第3話

 その夏、僕は集まりで祖父の家を訪ねていた。けど親戚の大人たちがいる場所じゃ耳がついた漬物石みたいにならなくちゃいけないのが辛くなって、僕は人気のない廊下に逃げ、そこで庭を眺め見ていた。

 庭には、夏みかんの木が植えてあり、ちょうど今その周りを黒い蝶が飛び回っていた。蝶は翅の表面を空に撒き散らした星光のように細かに光らせ、細い枝ぶりに実った蜜柑の皮の向こうから漂う甘酸っぱい香りにひらひらと踊っている。

 頭は視覚から得たその情報を取り込むと無言でこの間捲った図鑑の一頁、一頁を記憶が仕舞われた抽斗から取り出した。さもそれが必要なんだろうと言いたげに。

 その時、ぎしりと年季の入った床板が軋んだ。廊下の突当りに僕と同じ年くらいの男の子が立っていた。

 秋房くんだ。以前、家に泊まりに来たことがある従兄はすこし困った風にはにかんだ。

「何してるの?」

 僕は庭で飛んでいる蝶を指さした。秋房くんは庭の蝶を見て、虫が好きなのと尋ねた。

「どっちでもない」

 ぽそぽそと話すと、従兄は律儀に「そう」と相槌を打ち、そのまま夏の光をまんべんなく浴びる庭を遠い目で見つめている。

 またこの従兄は意識を遠くに飛ばしているんだろう。

 どうしてそんなことをするのか、僕にはまったく分からない。だってこの従兄は僕と違って、大人たちから良く褒められるし、ほかの従兄弟たちとだって仲がいい。それに自分のお父さんとだって何の躊躇いもせずに会話が出来る。

 秋房くんは僕が持っていないものややりたいことを全部持っていた。

 それなのにどうしてか、彼は鉄格子がはめられ、外界に夢を抱く囚人のようなそんな遠さを目に宿す。

 贅沢だ。とても。

 巧妙に張り巡らせられた嫉妬に言葉が絡んだ。膝の上に顎を乗せつつ、僕は意識の沈んだ従兄を見る。

 けど悪い人じゃない。だから醜い嫉妬をぽこんと膿んだ後でも、早く戻って来てくれないかなと思う。秋房くんの意識が浮かび上がるまでにかかる時間は日増しに遅くなっていく。だから時々、不安だ。

 いつかそのまま風景と一つになって溶け込んでしまって、そのまま帰って来てくれないような。そんな気がして。

 しかし観察者である僕は傍観者でもあった。傍観者に人助けは無理な話だ。

「さくたろうくん」

 名前を呼ばれて顔を上げると、従兄は年にそぐわない寂しい顔をしていた。

「みそらちゃんたちがかくれんぼするらしいんだけど、一緒に遊ばない?」

「……、いい」

「どうして?」

 聞かれたって答えられない。僕だって分からないんだ。

 初めて会ったばかりで、年も一つか二つしか変わらない。同じ子ども相手にこうも憶病になる理由を僕は自分のことなのに知らない。

「さくたろうくん」

 振り返ってその後、従兄は僕に何を言っただろうか。


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 ウォオオン。

 犬の遠吠えが耳をつんざいて、僕は目を覚ました。首筋にべっとりと張り付いた汗が嫌に気持ちが悪い。おまけに僕は畳の上で眠っていたらしく背中が痛かった。

 微睡んだ意識のまま、外を見ると眩い光が向こう一体に降り注いでいる。今年は暑さが長引きそう。そうごちつつ、額に手を当てていると急かすようにまたウォオンと遠吠えが聞こえた。

 今の声、どこかで聞いたことなかったっけ。頭は鈍い意識とは違い、的確な答えを出した。

 宇宙人で、秋房くんの妹という立ち位置になっていて、白髪に柘榴のような赤い目の少女――そうだ、伏だ。

 僕はすくりと立ち上がって廊下へと出た。右と左、どちらに進むべきか迷っていると伏が鳴く声が聞こえた。すかさず僕はその声がどこからか聞こえたのかを判断して、そちらへと進んだ。

 家の中はひっそりと静まり返っていて気味が悪かった。その内、首の後ろを流れていた汗が冷たくなって来て本当に嫌になって来た。

 何かあったんだろうか。もしも何かあったとしてそれは一体……。

 そう考えて、ふと足が止まった。どうして僕は何かあったんだろうか、なんて他人事みたいなことを言うんだろう。

 祖父は長く床に臥せっていて、今年で最後かもしれないと秋房くんだって言っていたじゃないか。

 「お父さん」と切羽つまった声が分厚い意識の向こうから響いて来た。僕ははっとして、中途半端に開け放たれている仕切りの中を覗いた。

 伯父と伯母、叔父の三人が上座に敷かれた布団に向かって、お父さんと繰り返し繰り返し呼び続けている。緊迫とした場の雰囲気に当てられ、僕も祖父の元まで駆け寄らなくてはいけないような気がした。

 が、それを実行に移すことは出来ない。大人たちが作り上げつつある悲愴さを異物がまるで駄目にしていたからだ。

 そう、従兄が妹だと偽って僕に紹介した宇宙人――もとい、伏が。

 あの子は何食わぬ顔をして大人たちに混じり、昨日と同じく祖父の顔を眺めていた。指摘しようにも、その姿が見える人は限られている。

 僕は溜め息を吐きかけて、その場の状態を思い出し止めた。俯きがちにしたまま部屋を見渡していると壁際に座って事を見守っていたみそらちゃんと目が合った。彼女は僕に気が付くなり何故かほっとした顔をして、片方の手を上下に振った。

 僕はそれにぎくりとし、助けを求めて秋房くんに視線を投げた。しかし彼は映画に浸る客のように目の前で広げられる一幕を傍観している。

 退路を断たれた僕は部屋に幕のように下りているほの暗さに二の足を踏んだ。本音を言うなら、僕はこの重たい場所から一刻も早く離れたかった。さもないと実体のない重石は僕を遠慮なく潰しにかかるだろう。

