第2話

「今日もダメだったの?」

 向かいの席から、カワイイ童顔の同僚がいてきた。

「ええ。もうマジ困っちゃいましたよ」

 まりに溜まった苦心を、カッコつけることもなくボクはぶちまける。最近はホント、他人に甘えてばかりだ。

 とりわけ、一年三組の担任――瀬戸小梅せとこうめ先生には。

「そっか。でも桐生きりゅうセンセ、こういうケースは慎重にいかなきゃいけないわよ。あまり無理強むりじいしちゃ児童虐待扱いされちゃいかねないし、なにより刈場かりばくんがかわいそうだわ」

「わかってます。でも、さすがに毎日ゲロ掃除はしんどいですよ」

「いつもお疲れサマね。だいじょうぶ、小さな子どもの好き嫌いなんて、きっとなくなるモノだから」

 年はみっつ上だけど、どう見たって高校生以下な外見の瀬戸先生は、世話好きの妹みたいな雰囲気でボクをいたわわってくれる。教師としてはセンパイに当たるものの、今年からこの小学校に転勤してきたので、ボクと同様に周りからは新米扱いされている。背丈せたけがないワケじゃないけれど、とにかく外見もオーラも学生然としているもんだから、実年齢よりはるかに幼く見える。といっても、出るトコロはしっかり出ているし顔立ちもなかなかイイときているから、若い男性教員の間では早くも水面下での争奪戦が始まっていた。

 とうぜん、ボクもこっそりエントリーしていたりする。

「好き嫌いの理由なあ」

 チカちゃんの親には気をつけろと教えてくれた隣の増田ますだ雄三ゆうぞう先生が、伸びを作りながら誰にともなく言う。ちなみに彼は一年一組の担任で、学年主任でもある。

「アレルギーとかじゃないんだろう?」

「はい。それはだいじょうぶです」

 給食制の学校では、子どものアレルギー体質については徹底的に事前調査する。問題のエイルくんも例に漏れず、保護者にはちゃんと調べを取っているし、留意すべき食べ物はないと、返ってきた申請書には書かれていた。

「でも、ある日イキナリってタイプのアレルギーもあるんだろう? オレはこないだ見たぞニュースで。最近、アメリカで突発性の肉アレルギーが流行はやってるって」

「ダニが原因のやつですよね、たしか」

「ハッキリとわかったワケじゃないみたいだけどな」

 増田先生の着眼点は耳に新しいモノだった。

 けれど、エイルくんの場合はそもそもアレルギー体質だからダメだなんてものじゃない。エイルくんは肉が自発的に「食べられない」のだから。

「親御さんがベジタリアンで、家でお肉を食べさせられたことがないとか?」

 細いアゴに人差し指をえて、瀬戸先生。問題が持ち上がって一ヶ月。げられる推測も、そろそろトンデモな方向へ飛びはじめていた。

「いや、瀬戸先生。ベジタリアンどころか、エイルくんの家は精肉店なんですよ」

「あら、そうなの?」

「ええ。保護者名簿にそう書かれてます。ネット地図で住所検索したら、ちゃんと『肉のかりば』ってお店がってましたよ」

 この小学校の校区の、ほとんどはじっこのさびれた商店街。その一角に、エイルくんの家はある。あらためて保護者名簿を紐解ひもといて、ボクはその事実を再確認した。

「肉屋のせがれが肉を食えないなんて、また皮肉なハナシだなあ」

 でっぷりと肥えた自分の腹肉をさすりながら、増田先生が笑う。肉ほどウマイ食いモンなんてこの世にはないのにと、さももったいなさそうにつぶやくのがオカしくて、ボクも瀬戸先生も思わず吹き出してしまった。

「となると、疑うべきはやはり心因性ですかね」

 いままでじっと聞き耳を立てていた松田島まつだしま明人あきと先生が、ここで初めて意見をはさんだ。一年二組の担任で、今年三十二歳になるせぎすの教員だ。こういっては失礼だけど、なんとも貧相な背格好で、エイルくんがこのまま肉をれずに成人すればこうなるんじゃないかって思うくらいガリガリだ。顔もカマキリみたいで髪も薄く、いかにも女性ウケしそうにない。事実、彼女いないれきイコール年齢らしく、結婚はもうあきらめているとのコト。といいつつ、隣の瀬戸先生をしょっちゅういやらしい目つきで見ているあたり、きっちり色欲は残している様子で、それがまたボクからの心象を悪くしている。

