赤い宗家の白と黒🈡
「——! ——!」
耳元で、叫ばれている。
「——ん! ——ん!」
鼓膜が張り裂けそうなくらいの大声で、混濁した意識が少しだけ明瞭になる。
「——さん!」
名前、そうだ、名前。僕の、名前だ。
「一片さん!!」
自分の名前を知覚して、意識が開けた。
ずぶ濡れの玉子ちゃんが、必死な表情で僕を呼んでいる。
「玉子ちゃん……」
呟いた僕を見て、玉子ちゃんは叫ぶのを止めて表情を崩した。
雨の音が、酷い。雨粒が激しく僕の顔を打つから、目を開けているのが困難になる。
「一片さん……良かった……」
泣き声を絞り出して、玉子ちゃんが僕を抱き締める。体温が、冷たい。
「玉子ちゃん……あそこから出ちゃダメだって……言ったじゃないか……」
「だって……だって……ひっく……一片さん、呼びかけても……凄く怖くて……怖くて……私……私……」
座り込む僕を、玉子ちゃんが強く抱き締める。痛いくらいに、強く。
雨で滲む景色を見渡す。
そこは、なにもなかった。
赤雪の本邸、あの大きな屋敷は跡形もなく崩れ去っていて、暗闇の中視界に入る景色には、ただ只管に地平が広がっていた。
僕の目の前には、瓦礫が積み上がっている。白と、黒。
白い石が積み上がった山と、黒い石が積み上がった山があった。目ぼしいものはそれくらいで、後は、なにもなかった。
黒白の積み上がった石は、大小様々。ただ、その元の形状を考えるのならば、それは粉々と形容出来た。
ああ、そうか。僕は、自分の力に自我を奪われてしまっていたのか。そして、僕の意識外で、終わった。
二対の神は、此処で死んだ。
「一片さん……まるで別人みたいに……白王も黒王も動かなくなって、それでも、止まらなくて……えぐっ……」
空は真っ暗だ。曇天が十重二十重に空を覆った暗闇。喧しいくらいの雨音に、玉子ちゃんの泣き声が劈く。
「大きな怪物が……白王と黒王が現れたと思ったら、屋敷がどんどん崩れて、なにもかもなくなって……そしたら一片さんが、白王を投げ飛ばして、黒王を引き摺り倒して、殴って、蹴って……」
かつて僕が全てを失った力。全てを壊す力が全てを壊したのか、全てを壊したから全てを壊せる様になったのか、今となっては因果の後先は分からない。兎に角、僕には森羅万象一切を破壊するに等しい力がある。
それは、神様に届く程に。
父さんは僕の力を差して凶悪と言った。最悪に近い、と。冷然院は、一度僕を消し去ろうとした。単純に、僕の力は人の身に余る。
だから、僕は人じゃなくなった。逸脱してしまった。人の中に居ては迷惑になってしまった。
そうして僕は人である事をやめて、路傍の蜜に集って道途を逸れた。故に、誰も知らないところで、誰も迷惑をかけずに死んでいたかった。
それなのに、最悪が最悪に顕現した、という父さんの言葉の通り、僕は凶悪だった。遍く奇跡の中で、僕が一際凶悪とされるのは、能力の発動時に自失してしまうからだ。
神話に準える程暴虐な僕は、父さんの付けた能力名に違わず最早現象としてそこに顕現する。全てを壊すまで、止まらない。
逸脱した世界の中で死んでしまいたいのに、その狭い世界すら逸脱してしまう。だから、僕は願う。僕は、僕達の様な輩は、僕達の様な輩同士で死に合えばいい。勝手に、ただ生きて、ただ死んでしまえばいい。
そう願っている。
「そうか……全部……壊れてしまったんだね」
その筈なのに、勝手に感情移入して、勝手に悲しんで、結局また悲劇だ。
僕は一切合財を巻き込んで壊し果てた。家も、家族も、神も、なにもかも。
僕は現象として、此処を終結させた。
もう一度周囲を見渡す。暗闇と雨で蒙昧な世界は、それでも惨劇と形容出来た。
ただ、少しだけ不思議だった。
過去の事を考えれば、それはまだまともだった。マシだった。
僕が自失してしまったのならば、神が死ぬ程度で済まされる訳がない。僕という現象が発生したにしては、此処はまだ平和だ。
「一片さん止まらなくて……怖くて……でも、私が飛び出して、一片さんと目が合ったら……止まってくれました……」
「え?」
涙の溜まった瞳は、確かに揺らいでいたけれど、強さは変わらない。玉子ちゃんは、相変わらず強い瞳。
「私の……私の目を見たら……止まってくれました。だから、一片さんだって。怖くても、これは、一片さんなんだって。私の事を大事に思ってくれる一片さんなんだって分かったら……もう怖くなくなりました」
能力を解放した僕にも、邪視は届いた。その条件に合うのならば、その限定的な条件にさえ符合するのならば、あの状態の僕にすら作用する邪視。
玉子ちゃんに対する感情の種別と多寡で邪視が流入するのであれば、自失した僕は、現象と化した筈の僕は、そうではなかった。
只管に凶悪で最悪な僕という現象は、この場に発生しなかった。いや、今までもしていなかった。
僕は僕だった。僕は此処にいた。最悪の中の最悪の様な僕に、たった一欠片、残されていた。
僕は、人間だった。僕は、まだ人間足り得た。
「そっか……玉子ちゃんが、僕を助けてくれたんだね」
僕を抱き締める玉子ちゃんを離して、目を合わせた。
「ありがとう……僕を助けてくれて……」
なにもかもを失った筈の僕は、少女の悲劇の中で、一つだけ希望を見つけた。
他人様を最悪に突き落としておいて、勝手に、救われている。
嗚呼、なんて僕は、最悪だ。
「え? え? ち、違います! 助けて貰ったのは……私の方です!」
もう一度、周囲を見渡す。彼女の守ろうとしたものは、彼女が守りたいと願ったものは、なに一つ残っていやしない。
「玉子ちゃん……僕は、なにも——」
「これで、もう私達の様な人達は、私達の様な悲劇は、なくなりましたよね?」
玉子ちゃんは、惨劇という言葉では、悲劇という言葉では、到底足りない地獄の中心で、そう言った。
「白王と黒王が居なくなって……もう、これで大丈夫ですよね? もう、私達の様な争いは……起きませんよね?」
この子は、違った。
全部なくなってしまえと願ったこの子は、自暴の果てに身勝手を願った訳ではなかった。
螺奈さんが死んで、幽亜くんが死んで、最悪に流転した血塗れの惨劇で、彼女はなに一つ諦めていなかった。
悲劇の再現を、嫌ったのだ。
自分達が落ちた地獄への道を絶てば、誰もがそれを歩まずに済む。そう考えて、全てなくなってしまえと、そう言ったのだ。
この子は、この後に及んで、何処かの誰かの平穏を願った。
雨が、肌に痛い。瞬きするのが苦痛な程に身を打つ雨が、今は心地良かった。
全部、全部洗い流してくれそうな、そんな馬鹿げた事を考えていた。
「……ああ、なくなったよ。もう、神様は居なくなったよ。死んでいったよ。僕が……僕の前で、死んだよ。だから、もう大丈夫さ」
「そう……ですか……良かった……良かった……」
強い彼女は、雨に紛れて涙を流す。
全部、全部洗い流してくれる気がした。
最悪な僕も、彼女の涙も、赤雪に流れた血も。
全部全部、洗い流してくれる気がする、そんな強い雨だった。
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