第3話

 エイルくんを残したところで、特に善後策が浮かぶワケでもなかった。

「ごめんな。先生が、きちんと捨てなかったから…」

 ほんとうはこんな謝り方はしたくなかった。まるで共犯者どうしの傷のめ合いだ。

 他になにを話すでもなく、ただ、ボクはがんばろうと言った。明日こそぜんぶ食べきってみんなを見返してやろうって、適当な精神論をブチ上げただけだった。

 一人さびしく帰路に着くエイルくんのうしろ姿を見送りながら、ボクは黒い予感におののいていた。

 事態は、これでは済まない。そんな、不吉な予感だ。

「それはマズいぞ、桐生きりゅう

 放課後の職員室に、増田ますだ先生の声が響き渡った。ボクの報告を聞いたとたん、普段の温和な中年教師の雰囲気は一変した。

「なぜ昨日の時点でオレに相談しなかったんだ」

「すみません。どうしても、エイルくんがかわいそうで… その…」

刈場かりばクンに給食を残してもいいって言ったことはどうでもいい。自分ひとりの判断で、そういうイレギュラーな状況を作るなと言ってるんだ」

 報連相ほうれんそうだホウレンソウと、増田先生が声を張り上げる。

「事後だろうと報告しろ。昨日の放課後の時点でだ。オマエひとりでどうにかできるって思ったのか?」

「いえ… その…」

 返す言葉もない。

 保身を主義にして生きてきたのだったら、どうして昨日の時点でこの人に相談しなかったんだろうって、新しい後悔がふつふつと湧き上がってくるばかりだ。そうしていれば、少なくとも、責任の半分は学年主任のこの人にになってもらえたのに。

「思ってたんなら、それは思い上がりだぞ、ペーペー」

 どっかと、増田先生が腰を下ろす。使い古された椅子が悲鳴を上げた。

「次からは必ず報告しろ。事前にだ。特別な判断、行動を起こす必要があるってオマエが思ったんなら、その都度つどだ。わかったか?」

「はい」

「オマエはまだ責任を負える立場じゃない。でも、オマエが起こすアクションには必ず責任が付きまとうんだ。それが社会人だ。だから、そんな事態が起こりそうならすぐオレに振れ。なすりつけろ。いいか、わかったな?」

「…はい」

 不覚にも、目頭めがしらが熱くなった。

 たしかにボクは思い上がっていたのかもしれない。いや、思い上がっていたんだろう。

 小学一年生のクラスなんて意のままに操れるって、誇大こだいな妄想を描いてたのだ。自分の考える、理想とする教育を植えつけられるって、過剰な自信を抱いていたのだ。

 現実は、甘くはなかった。いや、ボクが甘かっただけだ。

 そして、この増田先生は、まごうことなくボクの味方だ。未熟で甘っちょろいボクがすがれる学年主任であり、人生のセンパイなのだ。

「いいか桐生、終わったコトはしかたない。問題は、これから起こるであろう事態に備えるコトだ」

「これから起こる…コトって?」

 固唾かたずを飲んで見守っていた瀬戸せと先生が、遠慮がちに質問する。モンスターだよって、増田先生が神妙そうな面持おももちでこたえた。

「今回の事案の中心にいるのが、清村しむら会長の娘ってのがサイコーに問題だ。オレには見えるようだよ、そのチカちゃんって娘が、無邪気におっさんに今日の出来事を報告してるのがな」

 報告――ボクに欠けていたもの。

 まだ今年六歳のチカちゃんは、それができている――らしい。

「私が先生と刈場クンのイケナイ約束をあばいてやった。そしたら先生は怒鳴ってウヤムヤにした――って、まあそんなところかな。きっとでっけえ尾ひれはひれがついてるぜ。子どものする報告だ。自分がどれだけ素晴らしいことをやってのけたか、万倍まんばいりで言い立てる。そんで、それをそっくりそのまま鵜呑うのみにするのが、モンスターペアレントってヤツだ」

