未来樹

だいふく

第1話

 高校二年生の秋にもなると、自然と自分の将来のことを考え始めるものらしい。教室の中では、どこの大学に行くだとか、学科はどうするだとか、そんな話がちらほらと聞こえてくる。

 私、佐原木さわらぎいつきも、周りと同じように自分の将来を考える……のだが、他とは少し事情が違う。

 一言で言えば、夢がない。

 特に趣味はない。部活は何もしていない。好きなことはない。憧れるものはない。やりたいことはない。とにかく願望がない。

 一つでもそういったものがあれば、ある程度未来を考えることができるのだろうが、私はそれすらできないのだ。

 先日提出した進路希望調査にも、聞いたことがあって、自分の学力に最もふさわしいと思われる大学の名前を書いた。私学だったが、私は一人っ子で、家庭がお金に困っているわけでもない。国公立にすべきなのかもしれないが、やりたいことがないのにわざわざ受験勉強をして入学するというのも変な話だと思う。

 進学希望にしているのも、周りが軒並み進学するということと、両親が進学を希望しているから、ということ以上の理由はない。


 そして私は、そんな私のことが好きではない。


     ***


 ホームルームが終わり、部活に行く人は急いで着替えに向かい、そうでない人もぽつぽつと教室を出て行く。私も鞄を持ち上げ、教室を出た。

「佐原木、ちょっといいか?」

 声を掛けてきたのは担任の松戸先生だった。彼は数学教師で、授業がわかりやすいと生徒の間では評判である。

「どうしたんですか?」

「こないだ出してもらった進路希望調査なんだけど、ホントにS大志望でいいのか? このまま勉強してれば間違いなく受かるだろうけど、お前ならもっと上を目指せるだろう。行きたい学科でもあるのか?」

「いや、ないですけど」

 最小限の努力で行ける大学を書いただけなのだから、当然である。先生はそこを理解していないし、私も、理解してもらうつもりはない。

 私の言葉を聞いて、松戸先生は頭を掻いた。

「うーん、それなら俺としてはもうちょっと上を目指して欲しいんだけどなぁ」

「私の学力が急に上がれば、それも考えますね」

「はぁ、そうか……。ま、気をつけて帰れよ」

「はい、さようなら」

 挨拶を交わして、先生は去っていった。私のような生徒を相手するのはさぞ面倒臭いことだろう。先生の心労を考えると、同情したくなってくる。しかし私には夢というものがないのだから、どうしようもない。


 帰路につく。

 校門を出てから十五分ほど歩けば家だ。自転車登校をしないのは、最低限の体力を養うため。往復三十分くらいの徒歩なら、毎日でもさした苦労にはならない。

 普段なら真っ直ぐ家に帰るところだが、今日は珍しくそういう気分ではなかった。少し寄り道をして帰ろう。別に当てがあるわけではないけれど、ぶらぶらするだけでも気分転換にはなるだろうし。

 私の通う学校は大きな通りに面しているが、校門はそれとは反対方向にある。私の家はその通りとは逆の方向にあるので、普段ならば通りに出る必要はない。だから今日は、普段行くことのない大通りの方に出てみようと思った。

 大きな通りといっても、基本二車線、ところどころ三車線になっている程度の通りである。住んでいるところが田舎なので、比較的、という言葉が一番初めにつく。

 その道を渡って少し歩くと、見慣れない建物があった。

「あれ、こんな店あったんだ」

 その角にあるのは、小さな土産物屋くらいで、正面はガラス張りの白い二階建ての建物だ。軒先には大きいものは私の背丈以上、小さいものは両手で抱えられるくらいの、鉢植えが幾つも置かれている。少し視線を上げると、控えめな緑色で『Alberi futuri』と書かれている。どうやらそれが店名らしい。

「アルベリ、フューチュリ……?」

口に出して発音してみるが、如何せん違う気がする。どういう意味かはわからないが、少なくとも英語以外の言語であることは間違いないだろう。

 興味を惹かれた。普段湧き上がらない、いわゆる好奇心というやつがふつふつとこみ上げてきた。

 入り口のガラスのドアには『OPEN』と書かれたプレートが提がっている。音の立たないように慎重に扉を開けるが、上に鈴がつけてあったらしく、少しだけ音が鳴った。店内には誰もおらず、ただたくさんの植木鉢が置かれているだけだ。

「……こんにちは」

 小さな声で呟いて、恐る恐る足を踏み入れた。正面のカウンターにはレジスターが置いてあるが、そこに人はいない。カウンターの向こうには奥に続く扉があるが、誰も出てくる様子はない。明かりは点いているのだから、誰かいるはずなのだが、いくらなんでも無防備すぎると思う。泥棒が入ることを考えないのだろうか。