 うじうじとしていると、喜一伯父が顔を上げた。眼鏡をかけた奥にある目はいつも以上に細く、疲労と悲痛とが綺麗に渦を巻いていた。それは赤黒く、今にも伯父を慟哭の鬼にでもさせそうだ。そう思っていた時、伯父の目にあった渦が一瞬で消えたのだ。すとん、と。まるで憑き物が落ちたかのように。

「袖乃」

 その名前に振り返る。ひとり葬式を終えたような仏頂面をした母が廊下に立っていた。母は視線を部屋の中へと投げて、口を開けたままの僕を置いてその中に入って行った。

 視線が母へと集められる中、秋房くんは静まり返った部屋をゆっくり見渡し、僕と目を合わせ疲れ切った表情にかすかな笑みを作って見せた。

 僕はようやくほっとし、秋房くんの隣に行こうと足を踏み出した。

「朔太郎」

 祖父が横たわる布団の横に腰を落ち着けた母が僕もそこへ来るよう目で示していた。母と秋房くんを見比べていると秋房くんが顎をしゃくった。行きな、という意味だ。

 僕は傍観者面を決め込むことを諦め、母の隣に座った。ちらちらと視界に入るのは、たった半時で更に肉を削ぎ落とした祖父の顔だった。

 祖父が生きているのか、骸骨が生きているのか、もう分からない顔だった。ああ、これは長くないな。そう無情にも思えるほどには。

 視界の端で人影が動く。伯父たちが無言で部屋の後ろに下がったのだ。それは僕と母にも祖父と話す時間を作ろうという姿勢だったのだろうけど、その一方で祖父はもう助からないとそう暗に言っているようだった。

 僕はそっと母の顔を覗き見た。同じ場所にいても僕と母とじゃ、祖父の死の受け止め方は僕と母ではまるで違う。ひょっとしたら母も伯父たちと同じように悲しんでいるかもしれない。そんな淡い『期待』さえ抱いた。しかし母の顔に浮かべられていたのは、父親の死にすら興味の欠片もないと言いたげな冷めた色だった。その顔を見た瞬間にやっぱりかと納得するよりも前に、どうしてだろうかと虚無めいた無力感が胸の内に訪れる。前のめりになっていく視界に赤い色が提灯の火のように過る。

 伏が熱っぽさすら感じる目で死が覆い被さろうとしている祖父を見つめている。人の死に興味があるんだろうか。だとしたら、それはあまりよくない兆候だけれど。

「……、……ぁ、……」

 途切れ途切れの呼吸を必死に繋ごうとする祖父は虫によく似ていた。こと切れる瞬間があっという間の虫に。仮にも祖父を貶めるようなことを頭の端で思っていると、窪んだ眼窩の底にある黒が影を捉えた。

「……そ、……、……の」

 喉の奥から絞り出された単語を拾い上げ、僕は母を見る。母の目はいつにも増して冷たかった。枯れた祖父の手がゆらゆら揺れ動く。いつかの蝶のようだった。その手が何を探しているのか、僕には分かる。いや、誰にだってわかり得たことだ。

 その手は、祖父は母を探していた。隣にいる母を探して、これから死ぬ父に一言も言わない娘を探していた。

 でも祖父の願いは叶わないだろう。母はその手を掴まない。いや掴まないだけならまだいい。もしかするとその手を叩き落としてしまうかもしれない。

 成り行きを見守っていると、母は僕の杞憂を消し去るような柔らかな手つきで空で徘徊する枯れた手を握ったのだ。僕は目を丸くした。祖父は今まで見たことのない晴れやかな笑みを娘から向けられ、涙をひっそりと零している。感動的な場面だ。だけど僕は全てを受け入れられなかった。

 だって僕は団にいる間、この人の隣にずっといた。この人の隣に座って、この人に来るものすべてを僕が代替わりして、それからこの人が鋭く放つ矢のような感情をずっと見て来た。なのに、母はそれが全部嘘だったというような顔をして、祖父と接している。悪い夢のようだった。

 祖父は優しい目をくれる娘に感極まった様子で、母の名前を繰り返した。母は笑みを深めて、そっと祖父の耳元に口を近づけ短い言葉を囁く。母の声が祖父の耳朶を揺らし、言葉が脳へと辿り付いた時、祖父の目が急に光を失った。

 母はにっこりとほほ笑んだまま、祖父の手を包んだ手を離す。そうして兄弟たちがいる後ろに歩いて行ってしまった。訳が分からないまま僕は母に続こうとしたが、ぐっと身体が布団の方に引き寄せられた。驚くほど強い力だった。

 祖父はひゅうひゅうと喉を鳴らしながら生暖かい息を僕の耳に注いだ。

「すまなかった、そでの」

 衰えた姿が嘘のように、祖父の一瞬ははっきりとしていた。けど最後の最後で、祖父はその言葉を言う相手を間違えた。僕が祖父の口元から顔を上げた時、祖父の魂はもう旅立った後だった。

 硬直する僕の目の内を伏がうろついてあの軽い足取りで下がって行く。彼女が向かった先は秋房くんのところだった。伏はすとんとその場に座るなり、自分の口の横を両手で隠し秋房くんに何かを告げている。そっと伏が秋房くんの耳から離れて行く時、彼はまた遠くを見ていた。


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 夕方になりすこし落ち着き始めた頃、葬式の話が場に持ち上がった。

 訃報を伝えるにしても、職柄が職柄であったことから知らせる人も多い。加えて家長がいなくなったのだから、葬式自体しめやかに、そして壮大に送らなくてはいけない。 

 大人たちがあれこれ話す中でも僕の母と暁くんの姿はなかった。あれから母は自分の部屋に篭ったし、暁くんは朝からずっと見当たらないままだったが、大人たちが彼の心配をする様子はない。そして僕も彼の心配はしていなかった。なんて薄情な身内だろうか。

 膝の上で作った拳に視線を落としつつ、考えたのは祖父の最後だった。祖父は最後に謝罪の言葉を残した。それも送られたのは、僕の母だ。伝えなくてはと思いつつも、今の母はどうしようもなく近寄りがたかった。

