ハッピーエンディング

 「お父さん、エンディングノートまだ全然書いてないじゃない。お母さんみたいに元気でも突然亡くなることだってあるんだからさぁ、少しずつでも書いておいてね。じゃないと、私や直人が困るんだから」

 妻の房代の三回忌で戻ってきた美紀から釘をさされ、徹はエンディングノートの存在をようやく思い出した。五年前に美紀から渡されたエンディングノートは徹の書斎の目立つ場所に置いたまま、一度も取り出したことがない。房代はコツコツと書き溜めていたが、徹は病気になれば書くぐらいのつもりでいた。これまで大きな病気も無く、体力に自信があったので定年後に農業を始めたぐらいだ。エンディングノートを渡されるのは死を宣告されたようでいい気はしなかった。房代の書き込む姿を見ても、まだ必要ないだろうと思っていた。

 だが、房代がエンディングノートを残してくれて一番助かったのは徹である。徹は房代が亡くなるまでほとんど家事らしい家事をしてこなかった。房代のノートには料理のレシピや掃除、洗濯など一通りの家事の方法が写真やサイトの印刷物などと合わせてわかりやすくまとめられていた。徹が好きな酒のつまみの作り方、窓や風呂場にカビが生えないようにする方法、家電製品のメンテナンスのやり方など、何十年も徹の知らないところで房代が蓄えたノウハウがそこにはまとめられていた。

 ——書いてみるか。

 徹は子供達がいなくなって静かになった書斎でエンディングノートを開いた。ノートはいくつかのカテゴリに分かれており、各カテゴリの最初にある説明に従って記入欄を埋める形式になっていた。生年月日、学歴、住所、電話番号、口座情報や保険の加入内容など、簡単な情報から徹は記入を始めた。だが、自分の葬儀や家族へのメッセージなど、具体的に自分の死を想像して書く内容になるとペンが止まった。ノートに記入すると自分の人生が本当に終わろうとしているような気がして、なかなか内容をまとめる気になれなかった。

 他に簡単に書けそうな項目は無いものか——そう思いながらノートをパラパラとめくっていると、「パソコンやネット上の情報について」と書かれた項目が目に留まった。

 ——そういえば房代に誘われて加入したSNSサービスがあったはずだ。あれには月々いくらか支払う有料サービスも含まれていたのではなかったか。しばらく使っていないが、房代のアカウントすら削除した覚えが無い。はて、あれは何というSNSサービスだったか。

 徹は房代のエンディングノートを取り出すと、「パソコンやネット上の情報について」のページを探した。几帳面な房代ならSNSサービスのことも書いているはずだ、と徹は考えた。

 だが、なぜか「パソコンやネット上の情報について」の項目は房代のノートには存在しなかった。徹のノートと並べて調べてみると、この項目が存在していると思われるあたりのページがごっそりと切り取られていた。

 ——俺は切り取った覚えは無い。美紀か直人がやったのだろう。だが、なぜ切り取る必要があったのだろうか。この情報だけ持って行きたければ、スマホで写真を撮るかコピーをすればいい話だ。俺しか見ないのだから、セキュリティ上の問題ということも無いだろう。

 いくら考えても切り取られた理由には思い当たらなかったが、徹はパソコンを開いてみることにした。房代と共有していたパソコンだったが、房代のアカウントはすでに削除されていた。だが、徹のアカウントに残っていたブラウザのブックマークから、加入していたSNSサービスはV2Lというサービスだったことがわかった。仮想現実の世界にできたコミュニティで利用者同士が交流できるというサービスだった。一時期流行し、房代が友人に薦められて加入したのだが、徹は最近はほとんど利用しなくなっていた。

 徹はブラウザのブックマークからV2Lにアクセスした。アクセスするにはログインするためのIDとパスワードが必要だった。徹はこれらの情報をまるで覚えていなかったが、パソコンのデスクトップにメモとして置いていたいくつかのテキストファイルを開いていくと、その中の一つに書かれているのを見つけた。