 少しの間ドアの前に突っ立っていたが、やはり店員さんが出てくる様子はないので、勝手に店内を物色させてもらうことにした。

 店内を見回すと、外から見ていた以上に沢山の植物があった。いわゆる、観葉植物というやつだ。デパートや喫茶店で見たことがあるようなものも混ざっている。

 店内は向かって右奥に続いており、そのガラス張りの壁際には大きなテーブルが幾つか並べられ、その上には小さな鉢植えに入った植物が所狭しと並べられている。見覚えのあるものも幾つかある。

 焼かれた二枚貝みたいに口を開いているのはハエトリグサだろう。これくらいなら私も名前を知っている。開いた口の中にハエなんかを誘導して、獲物がとまったらぱっと閉じるのだ。睫毛みたいに並んだ棘に閉じ込められた獲物は、溶けて栄養となるのを待つしかなくなる。改めて考えてみると恐ろしいというか、ハエのことが少し不憫になる。

 このフロアの一番奥には階段があって、その手前のテーブルには沢山のサボテンが並べられている。オフィスやダイニングにでもありそうな小さなサボテンばかりだ。

 日常の中でよく見かける観葉植物も、こうして一箇所に沢山並んでいると、まるで御伽の国に迷い込んでしまったような感覚に陥る。

「お気に召したものがありましたか?」

 背後からそんな問い掛けが飛んできて、心臓が止まるかと思った。

振り返ると、いかにも柔和そうな男の人が立っていた。エプロンをしているところを見るに、店員さんだろう。二十代くらいに見えるが、今どき年齢より若く見える人なんていくらでもいるから、本当のところはどうかわからない。

しかし、少し勘違いされているらしい。私には購入意欲なんてないのだ。

「別に、買おうと思って来たわけじゃないので」

 そう言うと、店員さんは微笑んで、

「そうでしたか。でしたら、好きなだけ見ていってください」

「ありがとうございます」

 在り来たりな会話。それ以上発展することもないので、私は改めてサボテンの並んだテーブルに向き直った。

 ふと、目に入ったのが濃桃色の花だった。

 その可愛らしい花は、真っ白な棘や綿毛が生えた丸く小さいサボテンについていた。サボテンに花がつくことは知っていたが、実際に見るのは初めてだ。しかも自分が想像していたのとはまるっきり違う見た目をしたサボテンで。

 その珍妙なサボテンに魅入っていると、さっきの店員さんが私の横に移動してきた。

「それは白珠丸っていいます。ちょうどこの間から咲き始めたばかりなんですよ」

「変わったサボテンですね」

 特に見た目が、という言葉は飲み込んだ。言わずとも伝わってはいるのだろうけど。

「そうでしょう。普通サボテンってこの時期には咲き終えるんですけど、このサボテンは冬の間に開花するので、ちょうど入れ替わりになるんですよね」

 あ、どうやら勘違いされたらしい。私はサボテンの花が咲く時期なんて知らない。とはいえそれを言うわけにもいかないので代わりに、そうなんですか、と言った。

 好きなものがないということは、すなわち常に興味を惹かれるものがないというだけである。私がこの店に入ったのは、その雰囲気に珍しく好奇心がそそられたからであって、別に植物に興味があるわけではない。そんなものの解説を聞いたところで耳障りなだけだ。いい加減にこの店員さんもそれを察せば良いのに、と思う。

「何か、好きな花とかありますか?」

「……いえ、特には」

 ああもう、別に興味もないし、買うつもりなんてないのに。どうせ、なにか勧めて買わせようって魂胆なんだろう。

 そんな私にお構いなく、にこにこ笑った店員さんは今しがた話題に上がった白珠丸というサボテンを鉢ごと持ち上げた。片手で持てる程度の鉢植えだ。

「せっかくですから、これ、差し上げます」

「えっ?」

 突拍子もない申し出に、意図せず声が出てしまった。しかしそんなことを気にする様子もなく店員さんは続ける。

「これくらいのサボテンなら玄関なんかに置いても邪魔にならないでしょう。育てるのは難しいですけど、興味を持ってもらったものでサボテンデビューしたほうがいいですしね」

 そんなことを求めていたわけではない。私は別にサボテンが欲しいわけじゃないのだ。そんなものを無理して貰うことはない。お母さんなら喜んで貰うだろうけど、私は、無料でというところに気が引ける。