 ぞっとした。

 ボクがいま、置かれている立場。その苦境を、今さらながら理解できた。

「前にも話したろう。いま四年にいる清村の上のコが、何度かこういう問題を起こしてるんだ。そんでその都度、清村のおっ母さんがPTAを巻き込んで学校オレたちをブン殴りにやってきた。決着模様はだいたいこっちの泣き寝入りだ。オレたちゃ保護者サマにゃさからえん」

「どうしたんだね、増田君?」

 と、ここで他のシマの教師陣から、ようやく声がかかった。いや、途中からは人目をはばからず大きな声で話し込んでいるのだから、問題の全体像は職員室にいる教員のほとんどが飲み込めているだろう。

 合いの手をはさんできたのは、浦上うらがみ達也たつや教頭だった。

「いま、清村会長の名前が出てきたようだけど……?」

「マズいことになりました、教頭」

 臆せず、増田先生が事情を語る。ときどきボクがおずおずと補足を入れて、教頭にコトの経緯を説明した。

「困ったねえ、それは」

 もう定年間近の教頭は、完全に禿げあがった頭に何度も手をやっては、困った困ったを連発した。

「増田君の杞憂きゆうで終わればいいけれど… きっとそうはいかんのだろうねぇ…」

 初めて面談したときから頼りなさそうだとは思っていたけれど、浦上教頭はほんとうに頼りない。まあコトが起こってない以上職員会議をもよおす必要はないだろうけどと、最後は自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。

 電話のコール音が鳴り響いたのは、まさにそのときだった。

「はい。H第三小学校の瀬戸と申します」

 まっさきに瀬戸先生が受話器を取り上げていた。ウグイス嬢さながらの美声で応対する。

 その童顔は、みるみる深刻さをびていった。

「あの… PTAの清水会長からです」

 保留ボタンを押し、瀬戸先生が電話主の正体を告げる。

 ボクは、があんと頭をぶん殴られたような気分だった。

「桐生先生を出してほしいと、そうおっしゃってますケド……」

「オレが出よう」

 深呼吸をひとつ、増田先生が受話器を受け取った。心底ボクは、でっぷりと肥えた背に感謝した。

「お電話代わりました。私、一年生の学年主任をしております、増田と申します。ええ、恐れ入ります。桐生がただいま席を外しておりまして… ええ、私で良ければ、代わってお話を――そうです。はい…」

 さすがに落ち着き払った声で、増田先生が怪物と応対する。ボクは気が気ではなかったし、また、周囲の先生たちの視線が痛いくらいだった。

 自分のミスを、センパイに肩代わりさせている――この上なく申しワケないし、自分が恥ずかしかった。

 いつの間にか横にいた瀬戸先生が、小声で何度もだいじょうぶってささやいてくれる。それがなんだか心強く、勇気になった。最悪電話を代わる展開になってもなんとか戦える気がした。

「ええ、すみません。私もまだ桐生から詳細を聞いてないもので… ええ、事実確認をして、改めてご連絡いたします。ええ、では、一旦いったんお電話を切らせていただきます。はい、失礼いたします」

 電話機のフックスイッチを、増田先生の丸い指が押す。

 ボクのみならず、職員室じゅうに張り詰めていた緊張の糸が、ようやく切れた。

「ど、どうだね、増田君……?」

「やっぱり来ましたね、教頭。桐生先生の人間性に深い疑問があるって、やっこさん、エラいおかんむりですわ」

 応答の流れからある程度は察していたことだけれど、いざ言われるとやはり心にずうんと重力が宿やどった。

「清水会長のハナシをカンタンにまとめるとこうです。今日学校でこんなことがあったと、娘からハナシを聞いた。なんでも、担任の桐生センセイが決まりを守っていない生徒を特別扱いして擁護ようごしているという。それはオカシイんじゃないかって指摘した娘を、桐生センセイは『だまれ、殺すぞ!』などと教師にあるまじき発言で恫喝どうかつしたらしい」

 ――え?

