第4話

 帰路につく人の群れを吐き出して、電車は去っていった。

 目に映るすべてが、一日の終わりを描き出している。

「ちょっと早いかな」

 腕時計を見ながら、増田ますだ先生がつぶやいた。目的地の刈場かりば家は、うらぶれた商店街の一角に立っている。今いる駅からは、歩いて十分弱といったところだろう。

 午後の七時以降という約束なので、たしかに早く着いてしまいそうだ。

 近くの自動販売機に、増田先生が小銭を放り込む。派手な音を立てて吐き出された缶コーヒーのひとつが、ボクに手渡された。

 そのままその場所で、増田先生はコーヒーをすすりはじめた。時間稼ぎ――ということだろう。礼を言いつつ、ボクもまた缶コーヒーのプルトップを開けた。

桐生きりゅう

「はい」

「おまえ、『家なき子』ってドラマ、知ってるか?」

 唐突とうとつな質問に、ボクはつかぽかんとした。

「ドラマ――ですか」

 児童文学じゃなかったかとき返すと、あー知らないんだなと、増田先生は憮然ぶぜんとしたカオになる。続けて、ジェネレーションギャップってヤツだなあとなげき出すもんだから、いよいよボクは意味がわからない。

「昔、そういうタイトルのドラマがあったんだよ。まだ中坊のころの安達あだち祐美ゆみが主演しててな。中島なかじまみゆきが主題歌歌ってよ。すげえ視聴率だったんだ」

 同情するなら金をくれ――ってなあ、と、本当に知らないのか確認するように、増田先生。知らないので、ボクは正直にそう断言した。

「…まあ、学園ドラマだよ。一種の」

 なにかをあきらめたように、増田先生がコーヒーを飲み干した。

「そのドラマでよ、安達祐美演じる主人公の女の子を、保坂ほさか尚輝なおき演じる担任の教師がビンタするシーンがあるんだよ」

「ビンタ――ですか」

 いまどきの教育現場では、まず考えられないシチュエーションだ。教師が暴力でもって教え子を指導するなんて、天皇陛下の代がひとつ違っているんじゃあないだろうか。

 そう言うと、ちゃんと平成のドラマだよって返された。

「で、その教師は一週間の謹慎を食らうんだな」

「軽いですね。一週間ですか」

「十日だったかな? 細かいところは忘れたけど、まあ、謹慎だ」

 いまなら、ヘタをすると懲戒免職ちょうかいめんしょくのおそれすらある。特に、殴った子どもの親がモンスターペアレントだった日には――

 耳の奥。鳥のような奇声がよみがえる。

 清村会長の、およそ分別ある大人とは思えない罵声ばせい

 恐怖と怒りが、またぞろ首をもたげてきた。あわててボクは、それを胸の奥に仕舞しまむ。

「四捨五入しても二十歳のおまえはそうなんだろうなあ」

「と、言うと?」

「オレは当時、そうは思わなかったよ。え? なんでたったビンタ一発で謹慎なんだって、本気でびっくりした。だってよ、もしそれが当たり前だっていうんなら、小中時代のオレらのセンコーは軽く十人は謹慎処分だぜ」

 そのドラマをた当時、増田先生は高校生だったらしい。

「ビンタなんて甘っちょろい。拳骨グーパンだよ。タバコ吹かしたり酒飲んだりしてる悪いコにはもれなく鉄拳制裁さ」

「でも、体罰はダメでしょう」

 暴力事は、小さいころからキライだった。友だちと取っ組み合った経験なんて一度か二度あったかどうかってぐらいだ。だから、殴る蹴るなんて行為をボクは嫌悪している。とにかく非文明的で恥ずべきコミュニケーションだ。