 誰かに相談をとも考えたけど、昔からの話し相手は今、大人たちの輪に加わってそれどころじゃなさそうだった。これが本来、いや、これからの姿なのだろうとは思う。みんなが自然と団の跡継ぎに、秋房くんを据えようと思っている。これはそういう答えが導き出された結果なのだ。僕はそこに何ら異議はないし、僕も秋房くんが相応しいと考えているから不満はない。でも何かが決定的にまずい気がしていた。

「それで先生とは連絡がついたのか?」

「えぇ。明日、こちらにいらしてくれるって」

 哀子伯母が目元をハンカチで拭いながら答える。

「先生が来てくれると助かるけど……、一気に現実味が出て来るな。こうも夢みたいなのに」

 胡坐をかいて座っている楽弐叔父は畳に視線を移した。

「あたしだって同じですよ」

「……。兄弟全員で見送ってやれなかったことは親不孝だったが、せめて葬式くらいは全員で見送ってやろう」

「そうね、……。それが最後に出来る、親不孝ってものよね」

「兄貴も崇くんも驚くだろうな」

 哀子伯母はそうねと相槌を打って、僕とみそらちゃんに赤くなった目をして笑いかけた。

「みそらちゃん、朔太郎くん。お休みだけどこれから忙しくなるから、二人とも手伝ってね」

 みそらちゃんは暗い顔のまま、こくりと頷く。伯母は満足そうに微笑み、僕に視線を移そうとした。が、その目は僕に向かず、廊下へと向けられた。僕も顔をそちらに動かすと、廊下には母が立っていた。

 いつも以上に表情が殺された顔を浮かべたまま母は部屋に入るなり、迷わず喜一伯父の前に座る。みんなが一様に母の行動に固唾を飲む中、母はその手に持っていた物を伯父の前に出した。

 その瞬間に、喜一伯父と楽弐叔父は目を点にさせた。喜一伯父はごくりと喉を鳴らし、尋ねる。

「袖乃、これは何だ?」

「見ての通りのものよ」

 母の言葉に、楽弐叔父が呟く。

「見ての通りって……。袖乃ちゃん、これ絶縁状じゃないか」

「絶縁状?!」

 哀子伯母は血相を変えて、母が畳の上に置いた書状をまじまじと見た。

「本気なの、袖乃ちゃん」

「お兄さん、認めてくれるでしょう?」

「認められるか、こんなもの! だいたいお前はどうして親父が死んでこれからって時にこんなものを……!」

 姉の窺うような声を無視して続ける母に、伯父は怒鳴った。

「違うわ」

「何が違う? 何が間違えているっていうんだ?!」

「私はあの人がやっと死んだから、この家から縁を切るの」

 場の空気がその一言で瞬間的に凍てつく。

「親父が死んだから縁を切るだと……?」

「話はちゃんとつけたわ」

「話っていつのことなの? お父さん、そんな大事な話、私たちには一言も……」

 狼狽える哀子伯母の顔を見ずに、母は歯切れよく言った。

「暇が無かったんでしょう。最後に言ったから」

 最後。母は今、最後と言っただろうか。あの時、祖父は残り少なになった自分の一生の終わりに優しい娘を見ていた筈だ。しかしその時、母が祖父に零したのは団の家ときっぱり縁を切る為の話だという。

 もしそれが本当なら、祖父は心残りを持ったまま逝ったはずだ。そして母は祖父にそうさせる為に、安穏としたまま逝かせることを許さない為に、あんなにも優しい笑みを作ったのか。

 僕の母はどうしてそこまで祖父を嫌うんだろう。どうしてそこまで、鬼になりたがるんだ。

「ふざけるなっ!」

 喜一伯父が吠えた。荒く肩で息をしながら、眼鏡の向こうにある鋭い目で母を睨んだ。

「お前に何の権利があって親父の最後をそうした! これじゃあ親父は浮かばれないじゃないか」

「待てよ、兄貴」

 楽弐叔父が今にも掴みかかりそうな喜一伯父の腕を掴み、百面相する顔を母に向ける。

「袖乃ちゃん、冗談だろう? ほんとは親父に何も言わなかったし、そりゃ言っていいジョークじゃないけどさ。なんていうか、……、嘘なんだよね?」

「認めてくれるの、認めてくれないの?」

 パン、とビニール袋が破裂するような乾いた音がした。喜一伯父が母の頬を叩いたのだ。伯父は困惑しきった顔で、母の頬を叩いた後の姿のまま動けずにいた。

 母は涙ぐむことも、この部屋から出て行くこともせず、思わず取ってしまったと言わんばかりに自分の手を見る喜一伯父を真っ直ぐ見た。

「お兄さんはいつもそうね。家族のことを一番に考えて、お父さんのことをいつも敬って、目につく些細なことを気にも留めない。盲目なお兄さん」

 背だけしか見えない母がかすかに笑ったような気がした。

「お兄さんはずっと私が反抗期のまま、我儘に育っていると思っているんでしょう。いいえ、お兄さんだけじゃないわね。みんな、そう。団の人、みんなそう思っているんでしょう」

 問いかけに応じる声はなく、それが母の無口を饒舌へと変えた。

「いい大人が何時までも反抗期だっていうの? 馬鹿みたいよ、そんなの馬鹿みたい。いい、何事にも理由とそうなった原因があるの。子どもだって理由がなくちゃ、ずっとそのままでいることはないのよ」

