第4話
「Xの値を代入して、Yの値を求めて」
灰色に上塗りされた白い雲を連れ、今日の空も青い色に染まっていた。大人しく椅子に座って勉強をしているのが憂鬱に思えるほどに爽やかだ。かと言って、板書をし終えた黒板を見るのも辛い。
視線の置き場所に悩んだ僕はノートの上に被せるように意識を置いた。
祖父が亡くなってもう一週間が経つ。
結局、柚川の家から団の葬式に参列した人間はいなかった。そも案内が着ていたのかすらも分からない。
ただ僕ら柚川は何事もなくこの七日を過ごしていた。その静かで蒸し暑い日々を送りながら、縁が切れたことの意味を改めて知る。
昨日知っていた人とも、今日からは赤の他人になる。
それが縁を切る、ということなんだろう。
キーンコーン。録音された鐘の音が流れた。
「はい、終わり。日直、号令かけて」
「きりーつ、……れい」
授業が終わり荷物を纏めて階段を降りる。途中、ほかの学年の生徒たちと出会った。が、その中に知った顔はなかった。
葬式の関係でまだ団の家にいるんだろうか。それとも秋房くんが本当に次期当主に決まって、もうあの幽霊船のような家が彼の新しい家となったんだろうか。
……、憶測は答えにはなれないか。
下駄箱に着いた僕は上靴からスニーカーに靴を履き変えて外へ出る。
春の面影を失くした木々が植えられた道をすぎて、校門の前に差し掛かった時だ。
「何ちんたら歩いているの、朔太郎!」
今、不思議と鼓膜に聞き馴染んだ声が聞こえた気がした。足を止め、恐る恐る顔を上げ、僕はぽかんと口を開いた。
中学生にしか見えない背の低い少女――みそらちゃんがセーラー服姿で道の先に立っていたのだ。
何でみそらちゃんがここに。というか、ここからみそらちゃんの家まで電車を使っても二時間はかかるのに。
吃驚は重なる。みそらちゃんの後ろから沖縄帰りにすら見えるアロハシャツとグラデーションが綺麗なサングラスをかけた入道が現れた。呆ける僕を見て、みそらちゃんは納得がいったかのような表情を浮かべ、自分の後ろに突っ立っている入道男を指さした。
「
「はあっ!?」
「だから言ったじゃない。年々馬鹿になってるって、いひゃい! いひゃい!」
入道男もとい岳くんがみそらちゃんの頬の肉を引っ張っている。みそらちゃんはあまりにも痛かったのか、散々喚き散らして岳くんの手を叩いた。「痛ぇな」と言いながら、岳くんはかけていたサングラスを上げた。
「よ、朔太郎」
サングラスに隠されていた人懐こそうな従兄の目が露わになる。
「みそら、自転車」
岳くんはみそらちゃんに自転車を預け僕の隣に来ると、ぽんと僕の肩を叩いた。
「ちょっと面貸してくれね? 朔太郎」
「……、何で?」
「まあまあ、いいじゃん。アイスも買ってやんべ。みそら。朔太郎の鞄、自転車のカゴ乗っけてやれ」
「ん。朔太郎、この近くに座って話すところとかないの?」
「二人は何しに来たの……?」
みそらちゃんは頬っぺたを膨らませて、岳くんはくくっと笑った。嫌な予感しかしない。そしてこの予感はきっと的中する。
僕は二人を学校の近くにあった公園に足を運び、そこで絶賛夏休み中の小学生たちがサッカーをして遊んでいるのをいいことに堂々とブランコを占領した。
ゆらゆら揺れ動くブランコに乗ったまま、途中で岳くんから買って貰ったアイスを齧る。みそらちゃんがコンビニで一番高かったアイスを嬉しそうな顔で食べる姿を見て、岳くんは安い棒アイスを口に含みつつ、この野郎と言いたげな顔をしている。高いアイスを奢らされてしまったからだろう。
岳くんとみそらちゃんは昔から仲が良かったし、一緒に行動していることになんら驚きは感じない。
ブランコを漕いでいる岳くんに視線を寄せる。
「どした? あっ、今更、高いアイスの方が食べたいとか言うなよ」
「いや、それは言わないけど」
「ならよし。朔太郎はみそらみたいに我儘言わなくって助かる」
「岳が奢るって言ったんじゃない!」
「奢るっつったけどな、多少は遠慮するのが優しさだろうが。何、お前一個三百円もするアイス選んじゃってくれてんだべ」
「食べたかったんだからしょうがないでしょ!」
「しょうがなくないわ! ちったあ朔太郎見習え」
「そっちこそ! 何よ、木魚でロックって! ふざけてんの? ていうか何がしたいの?」
「俺は世間儚んでんのよ。雲隠れ出来る時代でもねえから」
「馬鹿じゃないの」
「おまっ……。なあ、朔太郎。こいつの貰い手、出てくると思うか?」
僕に振らないで欲しい。小さく齧りとったアイスを飲み込んで、「本題は何なの?」と校門のところで一度聞いたことをもう一度問う。
岳くんは体を前に倒し、みそらちゃんにいう。
「みそら、帰りにもう一個アイス買ってやっからお前これから口挟むなよ」
「どして?」
「どうしてでも」
みそらちゃんは唇を尖らせつつも、指で二を作り岳くんに見せる。
「お前、本当いい性格してんな。……まあ、いいや」
岳くんの顔がこちらに向く。
「みそらに聞いたけど、叔母さん。秋房のところの父ちゃんに絶縁状叩きつけたんだって? それも祖父ちゃんが死んだ後に」
「そのことをわざわざ確認しに来たの?」
「違ぇよ。これはなんていうかな、ちっとした確認だ。本題じゃねえの」
僕が退屈な声を漏らすと、岳くんは眉を八の字にした。
「何か怒ってるか、お前?」
「別に」
「何か気にくわないところがあれば言えよ?」
「別にないよ」
