追憶の未来
「お父さん、やっぱりオレンジジュース飲みたいな」
拓真はカステラを頬張りながら大輔に言った。
「よくそんな甘いものを食べながら甘いものが飲めるな。今朝もジュース飲んだろ?」
大輔は呆れた顔でベンチから立ち上がりながら、隣に座っていた息子に目をやった。
「ダメなの?」
上目遣いで願い事をする表情は昨年亡くした妻にそっくりだ。大輔はこの顔に弱かった。
「いや、ダメじゃないさ。ただ、今日は特別だぞ。ちょっと待っててくれ」
そう言うと、大輔は駅のホームのやや奥まった場所にある自動販売機に向かった。
「そこから動くんじゃないぞ」
大輔が振り返りながら叫ぶと、拓真はカステラを持った手を上げて応えた。
ポケットの財布を取り出しながら自動販売機に近付いた大輔は、前面のパネルを見て舌打ちした。
「なんだ、俺のカードに対応してねえ。ったく、まだまだここも田舎だな」
首都圏の自動販売機では電子マネーでの支払いが主流になっていたが、地方に行くと、現金しか使えなかったり、使える電子マネーが限定されていたりすることがまだ多い。大輔は仕方なく財布のファスナーを開いたが、あいにく小銭を切らしていたのであった。
他に買える場所は―――自動販売機での購入をあきらめて周囲を見回すと、向かいのホームに売店が見えた。時計を見ると、電車の発車時刻まではまだ四分ある。少し急げば買って戻って来れるだろう―――そう判断した大輔は人混みをかきわけ、エスカレーターを駆け上がり、目的の売店へ向かった。
階段を駆け降りたところからその裏側にある売店まで辿り着いたとき、めったに運動をしない大輔の両足は今にももつれそうであったが、そこに並ぶ缶ジュースの中にオレンジ色の缶を見つけると、ガラスケースの上からそれを指さし、やや不審げな顔でこちらを見ている売店の女性に、切れる息で「これ一つ」と伝えた。
女性は「百三十円だよ」と言ってジュースを取り出したが、大輔の差し出した一万円札を見ると、面倒くさそうに短く息を吐いた。 渋々と彼女がお釣りの千円札を数え始めたところで、ジュースの缶を眺めていた大輔が突然「あっ!」と声を上げた。
「すみません! 息子が炭酸飲めないのを忘れてました。そっちの紙パックにしてください」
「おや、変えるのかい……リンゴと野菜があるんだけどねぇ、どっちにすんの?」
「オレンジは無いんですか?」
「今、言ったでしょ、リンゴか野菜!」
それが客に対する言葉使いか、お前の店の教育はどうなっているんだ、という言葉を大輔は飲み込んだ。ここで文句を言っている時間は無い。
―――そこで、世界が止まった。
「エクスプローラーモードに移行します」
透き通ったオペレーターの女性の声が聞こえた。怒りを反芻していた大輔も我に返り、この世界に来た目的を思い出した。
エクスプローラーモードによって自由となった大輔の視点は大輔の体から離脱した。ゆっくり後退すると、相変わらず仏頂面の女性と、彼女を睨むように見上げている大輔の姿が見えた。大輔の視点は拓真がいる隣のホームの方向に向きを変え、そのままスーッと宙を浮くように線路を横切って隣のホームへと移動した。前方にはベンチに腰掛けた拓真の姿が見える。拓真は友達との間で流行っているカードゲームの束を横に置き、お気に入りのカードを眺めていた。大輔は拓真の傍でぐるっと周囲を見回してみたが、まだアイツの姿は無かった。
「少し時間を進めてください。一分でいいです」
大輔がオペレータに告げると、たちまち時間が跳んだ。
そして再び時間がゆるやかに流れ始めたとき、大輔は探していたアイツの姿が目の端に現れたのを確認した。
アイツ―――上原直人は、拓真のいたベンチから少し離れたところにある四号車の乗車口付近に立ち、腕組みをしてホーム下方の線路を眺めていた。
大輔の視点は上原に近付き、彼の長身を下から上まで衛星が回るようにして観察した。上原は手ぶらだった。少しシミの付いたチノパンにアイロンのかかっていないヨレヨレのシャツ、その上にある瘦せこけた顔は青白く精気が無い。笑っているようにも眠っているようにも見える、うつろな細い目は線路を見つめたまま、小声で何か独り言を呟いていた。
「……待たせたね。昨日は何してたんだい。またパズルかぁ、お前、そればっかりじゃないか。しまったな、それも持ってくればよかったね。ゴメン、コータロー」
上原が誰と話しているのかを理解した大輔は、少し背筋が寒くなるのを感じた。
上原には孝太郎という息子がいた。だが、その息子を一年前に亡くしている。いや、亡くしているという受動的な表現は適切ではない。上原の息子の命を奪ったのは上原自身なのだから。
自宅の駐車場で後方にいた息子に気付かず、駐車する際に轢いてしまった不幸な事故だったと大輔は警察から聞いた。上原の妻は孝太郎を出産した直後に病気で亡くなっており、上原の母親が同居して孫の面倒を見ていたらしい。だが、その母親も病気になり、上原が母親の入院先の病院から帰った際に起きた事故ということだった。
「母親の看病と子供の世話で相当疲れとったらしいですわ。不幸なことに車のセンサーも故障してましてね。まぁ、それもドライバーの不注意ではあるんですが。我々も上原を逮捕はしたものの、気の毒でね」
上原をよく知る警察の人間がそう言ったとき、大輔は同情する気にはなれず、「それがどうかしたんですか。関係ありません!」とつい声を荒げてしまった。
子供を亡くした悲しみは、一年経っても薄らぐことは無いだろう。だが、その悲しみを知る上原がなぜあんな行動を取ったのか―――その答えを求めて、大輔はVR再現システムを使い、現場に戻ってきているのであった。
大輔は視点を上原に向けたまま、ホームの後方に移動した。そろそろ上原が動き出す頃だ。この先の映像を見るのは初めてではない。だが、大輔は徐々に鼓動が高まるのを感じた。
軽やかな電子音のメロディとともに電車の到着を告げるアナウンスが流れ始めた。上原もそれに反応して電車の来る方向や周囲を見回していたが、ふと何かを見つけたかのように視線を定め、やがてその方向に向かって歩き出した。
上原が向かう先はそこだけ白い霧がかかったように、ぼやけていた。VR映像のボカシによるものだ。大輔は今回のVR再現システムの利用にあたり、担当者の寺山にVR映像からボカシを除去するように依頼していたのだが、あまり改善はされなかったようだ。しかし、その霧の中心にいるのが拓真であることははっきりとわかった。
拓真はホームの端の方に立ち、線路を眺めていた。右手に持っている四角い影はカードゲームの束だろう。
そこに上原がやって来た。上原は拓真と同じ目線になるようにしゃがみ込み、しばらくすると拓真の両肩を後ろから抱きかかえるように掴んだ。
「おい!」
大輔は思わず叫んでいた。
上原は拓真を抱えて立ち上がり、身をよじってベンチの方へ体を向けた。しかし、彼はベンチとは逆の線路側へ向かって、フラフラと後退していった。拓真が短い手足を必死に動かし、もがいている影が見える。だが、上原は拓真を抱いたまま離そうとしない。
「おい、何やってんだよ! テメェ!」
大輔は叫びながら二人をつかまえようとした。だが、実体の無いこの世界の大輔には彼らに指一本触れることもできない。そのまま死の淵に向かうのを眺めているしかなかった。
ファァアアン!