「あの、私、別にそういうつもりじゃ……」

「そうですか? では、興味が出たらいつでも仰ってくださいね。おひとつ好きなものを差し上げますから」

 そんなこと、あるわけないのに。しかしそれを言い出すこともできず、私はただ頷いた。

 店員さんは持ち上げた鉢を元の場所に戻して、

「では、私は用事をしてきますね。何かあればいつでもお呼びください」

 そう言い残して、店員さんは入り口のほうへ歩いて行った。

 私はサボテンの置かれたテーブルに視線を戻す。真っ白な白珠丸が一際目立っている。

 これを受け取っていたら、私はどうしていたのだろう、と考える。

 趣味とは興味を持ったからするものであって、私みたいに何にも興味を持てない人間が持つのはおかしい。もちろん、他人から勧められたことをきっかけに始めるということもあるだろうが、仮に、白珠丸を受け取っていたとして、私はそれをきっかけにできたのだろうか。

 ……わからない。

 願望のない私がそういうことを考えても仕方ないのかもしれない。私は思考をやめて、ぼんやりと店内の植物を見つめていた。


     ***


 ふと腕時計を見ると、もう四時半を回っていた。そろそろ帰らなくては、連絡なしに普段より帰りが遅いとお母さんも心配するだろう。帰りに電話だけ入れておこう。

 足を入り口に向かって動かすと、ちょうどカウンターの奥から店員さんが出てきたところだった。

「あ、もうお帰りですか?」

 私に気付いて、声を掛けてきた。

「はい、ありがとうございました」

「いえいえ。お客さん、そこの高校の生徒さんですか?」

「はい」

「そうですよねー。制服に見覚えがありましたから」

 店と学校の位置関係上、この店の前を私の高校の生徒はよく通るはずである。この店員さんは制服を覚えていたらしい。

 私が何も答えずにいると、店員さんが続けて口を開いた。

「……バイトに興味とかありませんか?」

「バイトですか?」

 唐突な質問だったので、私は反射的に聞き返した。店員さんは明るい笑顔のまま、

「ええ、アルバイトです。やってみないですか、うちで」

 つまり勧誘らしい。

 口を開いて、それから返答に詰まった。

 こんなもの断るべきだという自分と、やってみてはどうかという自分がいる。

 こういうアルバイトは、観葉植物に興味がある人がするべきであって、私みたいな人間がするべきではないと思う。それなのに、このアルバイトが、夢や願望といったものを見つけるきっかけになるのではないかとも考えている。

 それなら、私は、

「ごめんなさい。こういうことは、植物が好きな人がやるべきです」

 そう答えるしかない。興味がないことをして、他人に迷惑をかけるのは間違っている。

 店員さんはしかし笑顔で、

「それって、やってみたいという気持ちがあるということですか?」

 私は無意識のうちに頷いていた。

 それで、店員さんはこう言うのだ。

「なら、やってみてください。今うちの店は従業員がいなくて困っているんです。助けると思って、働いてみませんか?」

 私の考えていることを全て見通したかのようだ。それなら、断る理由が何もないじゃないか。

 私は意識せず手をぎゅっと握り締めていた。

「……しても、いいんですか?」

 尋ねると、店員さんは嬉しそうに頷いた。

「はい、もちろん!」

 そして私は、『Alberi futuri』のアルバイト店員となった。


     ***


「ねえいつきー」

 五限が終わって、次の授業の準備をしていると、クラスメートの三笠山あずさが声を掛けてきた。

「どうしたの?」

 あずさが声を掛けてくるのはいつものことだ。私は、どうせいつもの「一年生が部活頑張らないのー」みたいな愚痴だと思って、机の中から古典の教科書を出しながら答えた。彼女はソフトボール部の副部長をしている。ボーイッシュなショートカットと日に焼けた肌が特徴的だ。