「…………」

 母は座ったまま喜一伯父を圧で制し、肩を揺らした。

「どうせあの人から聞いていなかったでしょうから、私が教えてあげる。私が何にずっと怒って来たのか、どうしてこんなものを出したのか」

 挟みこまれた間を、蝉の鳴き声が響く日常が補った。僕はそれを異常だと思った。とてつもなく醜悪な異常だと。

「私、崇くんとおんなじなのよ」

 喜一伯父は目を丸くし、哀子伯母は口を手で隠し、楽弐叔父は「え」と声を上げた。僕は栓の抜かれたラムネのように頭の中が飽和して行く感覚を覚えた。

「妾の子どもよ、私」

「なっ、……。親父はそんなこと一言も」

「悪いことをしている自覚があったから言わなかったんでしょう」

 正論に喜一伯父は口を閉じた。

「本当にふざけた人。お金もあって、地位もあって、妻もいた癖に足りなくって、知らない女と遊んで子どもを作って。その挙句、母親から子どもを取り上げる最低最悪な男」

「……、袖乃まさかお前」

 掘立小屋のような粗末な謎が解かれた。誰でもない母の手によって。

「ちっとも分からなかったでしょう、お兄さん。当たり前よね、お兄さんは私を妹だと思っていたんだから。血が繋がっている妹だと思い込んで、構って構って家族の輪に入れようとしてくれたわ。けど、そんなの必要なかったのよ。私も崇くんみたいに扱えば良かったのよ。腫れものみたいに、空気みたいに、幽霊みたいに扱って良かったのよ。私だって半分しか血が繋がっていない兄弟なんて願い下げだった。そんな中途半端な家族よりも、本当の母さんと過ごせるだけで私は満ち足りていたのに」

 また間が挟まれた。恐ろしい間が。

「あの男は半端な父親面を下げて、私の人生を滅茶苦茶にした」

 喜一伯父は喉奥から声を振り絞ろうとしている。哀子伯母は顔を畳に向けたままで、楽弐叔父は細い顔の額を抑え続けている。

 みそらちゃんは困惑しきった様子で、大人たちのすぐそばにいる秋房くんは大きく目を見開いていた。

「お前の、お母さんは」

 伯父がやっとの思いで紡いだ声を母は鼻で笑った。

「もう死んじゃった」

 痛烈な一打だった。けれども、その一打はそれだけにとどまらなかった。母は綺麗な動作で立ち上がり、頭一つ分の身長差しかない兄を、いいや異母兄に強烈な真実を放った。

「お母さんの最後、私は看取ることさえさせて貰えなかった。お母さんは私が団の家に取られた後も、何度も何度も私を返して欲しいって頼みに来てた。けどそれをあの男は許さなかった。母はひとりで病んだわ。病んだら、男は可哀想だって言って自分の知人が経営している病院に母を入院させて、目の届くところに置いたの。でもね、お医者様に診て貰っても母の病は治らなかったわ。どうしてか分かる、お兄さん?」

 楽しそうな母の声がざくり、ざくりと僕のどこかを滅多刺して行く。数人の異母兄弟たちは恐怖したような顔で母を見ていた。

「私のお母さんは私と会えなくて病になったのよ。縋っても誰も助けてくれなくて病を拗らせたの。ねえ、お兄さん。どうして私たちのお父さんは私のお母さんをこんな目にあわせたの? どうして私に最後、お母さんと会わせてくれなかったの? どうしてお墓の場所を教えてくれなかったの? どうして見殺しにするのに愛したの?」

 誰も何も答えなかった。答えなければいけない人は今日死んだ。だが、祖父が今日死ななくても母は話し合いを求めなかっただろう。母はなあなあにされ続けている祖父の悪行をこの兄弟たちにも知らしめたかったのだ。

「お兄さん、私はもう十分に我慢したの。だからもう縁を切らせて、あんな男の子どもだって忘れさせて」

「……、袖乃」

 曇った声で喜一伯父は母の名を呼んだ。

「忘れないでね、このこと。それからもうこの家の中にいれようとしないで。私は団の子じゃないから」

 母はくるりと振り返ると、その晴れやかな笑みを僕へと向けた。

「朔太郎、帰りましょう」

 母は僕の返事を待たずに、部屋から出た。僕は助けを求めるように周囲を見たけど、誰も彼もが途方に暮れたような顔をしていた。

 そんな中、秋房くんがすくりと立ち上がった。助かったと安堵するのも束の間で、秋房くんは僕の前を通り過ぎた。伏はその場で小首を傾げた後、彼の後に続いて行った。

 いたたまれなくなった僕は立ち上がって去り際、小さく頭を下げその部屋を後にした。


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 僕が部屋に辿り着いた時、母は荷物を纏め終わった後だった。

「先に玄関で待っているから、忘れ物をしないようにね」

「……、分かった」

 母はそれだけを言うと少ない荷物を片手に廊下へと出た。その間、僕は何も言えなかった。

 少しの不満を雰囲気に溶かして部屋を改めて見ると、机の上にオレンジ色の習字道具鞄が忘れられていることに気付いた。僕は慌てて机から鞄を取り上げ、母を追いかけた。

「母さん!」ゆるゆると振り返った母の肩先で、黒い髪がさらりと落ちて行く。僕が前に出した鞄を母は目に留め、機嫌がいいのか悪いのか見当がつかない顔を浮かべた。

「いいわ、それ」

「いいって、あんなに毎日書いてたのに?」

「好きも嫌いもないのよ。字が汚くて読めない。文章がおかしい。意味が分からない。そうイチャモンをつけられて認めれることを認められないものにされることが嫌だったから、私は続けただけ」

 母はこの何十年と、ただ団の家との縁を切る為だけに気力を費やしてきたのだとそう考えただけでぞっとした。認めるしかなかった。僕の母はずっと赤く黒い炎に身を焼くと同時に、その炎に生かされて来た。母が分からない。自分を生んだこの人が分からない。