「ここだけのハナシだぞ」

「はい」

「教師で十五年も食ってきて、こんな発言するのはマズイんだろうが、オレは、ちゃんとした理由のある体罰は認めたっていいって思ってる。少なくとも、オレがガキのころの先生は、ちゃんと子どものことをおもって殴ってたよ。怒りや苛立いらだちに起因したゲンコツは暴力だ。だけど、あの時代の先生の拳ってのは、しっかり愛情だったよ。殴られた子どもの親だって、殴った先生に感謝してた。教師と保護者、相互の理解がきちんと回ってた」

 そんな理解関係が、教育現場と保護者の間で築かれていたという事実に、ボクは率直に驚いた。暴力をともなった指導は例外なく悪――そんな教育を、ボクは大学で受けてきたからだ。

「それがどうだ。PTAも今じゃ、保護者が教師を監視して弾劾だんがいする場所みたいなモンだ。そもそもは保護者と教師が協力して子どもの育成を学び考えていく、そういう目的で結成された機関だってのによ。現代の親御サマにとっちゃ、学校は教育サービスを提供する施設、通わす子どもはお客サマってワケだ。なにが『ペアレント・ティーチャー・アソシエーション』だ、これじゃ『ペアレント・大切・アソシエーション』だっつーの」

「ぜんぜんウマくないですよ」

 と言いつつも、ボクはぷっと吹き出してしまう。

「やれ教育の質が悪いだの、教師の質が下がっただの言うけどな、質が下がったのは親のほうだって、オレは常々つねづね思ってる。まあ、そんな悪質な親を生み出したのもまた教育なんだろうから、こりゃどっちが悪いかなんて分かりゃせんわな。学校教育と家庭教育のデフレ・スパイラルってところかね」

 まるで酒が入ったような勢いで、増田先生の愚痴ぐちは続く。でも、それがまたボクの義憤と共鳴するもんだから、ボクもまた力強く相槌あいづちを打ってしまう。

 そうこうしているうちに、約束の七時がせまってきた。

「おっと、油売りはここまでだ」

 空き缶をチリ箱に放り込んで、ボクたちは夜の商店街へと足を向けた。

「桐生」

「はい」

「今回の事案、新米のおまえにゃ大変だろうが、これはこれでイイ勉強の機会だ」

「ええ、そう思います」

「ウソつけ」

 言下げんかに否定されて、ボクは思わずつんのめってしまう。

「なんでボクがこんな面倒事めんどうごとに巻き込まれなきゃいけないんだー、どうしてボクの思い通りにならないんだー、って思ってるクセによ」

「ち、ちが――」

 当たってる。指された。図星を。

「おまえみたいな頭でっかちで計算高いタイプは、この手合いのトラブルが大嫌いなハズだ。特別優秀でもなく、かといってなんの問題も起こさない模範生でいることで、波風の立たない人生を送りたいってカオに書いてる。重責をにないたくはないから上には昇りたくない。といって、劣等生だ、仕事ができないヤツだって評価は下されたくない。向上心はないクセにプライドだけは人一倍ってのがおまえだ、桐生」

 突然ずけずけと指摘を飛ばされて、ボクは内心穏やかでいられなかった。

 でも、否定はできない。当たっているからだ。

「怒るな。責めてるワケじゃない」

 おまえは至ってフツーだ――

 すべてを見透かしたように、増田先生が言う。

「受け持ったクラスに、給食をきちんと食べられない生徒がいる。独力で、じょうずに矯正きょうせいしてやりたい。それができないと、自分は『できないヤツ』のレッテルを貼られちまう。でも、問題は一向に解決できない。じゃあ、どうする?」

 内緒ないしょで、お残しオッケーの許可を与えてしまった。

 ボクの、教師生活最初のあやまち。

 そして、今日の事案が出来しゅったいした原因だ。

「これが、おまえ一人の範疇はんちゅうで終わるハナシなら、オレはぜんぜん良かったよ。自己の向上、努力にはげむスバラシイ新人だ。なによりオレが面倒事を背負しょわされることもねえしな。でも、預けられた子どもの成長に関わってくるんならそうはいかん。おまえがこのまま刈場クンのお残しを解決できないまま、しかもそれを他にいっさい知らせないままズルズル一年過ぎてみろ。健康面、人間性、いろんな問題が刈場クンに発生する。おまえはおろか、オレにだってどうしようもないかもしれない」

