侵入者

「足立先生の統計学講座は先生のご都合により休講とします」

 またかよ―――と隆之は布団の中でつぶやいた。当日になって休講の連絡が来るのは何度目だろうか。理由は書かれていないが、やはりどこか病気なんだろう、と隆之は退官間近の教授のこけた頬を思い浮かべた。

 これで今日大学で受ける講義は無くなった。久しぶりにサークルに顔を出してみるか、それとも信吾の家でダラダラ過ごそうか―――隆之が暇の潰し方を考えながらスマホのスケジューラを開くと、そこには「東西電鉄、9時13分 永山駅 1号車、16時42分 高宮駅 10号車」というバイトの予定が入っていた。

 講義が無くても大学に行くのはこのバイトのためだ。受講数が減ってきたのだから、そろそろシフトの変更を検討しなくては―――そんなことを考えながら隆之は洗面台へ向かった。

 東西電鉄が大手鉄道会社に先駆けて無人化を始めたのは三年前のことだ。車両には運転手も車掌もおらず、発着やドアの開閉、ダイヤの組み替えは全て人工知能を備えたシステムによって行われる。当初、東西電鉄は完全無人化を掲げて大幅なリストラを行ったものの、客からの問合せ対応や落下物、忘れ物の管理、障害者の補助等、機械では対応できないところでの人手不足がたちまち顕著になった。そこで昨年秋から始まったのが乗客の一部に業務を委託する、乗務員代行制度である。

 バイト先のパチンコ店が閉店し、次の仕事を探していた隆之は、募集が始まるや否や、この制度に申し込んだ。時給は低かったが、子供の頃から鉄道には興味があったし、配属された路線が乗り放題になる特典にも惹かれた。バイトの面接は簡単なものであったが、最終面接の後、三日間の研修があった。安全確認の方法と様々な客からのクレーム対応を実践形式で学習するものであった。応募者の過半数がこの研修で脱落したと聞いたが、接客業に慣れていた隆之には簡単なものに思われた。ただ、研修で電車を操縦できるのではないかという期待については、当てが外れた。

 採用が決まると、翌日から東西電鉄の人間として電車に乗ることになったが、搭乗するのは大学までの往復だけで、これまでと何も変わらなった。基本的に車両の前後に二名ずつ搭乗することになっているが、希望する時間と路線をスマホから本社のサーバーに登録しておけば、誰がどの電車に乗るのかは人工知能が決めてくれる。人の少ない路線は割り当てに苦労しているらしく、会社を定年で辞めた高齢者がずっと乗っているという話も聞くが、隆之が大学の往復以外の時間に割り当てられることはほとんど無かった。東西電鉄の帽子とジャケットを身に着けて狭い車掌室に籠らなければいけない、という点がこれまでとの大きな違いで、仕事といえば、電車の遅延を車内放送で流す程度のものであった。これでバイト代がもらえるなんてオイシイ仕事だ、と隆之は思っていた。

 この日も隆之は車掌室に乗り込み、大学に着くまでの時間をスマホのゲームに費やしていた。原則として搭乗中は電車の前後を確認するように言われており、隆之も最初は忠実に守っていたのだが、すぐに飽きてしまい、乗客や会社から車掌室が見えないことを確認すると、スマホで暇を潰すようになった。他のバイト仲間も同様らしいが、それでクビになったという話はまだ聞いたことがない。

 ピピピピピピピピーッ!