しかし私の予想に反して、今日のあずさは違った。

「今日の放課後ヒマ? 一緒にクレープとか食べに行かない?」

 あずさからこういう提案をするのは珍しい。彼女は部活中心の生活で、そんな事をしている暇はないはずだ。……もちろん、私の方から誘うこともないのだが。

「部活は?」

 聞くと、あずさは残念そうに答える。

「ほら、今日グラウンドに工事が入ってるじゃない。グラウンド使えないし、空いてるスペースも野球部とサッカー部にとられちゃって、残念ながらオフになっちゃったのよ」

 確か、フェンスの修理だったっけ。先生が昨日のホームルームで言っていたような気がする。

「それはそれは。でも、今日は私用事があるから付き合えないよ?」

「えー、残念。じゃあ他の人誘うよ。で、用事ってなに?」

 そこまで話す必要はないだろうと思いつつも、あずさは言わなければ引き下がらないことは私も了承している。

「バイトよ、バイト」

 そう言うと、あずさが信じられないものを見たような顔をした。

「バイト!? 中学時代クラス一のイケメンに告白されたとき、『ごめんなさい、私、恋愛に興味ないから』って断ったくらい何事にも興味を持たないあの樹が!?」

「やめてよ、もう」

 余計な情報を大声でアナウンスしないで欲しい。周りの視線がものすごく痛い。

 制止すると、あずさは頭を掻いて、

「あはは、ごめんごめん。でも、あんたがバイトなんてほんとにどうしたの? 頭でも打った?」

「私のことを一体何だと思っているのか、一時間くらい問い質したい気分だわ……」

「そんなこと言わないでよー」

 そんな会話をしていると、始業のチャイムが鳴った。古典の五里松先生(通称ゴリ松)はチャイムが鳴り終わると同時に教室に入ってくることで有名である。立っていた生徒もじわじわと自分の席に戻っていく。

「ほら、あずさも席に戻りなよ」

「ちぇっ、今度詳しい話は聞くからねー」

 と言い残して、とても残念そうに帰っていくあずさ。私は少しほっとしていた。『興味を持つきっかけにするため』なんて、言えと言われて言えるような理由ではない。

あと、コンビニのような普通のバイト先ではなく、植木屋というところに少しの恥じらいというのもあった。まあ、コンビニならそもそもバイトしようなんて思わなかったろうけど。

扉の開く音がし、ジャージ姿のゴリ松先生が入ってきた。

この人はやっぱり体育教師にしか見えないなぁと思いつつ、私は古典の教科書を開いた。


    ***


「……こんにちは」

 できる限り小さな声で挨拶をすると、なんとその声を聞き取ったのか、奥から昨日の店員さんが出てきた。やはり昨日と同じ緑色のエプロン姿である。

「お、いらっしゃい、新人さん。さ、まずはこっちに来て」

 そう言って、私をカウンター奥の部屋へ案内してくれた。

 そこには、ホースやジョウロ、植木鉢などの園芸用品が山ほど揃っていた。壁には、鉢を提げるための網や、支柱が立てかけてある。部屋の隅には、椅子と机が一つずつ置いてあり、その上にはマグカップやお皿が出しっぱなしにされていた。

「ここは在庫置き場兼休憩スペース。物を壊さない限りは自由に使ってくれていいから。あ、お手洗いは二階で、世話用の道具は表にあるからね」

 手早く説明をしながら、机のほうに向かっていく店員さん。私は頷き、ひとつひとつを頭に収めながらそれについてゆく。

 と、そこで一つの違和感に気付いた。それを口にする。

「店員さん、口調変わりましたね」

「そりゃあ、もう君はうちの従業員だからね、堅苦しくする必要ないでしょ。ちなみに僕は店長の八重樫ようっていいます。君の名前は? 名札も作りたいし」

 そういえば、昨日はお互い名乗らなかったっけ。私は慌てて自分の名前を口にする。

「佐原木樹です。よろしくお願いします」

 私は正直、自分の名前が好きではない。その理由は、言わずとも何となく分かるだろう。あずさや他の友達に名前呼びされるのは慣れたが、あまり接点のない人から樹と呼ばれるのは少し嫌だ。だというのに、

「じゃあ、樹ちゃんで。名札は佐原木でいいよね」

 八重樫さんはそう言うのである。私も黙って頷くのではなく、最低限の抵抗は試みる。

「あの、できれば苗字で呼んで貰えませんか? あんまり、自分の名前が好きじゃないので」

「確かに男っぽい名前だもんね。でも、いい名前なんだし、これを機に好きになればいいじゃん」

 それを何度言われたことか。それでも好きになれないのだから、そもそも私の名前も例外ではなかったのだろう。好きなものができることを期待するのは、もうやめている。

 そして些細な抵抗は無駄に終わり、私の呼び名は「樹ちゃん」になった。


 それから私は八重樫さんに、植物の世話の仕方や商品の取り扱い方を教えて貰い、業務についた。エプロンは新品を渡されたので、制服のワイシャツの上に着た。

 業務といっても、植物の水遣りにそう時間がかかるわけではないし、商品も、客が来なくては在庫が減ることがない。基本的にすることがないのである。

 現に今も、カウンターの裏にある椅子に腰掛けてお客さんが来るのを待っているだけだ。

 一応、八重樫さんからはレジスターの使い方を教えてもらったが、そのあたりは適当でいいと言われてしまった。自分でやるのだそうだ。

 しかし、だとすると、私が雇われた理由が余計にわからなくなる。何もせず座っていて、ときどき水遣りをするだけで給料が貰えるのはありがたいが、それでは店が損をするだけではないか。