「ほんとに?」
「……、本題は?」
ブランコがきぃと錆びついた音を立てた。
「団のことだけど」
「絶縁したこと聞いたって」
「聞いたな」
「なら何で? 僕には、柚川の僕にはもう関係ないじゃない」
「関係ないって言われてもなあ。すぐに受け止められることじゃねえべ。それに俺、そこにいなかったからな。だから知らん」
しかし暑ぃな今日は。岳くんは派手なシャツをつまんで風を起こしている。
そういえば彼はこういう性格だったなということを思い出す。豪放磊落な自由さ加減で、いつも折れているように見せて全然折れてはくれない。見せかけの柔であり、本質は剛そのものだ。
僕はもういいのに。秋房くんが言ったように僕は団から逃げれて、暁くんが言ったみたいにこのまま死んでいくのが一番いいんだ。
それなのにどうして母が切ったものが僕を追いかけて来るんだろう。もう関係がなくなったはずなのに。
「お祖父ちゃんのお葬式は?」
返答が来ない。見れば、岳くんは驚いた顔をしていた。
「何」
「いや、意外で」
らしくないことをしてしまった気がして、急に恥ずかしくなった。しかし岳くんは僕のそれに気が付かない。彼は言葉と言葉のやり取りでしか探れない人だから。
「一応俺は葬式には顔を出したけど、まあやばかったぞ。葬儀場をワンホール。体育館くらい広いトコを貸し切った筈なのに、それでも人が溢れるし」
「みんないたの?」
「いたな。みそらに栗子ちゃんに秋房と。暁もずっと爺の顔写真睨んでたけど、最後までいたし。いなかったのはお前ンところだけ、ってどうした?」
「別に」
口ぶりでは平然を装いつつも、暁くんまで参列していたことは意外だった。
「まア、縁切りしてなかったら朔太郎は正直うんざりしたかもな。秋房は喜一伯父さんの隣でちゃんと挨拶してたけど、みそらはおべっか大嫌いだし、栗子ちゃんは何がムカつくのか相変わらず日本語話してくんねえし、暁はぶちぶち文句垂れるしで俺ぁもう大変よ」
「……、そう」
岳くんは僕の顔を覗き、「今の、叔母さんに似てる」と心臓が掴まれるようなことをいう。「そう」と今度は自分に言い聞かせるように呟き、葬式に参列していたと話す二人に問いかける。
「後釜は?」
みそらちゃんの猫めいた目が僕を見る。
「気になンの?」
「……、うん」
岳くんはサッカーボールを蹴り合っている小学生たちを眺めながら、「秋房だよ」と分かりきっていた答えを出した。
「ま、予想が出来過ぎてて笑いしか起きねえレベルだけど。すごいもんだったぜ。『継ぐ』って分かった途端に、本当に政治家かよって思うくらい強面のオッサン達が秋房に群がって、馴れ馴れしく肩叩いたり、御愛想笑いしたり。俺だったらゲロってたな、確実に」
岳くんはからと笑った後、「にしても笑うような」と声のトーンを一つ低めた。
「何が?」
「秋房が将来何になりたいのか、まったく聞いたこともない上で、秋房を後釜に推薦しているんだぜ? 人権無視だろ。赤の他人じゃない、親戚と親がこれなんて頭がおかしいったらないだろ。あんな商売、畳んじまった方がいいんだ」
岳くんはやけに低い声でそう漏らした。
今度は岳くんの吐露だ。どうしてみんな僕にそんなことを聞かせるんだろう。
「朔太郎」
離しかけていた意識が戻る。
「暑さに参ったのか?」
「そうじゃない。大丈夫だから続けて」
「無理すんなよ」
「無理はしてない」
「だったらいいけどな。お前も秋房も暁も予測がつかなくて怖いから」
「何それ」
「突拍子もないことしそうだって意味だよ。後、そうだな。一人で抱え込んでそのまま死にそうだ」
「…………」
的を得た岳くんの発言に僕はだらだらと冷や汗を掻いていた。岳くんはブランコからすっと立ち上がった。
「朔太郎。お前最近、学校で秋房を見たか?」
「見てないけど」
僕が答えると、岳くんが渋めた顔を浮かべた。
「何? 何かあるの?」
「いいや、ただ」
「ただ?」
岳くんは悩ましげな顔をする。
「秋房が葬式の時から妙に嬉しそうでさ。ちっとばかし気になってんのよ」
「嬉しそう?」
「変だろ。理由聞こうにもオッサン連中に囲まれて、理由は聞けなかったんだけどさ。でも暁から聞いた話だと、お前と秋房のやつ喧嘩してるっていうし。ますます機嫌がいい理由が分かんねえ。朔太郎、お前爺が死んだ後に仲直りしたか?」
「……、してない」
「怒るとくどそうだからな、あいつ。だけどどうしたもんかね……。秋房が捕まらないことにはお前も秋房と仲直り出来ねえし」
「別にいいよ。仲直り出来なくても」
「はっ?」
「はあ?!」
二人分の驚嘆の声が響いた。片手にアイスを持ったみそらちゃんは「あっ」と自分の口を抑え、きょろきょろと辺りを見渡してまたブランコに腰かけた。岳くんはみそらちゃんが座ったことを確認して、僕に問いかける。
「どういう意味だべ、別にいいって」
「別には別にだよ」
「いや、うん。あのな、一回喧嘩しただけなんだろ? それで別にいいっておかしいだろ。俺だってみそらと腐るほど喧嘩するけど一応は仲直りしてるぞ」
「一応って何よ! 一応って!」みそらちゃんがカップアイスを片手にブランコから立ち上がった。
「みそら、シャラップ! お黙り!」
みそらちゃんはきゅっと唇の端を縛って、泣く一歩手前の子どものように顔を俯けている。
僕はそんなみそらちゃんから目を離し、ぼそりと呟く。
「二人には分かんないよ」
