6.

 最初に動いたのはまぶただった。まばたきをすると自然に小さな水の粒があふれ出てきた。何故それが出てくるのか、やはり分からなかった。

 今までぼくが詰め込んできたものは何だったんだろう。

 今までぼくが見てきたものは何だったんだろう。

 働かないアリのぼくらは、二人で勝手に意見を呟くしかない、そんなちっぽけな存在でしかないのだろうか。

 彼女の最後の声にならない言葉が、いつも使っている、しかし彼女が嫌いな言葉が、頭をはなれなかった。

 あの小さな女の子は何を考えたのか? 

 ぼくは右手の人差指と親指で唇に触れた。それはとてもカサついていて、柔らかさなんて一つも見つからなかった。それでも、考え続けた。

「……そっか」

 ぼくはぱっと顔を上げると、机とイスに散々ぶつかりながら教室のドアへと走った。お腹やひじにぶつかって、いろんな場所がジンジンと痛んだ。

「先生!」

 延々と続くようにさえ思われる廊下のはるか遠くに、立ち止まった二人の姿があった。ぼくの大声に、先生が振り向く。

 その間に二人の元に走った。

 普段運動をしないからちょっとスピードを上げただけで息が切れる。心臓がいつもとは比べ物にならないくらい速く動いている。

 それでも走って、走って、ようやく二人のいるところへたどり着いた。

 先生も大川さんも目を大きく見開き、ぼくが息を整える姿を見つめていた。透き通った目と濁りきった目が、二対、並んでいた。

 目の前にいるそれらに向かって、ぼくはわき目もふらず叫んだ。大きな声を出さないと、彼女達が遠くに行ってしまいそうな気がしていた。

「ぼくは、この『あいしてる』の使い方を、よく分かっていません。ぼくが今彼女に対して持っている気持ちが、それなのかすら分かりません。ぼくらは何も、知りません。だから、平和の象徴だからと言って、勝手に使ってはいけないと思うんです。気持ちを込めてえっと、大切な感情を持って言うべきでっ、だからっ……」

 そこでぼくは大きくせき込んだ。

 心臓が激しく動き過ぎて、逆に止まってしまいそうなほどだった。

 唇はさらに渇き、喉の奥がいがいがしていた。

 先生は黙っていた。目を大きく見開いてはいたが、やはりその瞳は不透明だった。しかしそこにはしっかりとぼくが映っていた。

「……決まりなんだ」

 ぼそりと先生は言った。

 哀しみの色が、彼の表情にしっかりと表れていた。

 彼も苦しんでいるのだ。

 それが分かったぼくはその場に立ちつくすしかなかった。

 二人はそのまま歩きだすと、角を曲がって見えなくなった。


 翌日、彼女が転校したという知らせが担任の口からもたらされた。理由は聞かされなかった。クラスメイトの女子は顔を見合わせて共に小さく笑うと、再び真剣なふりをして、一時間目の国語と三時間目の算数が入れ替わったことを聞いた。

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愛のある話 桜枝 巧 @ouetakumi

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