遠い季節のなかで

@runomixyz

第1話 序奏

1 遠い季節を歩み始めた堤俊介

 伊豆には東京より一足早く春がやってきていた。堤俊介が西伊豆の鄙びた漁村の山間に小さな住居を建てて移り住むようになってから3年が経っていた。妻は息子と娘と一緒に東京の多摩に住んでいる。俊介たち夫婦はセックスレスになってから10年にもなり、精神的な繋がりだけの夫婦の関係が続いていた。俊介が伊豆に移り住むのもそういった関係の延長線上にあって、とりたてて言うべきことでもなかった。その前日の夜、夫婦の会話は湿っぽいものではなかった。

「明日伊豆へ引っ越すよ。もうあまり後のない人生だからね。せいぜい生きて20年だろう。その間に纏めあげなくてはならない仕事もあってね。あっちでゆっくり仕上げるよ。月に一度はこっちへ出てきて例会に出るけれどね」

「あら、そうなの。お相手は?」

「そんな生臭いものはいないよ。一人だよ」

「あら、そういうこと、いいじゃない。もうこれでさようなら?」

「そんなことないよ。ときどきは遊びに来いよ」

「そうね、そんな気が起きたらね」

 妻の秀実の反応は案外あっさりしていた。もっとも今までの一緒に生きてきた30

年の跡を振り返ってみると、色々な感慨や想いが秀実にもあったのだろうが、そんなことをおくびにも出さずに、淡泊な別れ方をすることで、俊介との事実上の訣別に耐えていたのであろう。そう思うと俊介は、今更のように妻と過ごしてきた日々の重さに触れる思いがした。然し俊介もそんな感情はおくびにも表情に見せなかった。それに日頃から秀実は友人関係を大切にしていた。俊介は、そんな妻に寂しさを感じていたものの妻の生き方には共感していた。俊介よりかなり年下の妻が老後を伴にするのは、俊介より親しい同年輩の同姓の友人の方がいいと思っていたからであった。俊介の死後も宏美は長く生きねばならない。俊介の死を最後まで妻として見送った後に抱える心の空洞をどのようにして埋めることができるか。そうなった時に親しい友人もなく、一人残された女の憐れを妻に味あわせたくないという思いが、俊介には強かった。秀実は結婚当初から教師という仕事以外に趣味に油絵を描いていて、多くの友人知己に恵まれていた。育ちの良さからくるやや保守的美徳が敵を作ることはなかった。

 俊介は伊豆に移るに当たって、東京の住居も土地も凡て妻の秀実の名義に変更した。秀実には相応の貯金もあったし、退職後は年金も出るので、生活には困らない筈であった。結婚当初から同等の人間関係を維持していこうという努力が、別居するときにも、人間らしく相手を思いやるということができたという俊介の自負は自分勝手なものであったかも知れない。俊介の心の何処かに後ろめたい闇もあったからである。しかし妻とのかなりの年齢差が、共に白髪までという幻想を持たせなかったことが、俊介たち夫婦にはよかった。俊介は老後は妻の重荷にならないようにするのが、妻の自立のためには大切であると考えていた。それは自分の老後の自立のためでもあった。いよいよ一人で何も出来なくなったら、人知れず死んでいこうと考えていた。然しそう思っていても、人は一人では生きることも死ぬことも出来ない社会的存在である。嫌でも応でも人の手は必要なのである。然しその手を伴侶に委ねることが、夫婦愛の延長上にあらねばならないという主張が、尤もらしく聞こえるのは、個人の自立よりも先に、戦前の家族主義的意識の優先する国の風俗習慣が今も根強く残っているからである。俊介と秀実はそんな家族主義の呪縛から逃れたいと日頃から考えているような夫婦でもあった。

 二人は死後の献体を某大学病院と契約してあった。死後の煩わしい通夜や葬儀などに大金を使うこれまでの風習に、遺された者が囚われることはない。死者は静かに忘れられていくのが自然だと考えたからであった。墓なども必要はない。墓は遺された者の意志でその心の中にひっそりと建てられるものであっていいと俊介は思っていたが、駆け落ち同然の結婚であった秀実は実家に対する一種の負い目もあって出来るなら一般的な習慣の方に気持ちはあるようである。

    *         *         *         *

 書斎の広いガラス窓の右手の西空に昏れ残った夕焼けを淡く反映した海が見え、大きく赤い太陽は残光を長く海面に引きながら、水平線の向うに落ちていこうとしていた。間もなく見られる落日の瞬間の輝きと消滅の須臾の美しさ、初めてここでその落日を見た時の感激も三年も経つとすっかり日常化して当たり前のことになっていた。家の前面は、南西に向けて緩やかな斜面の草地は急に海に断崖となって落ちている。背後には、森の濃い樹影が迫っていた。300㎡程の庭には、大小の石が転がっていてその間を縫うようにして、石南花や梔子(くちなし)などの喬木が自生している。夏には芒や葛が蔓延り、雑草が自由勝手に生い茂り、手入れのしたことのない荒れた感じの風景が、そのまま荒涼とした磯に向って展っている。俊介はこんな庭とも言えない空間が気に入っていた。住居は約90㎡ほどの平屋で、赤いスレート瓦で屋根を葺いていた。

 俊介は月に二、三度東京に出る。文学懇話会に出席して仲間たちと作品合評をした後、居酒屋で親交を暖める。その他の日は伊豆に居座っている。週に一度は読書や執筆から完全に離れて、伊豆の山野を歩き回ったり、磯釣りを楽しむ。他の日は7時に起床して9時には書斎に入り、入浴と食事の時間を除いた大部分はここで過ごしている。テレビはニュースや特集を中心だが、見たり見なかったり気分の赴くままにしている。食事は原則として朝夕二回で一日の生活は、定型化している。然し今は定型のパターンの方が、不思議に安堵感がある。たまに別居した秀実から電話が掛かってくる。もう死んだかと思ってと、憎らしいことを言う。

生憎だと憎まれ口を返すと、そう、いいわね、とガチャンと切ってしまう。俊介は秀実のそんな態度に、まだ夫婦だっんだと実感し、思わず頬をゆるませる。 


 

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