つむじが熱い。そこにだけ熱が集中しているみたいだ。
「ふざけないでよ!」
突如降って来たみそらちゃんの怒鳴り声に、今まで無邪気にボールを蹴り合っていた子どもたちの動きがぴたっと止まる。岳くんは足を組みながら、「みそら、落ち着けって」と促す。
が、一度着火したみそらちゃんの怒りは易々と消えない。彼女はつかつかと僕の前までやってくると、幼い顔を強張らせいう。
「あんたまで秋くんから離れてどうするのよ。それじゃあ秋くん、本当に一人じゃない」
「みんながいるじゃない」
みそらちゃんはぎゅっと唇の端を噛み締め、「まだ分かんないの、朔太郎」と悲しそうな声色で尋ねる。
「秋くん、あたしたちのこと嫌いなのよ」
「え?」
「朔太郎と同じよ。何も聞かない、何も見てない振りするあたしたちのこと、秋くん嫌いなの」
「何でそんなこと分かるの」
「分かるわよ。だってそうなる理由があるんだもの」
みそらちゃんは僕をじっと見る。
「ごめんね、朔太郎。ずっとずっと守ってあげることもしなくて」
震える声音に僕は片足を後ろに引こうとした。が、そうして距離を置こうとする僕の片腕をみそらちゃんが掴んだ。みそらちゃんは根気よく僕に語り掛ける。耳を塞ごうとする僕の、内に。
「こんなこと、あたしが言える義理じゃないっていうのはよく分かってる。でも、でもね。朔太郎。あたしたちじゃ秋くんは止められないの。ううん、そんなこと言えないのよ。だってあたしたち、秋くんをずっと見殺しにしてたんだもの」
それは僕もだ。喉まで出かけていた言葉を僕は飲んだ。
じゃり。砂を踏む音が後ろから聞こえる。岳くんがつるつるした頭を撫でながら、僕に視線を寄越した。
「朔太郎。俺な、うちのババアが小さい時から何も知らないお前に叔母さんのことぐちぐち言ってたの気付いてたんだわ。気付いてて止めなかったんだ。説教されるのなんて慣れてたし、怖くも無かったのに。俺はあの時、自分の安全の方を取ってたんだ」
「安全?」
岳くんは頷く。
「俺たちが自分の保身を買う代わりに、お前たち3人を大人に売ったっていう方が分かりやすいか。馬鹿だよな。そんなことするから、秋房は大人に答えようとして、お前は大人に堪えて、暁は大人から離れて行っちまったのに」
僕は目を見開いた。どうしてそんなことをするのか。そんなの決まっている。自分が跡継ぎにならない為に、だ。
「朔太郎。お前にはさ、助けなかった俺を遠ざける権利があるんだ。秋房のやつと仲直りしたくなきゃそれもそれで結構」
「岳っ」
みそらちゃんの鋭い声が背後から響く。岳くんは片手を上げると、僕に視線を落とし、静かに言った。
「だけど一個だけ頼まれてくれねえかな」
「……何を?」
「秋房に団を継がなくていいって言って欲しいんだ」
「でも僕、団じゃないし……」
「だからだ、団じゃなくて俺たちじゃなくて朔太郎が言うから意味があるんだ」
岳くんはそう言うと、ポケットからサングラスを取り出してかけ、自転車を置いていた場所へと歩いて行く。みそらちゃんはそれを見てブランコから立ち上がると、僕に顔を向けた。
「朔太郎、ばいばい」
みそらちゃんはセーラー服のスカートを翻し、先に自転車の荷置きのところに腰をかけている岳くんの元に行くとまた騒いでいる。小学生たちは何だという顔をし、再びサッカーに集中し始めた。
取り残された僕は買って貰った棒アイスの残りを見て、口に含もうとした。が、直前で棒に辛うじてくっついていたアイスの塊が地面の上に落ちた。
ゴミに変貌したアイスをじっと見つめ、それから強い光の降り注ぐ空を見上げた。
憎々しいほどに空は老いず、逆に若々しくなっていっているようだった。
『団でいたい? それとも柚川でいたい?』
『団から逃げられた』
『一生このままで死んで行け』
僕に影響を与えることが出来る人たちは僕にそう言っていた。けれどそれはどれも変化もないまま、今の僕として一生を終えろ、というような意味合いに違いなかった。
もしも閉じたまま終わって行くのが僕の人生なら、秋房くんに団を継がなくてもいいという言伝を伝えても伝えなくても一緒じゃないだろうか。
今の僕は団ではなくて、ただの朔太郎なのだから。
溶け落ちたアイスは白い水たまりに変わった。
・
・
辺り一帯に、くぐもった童謡が響き渡っている。背後に迫る夕焼けを確認して、僕は額にじっとりと張り付く汗を拭った。
また今日も秋房くんは見つからなかった。
みそらちゃんと岳くんが突然襲来して、もう二日間が経つのに勝手知ったる場所で僕は人一人見つけ出せていなかった。自宅のある道へと顔を向け、僕は嘆息を一つその場に吐いた。
秋房くんの家を訪ねたら話は早いんだろうけど。
でも時間があってしまったら、そこには間違いなく喜一伯父がいる。そう考えただけで、僕の気分はまた憂鬱を味わう。
ふらふらとした足取りで自宅までの道を辿り、アパートの階段をたびたび休みながら上る。柚川の表札が提げられた一室の扉の取っ手に手をかけると、する、と扉は開いた。
そのことに感想すら持てないまま玄関に入り、スニーカーをその場に汚く脱ぎ捨て、自室へと直行する。部屋の窓は開け放たれていて、そこから涼んだ風が出入りしていた。押して戻ってを繰り返すカーテンの布を見つめながら僕は部屋に入り、ベッドに倒れた。
疲れた。もう何も喋れないくらい疲れた。眠ろう。明日からは課外も何もないから、一日中日が沈むまで探せる。
・
・
ドオン!
