リビングデッド・ラヴァーズ⑥
「桜やっぱり今日来ねえの?」
「う、うん……私、夏休みの宿題初日に全部やるタイプだから……深くんも一緒にやろうよ」
「俺は最終日に全部やるタイプだ」
七月二十六日、季節はその熱気を日に日に増して、すっかり肌は夏色にこんがりと染まっていた。
俺と桜は互いに下の名前で呼び合う程度には仲良くなっていた。俺の日課にはあれからずっと付き合ってくれているから、一緒にいる時間を考えれば当然の変化と言える。
だから、いつもの様に日課の練習に桜を誘ったが、今日ばかりはそうはいかなかった。最後の授業を終えて帰宅した俺達は、夏休みの宿題に対する方針が正反対だった。
「夏休みの初日なら明日だろ? 今日は最後の学校だったから、まだ夏休みじゃない」
「深くんそれ屁理屈って言うんだよ」
「いいじゃんかよー! 別に宿題は逃げないだろ?」
「むしろ宿題は逃げてくれないよ! でも、時間は追い付かせてくれないからね?」
元々一人で行っていた日課であるから、桜が一緒でなければいけないという訳ではなかった。けれど、桜は基本的には俺の言う事を聞いてくれる節があったので、思わぬ反撃に少しムキになっている。
「どうしたんだい? その年で痴話喧嘩は少し早過ぎやしないかい?」
もう一度攻勢をかけようと野球帽を被り直した時だった。背後からの声に振り向くと、一片が相変わらず暑苦しそうなスーツ姿で立っていた。
「なんだよ、一片には関係ないだろ」
「関係あるさ。可愛い妹と可愛い弟分が口論しているなら、間に割って入るのが兄の役目さ」
一片も同様に、この村に来て数日で下の名前を呼ぶ程親しくなった。年上に対してそれはどうかと思ったが、本人達ての希望なので、俺は気を遣う事なく呼んでいる。
「一片お兄ちゃん、深くんが夏休みの宿題をさせてくれないんだよ」
「させないとは言ってないだろ!」
「言ったもん!」
「まあまあ二人共落ち着いて」
思わず声を荒げる俺達の間に一片が割り込む。
「桜は夏休みの宿題初日に終わらせたいタイプだもんね」
「お姉ちゃんがいっつも最終日に困ってるから……」
「深は最終日派?」
笑いながら尋ねて来る一片に答える。
「最終日派。めんどくさいし」
「鎖子と全く同じ返答だ。あの子は本当に終わらせるから凄いけれど……まあ、この話は恐らく平行線だから、今日と明日だけは桜の事ほっといてやってくれよ。桜も桜で強情な所があるから」
「えー……まあいいけど」
「その代わり、明日は僕が深の練習に付き合うからさ」
「一片野球出来んの? てか、仕事はいいのかよ」
「平気さ。野球は経験がないけれど、多分どうにかなると思う」
その言葉は、意味の上で頼りがなかったけれど、一片は不思議だ。その声色で言われると、その眼で見られると、どうも信用してしまう。
「……約束だぞ。明日手伝えよな」
「ああ、勿論さ。僕は約束は破らないよ」
ここで指切りをせがむ程子供ではないので、その言葉を信じる事とした。
「ご、ごめんね深くん……明後日は一緒に練習しようね」
「うん、桜は宿題頑張れよ」
俺と桜の張り詰めた空気が解消されると、一片は安心した様に表情を崩した。
「ああ、そうだそうだ、深ちょっと待ってて」
そそくさと荷物を置きに帰ろうとした俺を呼び止めて、一片が家の中に入って行く。ほんの少しの間を置いて帰って来た一片の手には、空のタッパーが二つ。
「返さなきゃいけないからさ。一緒に行こう」
「ん? なにそれ」
「綾さんにおかずを頂いたんだ。桜も一緒にお礼しに行こうか」
それは俺の知らない近所付き合いの痕跡だった。そのまま三人で隣の俺の家まで来て、玄関を開ける。
「母さーん! 一片と桜がおかずのお礼だって」
俺はそれだけ告げて、バットを持つと駆け出した。
「練習行ってくる!」
母さんが玄関に出て来るよりも早くクロスバイクに跨って、ガタガタの畦道を走った。母さんの料理が美味しいのは知っているけど、他人がそれを褒めている場面に居合わせるのはなんだか恥ずかしい気がした。
からからの畦道を、砂埃を巻き上げながら突き進む。いつもの様にクロスを停めて、山を登って行く。最近は二人……凉を入れて三人で往復した道だから、以前よりも木々の合間の幅が広がって通り易くなった。吸い込む熱の籠った空気を少し涼しく感じる頃、神社に辿り着く。蝉時雨の敷き詰められた場所は、久しぶりに俺だけの空間だ。
九十九回目。そうだ、遂にあと一回。
百日詣。願いが叶うという神社に伝わる言い伝え。吉村の爺さんが言うには、それは願いを叶えるけれど、眉唾どころの話じゃない。
けれど、俺にはそれしかないから。今日もまた手を合わせて祈りを捧げる。
「おおー! お祈りですね、それ!」
突然の声に驚いて、振り向く。
振り向きに驚きが混入したのは、声色に聞き覚えがなかったからだ。村の最奥、そして山の上。この場所に来る人間は限られているし、その誰もに俺は馴染みがある。だから、聞き覚えのない声は俺が振り向く速度をやたらと早めた。