「心因性っていうと、たとえばどんな?」

 過去にも何度か議論した説だけど、ことさら挑むようにボクは返した。

「すき焼きの脂身あぶらみを食べて、気持ち悪くなって吐いたことがあるとか。あるいは、たまたまいたんだ食材で作られた肉料理があたってヒドイ中毒になったことがあるとか。ま、こいつらはぜんぶ僕の経験談なんですけどね」

 たしかに、こういった過去の経験から、肉料理を避けてしまっている可能性は大いにある。ほんとうはマズイと思っているワケではないけれど、過去に吐いたり中毒になったりしたことがあるから、どうしてもその料理を、食材を、見ただけで拒絶してしまう――

「小さな子どもだと、あり得るハナシでしょ?」

「そうだな」

 松田島先生の意見に、増田先生が相槌あいづちを打つ。

「理由を話せないんじゃなくて、刈場クン自身にもわからないって可能性もある。そういう体験からの拒食きょしょくってのは、原因が無意識化に潜んでいるってこともじゅうぶん考えられるからな」

 なんにせよ、親御さんにもハナシを聞く必要があると、増田先生が言い切った。

「もうすぐ家庭訪問の時期だ。新米のオマエにはとうぜんオレも同行する。最初の二、三件と、難しそうな家庭だけだけどな。先方の都合つごうしだいだが、いちばんに刈場クンの家を訪ねるようにしよう」

「わかりました」

 学年主任の増田先生が同行してくれるのは、ありがたい話だった。いずれにせよ、親御さんにも現状を説明しなければならないとは考えていたのだ。また、家でどんな食事をさせているのかも気にかる。もしかしたら、ほんとうに両親が菜食主義者なのかも知れないのだ。

刈場かりば昭憲あきのりと、康江やすえ――か」

 保護者名簿に記載されている両親の名前を、ボクはひとりでに読み上げていた。



 翌日も、エイルくんは悩ましげな顔でうつむいていた。

 予測はできていた。一ヶ月の献立表こんだてひょうは教室の掲示板に張り出されている。それによると、本日の主菜はトンカツだった。

 キツネ色の衣をまとった豚肉が、クラスじゅうを笑顔にする。

 反対に、エイルくん一人だけが、表情と姿勢で絶望を体現していた。

 給食のときは、クラスを五つの班に分けて食べている。エイルくんと同じ班の四人が、いつゲロをぶちまけるかもしれない班員の動向を、注意深く見守っていた。最初のほうこそエイルくんを心配する様子を見せていた彼らも、いまでは傍迷惑はためいわくそうな態度を取っている。毎日のようにゲロを吐くエイルくんを、あからさまに不潔に、不快に思っているふうだった。

 これは、すこぶるよろしくない兆候といえる。イジメ問題のぼっぱつ発だけはなんとしても避けたい。エイルくんのためというより、自分のために。

 昼食を平らげつつ、ボクは担任席からじっとエイルくんを観察していたけれど、やっぱり主菜にだけはしが進んでいない。他の副菜はぱくぱく口に運んでいるのに、トンカツだけはちっとも減っていなかった。

