●私と俺のヘルマート(改装期)○ Ⅰ
私がいつまでも泣いているので、守護神は仕事の合間に覗きに来る。
「まだ泣いてるんですか?」
その声にはめんどくささが感じられた。だけど、私はデスクの上でうつぶせになったまま返事をしない。守護神からしたら、全ての女がビッチなので、優しさを求めることはできない。バイトリーダーは、男喰いに電話も通じず、メールも返ってこないので、探しに出かけた。
「しょうがねえな」と私に付き合ってくれようとした不死鳥も、お店に彼女が迎えに来たので帰ってしまった。
「あーあ」
うつ伏せのまま、顔だけ上げて壁時計を見る。もう朝の五時を回っていた。
なんだかなー、やってらんないよ! 一生懸命やっているのにさー全然報われない。お客さんに声出しがうるさいとか言われちゃったら、これからどうしたらいいの?
バイトリーダーも、不死鳥も、守護神も、守ってくれるどころか、「な?」と私が悪いと言わんばかりに目で訴えてくるしさ。
「やってらんないよーっ!」
私一生懸命やってるじゃん! 先輩なんだったら後輩を守ってよ! 普段から仕事やる気ないし、何かあっても助けてくれないしじゃ先輩失格だよ!
守護神がレジ側のドアから事務所に入って来た。
「うるさいですよ」
「今お客さんいないでしょ!」
モニターを指差して睨みつける。守護神は唇を
「あーあ、今日は大学の講義が一限目からあるよ。というか最近、勉強全然してないし大丈夫かな〜アルバイトのせいで支障が出まくりなんだけど」
独り言を呟き続ける私は、本当は構って欲しかった。
ピンポーン、ピンポーン、朝五時を過ぎたので、早起きの年配の方や部活動の学生のお客さんの来店が多くなる時間だ。
眠気が急に襲って来た。帰るのがだるい。このままデスクの上で寝てしまいたい。だけど、朝勤が来るからそうはいかない。邪魔になるし帰ろう。
「おいっ、兄ちゃんよ!」
店内に出た瞬間、ろれつの回らない怒鳴り声が聞こえて来た。
またか。また何かトラブルか。いつもいつもなんでこんなに起きるんだ? 私もすっかりヘルマートに慣れたと感じてるよ。だってトラブルが起きれば、驚きよりも先にまた? って思うもん。レジを見ると、足取りのおぼつかない顔を真っ赤にした男性が守護神の胸ぐらを掴んでいた。見るからに酔っぱらいだ。まだ若く、スーツ姿なので会社帰りだと分かる。
今日は月曜日なので、出勤がカレンダー通りの人ではないのだと予想した。
守護神は両手を挙げて、無抵抗の態度を示している。
「おいっ、兄ちゃんよおっ! トイレ貸せないってぇ……一体よぉ、どういうことだ、よ?」
うちのトイレは建物の構造上、事務所の中にあるのでお客様に貸すことは出来ない。ちなみに毎日のトイレ掃除は孤独がやっているらしい。私がそれを知ったのはつい最近で、それ以来、孤独の見方が変わった。私達はそんな風に、人の隠れた良いところをあまりに知らない。
「すみません、建物の構造上の問題でして、どうしてもお客様にお貸しできないんですよ」
守護神がぎこちなく愛想笑いを浮かべる。守護神の愛想笑いは下手すぎて、相手をバカにしているようにも見えるから、
「てめえなめてんのかっ!」
あちゃ〜案の定、お客さんが悪い方に
「おいっ兄ちゃん!」
酔っぱらいの男性が、守護神の髪の毛に手を伸ばして掴んだ。身長一八〇センチ以上ある守護神をレジ台を挟んで掴むので、男性はつま先立ちして背伸びした格好になる。
守護神はまだ愛想笑いを浮かべている。敵意がないことを示しているはずが、ニヒルな笑いにしか見えないから伝わらない。
トイレを貸せないということで、よくお客さんの怒りを買ったり、トラブルが発生する。それは、うちのお店だけではなく、都内なんかだと防犯上の理由で、わざとトイレを設置していないお店もあるくらいだ。そのことを我慢できないお客さんもいるから、目の前みたいなことが起きる。今回は相手が酔っぱらいだったというだけで、この次にどんなタイプのお客さんが来ても不思議じゃない。
「やめて下さい! 貸せないだけでそんなに怒られなきゃいけないんですか?」
守護神が私を見た。酔っぱらいの男性も私を向いて、
「おいっ! んだぁ? おじょーちゃん……大人になんて口聞いてんだぁ?」
守護神の髪の毛を引っ張ったまま私に向き直る。髪を掴んだ腕をさらに引っ張った形になるので、守護神が痛みでうめき声をあげた。
「痛がってますよ! 手を離してあげて下さい!」
「だからてめえ! なーんだぁ? ……そのくちぃの聞き方ぁ?」
酔っぱらいの男性はさらに手に力を込める。私が何かを言うのは逆効果だった。
「守護神!」
守護神の顔から笑みが消えていた。さすがに痛みで我慢の限界らしい。守護神は上げていた両手の平を握りしめる。
ダメっ! この状況じゃ正当防衛だとされても、店の評判はますます落ちるだろうし、あのSVが怒って予定より早く店を閉めさせるかもしれない。だけど、このまま守護神が無抵抗でいたら……将棋で言うなら王手飛車取りだった。どっちを選んでも、お店は大きなものを失う。私はうつむいて、これ以上、酔っぱらい客を刺激しないことに
一体何度目だろう? 私達がどんなにいいおもてなしをしようとしても、いつもお客さんには伝わらない。報われることがあまりにも少ない。コンビニスタッフは感謝されない。やってくれて当たり前ですらない。お客さんは買いに行ったなら、すぐすませてサッと出たい。コミュニケーションなんて
「私達は自動販売機じゃないんだよーっ!」
気がつけば叫んでいた。流れ落ちる涙が宙を舞う。
私の涙の向こう側で、守護神が握りしめた拳に力を込めるのが見えた。
ああ、ダメだよ。
どうしてこうなっちゃうの?