巨大な爆発音に僕は飛び起きた。寝ている間に夜が来たらしく、開けっ放しの窓の向こうは明るく淀んだ青が広がっていた。
今の何だろう。ベッドの上に乗って、窓の外を見る。が、どこの家も明かりは点いており、停電した様子はない。ちらほらと人が外に出て来てはいるもののその声まで拾うことは出来ない。だったら携帯で情報をと考えてみたけど、目ぼしい情報は載っていなかった。
益々、不可思議に思っていると、『あれ』が聞こえた。
――ウオォオオオン。
伏の遠吠えだ。その声が聞こえた瞬間に、僕の頭は考えるよりも早く立ち上がって玄関へと飛び出していた。スニーカーに片足を入れるだけでも四苦八苦し、焦りだけが膨れ上がる。いつもは綺麗な蝶々結びでさえ、雑な具合に仕上がってしまい、もういいやとそのまま家を出ようとした時だ。
「朔太郎」
静かな声に振りかえると、母が寝間着の恰好で玄関の電気を点けようともせず、「こんな遅くにどこへ行くの」と聞いた。僕は唾を飲んだ。
「呼ばれてるんだ」
「誰に?」
「それは……」
母は先を迷う僕を目を細めて見やり、すっと両手を差し出した。その手の左右には、母の携帯と懐中電灯が握られていた。目を白黒させながらその二つを見ていると、母は持って行きなさいという。
懐中電灯はこの暗さだし必要になるだろうけど、携帯を持って行ってしまうとまずい気がした。したがって、僕は懐中電灯だけを受け取り、逃げるように玄関の取っ手を前に押してその向こうに走り去ろうとした。
「朔太郎」
行動を止められても、僕は振り返らなかった。何故か、この時僕は国産みの神さまが妻に会いに黄泉へ行った時のことを思い出した。
『振り返ってはいけない』
振り返ったら、最後何もかもが駄目になる。それがこの国を妻であり、妹でもある神さまと一緒に拵えたとされる神さまの教えだった。
「朔太郎、ちゃんとここに帰って来てくれる?」
母の声は不安げだった。やっぱりこの人も人なんだと思う。あんなにも冷徹な仕打ちをしながらも、この人は息子の僕とさえ距離の測り方を掴みかねている。
この場合、どんな言葉を答えるのが正解で不正解なのか。考えれば考えて行くほどに取っ手に篭る力はどんどん強くなって行き、最終的に指先はそれから離れた。
「……、母さんがこれから幸せになってくれるんだったら僕は帰ってくるよ」
そう言い渡して、僕は今度こそ家を飛び出したけど、母は僕の後を追いかけて来なかった。
・
・
どこからか聞こえる伏の遠吠えを辿り、僕は伏を紹介されたあの小山に着いた。空にはぽっかり月が浮かんでいるが、横から流れて来ている雲が今にも月を覆い隠しそうだった。
――ウォオオン。
遠吠えが山から響いて来る。懐中電灯をお守りのように握りしめ、僕は小山に入った。
以前訪れた際と同じく小山の中は暗く、自然が作り出した冷たい空気が夏の生ぬるさと織り交ぜになっている。僕はここ何日かの疲労と昼間から走り回っていた時からの暑さが残る体に鞭を打って、小山の中を根気よく歩き回った。
暗く明かりなんてない道を時々立ち止まっては、両手をメガホン代わりにして伏と叫ぶ。するとそれに応えるかのように、あの声が山の中に響き渡るのだ。僕は何度もそうやって進行方向を決め、最終的に広い場所へと出た。
肩で息を切りながら、伏のあの暗闇に浮かび上がる赤い目を探す。
「さくたろう」
伏が緊張の欠けた顔で立っていた。体全体に針金のように通っていた力が一気に抜けた。
「何があったの?」
彼女は瞬きをして静かに告げた。
「フネが落ちた」
「フネ? フネって……」
「あきふさが乗ってたフネが落ちた」
僕はその時の動きのまま固まった。
「……、え?」
伏は僕を見つめ返し、「こっち」と僕の手を引っ張る。僕の手を握る力は驚くほどにか弱く、その見目とよくよく合っていたけれども、今の僕を簡単に連れ回すくらいはあった。
凹凸の激しい小山の道を伏はホームのように小走りで駆け抜け、木々が鬱蒼と茂る中へと僕を導いた。開けた場所は斜面の多かった小山の中の平らなところで、何もなかった。
「……、何もないよ?」
「何もなくなった」
「なくなった?」
「燃えちゃった……、から? あきふさ、フネと燃えてなくなっちゃった」
ぽかんとした顔で伏を見返せば、彼女は赤い目の中に僕を映し込んだ。そこには何の感情もない代わりに、嘘をついた様子もなかった。
持って来た懐中電灯のスイッチを入れ、周囲を照らして見たけど伏の言葉通り辺りには何もなかった。
うっかりすると力が抜けて、地面の上に倒れてそのまま起き上がれなくなりそうだった。
「さくたろう?」
伏がその場に立ち尽くす僕のシャツを軽く引いて、顔を覗き込む。僕は彼女のそれから逃げるように、顔を背けなんとか現実から逃げようと頭を働かせた。
「そうだ、石……。石、探さないと」
「石? どうして?」
先に歩き出した僕の背後に伏がそんな問いを投げかける。
「秋房くんに必要だから」
「あきふさに?」
白髪に熟れた柘榴のような目をした少女は私も探すと言い出した。僕はきょとんとし、その後、「これくらいの」と小さな弁当箱くらいの大きさを手で作って見せた。伏はじっと見て、自分の両手で僕が作ったような大きさを作ると「これくらい」と尋ね返した。
「そう。それくらい」
「分かった」
こくこくと何度も首を縦に振る彼女を見て、僕は小山の奥へ行こうとした。が、何かに引き止められて足が止まる。見れば、伏が両手で僕のシャツを引っ張っていた。
「何?」
