第6話

 翌朝は、最悪の目覚めだった。

 頭の内側で、ずっと誰かがスパーリングをしているようだ。

「飲みすぎた…か」

 もともと、アルコールには強くない。半世紀も老け込んだみたいな動作で、ボクはなんとか寝床から脱出した。

 とたん、ジリジリジリとひびく爆音。脳ミソの奥まで突き刺さる。

 二度寝しないよう、目覚まし時計はベッドから離れた場所に置いてある。いやおうにも布団からでないといけないよう、朝に弱い自分をいましめているのだ。

 スイッチを止め、ほっとボクは一息つく。

 しばらく、時計に手を伸ばしたカッコウのまま固まっていた。

 いけない、学校だ。

 時刻は六時過ぎ。さっさと朝メシの支度したくをしなくちゃいけない。

 体調はひどいもんだけれど、気分はそこまで悪くはなかった。ガラにもなく深酒した理由は、もちろんエイルくんの一件にひとつの光明が差したことだった。


 昨晩。

エイルくんの家に訪問して、お残しの謎が無事解けて――

「いちおうは、一件落着か」

 刈場かりば家を出て、数分。

 帰路の沈黙を破ったのは、頼れる学年主任からだった。

 街明かりで塗りつぶされた星を探しているかのように、空をあお増田ますだ先生の目は細い。

「当面の問題は、エイルくんだけ、給食のメニューから肉を外せるかどうか――ですね」

 そう言うと、違うよと返された。

「オレは納得できねえなあ。肉を食べられなくたっていいっていう、おやっさんの判断が」

「なんでです?」

「だってそうだろ? 肉のにおいがかあちゃんのモンだからって、そりゃあくまでナマの精肉のモンなんだろ。調理された肉は、もう生臭くもなんともないぞ」

 ――それは…

「たしかに、そうですね」

「料理のにおいで拒否ってるワケじゃねえんだよ、エイルくんは。この料理は肉だ、これは母ちゃんと同じにおいがするモンから作られたメシだって理解できて、はじめてエイルくんはそれを拒絶する。それがメカニズムだ」

 結局は心の問題だ――そう、増田先生は断言する。

「ちょっと過去にない事例だし、エイルくんにだけの特別メニューが導入できるかどうかはわからんが、オレは、エイルくんがこのままでいいとは思えんな」

「やっぱり、カウンセラーの先生とは一度面談させますか?」

 なにがやっぱりだよと、増田先生が腹を揺する。

「心因性だから、それは当然だろう。特別メニュー導入はその次のステップだ」

 意外とふつうのハンバーグを豆腐ハンバーグだってゴマかしたらぺろりと食うかもしれないぞと、増田先生。どう聞いても冗談なのに、ものすごい名案に聞こえてしまって、ボクは思わず目からウロコを落としかけた。

「なにに受けてるんだよ」

 とんでもない声量で大笑いするもんだから、ボクはあわてて周囲を見回してしまう。

 さびれた商店街は、ロクに人気ひとけがない。動いているのは、あいかわらず電信柱のすみっこでボソボソ語らっている二人組ぐらいのものだった。

 近所迷惑を気にしていると、増田先生があきれたような表情になった。

「なんだ、さっきから深刻なツラして。エラい責任重大って様子だな、桐生きりゅう?」

 ――せ、

「責任重大でしょうよ! ボクはとんでもない失敗をしたんですよ。独断で暴走してエイルくんを傷つけて、おまけにウワサの清村会長まで怒らせて… ボクはもう、自分がイヤになってんですよ、今」

