七個ないのが七不思議⑩

「おはよう」


 目を覚ました私に、制服を着た緋鎖乃が言った。


「おはよう」


 返事をして時計を見る。午前七時二分。

 六月十一日の朝が来た。


 体を起こすと、古野野江学園の制服に手をかける。


「鎖子、貴方顔くらい洗って来なさいよ」


「ん? ああ、そうだね。寝惚けてた。桜の事起こしておいて」


 言われるままに洗面所に移動して、冷たい水で意識を覚醒させた。鏡を見る。滴る水の一滴を眺めるのが億劫だ。


 ああ、疲れる。


 部屋に戻って、起床した桜と共に着替えを済ませる。登校の準備をして、三人で部屋を出て食堂に向かう。

 寮生達で溢れる朝の食堂で、日替わりの朝食を口に運ぶ。桜は、食堂で作ったのであろう友人達と挨拶を交わす。

 相変わらず、緋鎖乃は誰とも目を合わさない。


 朝の喧騒溢れる空間で、私はぼやっと空を見上げる。


「鎖子、食べないの?」


 咀嚼中に口を開く事のない緋鎖乃は、完全に口の中を空にしてから私に言う。


「うん、なんだか食欲がなくてさ」


「食べないと夜に堪えるわ」


「それまでには食べるよ」


 心配そうな緋鎖乃の表情が少し心に痛かった。

 食事を終えて、朝のホームルームへ。転校初日から浮いている私達は、教室の中では寡黙だ。

 桜ですら、同じクラスに友達を作っていない。初日に緋鎖乃と絡んだ事がそんなにまずかったのか、私達は敬遠されている。

 授業が始まり、教科書を開く。桜と緋鎖乃は、黒板と教科書、ノートに目線を配るけれど、私はずっと空を眺めている。

 緋鎖乃にとっては毎日の授業、桜にとっても、範囲の差異こそあれ同学年の勉強だ。ただ、私にとっては二年前に終えた内容であり、毎日のこの時間はただ只管に面倒なだけだった。


 全く身に入らない時間をやり過ごして四限を終える。桜は食堂へ、私と緋鎖乃は屋上。

 古野野江に来てからの習慣だ。

 緋鎖乃は、購買で購入した弁当を貯水槽の上で開封する。ここからの景色にも慣れた。この学園を一望する場所。活気溢れる学園の雰囲気を此処で感じていると、夜が一層不気味になる。


 食堂から戻った桜と合流して教室へ。午後の授業が始まる。

 また退屈な時間をただただ垂れ流して、終業の鐘が響く。

 帰宅の為教室を飛び出す生徒、部活の準備をする生徒、教室でお喋りを続ける生徒。全てが青春色の煌めきで空間を満たす。月が昇り黒で埋まる夜のざらついた空気と正反対の、滑らかな空気の流動が心地良い。

 その間を抜けて、私達は誰とも会話をする事なく中等学校女子部の校舎を出る。騒がしい玄関を抜け、コンクリートを蹴って寮へと戻る。


 制服を脱いで古野野江学園の体育着に着替え、ベッドに体を投げ出す。


 そうして、陽が沈むのを待つ。


 いや——


 夜が来るのを、待っている。


「鎖子、夕飯になったら起こそうか?」


 私にそう言う緋鎖乃の顔を見ずに答える。


「適当になにか買って食べるから平気。今日は寝たい」


 そう言って、枕に顔を埋める。


 後は、夜を待つ。


 桜と緋鎖乃の他愛ない会話と、テレビの音が巡る。幾ら横になっていても眠気なんて来ない。出来る限り、なにもしない様に。瞳を閉じて、意識を薄く保つ。

 時折、思考が揺らいで呼吸が止まりそうになる。それを必死に抑えてただ時間が過ぎるのを待つのは拷問の様だった。

 夕飯の時間、桜が三人分のご飯を買って来てくれたけれど、私は後で食べるとベッドに横たわったまま断った。


「鎖子、大丈夫?」


 緋鎖乃がまた心配そうに私へと歩み寄る。


 ああ、どうして?