 そんなことを考えていると、ドアにつけられた鈴が鳴った。お客さんだ。

「いらっしゃいませ」

 入ってきたのは、五十くらいの親切そうなおばさんだ。私の顔を見て、少し驚いたような顔をして、

「あら、まあ、新人さん?」

 私が頷くとおばさんは再びあらまあと言った。

「店長さんが人を雇うなんて珍しいわねぇ」

 雇われて一日の私ですらそう思うので、苦笑いを返しておいた。

「高校生? 店長もまた、随分可愛らしい子を雇ったものねぇ」

「あの、いつもここに来られるんですか?」

 尋ねると、おばさんは頬に手を当てて、

「ええ、そうよ。だいたい週に一回は来るかしら。店長さんとお話をしているだけだけど」

 新しい店だと思っていたが、どうやら常連客もいるらしい。私が感心していると、二階から八重樫さんが下りてきた。八重樫さんはおばさんに常連のおばさんに気づいて、

「あ、いらっしゃいませ、小田原さん。本日はどうされました?」

「どうもこうも、どうしたのよ店長さん。こんな可愛い子を雇っちゃって」

 言われて、八重樫さんは私の方をちらっと見た。

「ああ、彼女ですか。ええ、今日からなので、まだ名札もできてないんですけどね」

 と、八重樫さんが何かを促すように右手を動かしている。あ、自己紹介をしろということか。

「佐原木です。よろしくお願いします」

 深々とお辞儀をする。人との付き合いは礼儀から、と昔からお婆ちゃんに言われていた。礼儀正しければ、大人は可愛がってくれるらしい。どう考えてもそれには下心があると思うのだけれど、礼儀正しいのが良いことには変わりないので、私はそれに従っている。

 どうやら小田原さんはそれが気に入ったらしく、にこにこしながら、

「あらあら、しっかりしてるのね。おばさんが高校生のときなんて、もっと荒れてたわよー」

 なんて言っている。悪い人ではないのだろうが、私はよく喋る人は得意ではないので、八重樫さんに目配せをする。八重樫さんもそれを察してくれたらしく、うまく小田原さんの話を誘導してくれている。

「では、今日は土のご相談ですか?」

「ええ、そうなの。そろそろ植え替えたほうがいいかと思って」

 さすがに接客が手慣れているというか、上手い。いつの間にか商品の話になっている。

「じゃあ、僕は小田原さんのご相談を受けるから、樹ちゃんはカウンターお願いねー」

「あ、はい」

 それから、八重樫さんは小田原さんを連れて二階に戻って行った。土などが置いてあるのが二階なのだ。

 私は再び、カウンターの裏の椅子に座った。

 客商売で苦手な人がいるのはよくないな、と思った。


     ***


 そんなこんなで、バイト一日目が終わった。

 結局、来たお客さんは小田原さんと、あと偶然立ち寄った三人だけだった。想像以上にこの店は流行っていないようだ。

「お疲れ様。今日はどうだった?」

 休憩室に入ると、八重樫さんが笑顔で声を掛けてきた。労いの言葉を掛けられるほど、私が何かしたということはない。

「思ってたよりしんどくなかったです」

 正直なところである。アルバイトというと、コンビニバイトのように常にレジに立ち続けていたり、商品点検を行ったりするものだと想像していた。この店は少々――どころかかなり変わっているらしい。

「いつもこんな感じだから気を張る必要はないよ。今日一日やってみて、何か疑問とかあった?」

「あ、じゃあ。この店の名前って、なんて読むんですか? 英語じゃないと思うんですけど」

 八重樫さんはあー、と声を出した。

「確かに、店員が知らないと変だしね。『アルベリ・フトゥーリ』って読むんだよ。イタリア語」

 私の予想はあながち間違っていなかったらしい。ヨーロッパの言語はどれも似通っている。ただ、それにしても分からないことはある。

「どういう意味なんですか?」

「うーん、言ってもいいんだけど、今はまだ早いかなぁ」

「早い?」

 そこに引っかかった。バイトをしているのだから店名の由来くらい教えてくれてもいいじゃないか。

 だが、八重樫さんは、

「その話はまた今度ね。他に何かある?」

と私をはぐらかす。

 そう言われてしまってはこれ以上追及できない。私は雇われている身で、八重樫さんは雇っている立場だ。だからこの話は終わりにして、他の質問をすることにした。

「失礼かもしれないですけど、この店って赤字じゃないんですか?」

 もちろん夕方だったからというだけかもしれないが、それにしても客が少なすぎた。しかも殆ど商品は売れていない。一人でもやっていけそうなのに、バイトなんて無駄に雇って損はしないのだろうか。