「ちょ、ちょっと待ってください! ボ、ボクは…そんな…」

「さらにその後、桐生センセイは決まりを守らなかった生徒だけを残して、なにやらハナシをしていた。娘がこっそり聞き耳を立てていると、桐生センセイは娘の悪口をこれでもかと言い放っていたという。娘は傷つき、泣いている。桐生を出せ。直接ハナシを聞かないと到底とうてい気が済まない」

 ふざけるな――あとちょっとのところで、そう怒鳴どなっていた。

 とっさに瀬戸先生が右腕をつかんでくれたことで、かろうじてボクは正気をたもてていた。

「いちおう確認するが、桐生、そんな事実は?」

「ありませんよ!」

 アタマに血が昇ってどうにかなりそうだった。まさに大学の講義で聞いたモンスターペアレントの苦情内容だった。

 どうしてこの手の人種は、そこまで我が子を盲信もうしんできるんだろう。

 どうしてこの手の保護者は、我が子の虚言ウソを一から十まで真実ホントだと思えるんだろう。

 当事者になって、あらためてボクは、モンスターペアレントという事象の不可解さと不条理さに怖気おぞけを覚えた。

「困ったな。これは困った。新学期早々、また清水会長のご子息がらみの懸案か…」

 ぺちぺちと、浦上教頭が自分のアタマを叩く。過去に何度も煮え湯を飲まされてきた経験が、苦渋の表情に現れていた。

「すぐに折り返す必要がありそうですか? 桐生くんから、直接」

「なるべく出したくはないですが、しかたないでしょう。ただ、桐生!」

 増田先生に大声で呼ばれ、ボクはまるで小学生のようなうわついた返事をした。

「むこうさんのペースに巻き込まれるな。ついこないだまで学生だったオマエにゃ重すぎる荷物だが、こうなっちゃもうハラくくれ。とにかく絶対、清水会長のボルテージには乗せられるな。間違っても受けて立つんじゃないぞ。感情を殺せ。今日、ホームルームであったことを、オマエはただ淡々としゃべればいい」

 今日、ホームルームであったことを、淡々としゃべる。電話のまえで手薬煉てぐすね引いて待ち構えている怪物に、ただそれだけを淡々と説明する。

 不意に薄れる現実感のなか、ボクは必死にその忠言を反芻はんすうした。

「刈場くんの件はどうします?」

 そんなボクに代わって、瀬戸先生が固めるべき点をピックアップしていってくれる。

「ありのままを話すしかないだろう。桐生が刈場クンにだけ『給食を残してもいい』と言ったのは事実なんだ。ここで事実を否定したって、刈場クンがしゃべればもうご破算だ」

 ボクの判断が、行動が、すべてが裏目に出てしまっている。

 認めたくない事実は、しかしすべて、いま、現実に起こっている内容なのだ。

「ただ、こうなっちゃもう遅きにしっしたカタチになるが… 刈場クンの親御さんとも至急面談しなけりゃならんな」

「面談――って?」

 どういうことですと瀬戸先生がたずねる。桐生の行動に正当性を与えるんだよと増田先生が言った。

「刈場クンが肉を食べられない理由を、なにがなんでも突き止めるんだ。松田島まつだしまの予想じゃ心因性のものらしいが、医学的に肉を食べられない理由が刈場クンにあるんだとしたら、コトの発端ほったんになった『桐生の特別扱い』も正しい行動になる」