「なにナマイキ言ってんだ、ぺーぺー」

 ばしんと、背中を叩かれた。思いのほか威力があって、ボクは手前につんのめった。

「い、痛いじゃないですか」

「学校でも言っただろうが。責任重大なのはオレ。オマエはまだ、責任を取れるタマじゃない」

 はっとして、ボクは立ち止まる。

 ――オレに振れ。なすりつけろ。

 思わず目頭を熱くさせた、先輩の一言。

 発言した当人は、ニヤニヤと笑っていた。ほほまった脂肪が憎らしいゆがみを作っている。

「ま、仕事に対する責任感がゼロなヤツも、それはそれで困ったちゃんなんだけどな」

「すみません」

「なにを謝る、ナルシスト」

 ぐっと、ボクは歯を食いしばる。自己愛性者ナルシストだなんて、死んでも言われたくない言葉だ。なまじ自覚があるだけに。

「いえ、その… ボク、もっと頼ります」

 もっといっぱい困らせよう、怒らせよう、この人を。

 この人は、きっといい教師なんだ。

 ボクに都合つごうのいい人材とか、そんなんじゃなく。本心から尊敬できる――

「いろいろ、教えてください」

 ご指導ご鞭撻べんたつのほど――なんて定型文を吐き出そうとするボクを、心底うっとうしそうに増田先生の手がさえぎった。

「あー、ちょっと待て。電話だデンワ」

「あ、はい」

 あぶらの乗った丸い手を器用に使って、増田先生がガラケーを展開する。おおだのああだのと短く応答し、そして、最後にこう言った。

「大丈夫だ。桐生も来る。ボクはなんてダメなヤツだーってメソメソ泣いてっから、めんどくせえだろーけど、なぐさめてやってくれ」

「は、はあッ?」

 ちょっと待て。なにを言ってるんだ、この人は。

「ああマジマジ。もうオレの手にゃ負えねえ。てゆーかマジコイツめんどい。頼むわ」

「いや、あの… なにを、ちょっと!」

 あわてふためいて、ボクは相撲取りみたいな増田先生の巨体にせまる。意地の悪い先輩は、この上ないくらい底意地の悪そうな顔になって、

「じゃ、三十分後な。小梅こうめチャン」

 そう呼びかけて、電話を切った。

「え、あ、こ、小梅…え? 瀬戸せと先生?」

 脳裡のうりに浮かぶ、あどけない美形。

「エイルくんの訪問が済んだら、駅前の飲み屋でパーっと発散しようぜって小梅ちゃんと約束しててよ。どうせオマエは大なり小なりって予想はしてたからな。若手の悩みは、同じ若手が解決してくれるって思ってよ」

「いや、な、悩みとか… そ、あ、え、瀬戸せんせ――」

 パニクり過ぎだろと、増田先生がまた大口を開ける。

「悪かないだろ、小梅ちゃんで?」

 全知全能の神というには、あまりに下品な気の回しよう。

 でも、ボクもまた、がっかりするくらい現金な人間だって思ってしまう。こんなコトがあった一日だっていうのに、このメタボリックな先輩の気遣いに、心の奥で感謝感激している自分がいるのだから。

 もちろん、それは悟られてはならない。教師としての質を試されているだけかも知れないのだから。努めて真面目な態度を作って、ボクは真面目な見解を述べた。

「で、でも、明日からエイルくんをどう扱うべきかとか、いろいろ考えなきゃ――」

 じゃっかましいと、一喝いっかつ

「オマエ一人にそんな重要な問題を考えさせられっか! どーせまた独善的なアイデア思いついて、勝手に実行するんだろーが」

「や、やりませんよ! もう!」

 あわてて、ボクは反駁はんばくする。心のどこかで自分の言葉を疑っている自分に、ちょっとがっかりしながら。

「どうもオマエにゃ、社会人の渡世術とせいじゅつってのを教えなきゃならんようだ」

「な、なんですか、それは?」

「仕事でしくじったときは、偉大なるバッカスの力に身をゆだねろってよ。旧約聖書にもそうある」

 すがすがしいまでの、デタラメ。

「心配せんでも、オレがキミたちのおサイフになってやるって。れないクチじゃねえんだろ?」

「まあ、いちおうは。でも…」

「これ以上グダグダぬかすと、松田島まつだしまにも声をかける」

 それはイヤだ。心底ゴメンだ。

 ケータイを展開し、今にも発信しそうになっている増田先生を、ボクはあわてて止めた。

 そんなこんなでボクたちは、こんな事件があったにも関わらず、駅前の歓楽街へと足を運んだのだった。



 有意義か無意義かって言ったら、この上なく前者だった。

 うるわしの瀬戸先生にはいろいろとなぐさめられたし、なにより、三人で善後策も考えられた。

 とりあえず、エイルくんのお残しについては、クラスのみんなにその理由を話すことが最良だろうという結論になった。念のため、お父さんにも了解は取ることにする。先方には迷惑かも知れないが、朝イチすぐだ。捕まらなかったときは、その時。どのみち、お父さんの希望どおり特別メニューを導入するには、まずクラスメイトの理解を得なければならない。特に、チカちゃんみたいなお姫サマ委員長のいる一年四組では。