 八重樫さんはなんでもないことのように言う。

「赤字だよ」

「えっ、この店潰れないんですか?」

「うん。僕の両親が土地持ちでいくつか賃貸マンションを持ってるから、お金には困ってない。親が死んだら僕はそれを継ぐだけだし、この店は趣味でやってるだけって感じだね」

 なるほど、八重樫さんからしてみれば老後の道楽みたいな感覚なのだろう。私には理解のできないことであるけれど。

 しかし今私が抱えている疑問は解決できた。それと引き換えに一つ気になることも残ったが、それはそれだ。

「ありがとうございました」

 最後にお礼を言って、その日のバイトは終わった。


     ***


「ただいま」

 ドアを開けて、呟くように言う。

 時刻は六時半。『Alberi futuri』を出たのが六時だから、徒歩で三十分かかったことになる。普段より二時間半ほど遅い帰りだ。

 二階に上がって、自分の部屋に鞄を置いてから一階のリビングへ入った。お母さんが晩御飯を作っているところだった。

 改めてただいまと言うと、お母さんが手を止めて振り向いた。

「樹、こんな遅くまでどこに行ってたの? お母さん心配したのよ?」

 どうやらご立腹らしい。そういえばまだお母さんには『Alberi futuri』で働き始めたことを言っていなかった。

「ごめんなさい、バイト始めたの」

 その言葉は少なからずお母さんを驚愕させたらしい。そりゃあ、今まで趣味も持たなかった娘が高二の秋に突然アルバイトを始めれば驚くだろう。

「あんた、受験はどうするの?」

 ああ、そういえばこの間進路の話をしたばかりだった。

「今の調子でいけば大丈夫。しんどくなったらバイトはすぐにやめるし」

 それだけでは心配する親を安心させる薬にはならないだろうが、気休め程度にはなるだろう。

「そう……ならいいけど」

「うん、心配しないで。それよりお父さんは今日も仕事?」

 お母さんは頷いた。

「ええ、大きな事件があったとかで、しばらく泊り込みらしいわ。たまに帰ってくるとは言ってたけど……」

「そう……」

 お父さんは刑事をしている。ときどきこうして警察署に泊まることがあるほど忙しいが、親子仲が冷え切っているということはない。むしろ、私はそうして人のために働くお父さんを誇らしく思っているところがある。自分にはないものをお父さんは備えている。

「お父さんにもバイト始めたことは伝えておきなさいよ。あの人のことだから反対はしないと思うけど」

「うん、わかってる」

 お父さんは、私のすることに口出しは殆どしない。間違ったことをすれば叱る程度で、基本的には私に任せてくれていた。

 電話は出られないだろうから、あとでメールだけでもしておこうと思った。


     ***


 バイトを始めてからおよそ一週間が経った。

 その間に特に何かあるわけでもなく、今までとの違いは私の生活の一部に『Alberi futuri』でのバイトが加わったくらいである。特に授業に支障が出たとかはないし、このまましばらくは続けるつもりである。

 本日もゴリ松先生の古典がある。その授業の前に、私はあずさと話をしていた。

「最近バイトはどうなの? 一度行ってみたいんだけど、部活が終わる時間には閉まってるんだよね?」

 私は頷きを返す。

「うん。六時前には閉めてるから。土日も一応やってるけど、あずさ寝てるでしょ?」

「あー土日はねー」

 あずさは、休みの日は部活以外の時間は睡眠に充てているはずで、それを失くしてまで『Alberi future』に来ることはないだろう。

 ふと、あずさがじっと私の顔を見ていることに気付いた。

「どうしたの? 何かついてる?」

 しかしあずさはかぶりを振った。

「いや、なんていうか……樹、ちょっと変わったよね」

「変わった?」

 私が聞き返すと、あずさは首を縦に振った。

「うん。なんか前より楽しそう」

 そんなことを言われるとは思ってもおらず、私は少し戸惑った。

「……そうかな」

「絶対そうだって! 明るくなったよ!」

 お世辞にしても、そう言われると、なんだか嬉しくなってくるものだ。私は単純な人間らしい。

 と、そうこうしているとチャイムが鳴って、今日の会話はそこで打ち止めとなった。


     ***


 帰り際、鞄を持ち上げるとクラスメートに声を掛けられた。

「佐原木、ちょっといいか?」

「あ、えっと……志乃原くん、どうしたの?」

 一瞬名前が出てこず戸惑う。彼は確か陸上部に所属している。帰り際によく、グラウンドで走っているのを見かける。しかし私とは全くと言っていいほど接点がない。

 志乃原くんはやや落ち着かない様子で、

「少し話があるんだけど、時間あるか?」

「大丈夫だけど、話って?」

 志乃原くんから私に話すことなんて何かあったかなぁ、と私は思考を巡らせる。

「いいから、来てくれ」

 そう言って志乃原くんが歩き始めたので、私は慌ててそれについて行った。


 コの字型の校舎の南側にはグラウンドが広がっていて、北側には囲われるように中庭がある。下校の際にそこを通る人はおらず、また部活に使用されることもないため、この時間はちょうど誰もいない。

