限りない灰色の死

川上桃園

第1話 前編

 アンジェリカ・ローレンが死んだ。


 緑に囲まれた小さな村、セント・レオビヌスにその知らせが駆け巡ったのは当然の成り行きである。ご婦人がたは頭を突き合わせちゃ、ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃと深刻そうに、生き生きとおしゃべりしだす。澄ました紳士方でさえ、帽子をちょいと上げながら、聞きかじった情報をむちゃくちゃにつなぎ合わせて、ホームズ気取りで推理する。はたして、彼女の死は自殺か他殺か。彼女の事情を知る村人たちに多数決をとるならば、他殺に賛同するほうが多いに違いない。なぜなら、彼女は素晴らしい良縁を得て、幸せな花嫁になるはずだったのだから――。


 悲劇の舞台となったローレン家で、男がふふん、と鼻にかかったような息を漏らす。


「それで、一体、貴方がたは何をなさりたいか、聞いてよろしいかな。国家権力の下僕たる私を、警察嫌いだからと追い出しておいてから、やっぱりこの死は怪しいと私に捜査を許可する矛盾に気づいてほしいものですよ!」

「矛盾とは心外ですね! 弁護士という職業を選んだのも、弁護士と正面からやりあえるからです! 追い出すのはわしの意見で、思い直したのはわしが忠実な英国民だから。他に何があろうというんです!」

「貴方の娘さんが亡くなったんですよ、ローレンさん」


 いきり立った初老の男をなだめるように、彼は穏やかに言う。するとローレン氏は近くのソファーに座り込んだ。風船がしぼんでいくさまを思わせた。


「そうだとも」


 彼は片手で顔を拭い、下を向く。


「アンジェリカは死んでしまったんだ」


 男はローレン氏を一瞥したあと、部屋にあるベッドに近づいた。そこに寝間着姿の遺体が横たわっていた。


 茶髪を振り乱した女は苦悶の表情を浮かべている。死んでいるのでなければ、村の牧歌的な雰囲気によくあった田舎娘だっただろう。善良な眼を持ち、善良なことしか話さない。純粋さが夢見るような若い娘だ。

 彼女の死因を示すのはその唇と唇から漏れるアーモンドの香りである。


「青酸カリですね」


 冷静に男はその口元を観察して、そう言った。「何か、彼女には悩みなどは?」


「そんなものありませんわ、警部さん」


 ローレン夫人が金切り声を上げた。「アンは幸せになるはずだったんです! ケインズさんとの結婚だって、あんなに楽しみにしていたのに、その結婚式の当日の朝に死ぬだなんて!」

「ローレン夫人。硬直具合からみて、死亡時刻は夜中ですよ。これから検視することになるでしょうがね。まずは落ち着いて」


 男は夫人にハンカチを差し出してから、さて、と手を打った。


「では、ローレンさん。まずはこの部屋を調べさせていただいてもよろしいでしょうか?」


 ローレン氏は顔を伏せたまま、手をひらひらと振った。


「勝手にしろ。……ええと」

「リチャード・キリング警部。警部、とだけ呼んで下されば」


 彼の名を聞いたローレン氏は、ああ、と気の抜けたような返事をする。


「『人殺し(killing)の警部さん』か。元空軍のパイロットが地上の田舎でくすぶっているってどんな気分かな。名前はそれらしいがな」


 キリング警部はローレン氏に構わず、手当たりしだいに引き出しを開けていく。すると、ベッドの対角線上にあった化粧台の引き出しの中に気になるものを見つけた。それと、遺体の手に握られているものを引き抜き、見比べてから、ほほう、と何かを得たような顔をつくる。