 ——そういえば、このテキストファイルにいろんなIDとパスワードをまとめていたな。これを印刷してエンディングノートに貼っておけばいい。

 徹はテキストファイルを印刷するためにプリンタを立ち上げると、その待ち時間を使ってV2Lにアクセスしてみることにした。IDとパスワードを入力すると、仮想現実の世界に住む徹の分身の姿が画面に現れた。

 仮想現実の世界では分身の容姿、年齢、職業を自由に選ぶことができたが、徹は現実世界の自分の設定をほぼそのまま仮想現実の世界に設定していた。仮想現実の徹は年をとっておらず、顔にはシミ一つ無かった。房代とは仮想現実の世界でも夫婦の設定だったが、徹の家には房代の分身はいなかった。

 ——房代のアカウントは美紀か直人が削除したのだろう。ここでも俺は一人になったのか。

 現実の世界では、法事で一時的に賑やかになった家にはもう誰もおらず、徹がパソコンを操作する音だけが響いていた。

 ——仮想現実の世界で大人の住民と交流するにはたしか酒場に行けばよかったはずだ。

 徹は仮想現実の世界で酒場を検索し、最寄りの店にタクシーで移動した。過去にも利用したことがある店だ。

 「いらっしゃいませ。おや、久しぶりのご来店ですね」

 バーに入るとバーテンダーが声をかけてきた。このバーテンダーは人工知能が操作しているものだと房代から聞いたことがある。どんな相手と話したいかを伝えると、人工知能がユーザーの相性を調べ、適当な相手を探してきてくれるのだ。例えば、「マラソンをやっている人はいるか」と聞くと、V2Lの登録情報で趣味をマラソンとしているユーザーにバーテンダーからメッセージが届き、メッセージに応答したユーザーの中から徹と年齢や地域が近い者が話し相手として選ばれる仕組みになっている。

 「今日はどのような方をお探しでしょうか」

 「そうだな……寂しさを紛らわしてくれるような人がいい。女性がいいな。あまり若すぎると話が合わないから、四十代ぐらいの明るい女性がいいんだが」

 「かしこまりました」

 バーテンダーは一礼して店の奥の方へ引き下がった後、すぐに品のいい着物姿の女性を連れて現れた。予想以上に早く話し相手が見つかったようだ。

 「はじめまして。瞳子とうこと申します」

 ——瞳子!?

 パソコンの画面に表示された瞳子という名前を見て徹は狼狽ろうばいした。徹が四十代の頃に熱を上げていたスナックの女性の名前と同じだった。瞳子も着物を着ていることが多かった。

 「はじめまして。私は徹といいます。ここで着物姿の女性に会ったのは初めてだ」

 「あら、そうなんですか。この世界だと着付けを知らなくてもパソコンをちょっと操作するだけで着られるんですよ」

 「あなたは現実世界でも着物を?」

 「そうですね。仕事柄、身に付ける機会は多いんです」

 「お仕事は何を?」

 「料亭で働いています」

 ——瞳子も将来の夢は料亭の女将だと言っていた。偶然の一致なのだろうか。

 その後も徹は瞳子と会話を続けたが、仮想世界の瞳子が徹の知っている瞳子と同じかどうかを確かめることはできなかった。徹が通っていたスナックの名前を出しても瞳子は店を転々としていて覚えていないと言った。徹が瞳子と深い関係にならなかったのも彼女が店を辞めたからだった。

 その日から徹は毎日のようにV2Lにアクセスするようになった。瞳子もほぼ毎日V2Lにアクセスしており、徹の話し相手になってくれた。瞳子は話題が豊富な女性で、政治や経済、芸能情報からスポーツに関するものまで最近のニュースは何でも知っていた。料亭で働いているというだけあって料理にも詳しく、徹が最近料理に凝っていると言うと、料理の作り方も丁寧に教えてくれた。また不思議なぐらいに徹の好みを理解しており、徹が好きな料理や情報を教えてくれるのだった。