「いいのよ、朔太郎。もうここに帰る理由なんて一つもないし、ここに繋がるものは全部ここに置いていくの。捨てて行くのよ」

 取りに戻ることが出来ないそれはまるで過去のように思えた。

「母さんは、何を拾いたかったの」

「さあ、何だったかしら」

 乾いた笑みを浮かべ、母が尋ねる。

「朔太郎はどうしたい?」

「どうしたいって?」

「団でいたい? それとも柚川になる?」

「……、それは」

 僕が生まれて来る前に相談されなきゃいけない話だ。いや、出来るか出来ないかで言えばそれは出来ないからこそ今なのかもしれない。だけど今でもなかった。

 鶏が先か、卵が先か。そんな哲学をしている場合じゃないのに。

 自然と手に力が込められて行く。「さくたろう」今にも死んでしまいそうなか弱い生きもの声がした。見れば、伏が身体の半分を障子に隠してこちらの様子を窺っていた。

 僕は困って、母と伏と交互に目を配らせた。

「荷物を纏めたらいらっしゃい」

 井戸に投げ込まれた石のように母の声が反響し、離れて行く。「忘れもの、しないようにね」

 そう締めくくって母は廊下の向こうへと急いだ。僕がその後ろ背をじっと見ていると、軽くシャツの袖が引かれる。

「どうしたの?」

「あきふさ」

「秋房くん?」

「こっち向いてくれない」

「……、そう」

「どうして?」

「どうして、って」

 感情なんて数式以上に怪奇だ。そうぼやいて、僕は自分の立ち位置を振り返った。

 母は半ば強引に団の家との縁を断ち切ったけど、秋房くんと目の前にいる宇宙人との縁は繋がったままだ。おまけに、彼の宇宙旅行計画は頓挫もしていない。

 そうなるとこの現状はまずいとしか言いようがない。秋房くんが宇宙を漫遊するその間、いったい誰がこの宇宙人の面倒を見ると言うんだろう。僕は目の前の大きな問題に立ちくらみを起こしそうになった。

 ……、伏には悪いけどやっぱりあるべきところへ帰って貰わなくちゃだめだ。秋房くんにもそう説得してみよう。

 硬く瞑った瞼を開けて、僕は伏を誘う。

「おいで、伏」

 呼ばれた彼女はきょとんと目を丸くさせた。が、すぐに軽やかなあの足取りで僕の隣に来ると僕の次を待っている。僕は伏を伴って、秋房くんの部屋に向かい歩き始めた。


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 目の奥を突き刺すような橙色の光に涙を零しそうになった。あの灰汁のような感情が噴き出し零れた後の家は不気味なくらいに静まり返っていた。

 慣れた道を進んで、秋房くんが使っていた部屋の前までやって来るとそれは一層深まった。

 生唾を飲み、十を数え、僕は部屋に入った。従兄は頬杖をつき、開け放たれた窓の向こうに意識を縫い止めていた。

「秋房くん」

 声をかけても面を上げない従兄に、彼がまた辛いのだと僕は知る。それもそうだろう。祖父が死んで、いよいよ団の跡目が誰になるのか決められるんだから。ぼやいていれば、「おきた」と伏の驚く声が耳に入る。

「どうかした?」

 すこし間を置かれてからの問に、僕の決意はたわんだ縫い口のように緩んだ。迷ってばかりじゃ何も決められないのに。昔を繰り返さないように、と穴倉から声高に叫ぶ僕がいる。

「秋房くん、やっぱり伏には宇宙に帰って貰おうよ」

「……、なんで?」

「なんでって……、だって僕」

 もう団じゃなくなったから。この場所から完全に席を消す権限を僕は貰ったのに、言えなかった。そうして躊躇っている間に、頭がこんな質問をしてきた。

『半分は、団なのに?』

 ああ、その通りだ! なんて矛盾だろう。名前は簡単に捨てられるのに、体の中に流れる血をすべて抜くことは出来ない。だったら、団を止めることなんて不可能そのものだ。

 なのに、僕はもう団ではない。団の人間じゃなくなったんだ。

 弾き出された結論に浸っていると、枯れた笑いが耳朶を打った。見れば、秋房くんが面白おかしそうに肩を揺らしている。

「いいじゃないか、もう考えなくたって。お前は団の家と関係なくなったんだ。から。逃げれたんだよ、団から」

「逃げれた?」

「そうだろ? 朔太郎、お前のその親戚嫌いはさ、叔母さんの代わりにあの人たちの無神経な針のむしろに座らされた結果だよ。いつも見てたのにな、今日の今日まで気付かなかったよ。でもそれくらいあの人たちは普段からそういうことをしていたってことだな。結局、同じところに落ち着く癖に」

 僕はどれも否定出来なかった。事実そうだった。

 なにせ親戚の大人たちはいつも母を語りながら、嵐が過ぎ去るのを待つように大人しくしている僕を見ていた。

 お前もそうなるんだろうな、と言いたげに。

 何度、違うと言いたかったか。母はそう悪い人じゃないと叫びたかったか。だけど僕にはその度胸も資格もなかったのだ。

 試しもせず、僕はいつも堪えることを選んだ。いつかは終わると信じていたからだ。でも僕の拙い予想は綺麗に外れて、いつもはずっと続いた。

 苦しかないそれは罰そのものだった。

「あの人たちとも今日で縁が切れるなんて羨ましいよ。俺はここに置き去りのままだ」

「……、秋房くんは逃げたいの?」

 秋房くんはきょとんとし、次に真面目な顔を浮かべた。

「沈む船に置き去りにされたまま逃げないかどうか一生監視され続けて、逃げたら逃げたで悪く言われるようなところにずっといたいって思う奴がいると思う? 文句が言われなくなるのは完全に船が沈没するまで、いいや沈没したって続くだろうな。あの人たちは海の底で永眠することが誇らしいと信じている人たちだから。……もうお前には関係ないことだけど」

 少しずつ僕との距離を空けて行く従兄の顔からは表情が消え去っていた。

「伏は宇宙には帰さないし、宇宙に行くことを止めるつもりもないよ」

 どうしてそこまで宇宙に拘るのか。その理由が知りたい。のに、同じ轍を踏むことの方が恐ろしかった。

「俺はね、朔太郎。お前になら別に負けたって良かったんだ。俺が負けたことも認めて、それでも勝てないって思うのはお前だけだったから。だけどお前も俺を追い込むんだな」

「……、僕が秋房くんに勝ったことなんてないよ」

「見え透いた嘘つくなよ、朔。お前が俺に負けた試しなんてない癖に」

 口ごもる僕に、秋房くんは微笑みかけた。

「お前はやっぱり優しいな」

 従兄弟は机の前から腰を上げ僕の前に来ると障子に両手をかけ、するすると閉め始めた。

「お前はもう団じゃない。だからお祖父ちゃんの影に脅かされることも、団の人柱にだってならなくたっていいんだよ」

「秋房くん」

 彼はくたりと疲れたように笑った。

「ばいばい、朔太郎」

 薄っぺらな障子が今までに見たどんな壁よりも強固に映った。


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 鉄網の上で肉がじゅうじゅうと香ばしい音を立てながら焼かれている。周りからは癇に障る笑い声が絶えず聞こえた。

