第2話
「今日もダメだったの?」
向かいの席から、カワイイ童顔の同僚が
「ええ。もうマジ困っちゃいましたよ」
とりわけ、一年三組の担任――
「そっか。でも
「わかってます。でも、さすがに毎日ゲロ掃除はしんどいですよ」
「いつもお疲れサマね。だいじょうぶ、小さな子どもの好き嫌いなんて、きっとなくなるモノだから」
年はみっつ上だけど、どう見たって高校生以下な外見の瀬戸先生は、世話好きの妹みたいな雰囲気でボクを
とうぜん、ボクもこっそりエントリーしていたりする。
「好き嫌いの理由なあ」
チカちゃんの親には気をつけろと教えてくれた隣の
「アレルギーとかじゃないんだろう?」
「はい。それはだいじょうぶです」
給食制の学校では、子どものアレルギー体質については徹底的に事前調査する。問題のエイルくんも例に漏れず、保護者にはちゃんと調べを取っているし、留意すべき食べ物はないと、返ってきた申請書には書かれていた。
「でも、ある日イキナリってタイプのアレルギーもあるんだろう? オレはこないだ見たぞニュースで。最近、アメリカで突発性の肉アレルギーが
「ダニが原因のやつですよね、たしか」
「ハッキリと
増田先生の着眼点は耳に新しいモノだった。
けれど、エイルくんの場合はそもそもアレルギー体質だからダメだなんてものじゃない。エイルくんは肉が自発的に「食べられない」のだから。
「親御さんがベジタリアンで、家でお肉を食べさせられたことがないとか?」
細いアゴに人差し指を
「いや、瀬戸先生。ベジタリアンどころか、エイルくんの家は精肉店なんですよ」
「あら、そうなの?」
「ええ。保護者名簿にそう書かれてます。ネット地図で住所検索したら、ちゃんと『肉のかりば』ってお店が
この小学校の校区の、ほとんどはじっこの
「肉屋の
でっぷりと肥えた自分の腹肉をさすりながら、増田先生が笑う。肉ほどウマイ食いモンなんてこの世にはないのにと、さももったいなさそうにつぶやくのがオカしくて、ボクも瀬戸先生も思わず吹き出してしまった。
「となると、疑うべきはやはり心因性ですかね」
いままでじっと聞き耳を立てていた
「心因性っていうと、たとえばどんな?」
過去にも何度か議論した説だけど、ことさら挑むようにボクは返した。
「すき焼きの
たしかに、こういった過去の経験から、肉料理を避けてしまっている可能性は大いにある。ほんとうはマズイと思っているワケではないけれど、過去に吐いたり中毒になったりしたことがあるから、どうしてもその料理を、食材を、見ただけで拒絶してしまう――
「小さな子どもだと、あり得るハナシでしょ?」
「そうだな」
松田島先生の意見に、増田先生が
「理由を話せないんじゃなくて、刈場クン自身にもわからないって可能性もある。そういう体験からの
なんにせよ、親御さんにもハナシを聞く必要があると、増田先生が言い切った。
「もうすぐ家庭訪問の時期だ。新米のオマエにはとうぜんオレも同行する。最初の二、三件と、難しそうな家庭だけだけどな。先方の
「わかりました」
学年主任の増田先生が同行してくれるのは、ありがたい話だった。いずれにせよ、親御さんにも現状を説明しなければならないとは考えていたのだ。また、家でどんな食事をさせているのかも気に
「
保護者名簿に記載されている両親の名前を、ボクはひとりでに読み上げていた。
翌日も、エイルくんは悩ましげな顔でうつむいていた。
予測はできていた。一ヶ月の
キツネ色の衣をまとった豚肉が、クラスじゅうを笑顔にする。
反対に、エイルくん一人だけが、表情と姿勢で絶望を体現していた。
給食のときは、クラスを五つの班に分けて食べている。エイルくんと同じ班の四人が、いつゲロをぶちまけるかもしれない班員の動向を、注意深く見守っていた。最初のほうこそエイルくんを心配する様子を見せていた彼らも、いまでは
これは、すこぶるよろしくない兆候といえる。イジメ問題の
昼食を平らげつつ、ボクは担任席からじっとエイルくんを観察していたけれど、やっぱり主菜にだけ
そして、昼休みがきた。
わっとグラウンドへ飛び出していく二十一人。
給食の後かたづけを始める三人。
そして、残ったトンカツとにらめっこするエイルくん。
一年四組は、毎度のようにみっつの要素に分裂した。
「トンカツも嫌いかい?」
近づいていって
「いったい、どんなお肉料理なら食べられるんだい?」
語調が険しくなっているのが、自分でも分かった。ボクは
怒られると感じたのか、エイルくんは再び目を
「なあ、エイルくん?」
「せんせい!」
うしろで、チカちゃんの声が
「ああ、もう片づけていいよ。ごめんな」
ぷりぷり怒りながら給仕車に向かっていくチカちゃんを尻目に、ボクはしゃがんだ。目線をエイルくんに合わせる。
貧相な見てくれが、松田島先生に重なった。顔つきはちっとも似てやしないが、なんだか無性にイラついた。
「一口でも、ムリかい?」
エイルくんはうんと
ここで昨日の前言を撤回するのは、エイルくんとの信頼問題にかかわる。先生は汚い、ウソツキだなんて思われたくはない。かといって、このままだとエイルくんはこの先ずっと肉料理を残し続けるに違いない。苦難にチャレンジする機会は、ほかならぬボクが取っ払ってしまったのだから。
「食べてみよう。一口だけでも、な?」
エイルくんは、いやいやする。食べなくたっていいって言ったのは先生だって主張しているような気がした。