伏は何も答えず、僕を見返すことに徹した。僕は困って、空いた手で伏の頭を撫でる。と、彼女は目を細め、「……、ないで」という。
前半が聞き取れず、目を瞬く。伏は、真っ直ぐな目で僕を射抜いた。
「しなないで」
言い残して、彼女は体を翻して軽やかな足取りで小山の中へ消えて行った。
一人取り残された僕は伏の姿が見えなくなって、やっと息が吸い込めた。
あの子は、どうして僕にそんなことを言うんだろう。鴉の羽にも似た色が僕の視界の半分以上を覆う中、僕はそんなことを考えていた。
思考を切り替え、懐中電灯を持ち直して足を進める。
石を探すために。秋房くんに必要なお墓の石を探すために。
これは事実上、僕が彼の死を認めたことを意味した。けれど、本心はまだ認めた訳じゃない。いいや、認めてなんかたまるものか。彼が死ぬわけがない。秋房くんが死ぬなんてそんなことありえっこない。だって秋房くんは宇宙に旅をしに行っただけなのだ。どうして旅をしに行った人が死ななくちゃいけない。如何に、安全の保証がなかった場所とはいえ、どうしてそんな寂しいところで一人死ななくちゃ……。
ふと、鍵つきの錠前のダイヤルが合ったような心地がした。瞬間、背中にぞくりと幽霊と出会ったような震えが走る。
そうか。秋房くんは祖父の後釜にならない為に、団の人たちから逃げる為に、誰も行くことすら叶わない宇宙へ逃げたのか。
幸いなことに、彼はそこへ行く為のフネと自分の代わりを務める宇宙人を手に入れたんだ。いいや、ひょっとしたら伏がここへ来たのも単なる偶然じゃなかったのかもしれない。
法則や理論を無視したものに呼ばれて、彼女はここへ……、秋房くんの前に現れた。そう言った方がしっくりきた。
秋房くんは宇宙に旅に行ったんじゃない。死にに行ったんだ。自分と半分血を分け合った人たちから逃げる。その為に。
呆気ない答えに、たくさんのものを仕舞い続けて来た場所から思い出が溢れ出る。頭痛なんて言葉じゃ収まりきれないほどに頭が痛い。涙を流してしまいそうだった。だけどそれだけはしたくない。それをしてしまったら最後、僕は本当に認めなくちゃいけないんだ。
歯噛みしながら石を探すことも出来なくなった僕はその場に膝を抱え込んで座り込んだ。
秋房くんはいない。秋房くんはもういないんだ。
迫りくる事実に顔を上げると、何かが落ちていることに気付いた。舌の上に広がる味に顔を顰めつつ、土の上に転がしていた懐中電灯でそれを照らす。
ぼやけた光で姿を現したのは、お守りだった。僕は息を飲み、両手と両膝を地面について前に進み、ぽつねんと置かれたお守りを拾い上げる。
見間違えようがなかった。土で多少汚れてはいるけれど、それは僕が秋房くんに渡したお守りに違いなかった。
この瞬間に、僕は完璧に認めなくてはならなくなった。
これは冗談でもなければ、僕が悪い夢を見ている訳でも無くて、ただの現実として秋房くんはいなくなってしまったのだ、と。
「……、ぁ」
たまらず嗚咽が零れる。だが涙腺だけはぎりぎりの所で留まっていた。
分かっていたのだろう。ここで泣いてしまえば、本当に秋房くんが死んだことを認めるようなものだと。そんなことがあってたまるか、そんなこと。
現実を追い帰しながら、僕はお守りを眺める。安全祈願の願掛けが施されたそれは、その願いに相応しく傷一つない。
…………、傷一つ?
どうしてこのお守りはこうも無傷なんだろう。伏はフネが燃えたのだと言った。それでフネに乗っていた秋房くんも燃えてしまったのだ、と。
それじゃあどうしてこれだけはこうも”無傷”なんだろう。ひょっとしたらまだ可能性が残っているのではないのだろうか。燃え尽きたという残骸がこの辺りにある可能性が。
もしもそれがあるということは、いよいよ今を見なくてはいけないということに他ならない。だけれども別の可能性もまだ生きている。
このお守りのように、秋房くんが生きていることだってきっと有り得るはずだ。
無限は地獄だ。けれどもし、もしもそこに希望なんてものが残っているのならまだ救いはある。
秋房くんが生きている。謝る日は来る。地獄は天国だ。
僕はお守りを握りしめ立ち上がり、「さくたろう」という声に振り返った。か弱い生きものの声を出す宇宙人で、秋房くんに妹と紹介された少女は風に白髪をなびかせながら僕を見据えた。
「伏」
応えるように名前を呼び返すと、彼女はとすとすと僕の前にやって来て、両手に持っていたものを僕に見せた。
「これは?」
「石、あきふさの」
「ああ……、でもいいよ。伏、まだ必要じゃないかもしれないんだ」
「必要じゃない?」
「そう。これ見て」
僕はさっき拾ったお守りを伏の前に出した。
「さくたろうがあげた」
「うん、秋房くんに渡したお守りなんだけど、そこで拾ったんだ」
伏は首を傾げた。
「お守りと必要じゃない、関係ある?」
「あるよ! だってフネは燃えたって伏が言ってただろ? だったら、このお守りだって燃えてて良い筈なのに。見てよ、傷一つないんだ。ってことは秋房くんだってもしかしたら」
嬉々として語る僕を、伏の赤い目が映す。滑稽な者として。僕は空気の塊を飲み込んで、「あるよ、可能性はあるんだ」と嘯いた。
「さくたろう」
「待って、今、確率がどれくらいあるか計算するから。伏にもきちんと分かるよう丁寧に話すし、分からなかったら何べんだってもっと分かりやすく説明するから」
「さくたろう」