 突然けたたましいアラーム音が鳴り、電車が急停車した。驚いてスマホを落としそうになった隆之が電車のモニターに目をやると、「線路内侵入」という文字が大きく映し出されていた。東西電鉄の路線の多くは高架化されているが、未だに踏切が残っている古い路線もあり、隆之が利用している路線もその一つであった。

 センサーの誤作動か、もしくは誰かが自殺を図ったのか―――そんなことを考えながら、隆之は操作パネルに表示されている「詳細」ボタンをタッチした。

 「ゲッ、目の前じゃん!」

 隆之は思わず声を上げた。モニターに映し出された路線図には線路内侵入の発生箇所が表示されていたが、その場所は隆之が乗っている車両の前方一キロも離れていなかった。

 前方を確認すると遠くの線路の脇に茶色のジャケットを着た男性がしゃがみ込んでいるのが見えた。帽子を被っており、顔はよく分からないが線路脇の土手の方を向いているようだ。何をしているのか。

 プルルルルル………

 胸元の無線機が鳴った。後方の車掌室からの着信であった。

 「一号車、西川です」

 「野村だ。隆之君、モニターは見たかい?」

 「はい」

 「フロントのカメラじゃよくわからないけれど、そこからは誰かいるのが見えるのかな?」

 野村は隆之と同時期に採用されたバイト仲間だが、年齢は隆之より一回り上になる。一度飲みに誘われたこともあるが、そこで聞いた話によれば、三十前に会社を辞め、現在はいくつかバイトをしながら小説を執筆しているということであった。

 「線路脇にしゃがみ込んだまま動かない人がいます」

 「本当に? 何やってんだろ?」

 「わかりません。さっきから見てますが動きそうにないですね。ひょっとしたら怪我してるのかな………」

 「そうかぁ。じゃあ、行くしかないね」

 「えっ?」

 「マニュアルによれば、二キロ未満の線路内侵入は近い側の乗務員、すなわち隆之君が、カメラを持って確認に行くことになってるんだが」

 孝之が慌ててマニュアルを確認すると、たしかに野村の言う通りであった。

 「たしかにそうなってますね。線路に降りるのかぁ………野村さん、降りたことあります?」

 「いや、ないよ。端を歩いてりゃ轢かれることは無いだろうが、無線は持っていきなよ。万が一電車が動き出したら連絡するから。車内放送や乗客の対応は俺がやっておくよ」

 孝之は無線から耳を離し、車掌室のマジックミラーから乗客の様子を確認した。先頭車両はそれ程混んでいなかったが、いつもよりもざわついた様子で中には窓を開けて前方を覗き込んでいる者もいた。早く車内放送をしなければ、車掌室のドアを叩いて怒鳴り出す者が出てくるかもしれない。

 「では、野村さん、まず車内放送をお願いします。僕はこれからひとっ走りしてきます」

 「了解。気を付けてね。応援が必要なら呼んでくれ」

 「わかりました」

 隆之はカメラと無線機のセットを首にかけると、車掌室の扉を開け、手すりを伝って線路に降りた。研修では何とも思わなかったが、実際の線路に降りるとなると足がすくむのか、着地の際に勢い余って土手から落ちそうになった。何とか踏みとどまって前を向くと、ちょうど正面に男性の姿が見えた。相変わらずしゃがみ込んだまま動く気配は無い。

 まったく、迷惑なやつがいるもんだ。これで会社から特別手当でも出るんなら許してやるんだが―――隆之は歩みを速めた。近付くにつれ、男性の容姿もはっきりと見えてきた。紺色の中折れ帽からのぞく白髪や頬の皺からすると、かなりの高齢のようだ。隆之は認知症の老人が徘徊して電車にはねられたというニュースを思い出し、胸の中の焦燥が不安に変わっていくのを感じた。

 そして老人が佇む場所まで数メートルの距離まで近付いたとき、老人の方も隆之の足音に気付いたらしく、立ち上がって隆之の方へ歩み寄ってきた。

 「あんた、ハナコを知らんかね」

 先に声をかけたのは老人の方だった。 

 「えっ?いや、あの………」

 「さっきまで一緒だったんだがねぇ。ちょっと手を離したすきにどこかに行ってしもうたんだよ」

 「僕は………知らないです。お孫さんですか?」

 「そうかぁ、あんたも見とらんかね。あの子は時々俺のことを置いて帰るからなぁ。もう帰ったのかもしれんなぁ」

 「そうなんですか………あの、ここは線路の中なので、あなたもここにいては危ないですよ」

 お帰りになったらどうですか―――相手はそう言いかけて、隆之は言葉を飲み込んだ。線路に侵入し、電車を止めた者をそのまま帰すわけにはいかない。会社の規定によれば損害賠償を請求するために身元を確認することになっていることを思い出し、隆之は胸にぶら下げているビデオカメラの録画スイッチを押した後、老人に尋ねた。

 「あの、お名前をうかがってもよろしいですか」

 「ん?名前かね?名前は山田耕三。耕すに数字の三と書いて、耕、三。あんたは?」

 「えっ?」

 「あんたの名前だよ。人に名前を尋ねるときはまずは自分から名乗るのが礼儀ってもんだ」

 「西川…隆之です。僕は、あの、あそこに停まってる電車の車掌でして」

 「ああ、それはわかっとる。見ればわかるってもんだ。ご苦労さんじゃね」

 誰のせいで苦労してると思ってるんだ、と言いたくなるのを抑えつつ、隆之はビデオカメラを一時停止し、山田老人から少し離れたところで無線で本社のオペレータルームに連絡した。

 オペレータルームの社員は先程録画した映像を既に確認しており、隆之が状況を説明するまでもなく指示を出してきた。山田老人を電車に乗せ、次の駅まで連れてこい、というのが会社の指示だった。野村にも伝えておくので協力して対処するように、と事務的な口調で指示を出した後、無線は切られた。

 孝之はフーッと大きくため息を吐き出した後、再び山田老人に近付いた。

 「あの、ここは東西電鉄の線路でして、一般の人が入っちゃダメなんですよ。あそこで電車が動けないのはあなたのせいなんです。会社の人が詳しい話を聞きたいそうです。ひとまず電車の方へ行きましょう。次の駅までお送りします」

 山田老人はしばらく頭を傾けて首の後ろを掻くような仕草をしていたが、やがて困惑した顔を孝之の方へ向けた。

 「俺はハナコと散歩をしておっただけだったんだがねぇ。あれがちょっと目を離した隙にどこか行ったもんだからね、気づいたらここにおったんだよ。でも、もうおらんもんだから帰ろうと思ってら、背中がまた痛くなったもんだから動けなくなってね、それでここにおったんだよ」

 孝之はあらためて周囲を見回したが子供の姿はどこにも無かった。踏切から侵入したようだが、踏切も見えなかった。認知症で徘徊している老人というわけではなさそうだが、どこまでが真実なのかもあやしい。ただ、詳しい話を聞くのは社員に任せて早く電車に戻るのが得策だろうと考えた。

 「歩けますか」

 「ああ、もう大丈夫」

 そう言うと老人は電車に向かってゆっくりと歩きだした。孝之はその姿を見てようやく胸の不安が静まっていくのを感じ、無線機を取った。

 「野村さん、今から電車に戻ります」

 「おおそうか、大変だったね。困ったおじいさんがいたもんだ」

 「ええ、本当に。まだ戻るまで十分はかかりそうです」

 「そんなに?こっちじゃ乗客がかなり文句を言ってきててね。さっきなんか、俺も電車を降りる、とか言ってくる人がいて、困ったもんだよ。あきらめて戻ってもらったけど」

 「急ぎたいところなんですが、背中を痛めておられるそうで、なかなか早く歩くのは難しそうです」

 「わかった、わかった。ひとまず進展があったことだけ伝えておくよ。そうそう、会社からはそっちの車掌室に乗せるように、ということだったよ」

 「えっ?そうなんですか?」

 「うん、狭いけど二人は乗れるだろ。操作パネルは静脈認証でロックがかかるから運転の邪魔されることも無いし、その老人なら安全だろうと判断したみたいだよ」

 「たしかに素直に従ってくれてはいますけど………」

 「ただ、乗るときが大変かなぁ。手伝いに行こうか」

 「あ、いや大丈夫だと思います。来てもらうと、野村さんが戻るまでまた時間かかっちゃいますし」

 「そうだね。もし何か問題があったら言ってくれ」

 「わかりました」

 隆之が想像していたよりも山田老人の足腰はしっかりしており、電車へ戻るのに十分もかからず、梯子を使った車掌室への搭乗もほとんど補助は要らなかった。山田老人によれば、毎日の散歩と好きなものを食べることが健康の秘訣らしい。