 エイルくんが肉料理を食べられるようにするのは後回し。とにもかくにも、エイルくんがクラス内で孤立しつつある現状を、まずはどうにかしなければいけないのだ。

 病気なんだ、こころの。

 病気で、エイルくんは肉が食べられないんだ。

 でも、エイルくんはがんばって病気を治そうとしている。

 そんなクラスのお友だちを、みんなも応援してあげなきゃいけない。それが、良いクラスメイトだ。立派な人間というものだ。

 だいたい、こんな理論でクラスを説得すればいい。

 まだ善悪の区別もあいまいな子どもだ。きちんとした道徳心の備わった人間になるためのレールは、ボクたち教師がいてあげなければならない。

 けっして、独善じゃない。

 教師としての務めだ。義務だ。

「よし」

 二日酔いでズキズキ痛む頭を押さえて、ボクはテレビのスイッチを入れた。安アパートの部屋にひとりでいると、自然と雑音が恋しくなるものだ。どのチャンネルも、この時間はだいたいニュース番組で統一されている。とりわけると決めている局番もないボクは、主電源を入れただけで朝食の支度したくに取りかかった。

 ニュースは、なにやら扇情的せんじょうてきに泡を飛ばしている。恋しい雑音は、今日はなにやら不機嫌らしい。といって、集中して内容を視聴する気もヒマもない。日経平均株価が暴落でもしたかと、ぼんやりボクは予想した。

 そして、トースターにパンを放り込みながら、ふと考える。

 目覚ましが鳴るまえに、ボクは目を覚ました。

 めちゃくちゃ朝に弱いボクが、めずらしいこともあるものだ。それも、こんな深酒した次の朝だってのに。

 いや、違う。

 深い眠りをさまたげる、重く低い音。何度も断続的に夢のなかでこだましていた。

 そうだ。ボクは、なにかの音に起こされたんだ。

 なにかに気づいて、ボクは夢の世界から飛び出したのだ。

 ――スマホ?

 はっとした瞬間、リビングの小机の上のスマートフォンがぶぅぶぅ震えだした。

 頭痛を押して、足早に音の元へ向かう。

 ディスプレイには『増田主任』の文字。応答のフリックを横に走らせて、耳元にかかげる。

「やっと起きたか!」

 があんと、頭をぶん殴られたような大声である。昨日あれだけ鯨飲げいいんしてたっていうのに、すさまじい元気さだ。

「あ、お、おはようございます…」

「おお、桐生! なんだその声、シャンとしろ!」

「いえ…あの、スイマセン。もうちょっと、小さな声で――」

 小さな声出していられるかと、増田先生の語調はすごい剣幕けんまくだ。

「さっさと出勤してこい! 緊急職員会議だ!」

「え?」

 ここで、ようやくボクの意識は完全に覚醒した。

「大変な事件が起きた。担任のオマエがいなきゃハナシも始まらん。その様子だと朝メシもまだだろうが、抜いてこい。オレも食ってない」

「いや、メシ抜きはいいんですけど… その、なにが?」

「エイルくんのことだ」

 ――エイル…くん?

「詳しいハナシは後だ。マスコミからもガンガン電話が入ってやがる。オレが出勤したとき、宿直のジイさん半ベソかいてたよ――って、そんなことはどうだっていい! 大至急学校に駆けつけろ!」

 言うだけ言って、電話は切れた。

 しばらく、ボクは固まったままだった。

 エイルくんのことで、事件が起こった――らしい。

 こんな朝っぱらから緊急職員会議を開かなければいけないほど。

 マスコミから、電話が殺到している――という。

 マスコミ。報道機関。ニュース――

 はっとした。

 ここで、ようやくテレビが吐き出している雑音が、はっきりと意味を持った。

『――さつの発表によりますと、発見された遺体は激しく損壊していて、首から下はほとんどなくなっているようです。逆に首から上は大きな損傷もなく残っており、行方不明になっていた刈場かりば康江やすえさんのものとみられるとのことです』

 刈場…康江。

 やすえ…

 エイルくんの、お母さん。

「ウソだろ」

 液晶に頭突きするぐらいの勢いで、ボクはニュースに見入った。

 若い男性のリポーターが、深刻な表情で報道スタジオとやり取りを交わしている。

 背景は、見覚えがあった。

 朝の日差しに照らされているのは、まさに昨日ボクたちが足を運んだ商店街だった。

 リポーターの背後には、キープアウトの規制線。

 その奥に、うらぶれた肉屋がたたずんでいる。

 『肉のかりば』。

 エイルくんの、家。

「ウッソだろ!」

 混乱。困惑。倒錯。

 勢いを増す、頭痛。

「クソ! なんだってんだ! クソ!」

 なにに対していきどおっているかも分からない。子どものような罵詈雑言ばりぞうごんを吐き散らしながら、ボクは出勤着に身を包んだ。とっくの昔にげ果てた食パンを内蔵したトースターのプラグを引き抜いて、部屋を飛び出る。

 激しい損壊――

 首から下は、ほとんどない――

 頭だけが、無事に残っている――

 ママ、ママぁ!

 リフレインする、エイルくんの泣き声。くしゃくしゃにゆがんだ、貧相な顔。

 ああ。

「なんなんだよ! クソ!」

 不調に悲鳴を上げる身体を引きずって、ボクは駅に急いだ。

 のぼりゆく太陽が、信じられないくらい忌々いまいましかった。



 職員会の座席に着いたのは、ボクが最後だった。

 吐き気が止まらない。

 ずっと駆け足で移動していたからか、身体が軽い酸欠を起こしているようだった。

「大丈夫、センセ?」

 隣の瀬戸先生の表情はいくぶん湿しめっている。なにもボクの不調を読み取っての心配だけじゃないだろう。

「桐生先生が到着したので、これから緊急会議を始めます」

 いつもならオールバックが決まっている古川ふるかわ武博たけひろ校長の髪も、今日はずいぶんと乱れがうかがえる。

 手元にはいされた資料は、警察からの報告書のファックスをそのまま刷り増したものらしい。その文面を、浦上うらがみ教頭がかわいそうなくらい上ずった声で読み上げはじめた。

「け、警察からの報告によりますと、昨晩の九時ごろ、一年四組に通う刈場――え? え、え、英流えいるくん? …の自宅から、損壊した女性の遺体が発見されたということです。遺体は現在、司法解剖のけ、結果を待っているとのことですが、ほ、ほぼ間違いなく、こここの遺体は、刈場え、英流くんのお母さんの、か、刈場康江さんだと……」

 自宅から、お母さんの遺体が発見された。

 それも、すさまじい損傷の遺体が。

 なおもどもり続ける浦上教頭の聞き苦しい声には、もう誰も頼ってなどいない。ボクも周りにならって、配布された資料の先にショボついた目を進めていった。

 遺体は、自宅の精肉保存用冷凍庫の中から発見された。

 被害者――刈場康江は、今年の二月下旬ごろから行方不明となっていた。

 被害者の夫――刈場かりば昭憲あきのりの説明では、妻は家庭を捨てて別の男の元へ出奔しゅっぽんしたということだったが、不審に思った被害者の実家から三月末に捜索そうさくねがいが出されていた。

 捜査そうさを進めるなかで、警察は、じょじょに夫が怪しいのではと目星をつけはじめた。張り込み捜査を続け、とうとう、夫が廃棄した精肉の残骨ざんこつのなかから人間のものと断ぜられる骨を発見した。

 それを証拠に、警察は刈場家に家宅捜索を断行。昨晩の九時少し前のことだった。

 結果は、前述のとおり。

 重要参考人として、刈場昭憲は警察へ連行。

 一人息子の英流くんも、同時に保護された。

 これまでの取り調べで、夫は、妻を殺害したと犯行を自白。動機は、自分に別の女ができたからだとのことだった。むしろ女と結託けったくしての犯行だったようで、その女も未明に身柄を拘束されている。

 殺害日時は二月二十四日。被害者が行方不明となった時期と一致する。

 狩場昭憲が妻、康江の遺体を損壊した理由は、隠蔽いんぺいのためだった。

 自分が精肉店を営んでいる状況を利用して、昭憲は自宅の精肉保存用冷蔵庫に遺体を隠す。当初は一時しのぎのつもりだったが、やがて、昭憲は遺体を少しずつ解体していった。

「うぁ…」

 ちょうど、同じスピードで資料を読み進めていたらしい瀬戸先生が、ここで小さくうめいた。

 ボクもまた、呼吸を忘れた。

 その先に記されている内容は、にわかには信じがたい隠蔽工作の内容だった。


 昭憲は、遺体を、息子の英流に食べさせていた――


 あまりに、あまりにおぞましい一文だった。

 たった十数個の漢字とひらがなの羅列られつが、人をここまで不快にさせるのかと思った。

 しかも、エイルくんは、自分がママを食べさせられていることを知っていたという。

 保護されてすぐ、エイルくんは警察官にこう供述きょうじゅつしている。

 ――ママを食べて、ボクはママのぶんも生きてあげないといけないんだ。

 父――昭憲は、最初はママが遠くにお仕事に行ったと説明していたらしい。それは、彼がボクらに語った内容とおなじだった。その言い訳のウラで、昭憲は、毎日のように康江の肉を調理しては、息子に食べさせていたのだ。