 団の家を帰る途中、母は何を思ったのか道の途中にあった焼肉屋でタクシーを止めた。

 夕飯を食べ損ねたから。母はそう言うけども、肉を頬張る元気はないし、身内が亡くなったばかりなのに焼肉というのはどうにも不謹慎だと思えてしょうがなかった。結果、赤黒いタレが入った皿には何十分も前に焼かれた肉がずっと浸かっている。

 目の前で炙られ、焼かれて行く肉を見ながらお祖父ちゃんもこうなるのかとふと思う。…………、やっぱり不謹慎だ。ようやくのことで僕は箸を取り、タレの味を吸い込んだ肉の端をかじった。

 不思議なくらい味がしない。箸を置いて母の方を見るが、母の箸は僕とは対照的によく動き、焼いては食べを繰り返し大皿に盛られた肉を一人で片付けている。母のそれはすべてが終わったことから来る開放感からなのだろうか。ただ黙々と箸は動いた。

 ……、またお祖父ちゃんのことを考えそうになった。肉からも、箸からも、人のことを考えられない笑い声からも遠ざかりたい。でないと僕が狂う。

 しょうがなしに大きなガラス窓を見つめていると、「喧嘩でもしたの」と母が問うた。僕は答えなかった。あれは喧嘩じゃない。喧嘩ってものはお互い思うところがあって、言いたいことを言いあって、最後にはすっきりしている。そんなことのはずだ。だったら、あれは秋房くんの独演だった。僕という観客がいただけの独演。

 しかしそれが分かっても気分は滅入って行く。窓の向こう側を覆う暗闇に意識を同化させていると、ふっと人影が映り込んだ。

「食わねえなら、無駄に上等な肉焼いてんじゃねえよ」

 鼓膜を伝って、響く声に振り返る。ほぼ一日ぶりになる暁くんがヘルメットを片手に立っていた。母は暁くんを一瞥し、僕の隣を指さした。

「座ったら?」

「肉、食っていい?」

「好きになさい」

 暁くんはそのまま空席だった僕の隣に腰を下ろすと、無言で僕にヘルメットを渡してきた。置け、ってことか。いまいち釈然としないものの、僕は文句を零すこともなくヘルメットを窓枠の上に乗せた。僕が顔を元の位置に戻す頃には、暁くんは割り箸を綺麗に真っ二つに割り終え、鉄板の上から肉をかっさらっているところだった。

「で、あの家何があったわけ?」

「団さんが亡くなられたのよ」

「なにその他人行儀」

「他人だから当然よ」

「……ああ、伯母さんも親父と一緒なわけね」

「崇くんとも一緒じゃないわ。もう縁も切ったから」

 母の言葉に暁くんは眉ひとつ寄せず、明るくいう。

「相変わらず伯母さんは親父には一生かかっても出来なさそうなことをするのが上手いな」

「そうね……。崇くんはあの家との縁を切ったりはしないわね」

 同調するように、けれどもきっぱりとしたその口調に暁くんは母をねめつけた。

「酒に飲まれたら恨み節しか吐かないやつが? 伯母さんも親父のことを善人か何かと勘違いしてんじゃないの。親父はそんなにいい人間じゃねえよ」

「私は崇くんのことを善人だと思ったことはないわ」

 驚く僕の横で、「そうだろう」と頷く暁くんの顔は強張っていた。

「けど悪人でもない。団の人たちと一緒よ。善人でもなければ、悪人でもない。古風な慣習を水にして今まで生きてきた人たちなだけ」

「……、親父もあいつらと一緒だって言いたいの?」

「そうよ」

 勢いをつけて暁くんは立ち上がった。その際、椅子の足が床を削ぐような音を立てた為に、他の客の視線がこちらを向く。僕はずらっと向けられる無数の目にびくりとし、その一つ一つから逃げるようにそろそろと視線を離した。

 そうしてテーブルの隅で小さくなれれば完璧だった。けどその時、僕は暁くんと目があってしまった。彼はふっと僕から顔を反らし、唇を一文字に縛って僕を指さした。

「じゃあ、こいつは? 伯母さんはこいつのこと、どう思っている訳?」

 僕は暁くんを見上げた。彼の目の奥は暗かった。

「どう、って?」

「どう? ふざけた返ししてんじゃねえよ、こうも一目瞭然だろうが」

 暁くんは横から見ても細い体を前に倒し、野性の獣が迂闊に入り込んできた侵入者を威嚇するように犬歯をむき出しにした。

「ご高説垂れてくれたけど、あんたも本質的に団の家の連中と何も変わらねえよ。善人でも悪人でもねえ代わりに、あんたら団の大人は親として成り損なってるんだ。その癖に、自分では大人だって思い込んでやがる。タチが悪いよ。それで俺たちがどれだけ割に食わない思いをしてきたか、知らねえフリしてる人間は楽でいいよな!」

 どん!と暁くんはテーブルを叩いた。周囲がざわつく。一番近くにいた僕でさえ椅子からひっくり返りそうになった。だのに、母は真っ直ぐに暁くんを見返していた。

「それは、私に言いたいこと?」

 そう尋ね返した瞬間、暁くんは硬直した。

「……、そうだよ。あんたにも、親父にも言いたいことだよ。親の癖に自分のことばっかりで頭がいっぱいになって、こっちのことなんかまるで頭にない。どうせ子どもなら分かってくれるとかそんな甘く考えてんだろ。ざけんなよ、こっちがどれだけあの連中から嫌味言われ続けて来たか……。言われなくてもいいもん貰い続けて、憎まれ役になってきたか、あんたたちは分かってないだろ!」

 声を振り絞りながら拳を握りしめる暁くんと僕が置かれた境遇はひどく似ていて、思うところはまるで違っていた。僕はどうしたって母が恨めなかった。

 母親だからという理由もあるけど、僕は知っている。子どもだから知っている。母は悪い人じゃない。母は今日と同じように逃げるように団の家から帰った翌日の朝、こう言ったのだ。