「よく似ている小瓶ですね。こちらの中身は何です?」


 二つの茶色の小瓶に入っている白い粉末。キリング警部は片手に一つずつ持って振っている。


「塩ですよ、警部さん」


 ローレン夫人は答えた。「あの子、色々と癖が多いのですけれど、あれは一番変な癖ですよ。何かストレスを抱えるたびに、部屋にこもって塩を舐めるんです。変だと思われるでしょう? でも、家のことをよく手伝ってくれる、とってもいい子だったんです!」

「でも、少しメランコリックで夢見がちでもありましたよね。お義母さん。いえ、けっして彼女を貶めるつもりで行ったわけではないのですが、ね」


 眼鏡をかけた、一見して紳士とわかる男が扉口に立っている。その男はキリング警部に手を差し出した。


「はじめまして、ウォルター・ケインズと言います。彼女の婚約者です。でした、という方が正しいのですけれど」

「どうも。ケインズさん。すみません、あいにく今は手がふさがっておりまして。失礼」


 遺体にあった方は右のポケット、引き出しで見つけた方は左のポケットに入れる。それから、握手する。


「アンは青酸カリを持っていたんです。彼女が欲しがったんでね。抗えなかった」


 悪いことをしたものですよ、とウォルターは肩を竦める。


「僕は医者だから、伝手を使えばわけないだろうって、僕に言ったんです。僕が彼女に弱いって、彼女も気づいていたんですよ」

「どうして、青酸カリを欲しいと言ったのか、ケインズさんはご存知ですか?」

「彼女はオフィーリアに憧れていたんですね、死せる乙女というテーマがこの上もなく、彼女を惹きつけていたんです。毒の小瓶を持つことは、死と生との境目に立っているような、スリリングさがあるって。彼女の独特の感性ですけれど、面白いでしょう? だから、僕はこう思うんです……」


 ウォルターは軽く咳払いをして、キリング警部に顔を近づけながら、囁いた。


「彼女は、自殺。そうでなくても、事故だったのかもしれない、とね」

「ははあ。なるほど!」


 キリング警部は気取ったような声を上げた。


「いや、しかし。私も今のお話を聞いて、そうかもしれないと思えてきましたよ、ケインズさん。正直なところ、このような平和な村で、殺人が起ころうとは思うはずもない。ええ、まったく、予想通りですよ!」

「娘が自殺するとは思えません! きっと、これは事故に違いありません」


 夫の胸にすがりついたローレン夫人が泣き崩れる。夫も妻をあやしながら、こう言う。「ああ、君のいう通りだとも、邪悪な者がここにいるはずがないじゃないか。きっと塩と青酸カリを間違えて飲んでしまったんだろう。かわいそうな、アンジェリカ。あともう少しで幸せになれただろうに」

「ええ、そうですね。お悔やみ申し上げます、お二方。それと、ケインズさん」


 キリング警部は神妙にそう言い、化粧台に無造作に置かれたままだった帽子を深くかぶり直した。


「あとでまた、警官がこちらに伺って、色々事情を尋ねることになります。どうかご協力をお願いいたします。この件は自殺、または事故ということになるでしょう。では失礼」


 彼は部屋をあとにしようとする。だが、叶わない。


「あら、いけませんわ、『人殺しの警部』さん。アンジェリカは確かに浮世離れしたところはありましたけれど、そこまでうっかり屋さんではありません」


 キリング警部が立つ、ほんの目と鼻の先に女が立っている。茶色の髪を結い上げて、都会風の花柄のワンピースを身にまとっていた。何インチかもわからないほど、高いヒールを履き、彼女の鼻先が、キリング警部の唇に当たりそうになっている。


「これは失礼。お嬢さん」


 彼は丁重に頭を下げて、横をすり抜けようとするも、両手を広げた女に阻まれる。


「あら、お嬢さんと言われる程の年ではないのよ、もう。それに一度結婚したから、お嬢さんとは呼べないわ」


 女は快活そうに笑う。


「お名前は?」

「アンドレア・シュルツ。アンジェリカの従姉妹よ。二人共、名前に『アン』ってつくから『二人のアン』って呼ばれていたこともあるわ。性格はまったく違うけれどね。ミス・シュルツ、と呼んでちょうだい」


 二人は握手を交わす。


「そうさせてもらいますよ、ミス・シュルツ。ところで……」

「ええ、何か?」

「そこをどかなければ、外に出られないのですが」

「知っているわ。でも、駄目。だって、アンジェリカの死を一方的に決めつけて、わざわざ視野を狭くしているようですから、広げて差し上げようかと」


 アンドレアは両目の前に一つずつ手に輪っかをつくって、望遠鏡のように伸ばしてみせた。


「さては推理小説の読みすぎですね、ミス・シュルツ」


 キリング警部が呆れたように言う。アンドレアは喜劇を見たように笑い飛ばす。


「そんなことはありませんわよ、警部さん。私の専門は、恋愛小説と冒険小説ですもの。推理にはとんと疎いの。むしろ、警部さんの方こそ、推理小説の読みすぎで、警察で働いているのではなくって?」

「はっ、まさか」


 ミス・シュルツの言葉に、キリング警部は鼻で笑った。「事実は小説より奇なり、というのに、誰が推理小説など読みますか。現実だけでお腹がいっぱいですよ、お嬢さん!」

「では、まずその現実の話を聞いてみましょう? 事故なら、事故だという証拠を、自殺なら自殺らしい証拠、そして、殺人なら、殺人の証拠を上げなくちゃ」

「アンドレア」


 彼女が目を巡らせた先には、ローレン氏が憔悴しきった顔で座っている。


「また、『何となく』、気づいてしまったのかな? そういえば、君もアンジェリカほどではないが、妙な癖を持っているものだ……」







 警官たちが遺体を運び出したあと、人々は一階の居間に集められた。家政婦のエリザベスが紅茶をカップに注いでいく中、昨夜から今日にかけて、ローレンの家を訪れた人々を全員集めて、事情を聴くためである。

 昨夜は結婚前夜ということで、仲の良い内輪でささやかな晩餐が饗された。

 参加者は、次の日の主役二人、アンジェリカ・ローレンとウォルター・ケインズ。ローレン夫妻とウォルターの父、ダグラス・ケインズ。アンジェリカの従姉妹のアンドレア、結婚式を執り行うこととなっていた、フォード牧師、向かい家に住むクリスとエマという若夫婦、そして最近村に越してきた東洋人の青年、リューの十人である。


 アンジェリカ死亡の一報は彼らの耳にも届いているようで、嘆き悲しむ両親と義父がいる横で婚約者を亡くしたにも関わらず、淡白な反応を返した夫となるはずだった男もいる。あるいはしきりに彼女の冥福を祈る牧師もいれば、びくびくと警部の顔を伺う若夫婦もいるし、感情の読み取れない黒い瞳を俯かせて黙り込む青年もいる。


 だが、気取り屋のキリング警部をもっとも困惑させたのは、派手な風貌をした若い女性である。彼女だけソファーや椅子に腰掛けるわけでもなく、キリング警部の横に立つ。


「貴女がおっしゃるように他殺の可能性があるなら、貴女も容疑者の一人なんですよ、ミス・シュルツ」

「アンジェリカと私は一昨日が久々の再会でしたのよ。今日も入れて、三日しか経っていないじゃないの。ここ数年はとんとご無沙汰していたのに、その三日間でどうやって、アンジェリカを殺すだけの理由ができるって言うのでしょう。ロミオとジュリエットなら、別でしょうけれど。私はいわば部外者。警部さんと同じよ」


 アンドレアは静謐を好むこの古風な紳士の耳元で早口に言い立てた挙句、


「では、推理小説を愛好しない、このミス・シュルツが傍観者の立場から、昨晩の様子をお話ししようと思うの。いかがでしょう、『人殺しの警部さん』?」

「できるなら、その呼び名はやめてもらいたい。犯罪者になったようで、気分がよくないものでね、お嬢さん」


 彼は、とうとう嘆息する。「わかりましたよ、お願いします、ミス・シュルツ」

ええ、どうも、とアンドレアは一同の顔を一通り見渡した。


「アンジェリカが死んだ夜中というのは、大抵皆さん、眠っていらしただろうから、お互いにお互いの無実は立証することはできないのは当たり前ですわね。夫婦で一緒の寝室を使っている場合なら、別ですけれど……」


 アンドレアの眼が、ローレン夫妻とマクファーレンの若夫婦に向けられる。


「それでも、警察が信用するような証言にはならないのでしょう? なので、省きましょう。晩餐に呼ばれたのはここにいる全員ですわ。料理を作ったのは、あそこにいる家政婦のエリザベス。ああ、昨日のミートパイと、胡桃のケーキは美味しかったわ」


 扉口から人のよさそうな女が顔をのぞかせた。


「ありがとうございます、ミス・シュルツ」


 アンドレアは返事に手を振って見せ、話を戻す。


「食事の間はとても和やかでしたわ。そりゃ、そうよ。めでたい話だもの。もうトミーおじさまとケインズのおじさまはワインの飲みすぎでひどい顔だったし、マクファーレンさん……クリスも、しきりにアンジェリカに向かって『よかったね、またとない嫁ぎ先じゃないか』って言っていたし。奥さんのエマもとても喜んでいたと思うわ。でも、フォード牧師とジュリアおばさまは少し心配していたわね。ほら、やっぱり、ちょっと変な癖の多い子だったし」


 ふと、アンドレアは言葉を止めて、「そういえば、アンジェリカの変な癖の話、していませんでしたわね」

「していませんね!」


 キリング警部は叫ぶと、彼女は驚いた顔をするも、続ける。


「アンジェリカのもっとも変な癖は塩を舐めてしまう癖でしたけれど、爪を噛むことや、歯ぎしりがとてもひどい子でしたのよ。あと、一人で何かしら考えていたと思ったら、急にケラケラ笑い出しちゃって。理由を聞いたら、騎士のランスロットが道端で転んだ夢を見たのを思い出したからですって! おばさまに、フォード牧師までもが心配して声をかけたのも、そういうわけでした……わよね?」

「あなたの言った通りよ、アンドレア」


 ローレン夫人は泣きはらした顔を上げて、頷く。


「結婚したら、私たちの傍を離れることになるわ。お相手のウォルターがいるとはいえ、娘を心配するのは当然よ。あの子の癖のことは親の私たちでも気になって注意しているぐらいなのに」

「僕のことはお気になさらず。そういう部分もきちんと理解したうえで彼女に求婚したんですよ」

「ありがとう、ウォルター。それで、あの子にこう言ったのよ。『あなた、ウォルターの奥さんになっても、まだそんなことを続ける気? いい加減にしたら?』って。あの子、聞く耳を持ちませんでしたけれど」

「わしも、大概おんなじことを言ったのさ」


 切りのいいところで、年老いた牧師が話を代わった。


「『塩を舐めても、美味しくないだろう? いらいらしたからって、そんなものに頼ってばかりもいられないじゃないか。とりあえず、ほんのちょっと我慢してみたらどうだ』とね。ちょっと考えこんだあとに、『少しだけ、我慢してみようかしら』って言ってくれたんだがねえ」


 牧師は両手を祈りの形に組んだ。「やはり、あの子は誤って口にしてしまったようだね。かわいそうに」

「かわいそうであるということには同意するわ。フォード牧師」


 アンドレアは言う。


「それで、ウォルターは」

「ああ、待って。僕が自分で言うよ。直接、聞いたほうが、都合がいいでしょう、警部さん」


 アンドレアが不満さを隠さずに、ウォルターをじろりと一瞥する。


「ええ、どうぞ」


 キリング警部が促すと、彼は胸を張って答える。「ええと、僕が主に話していたのは、アンジェリカと、アンドレア、それにリューですね。内容は覚えていないのですがね。アンジェリカとは明日の式について話したし、アンドレアは……」

「私とは、アンジェリカに求婚したときのエピソードについてお話だったわね。百本の赤いバラを持ったまま、二階のベランダに登ろうとなさって、おっこちた、と」

「ああ、そうそう。そうだった」


 ウォルターは笑顔になる。「そして、リューとは東洋の神秘についての話を」


「はあ、東洋の神秘、ですか」


 キリング警部が顔をしかめた。ウォルターは大真面目に同意した。


「そうですよ。我々、なかなか国外はおろか、この村さえも出ることは少ないですよね? だから海の果て、東に浮かぶ小さな島国の話を聞きたいと思いましてね」

「リューはみんなの人気者のようだったわね!」


 アンドレアは東洋人の青年に笑いかける。青年はミステリアスな笑みを浮かべた。


「僕はここに来てまもないですから。詮索されるのも仕方のないことだと諦めていますよ」

「それなら、失礼ですが、このような内輪の会に参加できたというのも」

「知りたがりやさんたちの巣窟にご招待されたのでしょ? ね、おじさま」


 キリング警部の言葉にアンドレアが答え、さらに矛先をローレン氏へと変えた。


「そういう気持ちも、少し、あった。少しでも仲良くなりたかったんだよ。悪く思わないでくれ、リュー」


 リューは首を横に振る。気遣わしげな眼を彼に向けた。


「いいんです。それよりもこれからしっかり気を持ってくださいね」

「感謝する」


 こほん、とキリング警部が咳払いした。「それで、リューさん……ええと、リュー、何です?」

「リュー・ホプキンスですよ。僕は英国人夫婦の養子なんです」

「貴方は誰とどんなことを話していました?」

「僕はもっぱら話してばかりでしたよ。ずっと、生い立ちや経歴やらの質問攻めにあってね。ええと、相手はウォルター、ケインズさん、あと、ローレンさん。特にケインズさんとローレンさんは僕がタバコを吸いにいったときも追いかけてくるぐらいに、熱心に興味を持ってくださったようで」

「あら! それでなかなか二人とも戻ってこなかったわけなのね!」


 アンドレアが興味に目を輝かせながら、言う。


「でも、私ともお話ししていただきかったわ。だって、東洋人の方とお目にかかれるなんて、そうそうないことですもの。私、本当は毛糸を物欲しそうに見る猫のようになっていたの。気づいていました?」


 リューは首を横に振った。


「いいえ。何やら熱視線を感じていたとは思っていましたが、貴女でしたか。機会があれば、また」

「ぜひ。それでね、警部さん」


 彼女はくるりとキリング警部を見た。「私はリューとマクファーレンさんたち以外と少しずつ話していたと思うわ。一昨日は久々にセント・レオビヌスを探検していて、忙しかったから。近況報告をしていたら、口々にご愁傷様、って言われてしまっていて」


「ご愁傷さま、とは?」

「二年前に夫を亡くしましたの。ああ、そんな気の毒そうな顔をなさらないで。もう高齢でしたし、病気だったの。もう吹っ切れたわ。それに夫が遺してくれた遺産のおかげでこうして優雅に暮らしていますのよ」


 キリング警部はこの若く、アンジェリカとよく似た美貌を持つ、この若い未亡人をとっくりと見つめた。


「そんな感じで、場はすごく和やかだったのよ。そしたら、急にアンジェリカが怒って席を立ってしまって。ええと、あのときは、フォード牧師がお手洗いを借りて、戻ってきた、ちょうどそのときでしたわね。そういえば、マクファーレンさんたちと話していたようだったけれど。ねえ、クリスにエマ。あのとき、なんて言っていたの?」


 金髪の青年はぴくりと肩を震わせた。妻と目配せしあって、それから口を開く。


「ほんのささいなことだったんです。『肉ばかりじゃなく、野菜も食べたら?』って妻が言って。僕は笑いながら『アンは肉を食べる前に野菜を食べていたさ。それよりも、胡桃のケーキはまだかな。僕、あれを楽しみにしてきたんだ』と言ったんです。すると急に」

「『やっぱり、もっと参加人数は減らすべきだったのよ!』って怒り出したの。昔からそうだけれど、ああなってしまったら、もう駄目。あの子、思い込みが激しかったから。さらにここ二三日、風邪を引いていたから、一層ヒートアップ。それで、自分の部屋に戻ってしまったの」


 アンドレアの言葉を聞いた、ウォルターは肩を竦めてみせる。


「アンジェリカは気まぐれな猫のような存在だったな。純粋そのものなのに、それゆえか、感情の起伏が激しかったですよ。そこが彼女の魅力で、僕もその魅力に参ってしまった者の一人でしたね。……まあ、だから、こんなに早く彼女の死亡宣告をすることになろうとは思いませんでしたがね」

「そうでしたか」


 キリング警部は顎に手を当てて、考え込む。それから、人差し指を一本立ててみせた。


「では、みなさん、そのあとは?」


 アンドレアが代表して答える。


「九時にはみんな、家に帰っていったわ。アンジェリカは部屋に閉じこもってしまって、ジュリアおばさまが説得しても、出てこようとしなかったの。私も客室に引っ込んでしまったわ。アンジェリカの部屋に忍び込んだにしても、当たり前だけれど、窓とドアに鍵がかかっていたはずなの」

「ふふん! 部屋は密室だったというわけですな」

「密室殺人ですか!」


 ウォルターが期待に満ちた、それでいて、悲観したような声を上げた。


「殺人とは言えませんよ、いまだに自殺か事故という線が濃厚です。では、お聞きしましょう。ここにいるみなさんのうち、何か不審な出来事が夜中に起こったということはありませんか?」


 キリング警部の問いに、一人小さく手を上げた者がいた。


「私……実は」


 気弱そうにキリング警部を見上げるのは、エマ・マクファーレンである。


「最近、ずっと、不眠症で。こんな田舎町だし、危険なことはないだろうと思って。クリスに内緒で、部屋を抜け出して、散歩するんです。それで夜中、ちょうど家を出てみたら――私たちの家はここの真向かいですから、当たり前ですけれど、何気なくローレンさんの家を見上げたんです。そうすると、アンジェリカの部屋のベランダに、黒い、人影が見えたんです……!」

「なんと!」


 キリング警部が叫んだ。「それで、どうしたんです、マクファーレン夫人!」


 興奮した様子で近づいてきた警部に、エマは小さな悲鳴を上げた。


「警部さん、どうか落ち着いてください。ね、エマ。話したくなければ、話さなくてもいいんだ」


 夫が力強く妻の肩を抱く。エマは震えながら、夫の顔を見る。


「大丈夫よ。話さなくちゃ」


 キリング警部に向き合って、エマは目を伏せながら、こう言った。


「黒い人影は左側の窓から中に入ろうとしているようでした。すると、ベッドの傍の明かりがついて、アンジェリカが出てきて。私、急に怖くなってしまって……家に逃げ込んでしまって。それっきりです。……すみません。お役に立てなくて」

「いいえ。大事な証言をありがとうございます。ですが、これで断然、殺人の線が濃くなってしまいましたね。その怪しい人物が、アンジェリカさんの部屋に何らかの方法で忍び込み、彼女に青酸カリを無理やり飲ませたか……。まあ、いずれにしても、みなさん、しばらくはこのセント・レオビヌスから一切出ないようにしてくださいよ。あらぬ疑いをかけられなくなければ、ね」


 キリング警部はその場をこう総括し、条件付きではあるものの、一同を解放することになったのである。



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