 そして、昼休みがきた。

 わっとグラウンドへ飛び出していく二十一人。

 給食の後かたづけを始める三人。

 そして、残ったトンカツとにらめっこするエイルくん。

 一年四組は、毎度のようにみっつの要素に分裂した。

「トンカツも嫌いかい?」

 近づいていってたずねると、エイルくんが顔を上げた。

「いったい、どんなお肉料理なら食べられるんだい?」

 語調が険しくなっているのが、自分でも分かった。ボクはあせっている。早くこの問題を解決したいと焦っている。そう、あらためて自覚した。

 怒られると感じたのか、エイルくんは再び目をせた。

「なあ、エイルくん?」

「せんせい!」

 うしろで、チカちゃんの声がはじけた。

「ああ、もう片づけていいよ。ごめんな」

 ぷりぷり怒りながら給仕車に向かっていくチカちゃんを尻目に、ボクはしゃがんだ。目線をエイルくんに合わせる。

 貧相な見てくれが、松田島先生に重なった。顔つきはちっとも似てやしないが、なんだか無性にイラついた。

「一口でも、ムリかい?」

 エイルくんはうんとかぶりを振る。一昨日までと違って、ためらいがない。昨日、残してもいいって許可を与えたことに、ボクは激しい後悔を覚えた。

 ここで昨日の前言を撤回するのは、エイルくんとの信頼問題にかかわる。先生は汚い、ウソツキだなんて思われたくはない。かといって、このままだとエイルくんはこの先ずっと肉料理を残し続けるに違いない。苦難にチャレンジする機会は、ほかならぬボクが取っ払ってしまったのだから。

「食べてみよう。一口だけでも、な?」

 エイルくんは、いやいやする。食べなくたっていいって言ったのは先生だって主張しているような気がした。

 それが、またボクの苛立いらだちをつのらせる。

「食べるんだ。食べなきゃカラダは大きくならない。病気をしてしまうぞ」

 正論という名の、武装。そのなかに、原始的な負の感情を押し隠して、ボクはエイルくんにせまった。

 あさはかな免罪符めんざいふを与えた昨日の自分に怒っているのか。

 楽なほうへ楽なほうへと逃避するエイルくんの態度に怒っているのか。

 はたまた、エイルくんの貧相な容姿に、瀬戸先生に狙いをつける松田島先生の容姿を重ねているのか――

 あるいは、このムカツキの根源は、それらすべてなのか。

「食べるんだ。さあ」

 外見は冷静そうに、しかし、黒い感情の沸騰ふっとうに心を踊らされながら、ボクはエイルくんにしょくをうながした。

「ぅあ… うあああ……」

 不意に、泣き声。

 はっと、ボクは我に返った。

 エイルくんが、天井をあおいで泣いていた。

 約束と違うじゃないか。ボクはちゃんと努力した。それでも食べられない。ダメなものはダメなんだ。だのになんで、先生はボクをいじめるんだ。

 約束したのに。

 どうしてもムリなら残していいって、昨日約束したのに。

「あああああ… うわあああああああ…」

 エイルくんの泣き声が、無言の主張となってボクを責め立てる。

 これ以上、ボクは説得することができなかった。いや、いまのは説得なんてもんじゃない。ただの無理強いだ。

「もういい。ごめんな」

 そう言って、ボクはトンカツのった皿を取り上げた。

「ママ… ああああ……ママがぁ……」

 エイルくんが、とうとうお母さんに救いを求めはじめる。相手はこんな小さな子どもだったんだということを、今さらながらボクは思い知らされた。

 感情は、それでもまだ火照ほてったままだった。やり場のない苛立ちを、キレイに残されたトンカツにぶつけるしかなかった。

見せしめのように、ボクは教室のちり箱にそれを捨てた。

 ボクがさらなる後悔にさいなまれるのは、その数十分間後だった。



 入学したての一年生は、一日の授業が終わるのも早い。

給食、お昼休み、掃除が終われば、もう終礼のホームルームに入る。

「はい、せんせい!」

 ホームルームは、保護者への連絡事項をつづったプリントの配布と、一日の授業で出した宿題の確認がおもだ。そして最後に、今日思ったこと、気になったことを自由に発言する時間をもうけている。