振り向いた先に居たのは、外国人だった。短パンに半袖姿で、唯一の荷物と思われる一眼レフを首から下げた筋肉質な男だった。金色の長い髪の毛の間から、見える顔立ちは、堀が深く瞳が青い。どこか幼さの残る、そんな顔だった。
「あ、えっえっと……」
言葉が出て来ない。余りにも予想外の光景だ。外国の人と会話した経験なんてない。それこそ、テレビの中のタレントでしか見た事がない。
そんなものだから、会話なんて言語道断。挨拶の一言も出て来やしない。が、混乱した頭が回転して、すっと冷静になった。
「あれ……? 日本語……ですよね」
「ん? ええ、日本語です。私、日本語喋れますよ!」
第一声は淀みのない日本語で、所謂カタコトとは一線を画していた。自然な発音、それ故に焦燥は一瞬で済んだ。
「日本語……上手ですね」
「ありがとうございます。まあ、言語の共有なんてものはこの世界で一番簡単なものですからねえ。大した事はありませんよ」
「は、はあ……そうですか」
笑顔を絶やさずに語るその人は、絶えず周囲を見渡していた。神社が物珍しいのであろうか、それともこの溢れる自然が珍しいのだろうか。
「お祈り、なにをしていたんですか?」
「え……ああ、えっと……将来、野球選手になりたくて」
「おー! バットがありますものね。成程、夢を願っているのですね。私は神様を信じていませんが、祈るという行為は大好きです。その瞬間だけはなににも邪魔をされない、ただ一点に集中した人間の姿は、高純度の本心が浮き彫りになりますからね。素敵です、非常に素敵です」
「はあ……海外の人なのに、神様を信じていないんですね。おーまいごっど、とか直ぐに言うイメージでした」
「あはは、それは間違っていません。私も信仰という意味で神様を定義していないに過ぎません。道徳としての宗教は大好きですよ。この国では後者の意味合いは薄まりますが、本来宗教の成り立ちとはそういうものです」
「へ……へえ、そうなんですか」
なんだか難しい話になってきた。正直、話の七割は理解出来ていないが、取り敢えず分かったフリをして頷いておくに越した事はない。万が一それを指摘されたら素直に話そうとは思うが、初対面で気にする事ではない筈だ。
「ですから、私興味があります。日本の神社やお寺。それ等を写真に収める旅をしています!」
「そういう事だったんですね。しかし、良くこんな田舎まで来ましたね。街からも遠いし……」
「どんな辺境であろうと、私に行けないところはありませんから! ところで、一つお尋ねしたいのですが、この辺りにはお寺や神社は他にありませんか?」
「いや、ここだけですね。後は街の方まで行かないと……ただ、途中の山の中までは俺は知らないです。そういうのに興味がないから……」
「そうですか! それでは、私はもう少しこの社の写真を撮っていますので!」
そう言って、男はカメラを手に社の裏手へ周った。こんなおんぼろの社に価値があるのかと思ったが、そういうのに趣というやつがあるのだろうか。俺にはまだ分からない価値観だ。
本来であれば、人生初の外国人との遭遇はもう少し困難な状況を展開しそうなものであるが、幸い日本語に精通していた為、なんて事のない出来事で終わった。少し肩透かしだった気もするけれど、実際外国語で話しかけらたら手も足も出ない。
そういえば、今日は蝉の声がいつもより大きい気がする。混じる蜩の声が少し遠く感じる。森の中では、日中であっても蜩は元気な筈だけれど、少しだけいつもと雰囲気が違う様に思えた。
あまり気に留める事もなく、俺はバットを握ると素振りを始めた。汗をかけばそれらは意識の外に出て行き、一心不乱に反復練習に没頭する。
いつもの桜の視線はなく、少し前と同じ独りきりの空間だ。
「あれ、桜ちゃんは?」
陽の角度が先程とほとんど変わっていないから、十五分程度だったと思う。練習に没頭した俺の意識が戻って来る。凉がいつもの様に現れて、神社の縁に座った。
「夏休みの宿題やるってさ」
「偉-い、桜ちゃん偉い。あんたもやれよ」
「俺は最終日にやるからいいんだよ。追い詰められた方が力出るんだ」
「計画性がないって言いなさいよ」
「うるせえ」
凉の小言を遮って、バットを握り直す。
「ん?」
そこで気付いた。
「凉、外国人さん見なかった?」
「ん? なになに?」
「いや、だから、金髪の男の人。掘りの深い外国人」
「いや……見てないけど?」
「あれ……?」
一応社の裏手に周ってみたが、その姿はない。俺が没頭してから直ぐ山を下りて、凉とはすれ違わなかったのだろうか。
山から村の外までは一本道だから、見かけていそうな気はするが。
「なんか、神社とかお寺見るのが趣味らしくて、ここに来たんだよ。すれ違わなかった?」
「いや、見てないなあ」
「そっか……」
「てか、深って英語喋れるの?」
「全然。その人が日本語ペラペラだった」
「ふうん」
俺の視界から消えて、直ぐにこの村を出て行ったのだろうか。
少しだけ気になったが、スイングの回数が十回を超えた辺りでどうでも良くなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます