第2話 後編

 キリング警部は一度現場に戻った。アンジェリカ・ローレンの部屋というのは若い女性らしく華やいだ装いを纏っている。化粧台の鏡に自分の姿を映されると、彼はほつれた前髪を何気なく撫で付けてから、窓辺へと近づいた。窓辺のフランス窓から外のベランダに出る。すると、アンジェリカに似た女が地上から彼に向かって手を振っていた。


「警部さん、調子はいかが?」

「貴女が現れたおかげで、気が滅入りそうになっていますよ!」


 アンドレアはまったく気にする様子もなく、二階へと上がって、警部と同じくベランダに出てくる。


「貴女はよほど、暇な方のようだ。捜査に首を突っ込んで!」

「別に邪魔をするつもりはありませんのよ。少し、気になるだけ」


 キリング警部は呆れた調子の声を放って、中に入った。被害者のいたベッドが、死んだ時のままシーツが乱れている。その横に照明ランプの乗った小さなテーブルがある。アンジェリカ・ローレンはそこに件の塩の小瓶を置いていた。


「ミス・シュルツ。言っておきますが、私はまだ、自殺や事故の可能性もあると思っていますよ。青酸カリという毒物は、ひと舐めしてもすぐにそれとわかってしまう妙な味がしますからね。それに気づかないとは思えない」


 あら、そうなの、とアンドレアはしばらく上の空になったあと、ゆっくりと首を振った。


「警部さん、アンジェリカは、風邪を引いていた、と先ほどお聞きになりましたわよね」

「はあ」


 キリング警部は間抜けそうに口を開けた。彼女はその反応に不満を顕にして、さらに言い募った。


「風邪を引いていたんですよ。それも熱はないようでしたけれど、かなり重症で。たぶん味もわからなかったんじゃないかしら。気づかずに口に入れてしまったこともありうるわ」


 きっと昨日不機嫌だった理由もそれなのよ、とアンドレアは一人合点がいったように頷いている。


「なるほどね、よくわかりましたよ。女探偵さん。で、貴女は何をしにいらしたんです?」

「確かめてみようと思って。さっきお願いしてみたの」


 いいことを思いついた少女の瞳をしながら、アンドレアは再び窓からベランダに出た。


「リュー、そこから何が見える?」


 キリング警部が目をやると、東洋人の青年が、エマが証言した通りの場所に立っている。


「右側の窓……ベッドの方ですかね、そちらのほうにキリング警部が見えます。そして、左側の窓には君が見えますよ」

「そう……じゃあ」


 アンドレアはリューから見て、右側の窓の傍に置いてある椅子に座った。「これでも見える?」


「見えますね。顔から上だけですけれど」

「ありがとう。じゃあ、最後に聞くけれど、ここのベランダに壁を登ってこられる?」

「できますよ」


 目を剥くキリング警部をよそに、リューはするすると器用に壁に生えた太い蔦を伝って、ものの一分でアンドレアの横に立つことになった。


「東洋人は軽業師の訓練を受けているのか?」


 リューが苦笑いして答える。


「案外登りやすい壁ですよ。キリング警部もおそらくお出来になられます」

「ありがとう、リュー。さすがにこの格好で登るわけにはいかなくて」


 アンドレアが礼を述べて、頬にキスを贈った。


「いいえ、これぐらい、大したことはありませんよ」


 リューが視線を斜め下に送りながら、ぎこちなく笑いを浮かべた。


「それこそ、『いいえ』って言いたくなることよ、リュー! だって、私、ここに現れたのが誰か、わかってしまったのですもの」


 アンドレアはにっこりして、握っていた右手を開く。それは銀の鎖につながれた、シンプルな銀の指輪だった。途端に、キリング警部が大きな声を出した。


「重要な証拠を隠していたのですか、ミス・シュルツ!」

「隠していたつもりはありませんわ。でも、アンジェリカの名誉ばかりは守らなければ。事件に関わりなければ、知られないままで越したことはないものね」


 キリング警部は苛立ちを隠さなかった。


「で、それをどこで見つけたというんです?」

「見つけたのは、キリング警部が探し終わった後のことよ。化粧台の引き出しのさらに奥の秘密の引き出しですわ。とても意味深でしょう?」


 銀の指輪を光にかざし、アンドレアは眩しそうに目を細めた。


「アンジェリカには秘密の恋人がいたのよ。指輪を大事にしまっておくような、ね」


 キリング警部とリューは互いに顔を見合わせることになった。














「神様の前では嘘をつけないわよね、みなさん」


 場を取り仕切る役割についたアンドレアはそういいながら、教会の祭壇の前に立つ。信者席に座る、関係者一同を見回して、念を押した。


「敬虔な英国教徒ですもの。……ああ、リューも、そうよね」

「そうですよ」


 リューの言葉に安心したかのようにアンドレアは息をつく。


「このような場に私が立つというのも、滅多なことではありませんから、説明不足

とか論理破綻とかあるかもしれないけれど、許してちょうだい。小娘の戯言で済むのが一番いいのだけれど。だって、もしかしたら、ここから一人、絞首刑に行く人物が出るかもしれないものね」


 アンドレアは少しだけ落ち着かなそうに手を組んだり、外したりを繰り返し、最初にこう口火を切った。


「とりあえずは、感謝いたしますわ、フォード牧師。快くこの場を提供してくださったことに」

「気にしないでください、ミス・シュルツ。間違ったことは正されなければならないのですから」


 フォード牧師の慈悲深い言葉は彼女の胸を深く打ったものらしく、ええ、本当に、と何度も何度も深く頷いた。


「それで、ええと、何から説明しましょうか」


 アンドレアはちらりと厳しい面持ちで彼女の隣に佇むキリング警部を一瞥し、意を決し、話し出す。


「もしも、アンジェリカが青酸カリで毒殺されたとしたら……。今のところの第一容疑者は、間違いなく深夜に彼女の部屋に入った謎の人影ということになるわ。まずは彼の正体から。深夜に窓から入っても、アンジェリカが中に招き入れる人物という時点で、かなり親密な間柄だということはみなさん理解なさっていたと思うわ。ウォルターには気の毒なことだけれど」

「いや、いいんだ。それが事実なら」


 ウォルターは諦めた様子で続けるよう促した。

 彼女は、銀の指輪を一同に見せる。


「夜中にこそこそと誰にも見つからないように出入りする人物。それも結婚式前夜にくる人物なんて、この指輪を渡した人物ぐらいなものでしょう? 次の日に結婚してしまう恋人――元、かもしれないけれど、その人物は会いに来たのよ。ね、エマ」


 名指しされたエマ・マクファーレンは、周囲の視線を一心に受けて、身を縮こまらせた。


「ね、エマ」


 アンドレアは繰り返し、彼女に問う。「私、決して、貴女を責めたりしないわ。貴女が誰を見ていたって。……貴女が不眠症なのは本当かもしれない。でも、そのために夜中に散歩するなんて、気の弱い貴女には無理な話だわ。本当は、こっそりと様子を見たかったのでしょう? 夫の浮気のあらましを」


 マクファーレン夫人はさっと顔を覆って嗚咽も漏らし始めた。夫のクリスはもはや観念して、妻を慰めるのをやめて俯いた。


「クリス! 君、まさか、娘を!」


 ローレン氏がクリスに掴みかかった。


「やめてあなた! お願いよ、やめて!」


 ローレン夫人が夫を止めようと背中にしがみつく。見かねたキリング警部がローレン氏を引き剥がした。「マクファーレンさん。話していただけますか」


「はい」


 クリスは小さく返事をする。


「僕とアンジェリカは愛し合っていたんです」


 マクファーレン夫人の嗚咽が一段と激しくなった。クリスは冷淡にも、何の反応を見せずに続ける。


「でも、僕と彼女は真の意味で親密になったわけじゃない。彼女は自分の貞操をとても大事にする人だったから。だから、本当の意味で浮気だとは言えないのかもしれない」

「そんなの、ただの浮気よりもっとひどいわ!」


 エマが泣き叫ぶ。クリスは首を横に振った。


「すまない、エマ。どうにもならなかったんだ。結婚して引っ越してきた場所で、まさか彼女に会ってしまうだなんて、思ってもみなかったんだ……!」


 クリスはチョッキのポケットから折りたたまれた紙片を取り出した。


「彼女が結婚することになって、彼女は僕を捨てた。諦めきれなかったよ。だって、あんな女性に二度と出会えるとは思えなかったから。だから、騙された。僕の家のポストに放り込んであったんだ、この紙片は。その伝言に従って、彼女の部屋を訪れたんだ。そのときは、アンジェリカは生きていたよ」