「0じゃなきゃいいんだ。0じゃなきゃ、秋房くんは生きているんだ。そうだよ、お守りがこうなのに生きている確立が0なんてそんなの有り得っこない。数学的に。科学的に。文学的に。色んな見地から答えを出して行けば、そんな数字が出るはずないんだ」
「さくたろう」
伏は困った顔をしていた。
「さくたろう、あきふさはもういないよ」
淡々と、しかし優しく告げられた言葉の中身を噛み砕くのにとても時間がかかった。そしてその意味に気付いた時、僕は飲み込むことを拒否した。
「有り得ない」
「ありえない?」
「有り得ないよ、そんなの」
「どうして?」
「だって、僕まだ、言えてない」
「なにを?」
かちかちと歯が鳴る。寒くはないのに寒かった。
「さくたろう?」ひた、と生ぬるい熱が頬に当てられた。伏が今まで持っていた石をどこかにやり、空いた両手で僕の頬を包んだのだ。
伏の赤い目はよく熟れた柘榴で、今にも流れ出しそうな血潮の色だった。嫌いになった夏の色ではなく、命そのものを思わせるようなその色に僕はすこし落ち着いた。
「僕はまだ秋房くんにごめんね、って言えてないんだ」
「ごめんね?」
「小さい頃、僕が秋房くんに聞いたんだ。どうして空は青いの、って。でも秋房くんは答えれなくて、だから僕、謝りたくて。けど謝ったら、秋房くんにまた嫌われる気がしたから、だから」
「朔太郎」
間延びした発音ではなく、はっきりと僕を呼ぶ声に前を見る。伏の顔が近づいて来ていた。
「朔太郎、ごめんね」
どうして伏が謝るのか、僕には理解できなかった。
・
・
目が覚めているのに、僕は夢を見ていた。夢の中で、視点は勝手に動く。便利なものだった。
「大丈夫?」
聞き馴染んだ声に僕は顔を上げた。が、視点が動かないせいでその声の主の顔は見えない。見えるものは闇が上に被さった土だけだった。
「まだ立てないのかな……」
言葉はどこか心配するようだったが、その声はどこかわくわくしていた。と、視点がゆっくり上がって行く。
やっと見えたのは秋房くんの姿だった。
「こんばんは」
彼は、視点に記憶のままの人のいい笑顔を渡した。
「……、は」
「無理して喋らなくてもいいよ。なんとなく君が俺と同じじゃないっていうのは分かるから」
視点はそろそろと秋房くんに向かって、手を伸ばした。秋房くんはきょとんとした顔をしたものの、嫌がることなくその手を取った。視点の体が秋房くんに引っ張られたことで、目の高さも変わったが、視点は起き上がることがしたかった訳じゃないのかもがくように掴まれた手を伸ばしている。秋房くんは困った顔をした。
「困ったな、コミュニケーションにはわりと自信がある方なんだけど」
屈みながら、彼は掴んでいた手を離す。自由になった視点の手は秋房くんの額に触れた。
「あ……、あー……、あ……し、は」
「うん?」
明らかに言葉が通じないものと出会っても、彼は常を崩さず、目の前にいる視点そのものを見守るかのように優しい目をしていた。
「……あた、ほ……じ、みつけ……、ねがい……、いつで」
視点はげほげほと咳込む。秋房くんは視点の背中に手をやり、摩ってやっている。視点はどこか痛いのか、ぼろぼろと涙を零してもまだ喋ろうと口をぱくぱく動かした。
眉を八の字にしていた秋房くんはそうだ、とポケットから携帯電話を取り出して、「これじゃ駄目かな」と視点に渡した。視点の視界に映されたのは、携帯電話の機能でもあるメモだった。
「使い方、分かるかな。分かるんだったら、こう頷いて」
秋房くんは首を縦に振って見せる、と視点も小さく首を縦に振った。よかったと秋房くんは笑い、「君は誰?」と尋ねた。視点は携帯を握る手を強張らせながら、かち、かちと携帯に文字を打って行く。
やがて出来た文章は、ほしとあった。視点はそれを秋房くんに見せると、彼は真顔になり、次の瞬間には「そうか、そうなんだ」と繰り返し呟いている。
視点は秋房くんが納得したらしいと思ったのか、次に質問が来る前に新たな文章を組み立てた。
あなたのねがいごとはなんですか。わたしはそれをかなえます。
不可思議な言葉ばかりが並ぶ文章を視点は臆することなく、秋房くんの前に出した。
流石にこれには秋房くんも呆れるだろうと思っていた。実際、彼は見せられた文章をまじまじと見て、「本当に?」と言っている。
視点は頷く。それを見た秋房くんはにっこりと笑みを深めた。
その笑みに、この夢に、僕は答えを見つけた気がした。
「なら、一つだけ」
視点が文章を打ち込む前に、秋房くんは自らを星と称した視点――伏に告げた。
「俺が文句を言われずに死ぬための手伝いをしてくれないかな」
この人は、星に幸福を願いはしなかった。この人にとって、星なんて突拍子もないものは、逃げるための道具にすぎなかったんだ。
・
・
――タララ……、タララ……。
電子音の酷い曲がすこし流れて、ぷつりと切れる。伏がその真っ赤な視界に携帯電話から漏れる明かりで顔を照らしている秋房くんを認めた。
秋房くんは伏の視線に気づき、「父さんから電話だった」とくたりと笑った。
「あきふさかえる?」
問われた彼は肩を竦め、「今日で最期だから帰らないよ」と静かに言った。伏は鼻歌を歌う秋房くんを視界に入れ、「さくたろう、へいき?」と尋ねた。
鼻歌がぴたりと止み、「さあ、分かんないな」と答えが返ってくる。
「あきふさはさくたろうがきらい?」
秋房くんはその質問に目を丸くする。
「嫌いだ。大嫌い」
ああ、やっぱりと僕は思う。僕はやはり善人に嫌われている。