 チカちゃんが手をげたのは、まさに一年生の一日が終わる直前だった。

「はい、チカちゃん」

 オヤと思いつつ、ボクは発言の許可を出す。チカちゃんはなにやら怒っているふうに教室を見渡して、そして口火を切った。

「今日のそうじのとき、ちりばこのなかに給食のトンカツがすててるのを見つけました」

 しまったと、ボクは目を見開いた。

 昨日はきちんとビニール袋に包んで、それと分からないように捨てたのに。どうして今日は直接ちり箱にブチいてしまったのか。

 いまさら、あとの祭だ。ボクは急いで現状を打破する方法を模索もさくした。

「おのこしはいけないとおもいます。すてたのはだれですか?」

 誰が残したトンカツかなんて、チカちゃんはわかり切っている。現に、その視線は教室の窓際にそそがれている。クラスじゅうの視線が、それに扇動せんどうされていた。

 なんて、イヤらしい少女なんだろう。ボクはほぞを噛んだ。

「エイルだろ」

 いじめっこのユウキくんが、さも非難がましい口調で大声を上げた。

「給食をのこすのなんて、エイルぐらいだもんな~」

「ゲロリンだ」

「ゲロリンだろ! ゲロリンがすてたんだぁ~」

 教室内が、エイルくんの名前であふれ返る。そのまんまんなかで、女王然としたチカちゃんが糾弾きゅうだんの合唱を生み出したことに満足の笑みを浮かべていた。

 エイルくんは、泣きそうな顔。

 うるんだ目線は、救いを求めるようにボクを突き刺していた。

 止めないと――

 早くこの声を止めないと――

「みんな、静かに!」

 き立てられるように、ボクは一喝いっかつした。その先なんて、まるで考えていないまま。

 クラスが、ぴたりと静まり返る。

無暗むやみに、クラスのお友だちを… 疑うんじゃないよ」

 途切とぎれ途切れ、ボクは言葉を吐き出す。

 どうする? どう話を落ち着ける?

「じゃあ、だれなんですか?」

 ずっと起立したままでいたチカちゃんが、不満そうな顔で言う。

 幼い切れ長の目の奥に、潔癖さと、そして名誉心に燃える瞳があった。

 ――そうか。

 このコは、められたいんだ。

 これまでも、ちょっとでも悪いことを見つけるたびに、チカちゃんは甲高かんだかい声でそれを糾弾した。ホームルームでの発言回数もぶっちぎりのいちばんだ。

 わたしは正義だ。

 わたしの言っていることが正しいんだ。

 だから、正しいことをしているわたしを褒めて。たたえて。

 正しいわたしを嘆称たんしょうして。称賛しょうさんして。賛美さんびして。

 ――くそォ…

 やっぱり、この子もモンスターだった。怪物だという母親。その娘を担任している以上、ボクはカケラもスキを見せちゃいけなかった。

 これもまた、いまさらの後悔だ。

「きょうのトンカツをたべたひと~」

 ばっと、チカちゃんが右腕を挙げる。憎らしいぐらい、美しい挙手。

「はい!」

「はぁい!」

「オレたべたー! おかわりもしたー!」

「わたしも! わたしもちゃんとたべた!」

 たちまち、二十四の右腕が挙がった。

 いつかどこかで見た、無数の剣が突き立てられた夕暮れの墓地の光景。困惑するボクの脳裡アタマに、そんなファンタジックな映像が去来する。

 残る一本の腕は、自分の身体からだを抱いていた。

「エイルくんだけ、手をあげてない」

 ほら見たことか――チカちゃんのしたり顔がそう言っている。

「エイルだ」

「やっぱりエイルだ」

 クラスじゅうが、異様な熱気に包まれる。

 弱者の発見。優位性の確認。凌辱りょうじょく昂揚こうよう。異分子の排除。

 未熟な――

 あまりに未熟で、でもそれゆえに無垢むくな――

 ここは、性悪論せいあくろんの証明現場か。

 ばかやろう。

 分析している場合じゃない。

「みんな、待って… 落ち着いて――」

 私を褒めろ!

 チカちゃんの視線。その奥にギラつく、強烈な要求、強要。

 ふざけるな。たかが六歳の小娘が、調子に乗るな。

「静かにしろ!」

 赴任ふにんして、教師になって初めて、ボクは本気で怒鳴どなった。

 さすがのチカちゃんも、ぺたんと着席した。まるで、崩れ落ちるようだった。

 そして、もう一人――

 ボク同様、こらえきれなくなった精神が、ぜた。

「せんせいが… のこしていいっていったもん」

 泣き声混じりの、エイルくんの弁明だった。

「どうしてもたべれなかったら、のこしていいって…」

 そこから先は、もう声になっていなかった。

 めそめそと肩を震わせるエイルくんを、クラスメイトたちが思い思いの表情で眺めている。

 そして、ボクは、情けないほど狼狽ろうばいしていた。

「エイルくんだけ… このあと、残って…」

 それだけ言うのがやっとだった。

 自分のあやまちが、白日の下にさらされた――

 信じたくない事実を受け入れながら、ボクは一年四組の今日を終えた。

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