 もし、このままずっと、エイルくんのお残し問題を解決できなかったとして、ボクは果たしていつ、どのタイミングで状況を知らせていただろう。

 何食わぬカオで、新年度の担任にバトンタッチしていたんだろうか。

そこまで、ボクは卑怯ひきょうな人間なんだろうか。

天秤てんびんの片方に、保身はぜったいせるな」

 ずっとまっすぐだった増田先生の目が、ここでボクをとらえた。

「利己的な理由をハカリに載せるとよ、ヒトってのはだいたいそっちに重きを置いちまうんだ。特に、プライドの高いヤツほどそうだ」

 視線で、増田先生がボクを指さす。らしてしまいたい衝動を、ボクは必死でこらえた。

「自信があるのはいい。でも、自分ができないヤツだと認めたら負けだっていう、そんなバカな考え方は、人生のなるべく早い段階で捨てちまったほうがいいぞ。特に教師って仕事はそうだ。できる自分ってのを盲信もうしんして盲進もうしんしてちゃ、子どもの人生に悪く影響しかねん。そうなりゃ責任の取りようもない。なにより、おまえはまだ――」

 できないヤツでいいんだからな。

 そう持論を締めて、増田先生がニヤリと笑う。

「…はい」

 反論点は、どこにも見出みいだせなかった。

 増田先生の言葉を認めるには、まだどこか抵抗がある。

 でも、その指摘が正しいんだってのも、くやしいほどよく解る。

 もう自我エゴは、通せない。

 二度とこんな失敗をしないために。

「待っとけって、いつまでよ!」

 大声でケータイとケンカしながら、ハデな格好の女がすれ違っていく。

 まだ七時過ぎだというのに、シャッターに閉ざされた店先。

 電信柱のかげでこそこそ話し合う、複数の男たち。

 何度も後ろを振り返りながら、走り去る猫。

 明滅する、塗装のげた街灯。

 破られたポスター。

 現代の下町が抱える悩みのるいに漏れず、この商店街の持つ雰囲気もまた頽廃たいはいだ。

 そんなうらぶれた街並みの果てに、目的の場所は立っていた。

 『肉のかりば』――

 雨露から軒先を守るほろはところどころ傷んでいて、色褪いろあせた看板にもさびが浮きまくっている。お世辞せじにももうかっている店構えとは言えなかった。

 とうぜんシャッターは下りていて、一日の営みは終わっている。

 すみっこの通用口にある呼鈴よびりんに、増田先生が肥えた指を押しつけた。

「…はい」

 数秒を置いて、陰気な男性の声がドアホンから漏れ出した。

「夜分恐れ入ります。私、H第三小学校一年生の主任を務めております、増田と申します」

 慣れ切った口上こうじょうで、増田先生がおとないを入れる。

 少々お待ちくださいの声を残して、機械越しの応対は途切とぎれた。代わりに、足音が屋内から近づいてくる。

 ドアがせり出し、中から光の筋と、そしてかすかな生臭さが漏れ出した。

「どうぞ、お待ちしてました」

 開いたドアの向こうから現れたのは、エイルくんとは似ても似つかぬ恵体けいたいの中年男性だった。まだ五月前だというのに半そでで、隆起した筋肉は小麦に焼けている。数カ月はっていないだろうヒゲがまた、彼の精力的な外見を数倍増しに見せていた。生臭い体臭は、毎日のように精肉と向き合っているがゆえのものだろう。

 この男性が、エイルくんのお父さん――刈場かりば昭憲あきのりその人だった。

 いざ会ってみると、風貌ふうぼうに覚えがあった。入学式が済んで、一年四組が初めて教室に小さな頭を並べたとき、この後ろに並ぶ保護者陣のなかに、この大柄な男性は立っていた。出席者のほとんどがお母さん――女性だったこともあって、うっすらと記憶に残っていたんだろう。

 簡単に自己紹介を済ませ、いざ邸内へ。

「むさ苦しい家ですが、どうぞ」

「お邪魔します」

 ぺこりとお辞儀じぎして、言葉のとおり邪魔そうな増田先生の巨体が刈場宅に上がりこむ。続けてボクも靴を脱ぎ、しゃがんでキレイに整えた。せまい玄関には、大小ふたつの靴が無造作に転がっている。お父さんとエイルくん、二人のものだろう。それらもいっしょに整える。

 ――?

 ボクの脳裡のうりを、ある疑問がかすめていった。

 半分開いた下駄箱に、目を向ける。

 こちらには、外履そとばき用のスリッパなどが比較的整然と収まっていた。しかし――

「桐生」

「あ、すみません」

 すでに廊下の中ほどまで進んでいた増田先生の顔には、なにやってんだ早くしろと大書たいしょされている。あわててボクは身体を起こし、二人の後ろに着いた。

 案内されたのは、八畳ほどの和室だった。

 外見と同じように、畳はほころび、ふすまはところどころ破れている。まんなかに配された机にも縦横に走った傷が浮いて見えた。

「なんのお構いもできませんが、どうぞ楽にしてください」

「どうも、失礼します」

英流えいるも、呼んできたほうがいいですかね?」

 どうやら、エイルくんは二階の子ども部屋にいるらしい。

「いや、今のところ、それには及びません。必要が出てきたときにはエイルくんにも同席してもらうことになるかもしれませんが」

 部屋の外へ呼び声を上げようとしていたお父さんを、増田先生が制した。そうですかと言って、お父さんはボクたちの眼前に腰を落ち着けた。

「電話で、内容は簡単にうかがってます。英流が、給食を残す理由だとか――」

「そうです。桐生」

 担任はおまえだろうと、増田先生が目でうながす。居住まいを正し、ボクはコトの経緯をていねいに語って聞かせた。

 話が進むにつれて、お父さんは、なんとも複雑な表情を浮かべるようになった。

 困惑。苦渋。悲壮。

 しかめた顔から読み取れるのは、そんな感情図。

「…そうですか」

 やがて、ボクがすべてを話し終えたとき、お父さんは深い深いため息を漏らした。

「ご迷惑をかけてるんですね。申し訳ありません」

「いや、迷惑だなんて…」

「どうも、今日は英流の様子が落ち込んでいると思ってたんです。店を閉めるまでは相手もしてやれんので、まだハナシを聞いてやれていないんですが…」

 のろのろとした語り口が、ここでいったん止んだ。そして――

「英流は、イジメにってるんですか?」

 お父さんは、単刀直入に問うてきた。

「いえ。いまのところイジメと判断できるほどの状況ではありません。しかし――」

 この状況がずっと続けば、暗い未来も遠くはない。

 今日のホームルームの、異様な盛り上がりを思い出す。まちがいなく、エイルくんはいクラスメイトたちから「獲物」のレッテルを貼りつけられた。救いは、被害者と加害者の構図がまだ幼い六歳児だけでできていることだろう。指導、教育を誤らなければ、改善はそう難しいことじゃない。

「教えてください」

 思わず、身を乗り出していた。

 これがボクかと、思わず不思議になってしまうくらい、ボクはエイルくんの内情把握に積極的になっている。

 どうせこれも保身にたんを発しているんだ、そうに違いない。

 でも、このさい動機はどうだっていい。

 現状を打開できるんなら、ボクの行動理念なんざ二の次の問題だ。

「どうして、エイルくんは肉が食べられないんですか?」


「母親だからです」


 お父さんは、短く答えた。

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