る、叫び声。
発生源は納屋の中で、父さんと母さんなのは確認するまでもない。絶叫に近いくぐもったそれは、納屋からもう一枚壁を隔てていないと、身の毛のよだつ不快感を齎す。それが、自分の両親から発せられているとしても。
いや、むしろ逆。両親から発せられているからこそ、だ。
地面を踏みしめながら、納屋に視線を一度も向けずに家へと向かう。見てしまうと、立ち止まってしまう気がした。
月明かりがやたらと眩しいのは、村が放つ光の少なさ故か。はたまた、瞳に飛び込む光が、液体で乱反射しているからか。
けれど、明日でお仕舞だ。こんな気持ちは、なくなって消える。
百日詣まで、あと一回。
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