 店頭で売り出すき肉に混ぜることも考えたという。でも、ひょっとしたらバレるかも知れない。そう思うと、昭憲は実行できなかった。

 そこで、まだ幼い息子のエイルくんに、昭憲は遺体の処分を任せたのだった。

 ところが――

 あるとき、エイルくんは店奥の厨房で母親の遺体を解体する父の姿を見てしまった。

 すぐさま気づいた昭憲は、新たな言い訳を、年端としはもいかない息子にさとして聞かせた。

 ママは死んだ。

 病気で死んでしまったんだ。

 まだ、いっぱい生きられたハズだったのに。

 だから、英流――

 おまえは、ママのぶんも生きなきゃいけない。

 これからも生き続けるハズだったママの身体を、おまえは継がなくちゃいけない。

 食べるんだ、英流。

 ママの身体を食べて、強く大きく育つんだ。

 ママの身体が無くなるまで、ほかのお肉は食べなくていい。

 ママだけを食え。

 ママのいのちを、おまえの身体に宿せ。


「ああ…」

「えぇ、マジかよ…」

「ウソ…」

 ほうぼうで、ため息が上がる。

 浦上教頭の聞き苦しい説明は、まだボクたち教師陣の理解度の半分にも達していない。

 そしてボクは、怖気おぞけを覚えていた。

 昨晩――

 今からたった半日前に出会った、精力的な外見の大男。

 あぶらぎった小麦肌。無造作に生やしたヒゲ。生臭い、精肉の体臭。

 あれは、あの男は――

 殺人者だったんだ。

 妻を殺し、息子に食わせていた、殺人者だったんだ。

 あの悲壮に満ちた表情は、あの態度は、ぜんぶ演技だったんだ。なにからなにまで、すべて嘘っぱちだったんだ、

 思い起こされる刈場昭憲の造形の、一挙一動のすべてに、ボクは恐怖を抱いた。刈場昭憲という人間に、ボクは心底恐怖した。

 そして、エイルくんは――

 あの、貧相な見てくれの少年が、肉料理を食べられなかった理由は――

 

 英流にとって、康江のにおいは肉の臭いなんです。


 ふざけんな!

 そのまんまじゃねえか!

 エイルくんにとって、

 昨夜の、あの妄想。ボクが犯してしまったエイルくんへの仕打ち。

 あんなこと、あんな所業ことを――

 父親の分際で、おまえは。エイルくんの父親の分際で――


 ママのために食べるんだ。お残しはしちゃダメだ。

 そういって、父は息子の頭をつかむ。

 目の前には、巨大な白い皿。

 妻だったはずの女性が、その上に裸で横たわっている。

 いやいやするエイルくんの背を押して、皿の上へ。

 身動きもせず横たわる白い肌に、父はエイルくんの顔を押しつける。

 食べるんだ。

 エイルくんは、嫌がる。

 ――ママ、ママぁ…

 さんざん聞き慣れた、泣き声。わんわん泣き叫ぶエイルくん。

 父は、もう苛立いらだちを隠せない。

 どうして、どうして言うことを聞かない?

 パパの思いどおりに動かない?

 おまえがこれを食べないと、パパが困るんだぞ。

 パパは殺人者だって、警察に逮捕されちまうんだぞ。

 妻を殺したひとごろしだって、パパは刑務所にブチ込まれちまうんだぞ。

 食え。はやく食え。

 はやくこの肉を平らげろ。


 このにくを、ママを食え!


「おえええええええええええええええええええええええええええ!」

 吐き気が、限界を迎えた。

 その場で、ボクは、身体のなかのすべてをブチいていた。

 悲鳴が聞こえる。瀬戸先生の、金切り声が。



        



 にじんだ視界の裏側に、少年が座っていた。

 給食の時間の、見慣れた光景。

 細く貧相な体つきの少年は、し目がちだった視線をまっすぐに伸ばす。

 そして――

 少年は、口から赤黒い肉塊を吐き出した。

 ものすごい量の、肉だった。

 まるで、人間ひとり分。

 やがて、すべてを吐き出し終えた少年は、汗と涙とよだれ鼻汁はなじるにまみれた顔を、ニコリとほころばせた。

 そりゃそうか、笑いもするか。

 

 だって、肉の呪いから、少年は解放されたのだから。


                             ―― 了 ――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カルネ・ウァレ 大郷田螺 @tanishi_osato

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