カルネ・ウァレ

大郷田螺

第1話


 お昼休みの始まりを告げるチャイムが、子どもたちのテンションを沸騰ふっとうさせた。

「ケイドロすっぞ! ケイドロ!」

「なわとび! はやくなわとびとって!」

「ドッジボールするヤツ、こっちにしゅうごう!」

 二十五人の生徒の大半が、春風そよぐ校庭へ飛び出していった。なんだか、巨大な熱の群れが、一挙に教室からあふれ出していったような光景だった。

 残ったのは、白いエプロンを着けた給食当番のチカちゃんとクニオくんとマサシくん。

 そして――

「せんせぇい」

 仕切り屋さんのチカちゃんが、いかにも不満そうなカオでやってきた。

「また、エイルくんがのこしてる」

 あれを見てちょうだいと、かわいい指先が猛々たけだけしく伸びる。

 その先に、ボウズ頭の小さな男の子が、まるで判決を待つ罪人のように座っていた。

「またか」

 ため息をひとつ。ボクは、担任席から立ち上がる。

 おだやかな春日が差し込む窓際の、いちばん後ろの席へ。うなだれるエイルくんのそばまで行って、ボクはお昼の給食をのぞき込んだ。

 ごはんは、完食。フキの煮物も春雨スープも、きれいになくなっている。デザートのいちごムースも平らげられていた。

 ただひとつ、ハンバーグだけが、まるごとキレイに残っている。

 この年頃の子どもだったら、まずキライなおかずに入るハズのない定番の人気メニュー。それだけが、いっさい手を付けられず悲しみに暮れているのだった。

「エイルくん、どうした?」

 できるだけ優しい声で、ボクは問いかけた。エイルくんが、おそるおそる顔を上げる。

「ハンバーグだぞ、ハンバーグ。こんなオイシイ給食、お願いしたってなかなか出ないぞ」

 まず一口、食べてみよう――そう、ボクは明るく提案した。

 もういいかげんにしろよって内心を、教師の仮面で押し隠して。

 でも――

 エイルくんは、首を、力なく横に振った。

「いらない」

「どうして? こんなオイシイものを」

 ボクは努めてほがらかにたたみかける。いつもの質問だ。この春より一年四組の担任になって、この子にどれだけ問うたかわからない。

「たべれない」

「お肉を食べないと、大きくなれないぞ?」

「………」

 一度も視線を合わそうとせず、そしてエイルくんはうなだれた。いつものように口をつぐんで、自分のカラにこもっていく。

「エイルくん――」

「せんせい! チカあそびにいきたいの!」

 うしろで、チカちゃんのイライラが爆発した。

「もうエイルくんほっといて、かたづけていい?」

「…ああ、そうしてくれるかい」

 小学一年生にしてはしっかりしているが、自我が強い。正直、ボクの苦手な部類の性格だ。母親がPTAの会長をしていることもあって、機嫌をそこねたくない教え子のひとりにチカちゃんはノミネートされている。

 所在しょざいなく突っ立っていたクニオくんとマサシくんをかして、チカちゃんが給仕車に食器をせていく。三人のかわいい給食当番が出ていくのを見送って、そして、ボクは改めて問題児と向き合った。

 かげのある表情。

 シミや汚れの取れていない服。

 いかにも栄養が足りてなさそうな、細い手足。

 一年四組、出席番号5番――刈場英流かりばえいる


 彼は、けっして肉料理を食べない男の子だった。


 特に自分から動こうとしない、おとなしい子――

 ボクがエイルくんに抱いた第一印象は、だいたいそんなところだ。

 いまや狭き門となった公立の教員試験をどうにかパスし、晴れてボクは教育にたずさわる社会人となった。大学を卒業してすぐ地元のH市にUターンして、実家から電車で一時間の小学校に赴任ふにんした。今年二十三歳の若造なのに、もう『先生』付けで呼ばれるって現状に、最初はとても戸惑とまどった。