 中庭の中央には大きな楠があって、志乃原くんは私をその下に連れてきた。

 互いに向き合うかたちで立つと、志乃原くんが口を開いた。

「話ってのはさ、なんていうか、その」

 ここまで来ると、私も何となく状況が飲み込めてくる。だから、敢えて何も言わなかった。

 志乃原くんは顔を上気させて、しかしついに決心したのか、口を開いた。

「直接の関わりとかなかったけど、ずっとお前のことが好きだった。佐原木がよければ、俺と付き合って欲しい」

 その告白が、私の中の変化を明確に実感させた。

 自分で言うのは変かもしれないけれど、私は昔からそれなりにモテる。告白も頻繁にされていた。しかし、その際に心が揺れ動くことなんて一切なく、ただ「恋愛に興味がないから」と断っていた。

 今はそうではないのだ。興味がないと思っているのに、鼓動が早まっているのがわかる。私は志乃原くんが好きなのだろうか。たぶん違うのだと思う。しかし、この胸の鼓動は収まらない。

 だから、何と答えていいかわからず、私の口は自然に、こう言っていた。

「……少し、時間をください」

 志乃原くんは玉砕覚悟で来ていたのだろう。私の返事にとても驚いている。

「あ……ああ、もちろん」

 私はそれ以上何も言えず、かといって、ここから立ち去ることも出来ずにいた。すると、志乃原くんが、

「意外だったな」

「何が?」

「まさか保留されるとは思わなかったってこと」

 返事をした本人もそう感じているくらいだ。された側も当然そう思っているのだ。

「その場で振られると思ってたの? 私が今までそうしてきたから」

 自虐気味にそう聞いてみる。私が今までしてきたことが志乃原くんの耳に入っていない筈もない。しかし志乃原くんの口からは予想外の言葉が返ってきた。

「最初っから振られると思ってたら、卒業間際に言うって。俺はただ、普段の佐原木なら、イエスだろうがノーだろうが、その場で返事してただろうから、なんか、変わったなって思って」

「そうかな」

 また、「変わった」。今日二度目に聞くその言葉。私はそうは思っていないが、この数日で私には、周りから見れば十分に変化があったらしい。

 志乃原くんは頷いて、

「そうだよ。じゃ、俺部活行くから。返事はいつでもいいよ」

「うん、ありがとう。部活頑張って」

 私が手を振ると、志乃原くんもそれに応じて手を振ってくれた。

 ……私も、バイトに行かなくては。


     ***


 その日の仕事――といっても大したことはしないのだけれど――は全然手につかなかった。水のやりすぎや、土をこぼしたり、ミスも幾つかあり、それを八重樫さんがカバーしてくれたことにも申し訳なさを感じていた。

 仕事が終わり、休憩室でエプロンを脱ぐと、八重樫さんが湯気の立ったマグカップを持ってきてくれた。

「紅茶でも飲みなよ」

 私はそれを両手で溢さないように受け取って、

「……ありがとうございます」

 気分の落ち込みようが声にまで出てきている。私は紅茶を口に含んだ。

「落ち込まなくていいよ。ミスは誰にでもあるし、ほら、失敗は成功の母って言うじゃん」

「そう……ですね」

 八重樫さんが私を気遣ってくれているのがわかる。しかし、私の落ち込みの原因はバイト中の失敗ではなく、昼間の出来事だ。しかも落ち込みというよりは、頭の中でもやもやしているという感じだ。