「そっか。そうですね、桐生センセ、きっとなんかのキチンとした理由があるんですよ、刈場くんには」

 桐生センセの行動はきっと正しいって、瀬戸先生が断言する。なんの根拠もないっていうのに、おろかなぐらい楽観的だ。

 でも、それがボクにとって勇気になる。力になる。

 意を決して、ボクは電話に近寄った。

 リダイヤル操作をして、受話器を取り上げる。通話設定はスピーカーホンにした。

 コール音が重なるたびに、否応いやおうなく鼓動は高鳴った。

 感情を殺す。

 今日、ホームルームであったことを、淡々としゃべる。

 言い聞かせる。自分に。何度も。

「もしもし」

 女性にしては低いその声は、たぶん、六コール目の途中で響いた。

「恐れ入ります。私、一年四組の担任をしております、桐生と申します」

「何歳よ、アナタ?」

 突如とつじょ、電話の向こうの声が一変した。

「若いわよね、たしか? ひょっとして、大学を出たばかりなのかしら?」

「あ、あの、スミマセン… 清水しみず千佳ちかちゃんのお宅でしょうか――」

「分かりきったコトいてんじゃないわよ! チンピラ教師!」

 まるで、鳥の叫び声だった。

 これがPTAの会長職を務める保護者の代表なのかと、ボクは本気で疑った。

「こっちが質問してるでしょう! 質問に答えなさいよアナタ何様なの? ウチの千佳にとんでもない暴言を吐いといて!」

「そ、その件でお電話差し上げました。な、なにか、チカちゃんが勘違いをなされているようで――」

 バカと、松田島先生の声がした。

「かんちがいィ?」

 電話の向こうの声が、さらにボルテージを上げる。

「勘違いですってアナタ! ウチの千佳がウソを言ってるということにでもして終わらせたいのアナタは! どういう神経をしているワケ? ふざけるのも大概たいがいにしなさいよ! ええ? 桐生センセイ!」

 受話口は、まるで、重油を振りかけられた火事場だった。

 松田島先生の悪態の意味を、ボクは最悪のカタチで理解した。

「アナタ、ウチの千佳に殺すって言ったでしょ? 殺すってどういうコト? まだ年端としはもいかない女の子に殺すだなんて! どれだけ経験の浅い先生だからって、非常識にもほどがあるんじゃなくって!」

「いえ、だからですね、ボク…私はチカちゃんにそのようなことは一切――」

「自分の暴言をたなに上げて、ウチの千佳をウソつき呼ばわりする気ィ! 千佳がまだ小さいから信用できないって、だから誤魔化ごまかしきれるって考えてるワケ? どこまで性根が腐ってるのアナタ? 教師以前に、ヒトとしてどうかしてるんじゃないの? 謝りなさい! 謝りなさいよ千佳に! いえ、ここで謝ったって許しやしないわ。出向きなさいよ、ウチに! 千佳の前で土下座して、心からおびなさい。でないとアナタを懲戒免職ちょうかいめんしょくに追いるわ! いますぐよ、いますぐ!」

「~~~~~~ッッ!」

 ボクがどうかしてるだと?

 なに言ってんだ、このイカレババアが!

 人としてどうかしてるのはテメエだろうが!

 ノドまで出かかっている買い言葉たちをぐっと飲み込んで、ボクはとにかく自分の発言権を得ようと努めた。『向こうに全部言わせろ』って書かれたメモ用紙を、増田先生がボクの目の前にかざす。クレーム応対の基本だって研修で習ったのを、そこでようやくボクは思い出した。

 拷問のような聞き取りは、なおも、十分は続いた。

 いつになったらこの怒声は止むのかって、ボクは相手のエネルギーに畏怖いふの念すら抱いた。

 増田先生のミミズののたくったような字で書かれた新しい指示書。『けっして謝るな』と記されている。謝ったら終わり。自分の非を認めたことになる。チカちゃんがお母さんに報告した針小棒大な内容が、すべて事実になってしまう。

 謝らず、待て。

 こっちのぶんむスキを、えて待つんだ。

「ねえ、アナタもいい加減なにか申し開きしたらどうなの?」

 ようやく、そのときは訪れた。冷静になれてからの十分間は、ずっとこの言葉だけを待っていたようなものだった。

「お母様のご意見はよく理解できました」

 ボク自身、びっくりするぐらい落ち着いた声で、反攻の第一声を放つことができた。

「まず、今日のホームルームの時間で私が大声を上げたのは事実です。それにつきましては、まったくお母様のご指摘どおり、私の不熟ふじゅくいたすところです。もっと冷静にクラスのヒートアップをいさめるべきでした。それにつきましては深くおび申し上げます」

 ここまではいい。ここまでは頭を下げてもいい。

 でも、これ以上はゆずっちゃなんない。

「しかし、いくら経験の浅い私でも、チカちゃんがお母様に話したような暴言は申しませんし申せません。どんなに未熟者でも、私は、一年四組の子どもたちの担任なんです! 殺すだなんて残酷な言葉、私は、お子さんには向けていません!」

「チカは言ったっていってるのよォオ!」

 いくぶん疲れを見せていた怪物の声が、再び爆発した。

「言っていません、私は。放課後に私が別のお子さんといっしょになってチカちゃんの悪口を言っていたという事実もありません。きっと、チカちゃんはなにか聞き違いをしたんじゃないかって思います」

 真実は、チカちゃんのでっちあげなんだろう。終礼後、チカちゃんは友だちといっしょにまっすぐ校門から出ていった。それを見届けて、ボクはエイルくんとの面談に入ったのだ。あれからチカちゃんが教室に舞い戻ってきたハズがない。

 でも、そこまで否定したら、電話の向こうの怪物はいよいよ烈火のごとくたけり狂うだろう。それぐらいは、甘ちゃんのボクにも分かる。

「じゃあ、アナタは、その特別扱いしてる子どもとなにをコソコソ話してたの!」

 勝機が、見えた。

 我が子への謝罪要求一辺倒だった清村会長の言葉が、ここにきて初めて別方面に向いたのだ。突かれたら痛む点なのは相変わらずだけど、チカちゃん中心だった論点が変わっただけでも、ずいぶん常識的なやり取りが期待できるハズだ。

「それにつきましては、指導の一環でした」

 増田先生に、ボクは目配めくばせする。

 バクチに出る、合図を。

「チカちゃんの言う、特別扱いしているお子さんというのは、さる問題があって給食が食べられない子なんです」

「はあ? キュウショクぅ?」

「はい。お昼の給食です。そのお子さんはワケあって、どうしても給食をぜんぶ食べることができないんです。ですから私は、その子には給食を残してもいいという許可を与えています。でも、一方で私はクラスのみんなに給食を残してはいけないとも教えています」

 小さく二度、増田先生がうなずいた。行け、かまわんと、表情が言っていた。

「そして、ある一人の子どもにだけ給食を残してもいいという特例を認めていることを、私はクラスのほかのみんなには説明していませんでした。それが、チカちゃんは不思議だったんでしょう。決まりを守っていないお友だちを、先生は許している。おかしいことだと、チカちゃんは思っているのでしょう」

「どうしてその子は給食を食べられないの? 娘はたしか、えいるクン…とか言っていたわね。苗字はなんていうの? 親御さんは誰なのかしら?」

 ようやく、ようやく怪物のほうも冷静な語り口になってきた。

「申し訳ありませんが、それにつきましては、プライバシー関係の問題もありますので、このお電話では申し上げられません」

「つまり、その子だけが給食をぜんぶ食べられなくても、残してもいいという特別扱いについては、親御さんからの申し出を受けて、学校側がそういうふうに対応しているという理解でよろしいのかしら?」

 一瞬の、躊躇ちゅうちょ

 増田先生が、首を横に振る。それはダメだと、顔が言っていた。

 ボクが、イエスと返答しそうになったのを悟ったのだ。スゴイな。我ながらあきれてしまうけれど、この非常時にそんな感想が浮かんでいた。

「私の独断です」

「ダメじゃないの!」

「はい。いけないことでした。学年主任の増田からも厳しく指導されたばかりです。ただ、そのお子さんがなにか病理学的な事情から給食をきちんと食べられないのは事実なんです。その点につきましては、至急、親御さんに確認を取るつもりでいます」

 受話口の向こうに、初めて沈黙が宿った。

 曲がりなりにもPTAの会長を務めているのだ。我が子が関係していない懸案であるならば、この怪物も常識的な判断を下せるに違いない。

 そして、それに付随ふずいして起こった事件。我が子からの、報告。

 果たして、自分はこのまま学校を、糾弾し切れるのか――

 怪物はおそらく、きっと、落としどころを模索している。どうすれば自分のほうに傷がなく収まりが着くか、沈静化した頭脳をめぐらせている。

「私の未熟な怒鳴り声で、チカちゃんが傷ついているということでしたら、これからすぐにでもお詫びにうかがいますが――」

 瞬間、増田先生の顔が凍りつく。カマキリのような松田島先生の大きな目が、さらに大きく広がった。

 ――マズかったか!

 周囲の先輩たちの反応から、ボクは失敗を悟った。

「それはもういいわ」

 ボクが差し出したを、清村会長はハネのけた。

 しかし、声にはげしさはない。

「千佳には私から言い聞かせておきます。アナタもまだ若いのですから、今回のことは勉強と思って今後にかすことね。自分の言動がどれだけ小さな子どもに響くか、こたえるか…もっと心を配ってくれないと、親としては安心して子どもを任せられません」

 逃げたな――そう思った。

 チカちゃんもかなり大げさに報告したのだろうが、それ以上にこの母親は盛りまくってわめき立てていたのだと、ボクは確信した。でなけりゃ、ここまで態度を軟化させはしないだろう。

 いけしゃあしゃあと、よく言うものだ。

 一瞬そう思ったけれど、それ以上にボクは安堵した。

 怒りもプライドも忘れて、ボクはぺこぺことお詫びの言葉を繰った。苦境から解放される喜びが向こうに伝わらないよう、自分がイヤになってしまうくらい切実に反省の弁を垂れた。

「ただし、その――肉が食べられない子かしら? その子の件」

「はい」

「そろそろ家庭訪問の時期でしょう? そのときに、こと顛末てんまつを説明しなさい。親御さんに確認を取るんでしょう? その結果がどうだったのか、本当に病気かなにかだったのかを。間接的とはいえ、私の娘はその子の件が理由で傷ついたのよ。私には知る権利がありますからね。それに、そのハナシが、あなたのその場しのぎのでっちあげって可能性もあるワケだし…」

 そのくらいのことなら――目配せした先で、増田先生が首を縦に振っていた。

「承知しました。必ず」

 ガチャンと、受話器を置く音。ボクは思わず顔をしかめた。

 怪物との舌戦が、終わった。

 うつむき、ボクは何度も息をいた。今さらながら、心臓が高鳴る。

「奇跡だな」

 神妙な顔で、増田先生もまたため息交じりにつぶやいた。

「明確な落ち度が学校側にあって、なおかつそれが清村会長の子どもにからんでいない部分だったってのが幸いしたんだろうな。あの人がここまでアッサリ引き下がったのは初めてだぞ」

 これでアッサリ引き下がった方なのかと、ボクは怖気おぞけを振るう。

「でも、あの一言は肝を冷やしたぞ」

 すぐにでもお詫びに行く――のくだりのことだろう。なにがマズかったのかと、ボクは目で問う。

「オマエも大方おおかた気づいてたと思うが、清村会長のまくし立ててた内容の七割は創作だ。ああいった自分の言葉に酔うタイプは、自分を正当化するのに歯止めがかからないんだよ。だから、盛る。いかに自分が正しく、相手が間違っているか。より端的に示すためにな」

「でも、それが、どうして…?」

「だってそうだろ。向こうさんは、電話口だってのをいいことに、あるコトないコト山盛りにして捲し立ててんだぞ。そこでオマエがコトの事情を説明する。手玉に取れると思ってた若造が、思いがけずどうに入った弁明だ。これは勝手が違うと向こうさん、大げさに騒ぎ立てたことを後悔しはじめとるわな」

「ああ」

 なるほど、合点がいった。

「それを見透かしたみたいに、今から娘さんの様子をうかがいに行きます~。ホントに娘さん、傷ついて泣いてるんですかねえ――みたいなコトをオマエが言うもんだから、もうオレは終わったと思ったよ。このアホ、なんつう反撃に出やがるんだってな」

「でも、ボク、そんなつもりは…ちっとも、はい」

「KYって怖いわー、マジ怖いわー」

 オーバーなリアクションで増田先生が言うもんだから、周りの先生たちにもようやく笑顔が帰ってきた。なかには、初めて清村会長を退けた英雄だなどとはやし立てる先生もいる。

「まあ、なにはともあれ、だ」

 気を引き締め直すように、増田先生が言う。

 そうだ、まだ問題は片づいていない。

 もう半分は――そう。

 刈場かりば英流えいる。肉を食べられない教え子。

 清村会長とも約束したのだ。その理由を調査して報告すると。

「アポ、取りましたよ」

 いつの間にか教師の輪から姿を消していた瀬戸先生が、三年生担任のシマで手を振っていた。

「店を閉める十九時以降ならいつでも来てもらっていいって、エイルくんのお父さんが」

 受話器を置いた瀬戸先生が、ニコリと目尻を下げた。

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