 隆之は奥の座席に山田老人を座らせ、後方の野村と本社に帰還の連絡を行うと、操作パネルにロックをかけた。基本的に電車は機械制御のため、操作パネルはごくまれに本社との連絡に使用する程度だが、緊急停止や扉の開閉を行うこともできるため、東西電鉄に静脈登録した人間以外が操作できないようにロックをかける運用になっていた。

 「先程、線路内に立ち入った方の保護が完了し、安全が確認できましたので、これより運転を再開致します。当列車は予定よりも十六分遅れでの運行となります。皆様、お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけ致します………」

 野村の車内放送では保護した人間が電車に乗っていることは伏せられていたが、窓から一部始終を眺めていた先頭車両の乗客が文句を言ってこないかと隆之は新たな不安にかられた。早く出発してくれ―――隆之の思いに応じるかのように電車は動き出した。

 電車は速度を上げ、隆之が山田老人を保護した地点を一瞬で抜き去った。そしてしばらく進むと前方に踏切が見えた。山田老人が侵入したのはあそこだろうか―――そう思って前方に目を凝らすと、さらに先に白いものが動くのが見えた。それはちょこまかと左右に動いているが、線路の敷地からは出ようとしないのだった。やがてその姿は大きくなり、隆之にもそれが何であるかがはっきりとわかった。

 犬―――犬種はプードルだろうか。それにしてはやや大きいような気がするが。いや、そんなことはどうでもいい。なぜ、今度は線路内侵入で止まらないんだ?

 線路内侵入は敷地内のセンサーと先頭車両のセンサー、およびカメラで検知する。隆之がいるような都会ではまず起こらないが、路線によってはイノシシやシカが線路内に侵入してくることがあり、このような動物に衝突すると大事故につながるため、これらのセンサーが重要な役目を果たすのだ、と隆之は研修で聞いた内容を思い出した。同時に、小動物については検知できないことがあるということも研修の講師は言っていた。

 あれだけちょこまか動いていると検知できないのだろうか。今なら緊急停止すれば轢かずにすむかもしれないが、下手に止めると自分が責任を取らされることになるのではなかったか。それに、あんな小さい動物なら轢いても車両の運行には影響は無さそうだが。マニュアルにはいったい何と書いてあるのだろうか。

 操作パネルに伸ばそうとした手は、大きな叫び声とともに払いのけられた。

 「ハナコッ!」

 山田老人は叫ぶと同時に立ち上がり、緊急停止の衝撃で座席からずり落ちそうになっている隆之を押しのけて車外へと出て行った。そして、隆之と一緒に歩いたときとは別人のような健脚で愛犬の元へ駆けていった。

 孝之はしばらく茫然とその光景を眺めていたが、自分は操作パネルのロックをかけ忘れていたのかと不思議に思い、操作パネルに目をやった。

 そこには「緊急停止―――オペレータ:山田耕三」と表示されていた。東西電鉄に乗務員登録している人間はオペレータ欄に氏名が表示され、どの路線の操作パネルもロックを解除することができる。

 あんな老人でも乗務員が務まるのか―――東西電鉄の人手不足は深刻のようだ。だが、それは山田老人のことだけを言っているのではない。あの犬が現れたとき、乗務員として止めない方がよかったのか、止めた方がよかったのかはまだわからない。ただ、人としてなら明らかだ。マニュアルが無いと判断できないなら機械と同じではないのか。

 孝之はしばらく本社からの呼び出しに応えることができず、ただ、愛犬を胸に抱いた山田老人の幸せそうな顔を眺めていた。

 


 

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