それが、またボクの
「食べるんだ。食べなきゃカラダは大きくならない。病気をしてしまうぞ」
正論という名の、武装。そのなかに、原始的な負の感情を押し隠して、ボクはエイルくんに
あさはかな
楽なほうへ楽なほうへと逃避するエイルくんの態度に怒っているのか。
はたまた、エイルくんの貧相な容姿に、瀬戸先生に狙いをつける松田島先生の容姿を重ねているのか――
あるいは、このムカツキの根源は、それらすべてなのか。
「食べるんだ。さあ」
外見は冷静そうに、しかし、黒い感情の
「ぅあ… うあああ……」
不意に、泣き声。
はっと、ボクは我に返った。
エイルくんが、天井を
約束と違うじゃないか。ボクはちゃんと努力した。それでも食べられない。ダメなものはダメなんだ。だのになんで、先生はボクをいじめるんだ。
約束したのに。
どうしてもムリなら残していいって、昨日約束したのに。
「あああああ… うわあああああああ…」
エイルくんの泣き声が、無言の主張となってボクを責め立てる。
これ以上、ボクは説得することができなかった。いや、いまのは説得なんてもんじゃない。ただの無理強いだ。
「もういい。ごめんな」
そう言って、ボクはトンカツの
「ママ… ああああ……ママがぁ……」
エイルくんが、とうとうお母さんに救いを求めはじめる。相手はこんな小さな子どもだったんだということを、今さらながらボクは思い知らされた。
感情は、それでもまだ
見せしめのように、ボクは教室のちり箱にそれを捨てた。
ボクがさらなる後悔に
入学したての一年生は、一日の授業が終わるのも早い。
給食、お昼休み、掃除が終われば、もう終礼のホームルームに入る。
「はい、せんせい!」
ホームルームは、保護者への連絡事項を
チカちゃんが手を
「はい、チカちゃん」
オヤと思いつつ、ボクは発言の許可を出す。チカちゃんはなにやら怒っているふうに教室を見渡して、そして口火を切った。
「今日のそうじのとき、ちりばこのなかに給食のトンカツがすててるのを見つけました」
しまったと、ボクは目を見開いた。
昨日はきちんとビニール袋に包んで、それと分からないように捨てたのに。どうして今日は直接ちり箱にブチ
いまさら、あとの祭だ。ボクは急いで現状を打破する方法を
「おのこしはいけないとおもいます。すてたのはだれですか?」
誰が残したトンカツかなんて、チカちゃんは
なんて、イヤらしい少女なんだろう。ボクは
「エイルだろ」
いじめっこのユウキくんが、さも非難がましい口調で大声を上げた。
「給食をのこすのなんて、エイルぐらいだもんな~」
「ゲロリンだ」
「ゲロリンだろ! ゲロリンがすてたんだぁ~」
教室内が、エイルくんの名前で
エイルくんは、泣きそうな顔。
止めないと――
早くこの声を止めないと――
「みんな、静かに!」
クラスが、ぴたりと静まり返る。
「
どうする? どう話を落ち着ける?
「じゃあ、だれなんですか?」
ずっと起立したままでいたチカちゃんが、不満そうな顔で言う。
幼い切れ長の目の奥に、潔癖さと、そして名誉心に燃える瞳があった。
――そうか。
このコは、
これまでも、ちょっとでも悪いことを見つけるたびに、チカちゃんは
わたしは正義だ。
わたしの言っていることが正しいんだ。
だから、正しいことをしているわたしを褒めて。
正しいわたしを
――くそォ…
やっぱり、この子もモンスターだった。怪物だという母親。その娘を担任している以上、ボクはカケラもスキを見せちゃいけなかった。
これもまた、いまさらの後悔だ。
「きょうのトンカツをたべたひと~」
ばっと、チカちゃんが右腕を挙げる。憎らしいぐらい、美しい挙手。
「はい!」
「はぁい!」
「オレたべたー! おかわりもしたー!」
「わたしも! わたしもちゃんとたべた!」
たちまち、二十四の右腕が挙がった。
いつかどこかで見た、無数の剣が突き立てられた夕暮れの墓地の光景。困惑するボクの
残る一本の腕は、自分の
「エイルくんだけ、手をあげてない」
ほら見たことか――チカちゃんのしたり顔がそう言っている。
「エイルだ」
「やっぱりエイルだ」
クラスじゅうが、異様な熱気に包まれる。
弱者の発見。優位性の確認。
未熟な――
あまりに未熟で、でもそれゆえに
ここは、
ばかやろう。
分析している場合じゃない。
「みんな、待って… 落ち着いて――」
私を褒めろ!
チカちゃんの視線。その奥にギラつく、強烈な要求、強要。
ふざけるな。たかが六歳の小娘が、調子に乗るな。
「静かにしろ!」
さすがのチカちゃんも、ぺたんと着席した。まるで、崩れ落ちるようだった。
そして、もう一人――
ボク同様、
「せんせいが… のこしていいっていったもん」
泣き声混じりの、エイルくんの弁明だった。
「どうしてもたべれなかったら、のこしていいって…」
そこから先は、もう声になっていなかった。
めそめそと肩を震わせるエイルくんを、クラスメイトたちが思い思いの表情で眺めている。
そして、ボクは、情けないほど
「エイルくんだけ… このあと、残って…」
それだけ言うのがやっとだった。
自分の
信じたくない事実を受け入れながら、ボクは一年四組の今日を終えた。
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