「あの、相談があるんですけど……」

 思い切って切り出してみた。

「やめるとかじゃないよね?」

 もちろんそんな筈がないので、私は慌ててかぶりを振った。

「違います違います! ……実は、今日、クラスの男子に告白されたんですけど」

 八重樫さんの顔に期待感が表れている。面白そうだと思っているに違いない。

「付き合うの?」

「それが、わからないんです。私は、今までずっと恋愛に興味がなかったのに、今日はドキドキしてしまって。でも、別にその男子が好きだっていうわけじゃないと思うんです」

 すると、八重樫さんはうーんと唸って腕を組んだ。楽しんでいるのかと思っていたが、案外真面目に考えてくれているらしい。

「そうだなぁ……。樹ちゃんは、昔の僕に似てるんだよね」

「似てる?」

 八重樫さんは頷いて、

「そう、似てる。樹ちゃん、自分に好きなこととかないって思ってるでしょ」

 言い当てられて、私は驚いた。

「はい、その通りです。どうしてわかったんですか?」

「だから、似てるんだって」

 ああ、似てるというのはそういうことか。八重樫さんも昔は私みたいに夢も、好きなことも、趣味なんかもなかったと。今の八重樫さんからではそんな姿を想像することができない。

「僕が高校生のときにも、夢とか好きなこととかなくってさ。だから、樹ちゃんの気持ちもなんとなくわかる。樹ちゃん、ここで働き始めてから変わったって言われない?」

 私は頷いた。

「どうして、わかったんですか?」

「僕だってそう思うもん。最初この店に来たときに比べて、すごく楽しそう」

 あずさと同じことを八重樫さんも言う。実感はないけれど、私はそれほど楽しそうに仕事をしているのか。

「私は」

 言いかけて、やめた。これは楽しいとか、楽しくないとかそういう観点ではないのだろう。なんとなく、八重樫さんの言いたいことがわかってきた。

「樹ちゃんは、好きなこと、興味のあることを認めようとしてなかったんじゃないかな。昔僕がそうだったように」

 私は頷く。

 そう。そうだ。

 私は興味のあることを、心の中ではそうだと認めていなかった。思い返してみれば、このバイトだってそうだ。「やってみたい」という気持ちは、まさに興味を持つことではないか。私はそれを、きっかけにするためだとして、ここでのバイトを始めた。

 今までだってたぶんそうなのだ。

 何にも興味のない自分に酔っていた。『興味』を他の言葉にすり替えていた。

 ここでバイトを始めたことで、私はそれに気付けた。それが私の変化。

 初めて自分が興味を持ったことに取り組んでいたのだから、楽しくもなる。

 しかしまだ気付いたばかりなのだ。すぐに自分で判断できないこともある。

「私はどうすればいいと思いますか?」

 しかし八重樫さんは静かに、首を横に振った。

「それは、自分で考えることだよ」

「そう……ですよね。ありがとうございました」

 わかっていた。自分で決めなければならない。他人に答えを求めるのは志乃原くんに失礼だ。

「さ、今日はもう帰りなよ。遅くなったらお母さんも心配するよ」

「そうですね、お疲れ様でした」

 

     ***


 次の日の放課後、私は志乃原くんを楠の下に呼び出した。

 一晩考えて、返事は決まった。それを伝えるために、今度は私が覚悟を決めてきた。

 志乃原くんは陸上部の練習着に着替えて来ていた。

「返事、聞けるんだよな」

 私は頷く。そのために呼んだのだ。

 小さく、そして深く息を吸い込む。それから、私は唇を動かした。

「私、君とは付き合えない」

 志乃原くんの反応が少し怖くて、言った直後に目を瞑ってしまった。瞼を上げると、志乃原くんは悲しそうな、しかしどこか嬉しそうな表情をしていた。

「そっか、そうだよな」

 志乃原くんからしてみれば、寿命が一日延びただけ、という感じなのだろう。本来ならば、私はその場で振っていたわけで。

 しかし、私は変わった。興味がないから断るのではない。

「私、今、興味のあることがあって。恋愛もしてみたいと思うけど、それでも、私にはそれより優先したいことがあるから。だから、ごめんなさい」

 言い切ったと思った。私はこれ以上ないくらいに、志乃原くんを振った。

「……やっぱ、佐原木、変わったよな」

「うん、知ってる」

 私は変わることが出来た。『Alberi futuri』のお陰で。

 志乃原くんは、心底嬉しそうに笑った。

「うん、今の佐原木のほうが、ずっと好きだ」

「私も」


     ***


「そういえば、『Alberi futuri』の由来教えてもらえてませんでしたけど」

 観葉樹に水をやりながら、私は、隣で同じく水をやっている八重樫さんに言った。

「そういえばそうだっけ。っていうか、樹ちゃん自分で調べなかったんだ」

「ええ、意地でも八重樫さんから聞こうと思って。で、どういう意味なんですか?」

 八重樫さんはすぐには答えなかった。私が諦めて他のところに水をやりに行こうとした、そのときに口を開いた。

「『未来樹』。未来に向かって伸びる樹だよ」

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未来樹 だいふく @guiltydaifuku

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