――お母さんはそれだけでもう、幸せ。

 復讐ばかりに身を焦がし、孤独な時を費やして来た人の願ってくれた言葉が僕には息づいていた。

「暁くん、もういいよ」

「……、あ?」

 ドスのきいた声に目を瞑りたくて、耳を塞ぎたくて、布団の中に潜り込みたかった。意識は現実から離れながらも目だけは暁くんを見ていた。

「もう、いいから。僕はもういいから……、だから母さんを責めないで」

 暁くんはぽかんとしていた。が次の瞬間、喉が手で締められているみたいに苦しくなった。暁くんにシャツの襟首を掴まれていたのだ。

 また他の客がざわつく声が聞こえる。暁くんは……、悔しそうだった。

「あの……、お客様」

 聞いたこともない声が恐る恐る、という風にかけられる。店員が騒ぎを聞きつけてやって来たのだろう。

「暁くん」

 ダメ押しのように母からも声がかかった。暁くんはちっと舌打ちをし、僕のシャツを離した。やっと息が出来るようになった僕はふうふうと息を吸っては吐きながら呼吸を整える。呼吸が楽になって前を見れば、暁くんの目がこちらを見ていた。

「な、……なに?」

「お前はこの先もそうやって許して生きて行くつもりか」

「…………」

「ダンマリか。本当に金魚の糞だな。秋房がいないと何にも喋らない、動こうともしない」

 暁くんは正しく僕の急所を刺して行く。

「いいか、ものぐさ三年寝太郎。いくら秋房が人のいい顔で何でもかんでも受けてくれてもな、あいつはお前の母ちゃんじゃないんだ。ましてや俺の親父でもねえ。一、二歳、年が違うだけの俺たちとおんなじガキなんだよ」

 急所に刺さる言葉たちは僕に何かを分からせようとしていた。それは分かる。でもどうしたって答えが見つからない。いつだって答えはすぐに取り出せて、見つかるものなのに。

 というかこんな時、暁くんはもっと言葉を選ばず、あけすけと物を言って来そうなのに。……ああ、そうか。この回りくどさは躊躇いだ。躊躇いという暁くんの優しさだ。そして親切に誰も言おうとしないことを憎まれを買いながら言うこともまたそうなのだ。

 言うことが優しさなのか。言わないことが優しさなのか。そんなの誰にだって分からないはずだ。だって誰にも先は見えない。

 でもはっきりと判ることがある。ここで言わなければまた僕は悩み、この先もずっと悩み続ける。秋房くんの時とはまた違う呪縛にがんじがらめになった時、僕はもう一度後悔する。なら、道はもう一つしか残っていない。

 僕は暁くんから母へと視線を移した。

「母さん、お祖父ちゃん謝ってたよ。済まなかったって」

「そう、……」

 瞼を伏せる母に僕は一撃を与えた。

「母さんは僕が大きくなるだけで幸せじゃなかったの?」

 母の目は見開かれ、「それは」と濁った返事が空間を漂う。

「知ってるよ。嘘じゃないって。でもほんとでもなかったね」

「違うわ! それは本当に……!」

 椅子から腰を浮かせた母を僕は見返した。つい一時間前に何十年と兄弟だった人たちを言葉でねじ伏せたその人の目はぐらぐら揺れていた。自分の血と別の誰かの血を交えて出来た僕のせいで。

「今を見てよ、母さん。違うでしょう。そうはなってないでしょう。母さんのそれは『そうなったら良かった』っていう願望だったんだ。母さんは無意識にだったかもしれない。でも母さんは僕とお祖父ちゃんとを天秤にかけて、お祖父ちゃんにいっぱい食わせることの方を選んだ。……僕を後回しにしたんだよ、母さん」

 母は辛い姿勢のまま、「朔太郎」と喉から振り絞った声を出した。願うかのような色を含んだそれに少し心が揺れる。けどそちらを選んだら、何も変わらない。戻るんだ。戻ってしまうんだ。唇を噛み締め、僕は長年溜め続けた思いを吐いた。

「母さんの嘘つき。僕が大きくなっても母さんは幸せにならなかったじゃないか」

 母の顔目からするりと涙が一筋、頬を伝った。

「泣くなよ」

 耳朶を打つ声は暁くんのものだ。

「あんたをそうしたのは糞爺かもしれないけど、この馬鹿をこうしたのは団の連中とあんたなんだから」

「…………、そうね。泣く資格なんか私にはない」

 母が言い聞かせるかのように呟く中、暁くんは器に残っていたご飯をかきこんで両手を合わせる。椅子から腰を上げた彼はヘルメットを取ると「お邪魔様」とこの場から立ち去ろうとした。

「待ちなさい」

 母が彼を止めた。暁くんは何と言いたげに小首を傾げて見せる。母はハンドバッグから財布を取り出し、そこから一万円札を抜き取り暁くんの前に出した。

「賄賂?」

「馬鹿なことを言わないで。どうやって来たのか知らないけど、あなた今日はタクシーで帰りなさい」

「バイクは?」

「夏でも夜は夜よ。運転は控えなさい。同じ日に二人も亡くすことはあの人たちも本意じゃないでしょう」

 強引に一万円札を暁くんに握らせ、母はタクシーを呼んでくるからと席を離れた。

「変な人」

 今にも掻き消えそうな雰囲気すら醸す声を出した人を見れば、彼はぼんやりしていた。秋房くんのようで、彼とは決定的に見ているものの距離が違っていた。僕はほっとした。

「何、にやにやしてんだよ。気持ち悪ぃな」

 遠慮なく懐を突き刺すような彼の態度に顔を伏せると、からかうような声が降ってくる。

「そういや今日からお前、団の奴らと赤の他人なんだろ? 秋房お兄ちゃんとはお別れはしたか?」

「絶対言わない」

「言わなきゃデコピンな」

 さっと僕は額を手で隠した。そんな僕を暁くんはせせら笑う。

「ま、教えてもらわなくても秋房の奴がどんな対応したかなんて分かってるけどな」

「どういう意味?」

「あ? 馬鹿なの、お前? いったい何年、あいつの金魚の糞やってんだよ」

 ぐっと堪える表情を浮かべてみると、「自覚なしが一番嫌いだ」と彼は僕を叩き切った。

「秋房は人間として出来過ぎた部類だろ。俺だったらあのクソ石頭の親父に毎日お小言食らって、黴臭い形式が大好きな連中に勝手な期待押し付けられる時点で家出するね。お前みたいな厄介丸出しの野郎の世話までついてるんだったら、なおさらだ。けど秋房はそういうのも抱えた上で、関わらなくていいはずのその他諸々の世話まで親切にしてやるもんだから余計『いいやつ』が際立つ。そういう奴がお前とどう『円満』に縁を切るかなんて想像しやすいんだよ、アホタロー」

