第4話
帰路につく人の群れを吐き出して、電車は去っていった。
目に映るすべてが、一日の終わりを描き出している。
「ちょっと早いかな」
腕時計を見ながら、
午後の七時以降という約束なので、たしかに早く着いてしまいそうだ。
近くの自動販売機に、増田先生が小銭を放り込む。派手な音を立てて吐き出された缶コーヒーのひとつが、ボクに手渡された。
そのままその場所で、増田先生はコーヒーを
「
「はい」
「おまえ、『家なき子』ってドラマ、知ってるか?」
「ドラマ――ですか」
児童文学じゃなかったかと
「昔、そういうタイトルのドラマがあったんだよ。まだ中坊のころの
同情するなら金をくれ――ってなあ、と、本当に知らないのか確認するように、増田先生。知らないので、ボクは正直にそう断言した。
「…まあ、学園ドラマだよ。一種の」
なにかを
「そのドラマでよ、安達祐美演じる主人公の女の子を、
「ビンタ――ですか」
いまどきの教育現場では、まず考えられないシチュエーションだ。教師が暴力で
そう言うと、ちゃんと平成のドラマだよって返された。
「で、その教師は一週間の謹慎を食らうんだな」
「軽いですね。一週間ですか」
「十日だったかな? 細かいところは忘れたけど、まあ、謹慎だ」
いまなら、ヘタをすると
耳の奥。鳥のような奇声がよみがえる。
清村会長の、およそ分別ある大人とは思えない
恐怖と怒りが、またぞろ首をもたげてきた。あわててボクは、それを胸の奥に
「四捨五入しても二十歳のおまえはそうなんだろうなあ」
「と、言うと?」
「オレは当時、そうは思わなかったよ。え? なんでたったビンタ一発で謹慎なんだって、本気でびっくりした。だってよ、もしそれが当たり前だっていうんなら、小中時代のオレらのセンコーは軽く十人は謹慎処分だぜ」
そのドラマを
「ビンタなんて甘っちょろい。
「でも、体罰はダメでしょう」
暴力事は、小さいころからキライだった。友だちと取っ組み合った経験なんて一度か二度あったかどうかってぐらいだ。だから、殴る蹴るなんて行為をボクは嫌悪している。とにかく非文明的で恥ずべきコミュニケーションだ。
「ここだけのハナシだぞ」
「はい」
「教師で十五年も食ってきて、こんな発言するのはマズイんだろうが、オレは、ちゃんとした理由のある体罰は認めたっていいって思ってる。少なくとも、オレがガキのころの先生は、ちゃんと子どものことを
そんな理解関係が、教育現場と保護者の間で築かれていたという事実に、ボクは率直に驚いた。暴力を
「それがどうだ。PTAも今じゃ、保護者が教師を監視して
「ぜんぜんウマくないですよ」
と言いつつも、ボクはぷっと吹き出してしまう。
「やれ教育の質が悪いだの、教師の質が下がっただの言うけどな、質が下がったのは親のほうだって、オレは
まるで酒が入ったような勢いで、増田先生の
そうこうしているうちに、約束の七時が
「おっと、油売りはここまでだ」
空き缶をチリ箱に放り込んで、ボクたちは夜の商店街へと足を向けた。
「桐生」
「はい」
「今回の事案、新米のおまえにゃ大変だろうが、これはこれでイイ勉強の機会だ」
「ええ、そう思います」
「ウソつけ」
「なんでボクがこんな
「ち、ちが――」
当たってる。指された。図星を。
「おまえみたいな頭でっかちで計算高いタイプは、この手合いのトラブルが大嫌いなハズだ。特別優秀でもなく、かといってなんの問題も起こさない模範生でいることで、波風の立たない人生を送りたいってカオに書いてる。重責を
突然ずけずけと指摘を飛ばされて、ボクは内心穏やかでいられなかった。
でも、否定はできない。当たっているからだ。
「怒るな。責めてるワケじゃない」
おまえは至ってフツーだ――
すべてを見透かしたように、増田先生が言う。
「受け持ったクラスに、給食をきちんと食べられない生徒がいる。独力で、じょうずに
ボクの、教師生活最初の
そして、今日の事案が
「これが、おまえ一人の
もし、このままずっと、エイルくんのお残し問題を解決できなかったとして、ボクは果たしていつ、どのタイミングで状況を知らせていただろう。
何食わぬカオで、新年度の担任にバトンタッチしていたんだろうか。
そこまで、ボクは
「
ずっとまっすぐだった増田先生の目が、ここでボクを
「利己的な理由をハカリに載せるとよ、ヒトってのはだいたいそっちに重きを置いちまうんだ。特に、プライドの高いヤツほどそうだ」
視線で、増田先生がボクを指さす。
「自信があるのはいい。でも、自分ができないヤツだと認めたら負けだっていう、そんなバカな考え方は、人生のなるべく早い段階で捨てちまったほうがいいぞ。特に教師って仕事はそうだ。できる自分ってのを
できないヤツでいいんだからな。
そう持論を締めて、増田先生がニヤリと笑う。
「…はい」
反論点は、どこにも
増田先生の言葉を認めるには、まだどこか抵抗がある。
でも、その指摘が正しいんだってのも、くやしいほどよく解る。
もう
二度とこんな失敗をしないために。
「待っとけって、いつまでよ!」
大声でケータイとケンカしながら、ハデな格好の女がすれ違っていく。
まだ七時過ぎだというのに、シャッターに閉ざされた店先。
電信柱の
何度も後ろを振り返りながら、走り去る猫。
明滅する、塗装の
破られたポスター。
現代の下町が抱える悩みの
そんなうらぶれた街並みの果てに、目的の場所は立っていた。
『肉のかりば』――
雨露から軒先を守る
とうぜんシャッターは下りていて、一日の営みは終わっている。
すみっこの通用口にある
「…はい」
数秒を置いて、陰気な男性の声がドアホンから漏れ出した。
「夜分恐れ入ります。私、H第三小学校一年生の主任を務めております、増田と申します」
慣れ切った
少々お待ちくださいの声を残して、機械越しの応対は
ドアがせり出し、中から光の筋と、そしてかすかな生臭さが漏れ出した。
「どうぞ、お待ちしてました」
開いたドアの向こうから現れたのは、エイルくんとは似ても似つかぬ
この男性が、エイルくんのお父さん――
いざ会ってみると、
簡単に自己紹介を済ませ、いざ邸内へ。
「むさ苦しい家ですが、どうぞ」
「お邪魔します」
ぺこりとお
――?
ボクの
半分開いた下駄箱に、目を向ける。
こちらには、
「桐生」
「あ、すみません」
すでに廊下の中ほどまで進んでいた増田先生の顔には、なにやってんだ早くしろと
案内されたのは、八畳ほどの和室だった。
外見と同じように、畳は
「なんのお構いもできませんが、どうぞ楽にしてください」
「どうも、失礼します」
「
どうやら、エイルくんは二階の子ども部屋にいるらしい。
「いや、今のところ、それには及びません。必要が出てきたときにはエイルくんにも同席してもらうことになるかもしれませんが」
部屋の外へ呼び声を上げようとしていたお父さんを、増田先生が制した。そうですかと言って、お父さんはボクたちの眼前に腰を落ち着けた。
「電話で、内容は簡単に
「そうです。桐生」
担任はおまえだろうと、増田先生が目で
話が進むにつれて、お父さんは、なんとも複雑な表情を浮かべるようになった。
困惑。苦渋。悲壮。
しかめた顔から読み取れるのは、そんな感情図。
「…そうですか」
やがて、ボクがすべてを話し終えたとき、お父さんは深い深いため息を漏らした。
「ご迷惑をかけてるんですね。申し訳ありません」
「いや、迷惑だなんて…」
「どうも、今日は英流の様子が落ち込んでいると思ってたんです。店を閉めるまでは相手もしてやれんので、まだハナシを聞いてやれていないんですが…」
のろのろとした語り口が、ここでいったん止んだ。そして――
「英流は、イジメに
お父さんは、単刀直入に問うてきた。
「いえ。いまのところイジメと判断できるほどの状況ではありません。しかし――」
この状況がずっと続けば、暗い未来も遠くはない。
今日のホームルームの、異様な盛り上がりを思い出す。まちがいなく、エイルくんはいクラスメイトたちから「獲物」のレッテルを貼りつけられた。救いは、被害者と加害者の構図がまだ幼い六歳児だけでできていることだろう。指導、教育を誤らなければ、改善はそう難しいことじゃない。
「教えてください」
思わず、身を乗り出していた。
これがボクかと、思わず不思議になってしまうくらい、ボクはエイルくんの内情把握に積極的になっている。
どうせこれも保身に
でも、このさい動機はどうだっていい。
現状を打開できるんなら、ボクの行動理念なんざ二の次の問題だ。
「どうして、エイルくんは肉が食べられないんですか?」
「母親だからです」
お父さんは、短く答えた。
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