 紙片を受け取ったキリング警部はそれに目を通す。アンドレアも横から覗き込んで、内容を確認した。


「タイプライターで打ち込んであるわね。でも、アンジェリカって、タイプライターは苦手じゃなかったかしら」

「つまり、偽の手紙だったわけか!」


 キリング警部は紙片を睨む。


「そのことはとりあえずいいわ。エマ、お願いだから、話して頂戴。クリスの無罪を証明するために。……本当はクリスを見たのね? おそらくランプの照明で、シルエットぐらいは判別できたのでしょ? そのことを話して」


 エマはハンカチをぐいと目元でこすってから、話し始める。


「夫の浮気には……薄々気づいていたんです。愛されていないってもう随分前から気づいていて。夜中に抜け出す夫の行方が気になって気になって、寝られなくなりました。あのときも、夫が向かいの家に行くのを一部始終見張っていようと、思ったんです。二人は言い争っているようでした」

「そのときはどちら側の窓から見えていたの?」

「左側でした。アンジェリカは椅子に座っていて、クリスは正面に立っていました。彼は少し怒っていたのかもしれません」

「ああ。概ね間違っていない。手紙が偽だなんて知らなくて、てっきりよりを戻したいと勘違いしていたんだ」


 クリスが悲痛に顔を歪ませながら、椅子の背もたれに倒れた。


「大事なお話、ありがとう」


 アンドレアが慎重にそう引き取った。


「以上のお話から、クリスは無実だわ。部屋の位置からすると、ベッドのあるのは右側の窓の方だけれど、クリスがいたのはずっと左側の窓の方だもの。エマがずっと見張っていたなら、間違いないわ。アンジェリカはこの時、生きていたの。もちろん、青酸カリをすり替える暇もなかったでしょうね」


「やはり、アンドレアの自殺か」


 警部が憮然とした表情を浮かべる。いらいらしてように踵をかつかつと小刻みに揺らしている。


「そうとも言い切れないわ、キリング警部」

「アンジェリカには塩を舐めるという変な癖があったのよ。それに同じ白い粉末の青酸カリまでもっていたの。ちょっと魔が差した人なら、いくらでも考えついてしまう、お誂え向きの状況じゃない。これを利用しない手はない、って犯人は考えたに違いないわ。少なくとも、私ならそうするもの」


 これは冗談だけれど、とアンドレアは茶目っ気を見せる。


「晩餐の途中で席を立ったアンジェリカはそれから部屋を出なかったわ。と、いうことはその前なら、すり替えが可能になるわ。アンジェリカより前に食卓を立った人物は限られている。でもそのうち三人は一緒にいた」


 アンドレアの目は吸い付くようにその人物を見つけた。誰もが注目する中、人差し指で指し示す。


「フォード牧師……ですよね」


 教会の主は胸に十字を切った。それから、もったいぶるように立ち上がる。


「もしも私がそうしたとしても、あんなに怒っていたのだから、部屋に戻ってすぐに舐めてしまったかもしれないじゃないか。謀ったように夜中に舐めさせることなど、できるはずもない」

「そんなことありませんわ」


 アンドレアはちょっと得意げに歌うようにこう言う。


「だって、晩餐の席で何度も念を押されたでしょ? 塩を舐めないように、ってね。それを約束させた。でも、アンジェリカを小さな頃から見ていた貴方ならわかったでしょう、どれくらいの負荷をかければ、彼女が耐え切れずに塩を舐めてしまうかってね。案の定、彼女はストレスに耐え切れなかったわ。だって、夕食に怒っていたうえに、おそらくその原因だったクリスが夜中にまで押しかけてきたのだもの。貴方の書いた偽手紙のせいで」


 彼女はさらにキリング警部に向かって、付け加える。


「アンジェリカが怒っていたというのも、別れたはずの恋人が『結婚おめでとう』という祝辞を曲解して受け取っていたものだと思われるわ。嫌味ったらしく聞こえたのでしょうね」

「ええ、ええ。もうようくわかりましたよ、お嬢さん。貴女には脱帽しますよ」

 ふふ、とアンドレアは子供のように喜んだ。だが、牧師は不平を漏らした。

「ミス・シュルツ。笑顔のところ、申し訳ないがね。私が彼女を殺したという証拠はあるのかね」

「家政婦のエリザベスが見ているわ」


 エリザベスが静かに席を立って、堂々とこう言う。


「ええ、私、実は胡桃のケーキを食卓にお持ちするとき、階段を降りてくる牧師にお会いしたんです。あの時はお手洗いを探しに、とおっしゃっていましたけれど、うちは一階にあります。それをフォード牧師は何度もこの家にお邪魔しているはずなのに、変だなと思ったんです」