 割り当てられたのは、一年生のクラスだった。

 昔っから平和主義のボクにとって、高学年を担当させられなかったのは幸いだった。べつに、小さな子どもに対する教育をナメているわけじゃない。『お受験』をひかえた高学年やらん知恵のついてきた中学年は、新米の自分には荷が重いだろうって思っているだけだ。チャレンジ精神なんかロクにない。ことなかれが、ボクのモットー。

 高潔こうけつな教育心なんてこれっぽっちもない。ただボクは、無難に社会人生活をまっとうしたいだけだ。ボクが無難な教師人生を送るために、子どもたちにはボクの都合つごうのいい生徒であってもらわなくちゃいけない。

 こう言うと、とんだ最低教師だって誰もがボクを批難するだろう。けど、ひどい考え方だなんてボクはけっして思わない。

 ボクにとって都合のいい生徒なら、無難に人生を謳歌おうかできるオトナになれると思うし、そのための教育なら、ボクは喜んでほどこそうと思う。ボクの考える「都合のいい生徒」であることが、その子どもの人生に多大なメリットをもたらす、その自信はある。いわゆる相互利益ウィンウィンってやつだ。それがボクの想い描く、理想の聖職者生活。

 そのためには、リスクを洗い出しておく必要がある。ボクにとって、任された教育現場における危機管理といえば、問題児のリストアップだった。

 いじめっ子、ケッカっぱやい子、血の気の多い子――いわゆるガキ大将。

それに該当がいとうする三人の男の子を、ボクはまっさきに要注意生徒としてアタマに刻みつけた。みずから進んで問題を起こす子どもは、ボクのキャリアをもっともけがしうる存在だ。

 続いて、ワガママな性格の子。

 これは子どもが怖いわけじゃない。恐るべきは親だ。

 自分の思い通りにならないとすぐダダをこねる子どもや、自分の非をがんとして認めない子ども――こういう性格の生徒には、がいしてモンスター気質かたぎ親御おやごさんがついている。我が子を守るって使命感に酔って、我が子が王子サマお姫サマ扱いされてないと我慢ならない選民思想の保護者。こういったバカ親が世間をにぎわすたびに、ガラにもなくボクは義憤ぎふんられたものだ。

 任されたクラスだと、PTA会長の次女、清村千佳しむらちかなんかが該当する。四つ上の学年にいるお姉さんがすでに何度か問題を起こしていて、そのつど母親会長がしゃしゃりでてきては強引な理論で学校側を一方的にワルモノにしたらしい。これは職員室で隣同士のセンパイから聞いた話だ。ひとまわり年上の中年教師は、鹿爪しかつめらしい顔でおまえも気をつけろと忠告してくれた。

 はじめて教壇きょうだんに立ったときは、さすがに緊張した。

 二十五人の無垢むくな視線よりも、その背後に光る保護者の目が怖かった。

 モンスターペアレントって言葉は、もう講義のテーマやニュースの世界の言葉じゃない。このなかにも、きっと怒らしたらヤバい親はいるに違いないのだ。

 以上、ふたつの指針に従って、留意すべき生徒は入学式の日にある程度はピックアップした。まだ初日だから、カンに頼った部分も大いにある。でも、この年頃の子どもにまだウラオモテなんてないだろう。ひとりひとり出席番号順に言わせた自己紹介と、その後のレクリエーションでの態度から、二十五人の人となりを、簡単にではあるけれど把握はあくしたつもりだった。あとは休み時間のゲンコツ沙汰ざたで、暴力トラブルを起こしやすい性質の子どもは見出みいだせた。

 しかし、三日目だった。

 想定外のトラブル・メーカーは、はじめての給食の日に姿を現したのだった。

「おのこしはダメだぞ、みんな」

 どうして好き嫌いはダメなのかを子どもにも解りやすい言葉で説明し、ボクもまた担任席に着いた。

 全員で声を合わせて、いただきます。

「やめてよ! かえしてぇ!」

 ユウキくんがさっそく隣のみどりちゃんのデザートをくすねる。いじめっ子の三人のうちの一人だ。気の弱いみどりちゃんは早くも泣き出す。こらっと一喝いっかつして、ボクはユウキくんをたしなめた。手を上げるのは論外。デコピン一発で停職処分もありえるご時世なのだ。