 そうして数週間が過ぎたころ、徹は思い切って瞳子に尋ねてみた。

 「もしよろしければ、一度実際にお会いできないでしょうか」

 だが、瞳子は伏し目がちに首を振って言った。

 「すみません……それだけはできないんです」

 徹の淡い期待は裏切られた。

 「失礼しました。さっきの申し出は忘れてください。もう言いません。私はここであなたと話せるだけで満足なんです。あなたのおかげで毎日が楽しくなったのですから……また、ここで会っていただけるでしょうか」

 「それはかまいませんわ。私もあなたとお話しするのが楽しいんです」

 社交辞令とわかっていても悪い気はしなかった。それからも徹は仮想世界で瞳子との逢瀬を続けた。

 そんなある日、徹は直人の娘のピアノの発表会に招待され、直人の家に泊まることになった。発表会の日の朝、徹は直人の家にあるパソコンを借りてV2Lにアクセスしようとした。そして、直人の書斎に入ったとき、パソコンの傍に散らばっていた書類の一つが目に止まった。それは房代のエンディングノートから切り取られたものだった。

 ——何故、これがここに?

 そこにはV2Lのアカウント情報とともにこう書かれていた。

 「私のV2Lアカウントはお父さんが利用している間は消さないでおいてください。デジタルライフサービスに私の人格をコピーして『瞳子』というキャラクターを登録しています。私のキャラクターの代わりにこちらを有効にしてください。支払いは済ませてありますからご心配なく。そして、お父さんがこのノートを見る前にこの部分は切り取っておいてください」

 徹は書かれている内容がすぐには理解できなかった。「デジタルライフサービス」をパソコンで調べてみると、V2Lの特別なサービスであることがわかった。簡単に言えば、V2Lの利用者の人格を人工知能が学習し、それを仮想世界のキャラクターとして誕生させるというものである。徹の話し相手になっていた瞳子が架空の人物ということが徹には信じられなかった。だが、仮想世界の瞳子が随分と最近のニュースに詳しかったのも人工知能がニュースを拾ってきたのだと思えば理解できる。会うことができないと言った理由も明白だ。

 ——ひどいじゃないか、房代。ばれていないと思っていたのに、瞳子のこともお前は知っていたんだな。あれだけ再現できているってことは直接会ったんだろう。あの頃は俺には何も言わなかったのに、こんなやり方で仕返しするとは……

 徹は房代が仮想世界のキャラクターに瞳子という名前を付けた理由を当て付けのようなものと思っていたが、よく考えるとそれが間違いであることに気が付いた。そして、財布に入れて持ち歩いている房代の写真を取り出し、写真の中で微笑んでいる房代に語りかけた。

 ——房代。お前には俺が毎日嬉しそうにV2Lにアクセスする姿までお見通しだったのか? たまたまここで切り抜きを目にしなければ、俺は瞳子と話すことが生きがいになっていただろう。それがお前の狙いだったのか? だが、そんなことはする必要は無かったんだ。俺が仮想世界の中で会っているのはお前の人格なんだろう? どうりで俺の好みはわかっているし、懐かしい感じがするんだ。俺はお前に会うために毎日アクセスしていたんじゃないか。

 徹は切り抜きに書かれていた房代のアカウントでV2Lにアクセスすると、瞳子のキャラクターの設定を房代が利用していた頃の設定に戻した。そして、自分のアカウントでV2Lにアクセスした。

 そして、仮想世界でいつも訪れていた酒場から自宅に帰ると————そこには房代がいた。

 「お帰りなさい」

 「ただいま」

 「今日は飲みには行かないの?」

 「ああ。もう飲み屋に行くのは止めたんだ」

 瞳子がスナックを辞めたときにも徹が言った言葉だ。

 「お前にはいろいろ心配をかけた。申し訳ない」

 「何を言っているの。夫婦なんだからお互い様よ」

 「いや、お前がこんなに俺のことをいろいろ考えてくれていたのに、俺はお前に何にもしてやれなかった」

 「過ぎたことを悔やんでも仕方ないわ。前を向いて生きるのよ」

 人工知能の言葉とわかっていても徹は背中を押された気がした。人工知能に託したのも房代の意志なのだ。

 「……ありがとう」

 徹が思わずつぶやくと、仮想世界の房代も優しく微笑んだように見えた。

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