 どうして、この子は——


「大丈夫」


 去来する思いを掻き消す様に、不愛想を返して布団を被った。

 血流の音が轟々と耳に蠢いて、耳鳴りが遠く響く。


 そうしてまた拷問の様に退屈な時間を超えて、遂にその時が来る。

 ざらついた不快な空気が充満する、闇夜の学園。

 陽が地平に吸い込まれて、藍色が天井を塗りつぶして星が点灯する。


 古野野江学園に来て、四回目の深夜が訪れる。


 六月十二日午前零時。その時が、来た。


「お姉ちゃん、零時だよ」


 一睡も出来なかった私を、桜が揺り起こす。

 やたら重たい体を起こすと、緋鎖乃が既にクローゼットから黒い竹刀袋を取り出していた。


「やる気満々って感じだな、緋鎖乃」


「ええ、昨夜は留守だったから、体力が余ってるのよ。鎖子、貴方は休んだ方がいいわ。一食も食べていないでしょ? それに、顔色も悪いわ。今夜は、私と桜で行く」


「いや、大丈夫。今日は私と緋鎖乃。桜がお留守番」


 心配する緋鎖乃を余所に、私は立ち上がって軽いストレッチをする。頭が重く、視界が滲むけれど、それでも正気を保つ。


必死に、必死に。


 緋鎖乃は心配に少し怪訝が混ざる顔で私を見る。そんな事お構いなしに私はストレッチを続けて、切り上げると即座に玄関へと向かった。


「緋鎖乃、行こう」


「……ええ」


「二人共行ってらっしゃい~」


 桜の気の抜けた声に背中を押され、夜の学園へと飛び出す。


 なにも変わらない。

 この夜だけは、なに一つ変異せずに私の眼前に聳える。

 この学園の来た初めの夜から何一つ変わらない。空を埋める星が僅かに動きを変えただけで、空気の淀みも、闇の肌触りも、なんら変化せずそこに在る。


「昨日はどうだったの?」


「昨日は特になにもなかった。それこそ、ナニかが襲ってくれれば良かったんだけどさ。ただぐるぐるーと学園内を散策しただけだ。なんの変哲もない、夜の学園だったよ」


「そう。もう、貴方達が来て、四回目の夜。それなのに、状況は……前進しないわね」


 伏し目で言う緋鎖乃が不思議だった。


 ああ、私の頭は、まだ混雑している。


 それでも、進むしかない。私の歩みは確固たるものだ。迷いのないものだ。

 私は、行先を決めて灰色の地面を踏みしめる。


「今日は、行く場所は決まっているの?」


「ああ、ついて来て」


 緋鎖乃を先導する、強い足取り。緋鎖乃は疑う事なく私について来る。


 それが分からない。どうして?


 月光がやけに眩しい気がする。風がやけに冷たい気がする。夜がやけに喧しい気がする。空気が苦い気がする。終わりの匂いが漂っている気がする。私の五感が、変に鋭くなって混濁する。


 憔悴した頭に、余計なものだそれ等は。


 頭を軽く振って、歩みを進め、辿り着く。

 この夜の、始まりの場所。

 冷然院緋鎖乃が、白裏潤矢を殺した場所。

 古野野江学園に聳える、やけに大きな図書館。横広く伸びた三階建ての大きな建物は、窓の数が少ない異様な外観。


 立ち止まり振り返る。緋鎖乃は、そんな私を見て首を傾げる。


「……鎖子、此処は七不思議のない場所だわ。それに、貴方初めに言ったじゃない。此処には用がない。私が口にしたのだから、この場所は関係がない。そう、私は、あの夜、この場所で起きた事を口に出来てしまうのだから」