「けど俺、朔太郎のすごいところも知っているんだよ。一を知って十が分かるなんて正しく朔太郎の為にあるようなものなんだ。知った時はやっかみもしたし、何で俺のところにって思ったりもしたけど正しいよ。あれは朔太郎のところにある方が正しい」
「どうして?」
「朔太郎は優しいから」
「やさしいとあったほうがいい?」
「そうだね。そうしたらきっと色んな人が助けられるだろう? でも本音を言うとまだ妬ましいんだよ。俺が努力で足掻いて取った物なんて路上の石ころみたいにチャチで、見向きもされなくなるようなものだから」
「……、くやしい?」
伏の問に秋房くんは微笑んだ。
「一等に。だけどこれからはそれも変わるから、これは俺がきちんと持って行くよ」
「うん」
秋房くんはにこやかに笑んだまま、伏の頭を撫でた。
「朔太郎があくせくして、お前を、秋房を立派にしてくれるのを俺は何よりの楽しみにしているからね」
「あきふさがおそわっちゃだめ?」
「俺は、……もう休みたいよ。それに朔太郎が勉強を教えてくれる気になっても、俺の気が違えてしまいそうだから」
「何で?」
「何でだろう。きっと俺が悪いんだよ。朔の前でくらい意地なんか張らずに、分からないものは分からないって言ったらいいのに体裁を取ろうとしたから」
「ていさいって?」
「自分の恰好のこと、でもお前は覚えなくていいよ。こんな言葉と意味なんか」
「分かった」
伏が頷くと、秋房くんは目尻を深くさせながらいう。
「父さんとの会話はそつなくね。酔って帰って来た時には、毛布をかけてあげて。母さんの仏壇には、オレンジ色のお花と炊き立てのご飯を上げてね」
「……、あきふさ」
「何?」
「のこすこと、ない?」
質問された秋房くんはすこし考えて、遺言のことと尋ねる。
「ううん、でんごん」
「伝言、かあ」
秋房くんはぽつと零しながら、空を見上げた。白い綿を引き裂いたかのような雲の中に、真ん中を穿たれ欠けた三日月が浮かんでいた。
「朔太郎に一個だけ」
「さくたろうに?」
「そう、これが最後だから。言っておかないと、朔毎日泣いて生きて行きそうだから」
伏の視界が闇に閉じて、また暗闇に孕まれながらも光を食った世界を得る。
「がんばる」
「ごめんね。頼むよ、伏」
暗闇に息づき、眠る小山にぽつねんと立つ秋房くんの口から来る瞬間を伏は待っている。逃してなるものか、という執念めいたもので目を開いている。
秋房くんはそんな伏に笑いかけた。
「俺も知らないや」
あきふさくん。僕は夢の中で申し訳なさそうに笑む従兄の名前を呼んだ。
それはもう届かない。これは夢。これは記憶。これは過去。もうこれからに彼はいない。
そう思うと、どうしようもなく本当にどうしようもなく胸が痛んだ。形のない痛みに耐えかねた僕はあんなにも我慢していた涙をぼろぼろと零した。涙が目から零れ落ちるほどに、視界は今になる。
伏の顔との距離が異常に近く、額にじわりとした熱を感じるから彼女は自分の額を僕の額に当てているのだろう。伏は僕が自分を見ているということに気付くと、こう言った。
「朔太郎、ごめんね。あきふさとやくそくしたの。あきふさのじゃまはしない、って」
伏は今までにない流暢な喋りを見せ、悲しそうな顔をする。
「ねえ朔太郎、どうしてあきふさはあんなにひとりなの? どうしてだれもあきふさを止めてはくれないの?」
みっともなく涙を零して嗚咽を零す。伏は瞼を伏せて泣きじゃくる僕の頭を抱いた。
すると、僕は妙な感覚に襲われた。頭の中にあった記憶が真っ白な炎に焼かれ、塵のように粉々になって行くのだ。
「ふせ……、やだ……。やめて、やめてよ!」
溺れるように、腕を前に出すと伏はその手を取って握りしめ幼子に言うかのように優しく言った。
「朔太郎、あきふさのおはかはふたりのこころにたてよう」
宇宙人と初めに紹介された星の少女は、赤い目から一粒の涙を零した。
僕の頭はこんな異常事態でさえ正しくその涙が零れる瞬間を海馬に焼き付けながら、漂白剤につけられまっさらになって行く記憶に僕を沈めた。
・
・
遊ぶ蝶が木の葉に止まった。
「さくたろうくんはどうしてみんなと遊ばないの?」
幼い秋房くんが僕にそう聞いて、僕はだってと言葉を言い淀ませた。
「だって?」
「みんな、ぼくのこときらいだと思うから」
「ぼくはきらいじゃないよ」
「きらいだよ。だってぼく、お母さんのこどもだもん」
秋房くんは頭を捻った。
「おばさんのこどもだと、どうしてみんなきらいになるの?」
「しらない。しらないけど、みんなおかあさんのはなしをしながら、いつもぼくのことじろじろみる」
「そう」
「そう」
お互い頷き合うと、秋房くんはすこし考えた風の顔をし、縁側の下を覗いた。何をするんだろうと思っていると、彼は履物を取り出し、足につっかけて日が降る庭に出た。
僕は縁側で膝を抱えたまま、庭に生えた草木と同じ日を浴びる従兄が何をするのかと思っていると彼はくるりと振り返る。
「さくたろうくん、ぼくとさくたろうくんのきょりはこれくらいなんだよ」
「……っ」
僕と秋房くんの距離はとても離れていた為に、僕は落胆した。やっぱり嫌われているんだとそう思った。しかし秋房くんは「けどね」と言うのだ。
「みんな、しらないだけでこれくらいはなれているものなんだよ。みんなみんなはなれて、それで生きてるんだよ」
膝に埋め込んでいた顔を上げて、僕はうそだと呟いた。
「うそじゃないよ。ぼくととうさんのきょりはさくたろうくんよりも、もっと遠いんだ」
「はなれてるよ」