右を向くと、もう電車がホームに到達しようとしていた。速度を落としているとはいえ、間近で見ると迫って来る電車に恐怖を感じずにはいられなかった。
ヒッ、と思わず声を上げ、仰け反るように大輔の視点が後退したのと同時に、白い霧の中に浮かんでいた上原と拓真の影がフッと消えた。
―――あぁぁ、拓真。ダメだ。そんな。俺を置いてかないでくれ。
一瞬、二人が地面に落ちた音が聞こえた気がしたが、それはたちまち迫って来る電車の轟音にかき消された。周りから悲鳴が聞こえる。大輔もまた叫び声を上げていた。思わず目をそむけると、そこには階段を下りてきたばかりのかつての大輔の姿があった。右手には野菜ジュースの紙パックが握られていた。その大輔は肩で息をしながら息子の姿を探していた。まさかもう会えないとは知らずに。
自分の姿を眺めていた大輔は徐々に胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。息が苦しくなってくる。あの時もホームの往復で息を切らしていた。あの日は苦しかった……息苦しさはいつまで経っても収まらなかった。耳が遠くなり、眩暈とともに暗闇に落ちていくよような感覚がよみがえってきた。
「もういい、止めてくれ! 早く! 助……」
最後は声にならなかった。だが、そこでVR再現システムは再生を終了した。
「大丈夫ですか」
寺山は穏やかな口調で大輔に問いかけた。
大輔はまだ動悸が治まらないまま、VR再現システムのゴーグルを外した。ゴーグルは汗と涙でぐっしょりと濡れていた。
「すみません、また取り乱してしまいました……再生中に叫んでもどうにもならないことはわかっているんですが、つい……」
「いえ、それでいいんです。このシステムで愛する人を亡くした場面に立ち会うことはできても、過去を変えることはできません。でも、残された人の未来は変えることができます。感情を吐き出すというのはその第一歩なのです」
VR再現システムは元々は交通事故や事件の検証用に政府が導入を始めたものだ。今や街中のいたるところに三百六十度撮影可能なカメラが設置され、常時全方位の映像が記録されている。公共交通機関への導入が義務付けられると、各駅や車内に多数のカメラが設置されるようになった。これらのカメラで撮影された画像はしばらく一般には公開されていなかったが、撮影した公共交通機関とその地域の自治体が必要と認める理由がある場合は、申請すれば閲覧できるようになっていた。
上原直人と金本拓真がホームから転落し、電車に轢かれて亡くなる事故が起きたのは三か月前のことだ。子供を自らの過失で亡くした男が他人の子供を巻き添えに電車に飛び込んだという事故は当時ニュースにも取り上げられ、金本大輔は不幸な父親として世間の注目を浴びた。
寺山が務める高度情報科学システム研究所に最初にVR映像を持ち込んだのは警察だ。既に被疑者は死亡しているが、金本拓真の殺人事件としてVR映像による検証を行うことが目的であった。事件を検証する中で被害者の親族のケアが必要と判断され、呼ばれたのがVRセラピストの資格を持つ寺山であった。
身内が不幸な事故により亡くなった場合、VR映像の閲覧を希望する親族は多い。だが、生々しい事故の映像は、真実を伝える以上の衝撃を親族にもたらす。精神に異常をきたしたという事例も少なくない。そこで、VR映像の閲覧にあたり、記録映像をソフトに修正することを認められているのがVRセラピストである。ボカシと呼ばれる白い霧や音声ノイズは寺山の加工によるものだ。つらい過去を無理して忘れようとするより、刺激を排除したVR映像を何度も見ることで慣らす方が立ち直りが早い、というのが寺山の持論であった。
「今回はお子さんと会う以外に、上原さんのことも調べたいのだとおっしゃってましたが、いかがでしたか」
ようやく落ち着きを取り戻した大輔に寺山が声をかけた。
「アイツは……やっぱり異常というか、精神的に壊れちゃってたんじゃないでしょうか。会社もクビになったんでしょう?」
「解雇されたわけではありませんよ。上原さんの都合で退職されたようです」
「あれじゃ仕事もできないでしょうね。ずっとブツブツ呟いてました。誰もいないところで見えない息子に話しかけてたんですよ。普段は引きこもってるくせに、荷物を持たず出てきたのはやっぱり自殺が目的だったんですよね。アイツの家には遺書もあったんでしょう?」
「遺書ではありませんが、ブログに自殺を仄めかすような記述があったと聞いています」
「そういや、アイツには遺書を残す身内がいなかったんですよね」
「お子さんを亡くされた後、母親も病気で亡くなりましたからね。鉄道会社も損害賠償を請求する先が無いそうです」