 その後は特に問題もなく、やがてお昼休みの時間がやってきた。

 我先にと遊具を奪い合って、子どもたちは校庭へと飛び出していく。

 初めての給食当番を務める三人が、うらやましそうにそれを見送っていた。

 そして、ボクは気づいた。

 いまだに食器を黒板前の給仕机きゅうじづくえに返しにきていない子どもがいることに。

「エイル――くん?」

 ボウズ頭の小さな男の子。名前は、たしか刈場英流。

 困ったような、なにかに心苦しんでいるような表情で、その男の子はじっと主菜しゅさいの入った食器を見つめていた。

 記念すべき最初の献立こんだては、チーズ入りロール・キャベツのトマト煮。それだけが、うつわのなかで手を付けられていない。熱を失いつつある主菜だけが、胃袋への旅からぽつんと取り残されているのだった。

「どうした? もうおなかいっぱいか?」

 そうボクが問うと、エイルくんはびくりと肩をすくめて、おずおずと視線を上げた。まるで抱き上げられた子ウサギのような、臆病そうな瞳だった。

「まるごと残ってるじゃないか、ロール・キャベツ」

「たべれない」

「どうして?」

「………」

 途切とぎれる、視線。

 エイルくんは、もとのうなだれた姿勢に返っていった。

 ボクは、考える。おそらく、トマトの味がキライなんだろうと。好きな者からすると首をかしげてしまうほど不思議なのだけれど、キライな人はとことん嫌うのがトマトって野菜だ。

「先生、給食の時間が始まったときに言ったぞ? おのこしはダメだって。好き嫌いしてると、ちゃんとした元気な身体でなくなってしまうんだぞ」

 まだぎこちない子ども向けの言葉づかいで、ボクは猫をでるように説得した。

「さあ、まず一口食べてみよう。給食のおばさんはお料理の名人だから、きっとエイルくんも食べられる」

 一度も口をつけてないのが、ちょっとボクはカンにさわっていた。食べようとした痕跡こんせきがあれば、まだ努力していると認めてあげられたけれど、ロール・キャベツはきれいなものだ。つまり、この子はハナっから食べる気がない。それがボクを、食前の演説を無視されたような気分にさせているのだった。

「さあ」

 ボクの態度の奥にひそむ、あるかなきかの怒気どきを感じ取ったのか、エイルくんはようやくフォークを取った。のろのろとした手つきで春キャベツの外膜そとまくを突き刺して、泣きそうな顔で口に運ぶ。

 ぶちゅう。

 トマトと肉汁にくじゅう混じりのコンソメスープが、エイルくんの小さな口からあふれ出す。三分の一ほどをかじって、エイルくんのアゴはぴたりと動きを止めた。

「よく噛んで、飲み込むんだよ」

 ちゃんと噛まないとお腹が食べ物を溶かせないからと、ボクは消化の理屈を簡単な言葉で説明する。

しかし、もう、エイルくんには聞こえていなかった。

 顔じゅうにあぶら汗が浮き上がり、肌はみるみるまっさおに変わっていた。

 ボクがを思い描くのと、ほぼ同時だった。

「うおえええええええ!」

 ほかの食物といっしょくたになって、ロール・キャベツはエイルくんの口を飛び出した。びちゃびちゃ音を立てて、食器を、服を、膝元ひざもとを、床を、赤みがかった吐瀉物としゃぶつが浸食する。

「きゃああ!」

「うわあ! きったねえ!」

 じっと見守っていた給食当番の三人が叫ぶ。ボクはあわてて、雑巾ぞうきんを取りに掃除用具入れに走った。

「おええ! ぅおええええええ!」

 泣きながら、なおもエイルくんはなにもかもを吐き出していた。

 教室に、胃液のなまずっぱい臭いが満ちていった。


 以後、エイルくんは給食に肉料理が登場するたびに、苦しそうな表情で配膳の列に並ぶのだった。給食で好き嫌いはさせるなってから言われているもんだから、残してもいいなんて言えはしない。といって、毎回毎回ゲロの始末をさせられるのには辟易へきえきした。