「いいんだよ、これで。小さくて名前もないほしは、大きなわくせいにのみこまれないよう、うんときょりをとらなくちゃいけないんだから」
それは知らなかった。僕は呆けた顔で、「そうなの」と彼に尋ねかけた。
「そうだよ」
「ぼくとおかあさんがはなれてるのも、のみこまれないため?」
秋房くんはちょっと間を置いた。
「そうだね。おばさんはやさしいから」
そうか。そうなんだ。僕は立ち上がり縁側から降りようとしたけど、生憎もう履物がなかった。しょうがなく僕は縁側に立ったまま、従兄弟に呼びかける。
「あきふさくん、みんなとはどれくらい?」
秋房くんは辺りを見渡すと、広い庭の一つ一つを指さし説明した。
鯉が一匹だけ泳ぐ池には、岳くんとみそらちゃん。
白壁の向こう側は、刹夕叔父と栗子ちゃん。僕らから一番遠い。
先ほど、蝶が飛んでいた夏みかんの木のところには、哀子伯母と楽弐叔父。
毎年、春になると見ごろになる桜の木のところが暁くん。そこから少し離れたところに植えてある梅の木が崇叔父。
そう順繰り順繰りに距離を出して行く秋房くんに僕は尋ねた。
「おじいちゃんは?」
「おじいちゃんは、そこ」
そう言って秋房くんが指さしたのは、家そのものだった。僕は瓦屋根を見上げて、「みんないっしょのところじゃないね」という。
「うん、みんなほんとうは一人ぼっちだからね」
「ひとりぼっち」
「そう、一人ぼっち。でもね、うちゅうもそうなんだよ」
「うちゅうでも?」
「わくせいはきどうっていううちゅうでのせんろがあって、そこをぐるぐる回るんだ。けどせんろが同じじゃなきゃ、ほかのわくせいとはすれ違うだけで、おなじせんろの中で出会うことはないんだよ」
「ぼくたちみたいだね」
「そうだね、だってぼくもさくたろうくんもうちゅうの生きものの一つだもの」
だからね、と従兄は夏の庭で笑いかけた。
「さくたろうくんが一人で遠くにはなれていくことはないんだよ。ほんとうはみんな一人ぼっちのほしなんだから」
僕は目からうろこが落ちる思いだった。次に思うのは、目が熱いということ。気付いたら、涙がぼろぼろと溢れて、止めようがなかったこと。
そして従兄が心配そうに庭から駆け走って来てくれて、涙の止まった僕に言った言葉。
「いっしょにあそぼう、さくたろう」
あの人はどんな顔をしていたっけ。
・
・
虫の羽音に目を覚まし、体を起こすも僕は自分が今どこにいるのかさっぱり分からなかった。
ただ木々が生い茂っているから、木偏のついた場所のどこかなんだろうとは思った。近くに転がっていた懐中電灯は誰のものだろう。僕のかな。……、たぶん僕のだよね。
安易な結論に行き着いて、懐中電灯のスイッチを入れ立ち上がる。
身体の節々と後頭部がいやに痛かった。何でだろう。ただ胸に空洞が出来たような、良くて、悪い夢を見たような。捉えどころのないものを感じた。何だろう、本当に。
「朔太郎」
僕は懐中電灯を声がした方向に向ける。顔をくしゃりとさせながらも「眩しいよ」という人は従兄の秋房くんだった。何だ、彼もいたんだ。
秋房くんはこちらにとすとすとやって来ながら、両手に腰を当てた。
「随分と探したよ。急にいなくなるんだから」
「そうなの?」
「そうだよ。……まあ、いいけどね」
秋房くんは軽く笑うと、帰ろうかと僕を促した。何ら疑問も浮かばず、首を縦に振ろうとした時、秋房くんの背に薄気味悪いくらいに大きな月が迫っていることに気付いた。
「……、あれ伏は?」
口走って、あれと眉間に皺を作る。伏って誰だ。そんな物騒な名前の知り合い、いないはずなのに。
「朔、なに百面相してるんだ?」
にた、と犬歯を覗かせて笑う秋房くんに僕は違和感を覚える。彼はこんな笑い方をしただろうか。
「朔太郎」
「……あ、ごめん。ぼうっとしてた」
「しっかりしなよ、暗いんだから」
「うん」
「ほら」
僕は差し出された手をまじまじと見た。
「なにこれ?」
「はぐれないように」
「いいよ、僕もう高校生なんだから」
「そんなにも斜面を転がりたいのか?」
「いや、転がりたくはないけど……」
「じゃあ決まり」
秋房くんは僕が後ろに隠していた手の片方を取ると、歩き始めた。
何の会話も無く、均されていない道の上を歩くのは現代っ子の僕にはとてもじゃないけど難しい。自然と歩く方に僕は意識を傾けて行った。
しばし無言で道を下っていると、「朔太郎、頼みがあるんだけど」と急に話が振られた。秋房くんは前を見ている。
「どんな?」
「俺に勉強を教えてほしいんだ。お前はとびきり頭がいいから」
続けて言われた言葉に、条件反射でそんなことはないと返そうとする。しかしこの時だけは何故か、それを言うことが躊躇われた。
代わりに、僕は何かを言わなくてはという焦燥感に駆られた。
「秋房くん、ごめんね」
と、淀みなく動いていた足が止まった。
どうして僕は秋房くんに謝ったんだろう。何かしていたっけ。いや、でも謝らなくちゃいけないことがあったようなそんな気がする。
顔は秋房くんの背中ばかりを見て、秋房くんは一言も返してはくれない。怒っているんだろうか。恨んでいるんだろうか。嫌な妄想がどんどん溢れ出て来るあたり、僕は今日も元気で朔太郎なのだろうけれども。
「さくたろう」
秋房くんが笑っている。僕は悟る。
ああ、そっか。もう許してもらえないんだ。
てのひらのうえ ロセ @rose_kawata
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