第5話

 返答は、意味不明だった。

 お父さんの表情は、けわしい。冗談や戯言ざれごとを放ったワケじゃなさそうだ。

「あの… それは、どういう……」

「肉は、英流えいるにとってママそのものなんですよ」

「お母さんが――肉……」

 答えは、ボクの理解の及ばないところに存在した。ボクはただ、おうむ返しするほかない。

「詳しく、話していただけますか」

 増田先生が、落ち着き払った語調で先をうながす。話の順序を組んでいるのか、お父さんはしばらくうつむいて考えていた。

「なんとも恥さらしなハナシになりますが――」

 そう断って、お父さんはし目がちに語りはじめた。

「ウチはもう五十年近く、この商店街で肉屋をしています。オレも物心ついたときから手伝いをしてました。オレが小さいころオヤジが事故で死んで、以来、店はずっとオフクロが切り盛りしてきました」

 もともとのんびりとした口調は、さらに遅さを増す。人に説明するということに、あんまり慣れていないのだろう。

 自分の歴史を語るのは結構だけど、それとエイルくんの肉嫌いと、いったいなんの関係があるのだろう。ハナシの展開が読めず、ボクはただやきもきした。

「高校を出てすぐ、オレは家業を継ぎました。二年ぐらいはオフクロとふたりで店をやってたんですが、オフクロが病気で倒れちまって… 半人前のオレひとりじゃ、とてもじゃないけれど店は回せません。そこで、アルバイトを雇ったんです」

 それが女房――康江やすえでした。

 ――康江。

 保護者名簿で見た字面じづらを、ボクは思い浮かべる。

 そして、ここまでの説明の流れ、また、玄関の状況から、エイルくんの家の現在の家族状況をはかった。

 玄関にも下駄箱にも、

 そして、簿

 すなわち、エイルくんのお母さんは――

「学生のころから付き合ってたんですが、籍を入れたのは、康江が店を手伝いにきてくれるようになって十年も経ってからでした。なんせふたりとも家が貧乏なうえに、オレのオフクロまで死んじまって…とにかく店の経営が大変だったんです」

 いつの間にか卓上に出されていたコップに、お父さんが手を伸ばす。中身の麦茶を半分ほど飲んで、ふうと一息入れた。

 増田先生もボクも、続きを待った。一服を入れる気にもならない。

「籍を入れた理由は、康江が英流を身篭みごもったからでした。そのころには、ある程度の貯蓄はできてたんですが、まだまだ家計は苦しかったです。でも、せっかく子どもを授かったんですし、オヤジとオフクロが籍を入れてないってのもバツが悪いかなって… ああ、すみません」

 オレ頭悪いから説明するのヘタで――と、お父さん。

とんでもないですと、落ち着き払った声で増田先生が続きを求める。ちっともれてなんかいない。感心するくらい聞き上手だ。いっぽうのボクはもう、かなりじれったくなってしまっている。

 エイルくんの家庭状況はだいたい見えてきたものの、肝心かなめの理由が一向に見えてこないからだ。

「英流が生まれてからは、いままで以上に大変でしたけれど、幸せでした。生活を切り詰めて、どうにか幼稚園にも行かせられました。康江には、適当な時間で店を上がってもらって、迎えに行かせました。オレも、できるだけ英流の面倒をてやってはいたつもりでした」

 ムリをさせているつもりはなかったんですと、お父さんがこぼす。

「でも、康江は、ムリをしてたんだろうなあ……」

「つまり、奥さんは――」

 シビレを切らせたボクは、思わず結論を導き出そうとして、増田先生にももを叩かれた。

「出ていきました」

 眉間みけんゆがめて、お父さんがようやく現状を語った。

「別にオトコができたみたいです。ずっと貧乏貧乏で、オレとの暮らしがイヤになったんでしょうね。オレは康江を責める気にはなれません。ずっと苦労をさせてきた。しんどい思いをさせてきてしまったから…」

「いまでも、奥さんとは連絡は取っているんですか?」

 はじめて、増田先生が質問を放った。たしかに、小さな子どもがいる家庭においては重要な点だ。

「いえ、康江は、連絡先も教えてくれていません。ある日とつぜんいなくなってしまいましたから」

「突然って… 事件性はないんですか?」

 続く問いに、ピクリとお父さんのまゆが動く。

「…いえ、ないでしょう。康江が家を出ていった前の日、大ゲンカしてましてね。最初はささいな文句の言い合いだったんですが、だんだん本音のぶつけ合いになってきてしまいまして。オレは驚きました。昔っから気立きだてが良くっておとなしい康江が、あんな剣幕けんまくわめき散らすなんて…… ぜんぶ、苦労をさせてきたオレが悪いんだって思ってはみたんですが、やっぱり売り言葉に買い言葉っていいますか、オレもだんだんアタマに血が昇ってきて… アイツにオトコがいるってことは、うすうす感づいてもいましたから、つい…それを武器にして怒鳴どなり返してしまいまして…」

「ああ、これは失礼しました」

 夫婦のいざこざの深い部分に光を当てたことを、増田先生がびる。いいんですと、お父さんが首を横に振る。

「それで、次の日、置き手紙だけを残して康江はいなくなってました。英流の幼稚園の卒園式の、ちょうど一ヶ月前でした」

 最近じゃないかと、ボクは驚いた。

 さすがに五、六歳にもなればそれなりに物心はついている。お母さんがいなくなったことが、どれだけエイルくんの心に影響を及ぼしているのかをボクはおもんぱかった。

 らしくもないと、自分でも思いながら。

「籍は抜きたくないんです。抜いたら、康江が英流のママじゃなくなってしまうみたいな気がして… ママのことが大好きだった英流を思うと、かわいそうで… それに、籍を抜こうにも、康江が今どこでなにをしてるのかも分かりませんし。でも…だから、学校への届けには、未練みれんったらしく康江の名前も入れました。…マズいですかね?」

「それは結構です。形の上では、お父さんとお母さんは今もれっきとした夫婦なんですから」

「そうですか。なら、よかった」

「お母さんが出ていったことを、エイルくんにはなんて説明しているんです?」

「ちょっと用事ができて、遠くにお仕事に行っているって、ごまかしてます。まだ六歳になったばかりですから、今は英流も信じてくれてます。でも、やっぱり寂しそうですね」

「あれこれと詮索せんさくして申し訳ありませんが、お父さんのご両親はもう他界されているとのことですが、おじいさんやおばあさんは?」

「いません。とっくの昔に亡くなっています」

「奥さんのほうのお家から、なにかサポートは受けていますか?」

「いえ、特には。康江が出ていったことは伝えています。ただ、向こうもあんまり家族仲のうまくいっていない家でして… ああそうか、ぐらいのもんでした。康江も、極力実家には頼りたくない姿勢を通してましたんで、オレもそれにならってます」

 そうですか――と、吐息といきまじりにつぶやいて、増田先生が質疑を切った。

 つかの間の、沈黙。

 ボクはもう、焦れに焦れていた。さっきの増田先生の無言の注意が、かろうじて口が開くのを押しとどめているていだ。

 刈場かりば家の事情は分かった。

 たいへんな苦労をしている家庭だってのは理解した。

 でも、エイルくんが肉を食べられない理由ってのはなんなんだ。

 エイルくんにとって、出ていったお母さんが肉だっていうのは、いったいどういうことなんだ。

「康江は、肉屋の仕事と英流の面倒を、それこそ必死でこなしてくれてました」

 ボクの心中を読んだのか、お父さんは、思い出したように話を核心に向けはじめた。

「今のオレの体臭もたいがいでしょう。生肉臭くないですか?」

「あ、いえ…」

 さすがに臭いですだなんて有体ありていには言えない。ボクが口篭くちごももっていると、ご職業柄でしょうと、増田先生が笑顔で返した。

「そうなんです。まあ、フロに入ればマシにはなりますが」

 いつ以来か、お父さんの表情もほころぶ。

「それは康江も同じことでした。朝から晩までスライサーで肉を切ったり、ミンチにしたり、味つけしたりして、幼稚園のお迎えの時間が来るぎりぎりまで店を手伝ってくれてました。フロに入るヒマもなく、英流を迎えにいってました。帰ってからも店の仕事の続きに晩メシの支度したく、値段のポップを作ったりと、とにかく大忙しです。その合い間合い間で、むずがる英流をあやすのも、ほとんど康江の仕事だったんです」

 だから――


「英流にとって、康江のにおいは肉の臭いなんです」


 ああと、思わずボクは漏らしていた。

 すべての謎が、一気に霧散解消むさんかいしょうした。

 なるほどと、増田先生も小さく何度もうなずいている。

「たしかに、英流は昔っから肉を食べませんでした。だから、康江はいつも魚料理を作ってました。それは、オレもとうぜん知ってました。でも…まさか、吐くほどキライだなんてことは知りませんでした。英流が普通食になって以来、ウチで出るメシはずっとパンか魚料理でした。だから…オレも、それが当たり前になっていて…」

 たしかに、それが普通になってしまっているのなら、エイルくんが肉を吐くほど食べられないという事実を把握できていなかったのもしかたない。

「今日、電話を受けて、英流が給食で肉を食べれず残してるって聞いて、オレはすぐに英流にたずねました。ダメなのか、食えないのか…って」

 エイルくんは、首を縦に振ったという。

愕然がくぜんとしました。オレは、こんなことも知ってやれていなかったんだって… できる限り、英流の子育てにも参加してきたつもりでした。康江の負担を、ほんのちょっとでも肩代わりしてやろうって…ずっと…… でも、オレはそんなことすら知らなかったんです」

「いや、お父さん、それは…」

「だってそうでしょう、若い先生。きっと康江は知ってたでしょう。でも、オレはひとっつも知らないでいた。英流のことを、こんな重要なことを、今のいままで知らずにいたんです。それがもう、オレは、情けなくて…」

 いまにも嗚咽おえつを上げそうなお父さんを、ボクは見守ることしかできなかった。

 そして、ボクのなかにも、おそろしい後悔が芽生えはじめる。

 この一ヶ月、ボクが、エイルくんにしてきたこと――

 大きくなるために食べるんだ。お残しはしちゃダメだ。

 そういって、ボクはエイルくんの頭をつかむ。

 目の前には、巨大な白い皿。

 会ったこともない女性が、その上に裸で横たわっている。

 いやいやするエイルくんの背を押して、皿の上へ。

 身動きもせず横たわる白い肌に、ボクはエイルくんの顔を押しつける。

 食べるんだ。

 エイルくんは、嫌がる。

 ――ママ、ママぁ…

 いつか聞いた、泣き声。わんわん泣き叫ぶエイルくん。

 ボクは、もう苛立いらだちを隠せない。

 どうして、どうして言うことを聞かない?

 ボクの思いどおりに動かない?

 おまえがこれを食べないと、ボクが困るんだぞ。

 ボクができないヤツだって、レッテルを貼られちまうんだぞ。

 一年生のガキひとりも言うことを聞かせられないって、ボクがそしりを受けちまうんだぞ。

 食え。はやく食え。

 はやくこの肉を平らげろ。


 このにくを、ママを食え!


「ああ…」

 ボクは、なんて、なんてことを。

 エイルくんに、なんてひどい仕打ちを――

 吐き気すら感じた。

 知らなかったんだ、ボクは。

 こんな深刻な理由があっただなんて、ボクはいっさい知らなかったんだ。

 こんなの、こんなの卑怯だ。不意打ちもいいところだ。

 悪くない。ボクは、なにも悪くない。

 でも――

 悪いコトだって知らなければ、なにをしたっていいってのか?

 異国の地で人を殺して、この国の法律なんて知らないからボクは無罪だって、おまえは自信を持って言えるのか。

 知るべきだったんだ。知る努力をもっとするべきだったんだ。

 はじめてエイルくんがロール・キャベツを吐き出した日に、ボクはもっと切実にこの問題に取り組むべきだったんだ。

 それをしなかった。

 なんとしても自力で問題を屈服させてやろうって、ボクは躍起やっきになってしまった。

 それがかなわないって分かると、今度はこっそりそれを処理しようとした。

 エイルくんは残さず食べているって、いつわろうとした。学校を、お父さんを。

 なんて、なんて卑劣なヤツなんだ、ボクは――


「パパ」


 おずおずと、声。

 はっと、ボクは顔を上げた。

 部屋の入口に、エイルくんが立っていた。昼間の格好そのままで、不安そうにボクたちを見つめている。

「おお、英流」

 湿った声をムリヤリ張って、お父さんが明るくこたえた。

「どうした? いま、先生が来てくれてるんだ」

「おなかへった」

 申し訳なさそうな顔で、エイルくんが、小さく言う。

 そりゃそうだ。

 お昼のトンカツも、食べてない。ボクがちり箱に捨てたんだから。

「そうか、おなかが減ったか」

 立ち上がって、お父さんがエイルくんのそばへ寄った。そのまま抱き上げる。

「ごめんなあ。もうちょっとだけ待ってくれるか。パパ、先生とお話しなくちゃいけないことがあってなあ」

「いや、お父さん。結構です、もう」

 状況はじゅうぶん理解できましたと、増田先生。

「学校としては、スクールカウンセリングを考慮して動こうと思います。エイルくんの問題は、間違いなく心のそれです。このまま放っておくのも、のちのちの成長に関わってきますから――」

「いえ、先生」

 お父さんが、ゆっくりと首を横に振る。

「世の中には、野菜しか食べない人だっているでしょう。それに比べれば、ウチの英流はまだ魚も食べられます。肉を食べられなければ死んでしまう…なんてこともないでしょう。だから、オレは、英流はこのままでいいって思っています」

 お父さんは、泣き笑いのような表情で、そう言った。

「康江が、ここまで英流を育ててくれたあかしだって、オレは思うんです。こんなオレに十五年以上も付き合ってくれたアイツが、がんばって育てた結果が、今の英流なんです。英流が肉を食べられるようになったら… それは、なんか……アイツの今までの努力が、ぜんぶ否定されちまうような気がするんです。あんなに苦労させて、それでもがんばってきた、康江の努力が……」

 さすがの増田先生も、即座にはなにも返せないでいた。

 ボクもまた、お父さんの気持ちがよく分かった。なんでこんなに共感してしまっているのか、自分でも分からないまま。

「オレはバカですから、よくは知りませんけど… なにか特別な理由がある子どもは、特定の素材を使わない、特別な給食にしてもらえるって制度も、あるんじゃなかったですかね?」

「あ、ええ。あります。ふつうはアレルギーを持つ子どもなんかに適応される特例ですが…」

「その制度を、英流にも使っていただけませんか?」

 増田先生が考え込む。百戦錬磨の学年主任も、こんな事例にぶち当たったのは初めてのことのようだ。

 分からない。知識がない。決裁権がない。

 だったら、その場で了承しないこと。独断は避ける。

「この場でお返事はできません。エイルくんの問題は一度持ち帰って、吟味ぎんみさせていただきたいと思います」

 セオリーに、増田先生は従った。

「わかりました」

 あっさりと、お父さんは了解する。

 大人たちのあいだで交わされる言葉を、まるでかいしていないだろうエイルくんは、ただ不安そうにボクのほうをじっと見つめ続けていた。

「エイルくん」

「はい」

 不安そうな、返事。

「今日は、いろいろあったね」

 ボクが不甲斐ふがいないばっかりに。ボクが独りよがりなばっかりに。

 いろいろと、この子につらい思いをさせてしまった。

 それでも、そんなボクの受け持つクラスでも――

「明日も、元気に学校で遊ぼうな」

 明日からも、ちゃんと来てほしい。

 願いをこめて、ボクはエイルくんに問いかける。

 はたして、エイルくんは小さくうなずいてくれた。

「うん」

 そう、健気けなげにも、ぎこちない笑顔で言ってくれるもんだから――

 危うくボクは洟声はなごえになるところだった。

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