 私達の仮定の一つ。緋鎖乃は、口封じをされている。それを根幹に据えて、私は緋鎖乃が口に出した事柄一切は事件に関係がないと割り切った。

 どちらに転ぼうが、そうやって進めるがの一番だと信じて。


「原点回帰。現場検証も悪くないだろ?」


 私が言うと、緋鎖乃は表情一つ変えずに頷いて、歩き出した。


「何処行くの?」


「裏口。図書館は侵入口がないのよ」


 それならば、どうして裏口に、と思ったけれど、黙って緋鎖乃について行った。

 大きな建物をぐるりと回り込んで、道沿いに植えられた木々の裏側にある裏口へと進んだ。扉は重厚な鈍色で、脇にテンキーが設置してある。どうやら、パスワードで開錠するものの様だ。


「で、結局侵入口がないけど?」


 扉の前で腕組をして呟く。私の横に立つ緋鎖乃は、淀みない手付きでテンキーに手を伸ばすと、長いパスキーを打ち込む。最後の数字を入力すると、がちん、と開錠を思わせる低い音が響いた。


「開いたわ」


 そういえば、そうか。

 此処で事件が起きたのだ。深夜に、緋鎖乃は殺害をしたのだから、この中に入る術を知っている事など、どうって事はない。

 扉を開けて中に入る緋鎖乃に続いて、その境界を越える。

 扉を開けた先は、ロッカーの並んだ狭い部屋。緋鎖乃は慣れた手つきで電気を点けると、奥にある扉を開ける。暗闇が跋扈する空間へ、緋鎖乃が歩み出す。私もそれに続いて闇に侵入する。


「ここからは、電気を点けると外に光が漏れてしまうから。目が慣れるまで待って」


 緋鎖乃が呟く。それに従って、数瞬、闇を凝視する。少ない窓から漏れる月光を拾って、視界が広がる。

 カウンターの中、恐らく、貸し出しや受付を行う場所の、その内側。そのカウンターの先には、見えるだけでも、広く奥まった空間が続く。立ち並ぶ本棚の間、通路は最奥までを視界に届けない。


「随分広いんだな」


「ええ。学園全員の為の図書館だもの。階層こそ三階だけれど、広さは大学棟にも劣らないわ」


 緋鎖乃は大して声を顰める様子もない。緋鎖乃の透き通った声が闇夜に混ざり込んで空間に響く。誰も居ない図書館の中でそれが反響して、私と緋鎖乃の足音と衝突して消える。


 緋鎖乃の歩みは淀みない。一定間隔で、減速もなく加速もない。その足取りが、二階を目指す。


「待って」


 この夜の始まりの場所。古野野江学園図書館二階、その廊下。恐らく其処を目指したのであろう緋鎖乃を制止する。


「どうしたの鎖子? 二階へは階段を使わないと」


「そっちよりも、こっち」


 指差す先。二階への階段ではない。広がる空間の壁側、立ち並ぶ本棚の間と間。

 裏口と似た、重厚そうな扉。その脇には、これまた同じ様に、テンキー。


「……此処は?」


「貸し出し厳禁の本が蔵書してある場所。見る?」


「見る」


 私の突然の申し出に、緋鎖乃は嫌な顔せず応える。裏口の時同様、テンキーに少なくない桁数の数字を打ち込むと、扉から低い開錠の音がした。

 重たい扉を押し込む。開けた部屋の中に本棚が並び、装丁豊かな本が、背表紙に禁と赤で記されたシールを貼られて蔵書されている。


 淀みない。


 私の足取りもまた、淀みない。まるで導かれる様に、淀みない。


 並ぶ本のタイトルに目を配ると、頭が痛くなりそうなものばかりだったので横目に流す程度にする。ぐるりとくまなく室内を見回る。図書館の規模が規模だけに、この部屋だけでも、私の通う東城高校の図書室くらいの広さがあった。


「鎖子、此処は窓がないから、電気を点けても大丈夫だけれど?」


「ああ、ごめん。点けて貰っていい?」


 言うと、緋鎖乃が壁にあるスイッチに手をかける。小さい高音がカンカンと鳴って、部屋の蛍光灯が点灯する。差す光が目に染みる。一瞬だけ眩んだ視界が晴れて、灯りが点いて尚仄暗い印象のある部屋が広がる。