「だがね」


 フォード牧師がさらに言い募ろうとしたのを、アンドレアが遮った。


「貴方は主への信仰深き牧師でしょう? ここはいわば告解の場だというのに、ここで嘘をつかれるのですか? 数十年ずっと神の導き手としてこの村を牽引なさってきたのに、村人を裏切るのですか?」

「私は、ただ、聖なる結婚を、聖なるままに……」


 やがて彼は沈黙し、ああ、と嘆く。


「いいや、よそう。嘘はつけない。つけないのだから……」


 キリング警部がその腕に手錠をかける。それが、事件の顛末だった。








 キリング警部が車に乗ろうとしたそのとき、大きなボストンバックを持った女が助手席に座った。黒い大きなサングラスをかけ、肩までむき出しのシャツ、体のラインがあらわな臙脂色のタイトなスカートを身につけている、派手な女である。


「駅まで乗せてくださる?」


 彼は文句を言おうとして、諦めた。


「ミス・シュルツ。この村にまだ残ると思っていましたよ。リューもいますし」

「リュー?」


 彼女は不思議な顔をするも、すぐに得心のいった表情に変わる。


「リューのお話も興味深いのですけれど、それはまた今度にでも叶うことよ。最後に警部さんにお話しておきたいことがあったの」

「そうですか。どうぞ」


 キリング警部は車のエンジンをかけた。うるさい騒音が辺りを満たす。車がゆっくりと発進して、村の広場を横切って、道路に入っていく。


「アンジェリカ・ローレンの死は殺人だったわ」

「そうですね。貴女が思った通りに」


 アンドレアは笑う。


「私がそう思ったのも、勘のようなものよ。晩餐でのフォード牧師の言いようがどうしても気になってしまって」

「では、元々、最初からフォード牧師を疑っていた、と」

「ええ」


 警部は脱力する。その様子を見て、アンドレアは慌ててこう言った。


「でも、確かなことではないわ。だって、証拠もなかったし、結局は彼の信仰心に頼るしかなかったもの」

「では女探偵さん、ちなみに黙秘を続けている犯人の動機はなんだと思います?」


 ふむ、と彼女は男のような仕草で顎に手を当てて考える。


「私もずっと考えていたのだけれど、やっぱり神への信仰かしら、ね。彼は聖なる結婚、という言葉を漏らしていたでしょう。身体を触れ合わせない『白い結婚』を最上と考えていて、アンジェリカとクリスの関係を何らかの方法で知っていて……さらにその理想をあの二人に重ねていたとしたら、って考えることはあるわ。アンジェリカはクリスを捨てて、ウォルターと結婚しようとしていたわけだもの。裏切りに思えたのかもしれないわね」


 それよりも、とアンドレアは助手席から、キリング警部の方へと身を乗り出した。


「私は、もう一つの勘を拭いさることができないでいるの。アンジェリカの味覚はどこまで通用していたのかって……。警部さんは、味の異常にはすぐに気づくって言っていたでしょ? だったら、もしかしたら」

「もしかしたら、なんです?」


 秘密を打ち明けるように、アンドレアは警部の耳元に囁きを残す。


「口にしてすぐに青酸カリだと気づいて……その甘美な死への誘いに乗ってしまったのではないか、って」


 座り直した彼女の顔を見た警部はすぐに正面を向く。「それはどうでしょうね」


「もし、そうだったら」


 彼女は泣きそうな顔でキリング警部の袖を掴む。


「アンジェリカの死は自殺とも言えるのかもしれないわ。けれど、きっとそのせいでフォード牧師は絞首刑になる。……いいえ、考えるのはやめましょう」


 彼女は自分で言い聞かせるように首を振った。


「すべては司法の手に委ねるしかないのだわ」

「そうですよ」


 キリング警部は静かに言う。


「我々にできるのはここまでです。あとは神の裁きに任せましょう」


 車は標識が立つ場所に出た。ここを引き返せば、セント・レオビヌスに戻れる。だが、二人は一瞥して、逆方向の道をけたたましいエンジン音を鳴らしながら去っていったのである。

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限りない灰色の死 川上桃園 @Issiki

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