6.

 下唇を噛み厳しさを増した表情で、しょこらが舞台を始めるかのように大きく息を吸う。


 そして、瞳をこちらへと向けた。


「分かった、はっきり言う。あたしは、もうこのぎくしゃくした関係を続けることに耐えられない。……そっちだって同じでしょう?」


 言葉が私の心臓に突き刺さる心地がした。しょこらが目を閉じ、何かを思い出すように口を開く。声が、わずかに震えている。


「あのね、演劇も、一人称の『あたし』も、呼び名の『しょこら』も、少しでも他の人と仲良くなれるようにって思ったから始めたの。チョコレートは、根暗なあたしも柔らかく包んでくれるもの」


 でも上手に「明るい自分」を演じるなんて無理だった。チョコレートはあたしには甘すぎた。コーヒーくらいが、丁度よかったんだ。


 あたし自身も、他人との距離も。


 そんな言葉に、私はスカートのポケットの中に入れたものをきつく握り締める。


「ある女の子に始めて会った時も、あたしは失敗してしまった。必死に持っていたチョコレートで誤魔化したけれど、もう駄目だと思った」


 私達の話だ、と私は顔を上げた。一緒にエレベーターに乗って、学校に通って、仲良くなれた気がした。でもずっとぎこちなさを感じていた。そう語るしょこらに、私も、と震える声で同意する。


 しょこらの肩から鞄がずり落ち、大きな音を立てた。感情が零れ落ちていくのを食い止めるかのように、しょこらは声を上げる。


「毎朝のエレベーターが怖かった。八階を通り過ぎてそのままどこまでも落ちてしまうんじゃないかと思った。チョコレートだって溶けてなくなってしまう。瞬間的な甘さなんて嘘でしかない。だから……」


 自分でこの関係を終わらせたら、諦めもつくんじゃないかと思って。言い訳のように続けられていた台詞の中に一瞬紛れ込んだ言葉に、私は息を呑んだ。やはり同じだったのだ。


 私もしょこらも、今の状況を変えたくて、でもうまくいかなくて、結局自分を押さえ込むしかなかった。しょこらは最後の一突きと言わんばかりに言葉を私に向ける。



「何でよ、せっかくあたしが終わらせたのにっ……」



 私は封を切っておいた小さなチョコレートをポケットから出して、しょこらの口に押し込んだ。眼鏡の向こうの瞼が大きく見開かれる。私と目が合い、俯いた。チョコレートの香りがホールに漂い始める。


 そう、これは私のわがままだ。悪役を買ってでてくれたしょこらを裏切る行為だ。それでも、と自分にも聞こえない程の小さな声で呟く。


 私はただ、この町で一番の友人の傍にもう少し居たいだけなのだ。


 また自分をごまかすことになるかもしれない、壁は無くならないかもしれない。人がそんなに簡単には変われないことも十分知っている。


 でも、もう少しだけわがままになろう。十五秒間の中で喧嘩をし、十五秒間の中で距離を縮めよう。


 そして、前に進むんだ。


 私は大きく息を吸うと、しょこらには到底及ばないひび割れた声で、中学時代の恥ずかしくも愛おしい昔の私を少しだけ出した。


「チョコレート、味はどう?」


 しょこらのうつむいていた頭が勢いよく上がった。二つにゆるく結ばれた髪の毛が乱れ、赤くなった頬と少し充血した瞳が私を見つめる。それはどこか睨みつけているようで、すねているような視線だった。演技をしている風にはとても見えなかった。鞄で光る金属のストラップを見つめながら、右手の人差し指を立て、呟くように言ってみる。



「『この世で一番嘘を見破るのが簡単な、でも本当にそうするのは難しい人が誰か、知ってる?』」



 しょこらの顔がさらに赤くなる。作戦成功、と私は口元を上げた。


「甘いよ」


 しょこらの本気で怒った、しかし泣きそうな声がホール内に響く。月曜の朝聞いた声とは違う、地の底を這うようなアルトだった。


 しょこらがはっとした表情でこちらを見る。しばらく口を尖らせていたが、やがてぎこちなく、でも確かに微笑んだ。


 二人を春の風が包み込む。


 満足した私は制服のポケットからもう一つ、チョコレートを取り出し、自分の口に含んだ。


 春の暖かさで少し溶けたチョコレートは少し苦くて、甘かった。

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十五秒の空間 桜枝 巧 @ouetakumi

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