 最後に悪態をつくことを忘れず秋房くんは説明し、「で?」と答えを促した。

――お前はもう団じゃない。だからお祖父ちゃんの影に脅かされることも、団の人柱にだってならなくたっていいんだ。

 秋房くんの吐露が回る。伯父に言われた約束を守り続けて『いい人』を勝ち取り、彼の持っているものを持っていない僕に勝てなかった人が溜めに溜めた感情が言葉になったそれ。

 どうして秋房くんはそれをあの時、言ったんだろう。

 喧嘩だったから? もう関係がなくなってしまうからせいせいして? だから秋房くんは話してくれたんだろうか。

「僕が悪いのかな」

「かな、ってなんだよ。かな、って」

「……、分からないから。秋房くんが僕を買い被ってくれる理由も、どうして今になって話してくれたのかも」

 何で宇宙人を手放さないのかも、と言いかけ、僕は口を噤み、「分からない」と無念たらしく零した。

「知るか、ンなこと」

 らしい回答に安堵し、見た暁くんの目はあのひしゃげた蛙を見る目だった。

「そういや満足か、朔太郎。たく……、こういう役は岳か、秋房がやりゃあいいってのに。なんだってこうも親戚連中はボケばっかりなんだ」

 ぶつくさ言いつつ、暁くんはきっぱり言った。

「はっきり言っておくぞ。金魚の糞。俺はお前が嫌いだ。昔っから大人しくって無害そうな面を装って、大人たちの言うことの一つにも反論が出来ない挙句に、俺やみそら、栗子や岳にまでビビりやがって。情けないったらなかった」

 遠慮を知らない物言いに、頭が上がらない。

「ただな、嫌いなのはお前だけじゃない。俺はみそらも栗子も岳もあの頭でっかちな団の大人も、親父もお前の母ちゃんも秋房も全員大嫌いだ」

「……え?」

「嫌いなんだよ、全部。兎に角、何かがムカつく。生理的に合わない。人間的に破たんしてるんだ、俺は。だから何が悪いかどうかなんて聞かれたって、そんなのお前ら全員が悪いとしか俺は答えられねえんだよ」

「じゃあ、どうしてさっき母さんが暁くんの叔父さんと団の伯父さんたちが一緒だって言ったら怒ったの?」

 暁くんは露骨に嫌そうな表情を顔に下げると、「俺は怒ってない」という。あれが怒ってなかったのなら、何だっていうんだ。

「今年は何だってこうも面倒臭ぇんだよ。糞爺は死ぬし、伯母さんは団の家と縁を切るし、秋房は秋房でらしくねえし。……まあ、いい。ついでだ。朔太郎、これだけは言っておいてやるよ」

 奇抜な容姿になりながらも、その目の向こうにある堅い意思が僕を向く。

「秋房はあのままだと死ぬぞ」

 暁くんの忠告が、いつぞやの夏を射抜いた。

「どうして」自然と声が震えた。

「言ったろ。あいつの恰好はあくまでも『苦にならないっつう顔』なんだ。本心じゃねえんだよ。よほどの狸じゃない限り、自分の意思でないことをずっと続けられると思うか? 俺は思わないね。よしんば続けられたとしても、いつかあいつの方が耐え切れなくなる。感情殺して生きて行けるほど、人間は上手に設計されてないからな。そのこと、お前なら分かるんじゃねえの?」

 きっと暁くんは母のことを言っている。でも僕は秋房くんのあの顔が、現実を見ているようでそのどこをも見ていない顔を思い出した。

 痛いほどに、暁くんの言うことが分かる。確かに秋房くんは耐えている。それに彼はあの優しそうな顔で恨みがましそうにこう言ったのだ。

 俺はここに置き去りのままだ、と。彼は逃げたがっている。お祖父ちゃんの後釜になる為の座席からも、ひょっとしたら自分を取り巻く環境すべてから。

 けども誰もがそのことに気付かない。それが秋房くんに押し付けられた義務であり、使命そのものだったからだ。

 やりたくないことやなりたくないことなんて、素直にそう言いきってしまえばいいのだろう。しかし秋房くんはそれが言えない。

 だって秋房くんは、面倒な僕の世話を焼いてくれるような真面目で優しい人なのだから。

 頭上から降るオレンジ色の照明を浴びながら僕は答える。

「分かるよ、それ」

「なら、どうにかしろよ。散々、面倒見て貰ってただろ」

「でも秋房くんが言ったんだ。ばいばいって」

「それがどうしたんだよ」

 訝しげな声。ほんとうに何だと思っているんだろうな、暁くんの場合。だけどさ暁くん、あのばいばいは多分さ。

「もう会わないって、そういうお別れの意味だよきっと」

「……、真に受けているのかそれ」

「受けるよ。だって僕は団の誰よりも酷いんだから」

「酷いってなんだよ」

 瞼の奥で夢を辿る、脳の真ん中が過去を見ている。

「暁くんはどうして空が青いのか、知ってる?」

「は? 知るか、そんなこと。つうか、それとこれと何の関係があるんだよ」

 言われ、僕は呟く。

「僕が悪いんだ」

「……、あーあー」

 上がって下がる声に顔を上げれば、暁くんは跳ね除けるようにぴしゃりと言った。

「お前は一生そうやってろ、そんでそのまま死ね」

 暁くんが出した最終通告は、『救いきれない』。それだった。

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