 とんだ誤算だった。

 まさか、こんなカタチでボクの教員生活を苦しめる生徒がいるなんて、予想だにしなかったのだ。最初こそ、エイルくんはトマトが嫌いで吐いたのだと思っていたけれど、その翌日、彼はポークピカタを前に固まっていた。残してはダメだといて食べさせたが、結果は昨日と同じ。この子は肉料理が苦手なんだと、そのときボクは初めて分かったのだった。

 給食で肉料理の出ない日なんて、ほぼない。

 必然的にエイルくんはほとんど毎日、なんらかの献立が食べられないまま昼休みを迎えた。説得して口に運ばせても、ボクを待っているのは嘔吐物おうとぶつの掃除というヘドの出そうな仕事だった。クラスメイトからは、さっそく『ゲロリン』なんてあだ名を付けられてからかわれている。当のエイルくんは無口でおとなしい性格だから、反攻に転じることもなくじっと耐えているばかり。遠からず本格的なイジメに発展するのではと思うと、ボクは目眩めまいがする気分だった。

 そして、今日――

 とうとうボクは、言ってしまった。

「もう、残すか?」

 根負けだった。

 一ヶ月近くがんばってきたけれど、もうこれ以上この子の嘔吐する光景を見たくなかった。まるで自分が児童虐待しているような気持ちに、ボクはおちいってしまっていたのだ。

「毎日毎日吐いてちゃ、お腹もいて大変だろう?」

 エイルくんの悩ましい表情が、一瞬だけぱっと晴れたように映った。

「でも、せんせい。ぜんぶたべないと、ボク、おこられない?」

「先生がいいって言ってるんだ。誰が怒る?」

 もうやけっぱちで、ボクはゲラゲラ笑った。エイルくんも安心したように、にこりと笑った。

「だけど、約束だ。すぐに食べられないってあきらめず、最後までがんばってみること。明日も、お昼休みの半分まではチャレンジだ」

 そう言うと、エイルくんはまた元の悲しそうな、悩ましげな顔つきに戻った。ほかの子たちといっしょにお昼休みを満喫したいって、はっきりと顔に書いてある。

そこまで譲歩してやるつもりは、ボクにはなかった。だいたい、キライな献立を残してかまわないとボクが許可したことが、クラスのほかの子どもたちに知られるとマズいのだ。教室に誰もいない昼休みだからこそ、残した給食を処分していてもバレないのであって、そのためには、エイルくんには昼休みになってからもしばらくは肉料理の完食に取り組んでもらわなくちゃならないのだ。

 残飯の秘密裏ひみつりな廃棄のほうが、ゲロの始末よりずっとマシだ。

「それと、エイルくんがどうしても給食を食べきれなかったとき、残したことをクラスのほかのみんなに言っちゃいけないよ? でないと、もうどんな給食が出たってゼッタイ残させない。吐いても先生が食べさせるんだから。いいね」

 そう念を押すと、エイルくんはそれこそ顔をくしゃくしゃにして、こくりと首をタテに振った。その表情のあまりのすさまじさに、ボクは思わずギョッとしたほどだ。

 脅しが過ぎたかと、心が痛んだ。

 けれど、「残してもいい」という特権をエイルくんにだけ与えたという事実は、けっしてほかの子に知られてはならない。いじめっ子は不満がってエイルくんを目のカタキにするだろうし、特別扱いされないと気が済まない子は大いに悔しがって文句を垂れるだろう。

 しかし、どうして肉が食べられないのだろう。

「なあ、エイルくん」

 この質問も、一再いっさいじゃない。何度かエイルくんには理由をただしたのだ。

 でも――

「……………」

 やっぱり、エイルくんは押し黙るだけだった。

 昼休みは、もうじき終わる。

 残りわずかな自由時間を楽しむために、ちょこちょこと教室を出ていく小さな背中をながめつつ、ボクは、残されたハンバーグの処理に取りかかるのだった。

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