 並ぶ棚の間をすり抜けながら、本棚に目を配るフリをする。

 そんな事をする必要はないと思うけれど、後ろめたさを感じてしまうのは人の性で、それを隠したくなるのも人の性だ。

 並ぶ棚の六か七個目を通り過ぎて最奥。目に飛び込む。


「緋鎖乃、此処は?」


 明るい部屋で、立ち止まる。私が指差す先には、灰色一色のスチール扉。今までの扉とは違い、軽薄な印象を受ける。


 なにより印象的だったのは、施錠。


 今までのものとは違い、ドアノブに鍵穴が付いている。


「此処だけ、パスワードキーじゃないんだ」


 私が言うが早いか、緋鎖乃がドアノブに手を伸ばした。


「ええ、此処は、少し閲覧に注意が必要な資料部屋」


 緋鎖乃の手には、鍵。鍵穴に差し込んでゆっくりと回し、扉を開いた。


 ああ、気のせいでなければ。


 司書室のロッカーにも、カウンターの内側にも、キーボックスの様なものは見当たらなかったけれど。

 緋鎖乃が入室して灯りを付ける。手前の部屋より、蛍光灯の灯りが鈍い。そして、埃の匂いが鼻を突いた。


「並んでいるのは……戦争の資料本? ああ、写真集とか」


「ええ。戦災の写真には、少し刺激が強いものもあるから。此処は許可なく開ける事が出来ないのよ」


 ふうん、と軽く返事をしながら、歩く。


 先程の部屋より大分狭い。二十畳程の広さ、天井は低く窓がない。部屋の扉から正面に見える壁はコンクリートの打ちっ放し。両脇には、ぎっしりと本が並んだ棚があり、壁面は見えなかった。


「んー」


 本棚を眺めながら端まで歩く、その最奥。入室して右側の本棚の一番左側の列、最上段の本。

 棚に降りた埃が、一部分だけ、薄い。

 そこにある本を取り出してみる。両手に重みを感じさせるその本には特別なにもないのは分かっていた。その奥、取り出した本棚の先に、小さなスイッチが見えた。


 ああ、此処が最終。


 そのまま、手に持った本を床に置くと、私は左側の本棚へと歩み寄る。最奥から扉のある手前側まで歩き、見つける。

 左側の本棚、その右端。先程と同様、最上段に一部埃の乱れが見える。

 そこにある本棚を引き抜くと、奥にスイッチがあった。


「緋鎖乃、これ、多分そうだ。同時に押さなければいけないスイッチだ」


 馬鹿でも阿呆でも分かる。ご丁寧にこんな造りをしてくれるのならば、誰でも想像がつく。

 二つのスイッチに、人一人の力では届かない距離。それならば、二人以上を想定して仕掛けが作動する様なからくりがあるのは必然だ。

 私は緋鎖乃に言って、最奥のスイッチの元へと移動する。


「いいか? せーので押すからね」


 緋鎖乃に振り向いて言うと、緋鎖乃が首を縦に振る。


 私は、扉の前に居る緋鎖乃に背を向けて、スイッチへと手を伸ばし、言った。


「行くぞー。せーのっ」


 ああ、どうしたって分かってしまう。


 終わりの空気も、怪奇の気配も、異形の匂いも。


 経験則、第六感、呼び方はなんでもいい。勘が働くとか、そういうレベルのオカルトで、分かってしまう。


 その中でも、一番簡単なんだ。


 攻撃しようという意思を感じ取るのは、一番、簡単。


 私は、言うと同時にその身を後方に跳ね上げた。

 同時に、私が立っていた場所に、刃が突き刺さる。

 部屋のクローゼットから取り出した、黒い竹刀袋。その中に入っていたのであろう、日本刀。

 抜刀必殺、刀で燃やす冷然院の代表的な得物。


 分かっていなければ、躱せなかった。


「気付いているから、どうせ躱されると思ったわ。鎖子、とても強いのね」


 そんな事を言いながら、私が居た場所に刀を突き立てた冷然院緋鎖乃は、冷たい視線を私に向けた。

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