「俺も鉄道会社から聞きました。俺には請求しないから安心しろ、って言ってましたけど。アイツ、会社辞めて何やってたんですかね。ガリガリで病人みたいだったし……精神だけじゃなく肉体的にも病んでたんじゃないでしょうか」
「病気だったという話は聞いてませんね。ただ、肉体的にも弱っていたようには見えます」
「ロクに食べてなかったんでしょうね……でもね、寺山さん、俺、アイツのことは気の毒だとか思えません。アイツは拓真を無理やり巻き添えにしたんです。急に一人で死ぬのが怖くなったんですよ。ひょっとすると拓真が自分の息子に見えたのかもしれません」
寺山は大きく頷いた。
「なるほど、そうかもしれませんね。それにしても、今回、そこまで冷静に見ておられたというのは驚きました」
「いえ、何度見てもつらいんですけど、前回からは気持ちの整理ができたかなって思うところはあって……前回は俺も死にたいとか言って寺山さんを困らせてましたよね。今回は泣くだけ泣いて寺山さんに話したら、ちょっとスッキリしました」
はにかんだような笑顔で大輔は語った。寺山も満足げな笑みを浮かべていた。
「いいんですか、このままで」
大輔が帰った後、オペレーターの加奈子が寺山に尋ねた。
「ああ。息子の死を事実として受け入れ、怒りの矛先は加害者に向かったままだ。自分を責める方向には行ってないから、計画通りと言っていいんじゃないかな。何か問題でも?」
「いえ、その金本さんのケアが一番大事というのはわかっているんですが、上原さんが浮かばれないなと思って……」
「なんだ、またその話かい」
「金本さんは本当に事故の記憶を無くされているんでしょうか」
「ああ。最初にVR再生が許可されたのもそれが理由だよ。内的ショックで脳が記憶を閉じ込めてしまったのだろう、というのが医師の見解だった」
「でも、今回、エクスプローラーモードに移行したタイミングや時間をスキップしたタイミングなんて、ちょっと出来すぎてはいませんか。まるで自分の罪を隠そうとしているようです」
「罪とは聞き捨てならないな。金本さんは被害者の父親以外の何者でもない。それに本人視点モードからエクスプローラーモードに移行するタイミングだが、最後に息子と話をしてから二、三分後というのが金本さんの指示で、厳密なタイミングを設定したのは私だよ」
「すみません、そうでしたね。前回は電車到着のアナウンスが流れた後からでしたから、今回はお子さんとの会話の再現も希望されたんでしたよね」
寺山はエクスプローラーモードに移行した後の金本の行動を思い返した。
あの後―――売店でリンゴジュースにするのか、野菜ジュースにするのかと聞かれた大輔は、向かいのホームにいる息子にどちらがよいのかを尋ねた。奥のベンチに座っていた拓真は、ホームの端まで出てきてそれに答えたが、そこで持っていたカードが風に煽られて線路に落ちてしまった。このとき、大輔は売店に戻ってしまっており、拓真はどうしていいか分からず、ホームの端に立ちすくんでいるところで電車到着のアナウンスが流れ始めた。近くにいた上原は、拓真が端から動こうとしないのを危険に思い、近付いて離れるように言ったのだが、それでも拓真が動かないので無理やり抱えてホームの奥へ連れて行こうとしたのだった。ところが、拓真の方が暴れたため、体力の弱っていた上原はバランスを崩し、二人とも線路に落ちてしまった、というのが警察と研究所の見解だ。
加工無しのVR映像にはこれらの顛末が収められていた。跨線橋を移動中だった大輔は事故の瞬間を見ていない。それどころか、事故当日の記憶を失っていた。
VR映像の作成依頼を受けた寺山は、公開用のVR映像を作成するにあたり、警察と相談し、ボカシを入れる範囲を通常より拡大し、大輔や拓真に非があると思われる場所を隠すことにした。大輔を上原のようにしてはいけない、という寺山の主張を警察が受け入れたのだった。加奈子のように上原を気の毒に思う者もいたが、既に死んで身寄りがなかった上原よりも大輔を優先するべき、という寺山の意見には反対をしなかった。
「しかし、売店のシーンまで入れたのは私のミスだな。あそこで息子を呼んだことを思い出すんじゃないかとヒヤヒヤしたよ」
案外、加奈子の言うように、大輔は記憶を取り戻しているが自分に非があるところろを忘れたことにしている、というのが当たっているのかもしれない、と寺山は思った。だが、それでいいのだ。過去を変えることはできないが、人の記憶は形を変える。VR映像を加工することで、記憶を理想的な形に持っていくのが寺山の仕事だ。それで未来を変えられる、と寺山は信じている。
寺山は売店のシーンにボカシを入れる作業に着手した。
過ぎた未来 笠虎黒蝶 @kasatora
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