ピンポーン
コンビニはガラス張りで外から中の状況が
「何やってんですか守護神。あんた、この店を守る立場だろ!」
聞いたことのない声だった。けど、その言葉を聞いた瞬間、その人が身内なのだと分かった。守護神が
「あ」
守護神の驚きの表情。自動ドアの前に立つ男性は、ゆっくりとこちらへ歩いて来る。酔っぱらい客が後ろを気になって、守護神の髪の毛を引っ張ったまま振り向こうとする。それは最悪で、左手で掴んだ髪の毛を時計回りに回転させる行為で、草抜きのように思いっきり髪の毛を引っ張る。守護神が悲鳴をあげた。
「お客様、これは草ではありません」
男性は、瞬時にお客さんの左手を掴み、空いた方の手でお客さんの肩を掴んで振り向かせない。
「て、てめえっ……」
男性は酔っぱらい客の腕を掴んだ手に力を入れる。
「お客様の安全を守るのと同時に、スタッフの安全も守らなければなりません。今なら草と間違えたで大事にはしませんがいかが致しますか?」
「て、てめえらがトイレ貸さねえからっ!」
酔っぱらい客は吠える。
「お貸しますよ?」
驚くぐらいその男性は簡単に頷いた。酔っぱらい客も驚いて守護神の髪の毛を掴んでいた手を離した。
「ほ、本当か? 漏れそうなんだ!」
男性は腕を伸ばして手をバックヤードの方へ差し向けた。
「あちらからどうぞ。ご案内します」
「お、おお!」
男性の後に酔っぱらい客がついて行く。私と守護神は目の前のことに反応できなかった。規則違反だし。あの人誰なの? 守護神を見るけど、ただ事務所の方を見つめているだけだった。
三分も経たずに、お客さんがバックヤード側から機嫌良く出て来た。先ほどの男性がその後に続く。
「またの来店をお待ちしております」
男性は酔っぱらい客を自動ドアまで送った。酔っぱらい客はご機嫌そうに頷いて、男性の肩をぽんぽん叩いてから店を出て行く。ドアが閉まり、男性がこちらを向く。
「いいんですか?」
守護神が口を開いた。
男性はため息を吐く。
「お店の利益と損失を計算すればいい。あんな大事にして、朝のかき入れ時に大勢のお客さんを失うのと、あのお客さんにトイレを貸して三分も経たずにお帰り頂くのとどっちがお店の利益になりますか?」
「でも事務所に入れちゃいけない理由がありますよね?」
守護神の言う通りだ。
事務所には、金庫や店の極秘書類などが置かれている。またはスタッフの荷物だってある。そして、お店に出し切れない商品が保管されている。スタッフ以外の人の出入りを許して、盗難があったら大問題だ。
なのに、その男性は取るに足らないことのように鼻で笑った。
「事務所とバックヤードにも監視カメラがある。金庫は持ち運べませんし、本当の重要書類は店内に置いてはいけない決まりです。スタッフの貴重品管理は普段から徹底しておくべきでしょう。あと、一個や二個商品を盗まれても一番小さい被害ですんだわけですから。それに、スタッフがずっとついていて見張ればいいだけの話じゃないですか?」
「深夜は一人なんですよ?」
「今は一人じゃなかった。臨機応変に対応することが大事です。そして、もし一人の時でもトラブル回避を優先すべきです。一時的に他のお客さんを待たせ、事情を知った上でなおもクレーム出されたり、もうお店に来てくれなかったとしても、
この人は何者なの? 男性は滝が上から下に流れるように自然に、問題解決への道を示してのけた。
守護神がいつの間にかニヒルな笑みを浮かべている。男性が「それよりも」と付け足す。
「セキュリティ会社を呼ぶのがまずマニュアルでしょうよ」
「だって、ここのガードマンすぐ来てくれないじゃないですか」
守護神と男性は同時に吹き出した。
守護神が自然に笑うのを目の前にして新鮮な気分だった。この人もこんな風に笑えたのか。そして、初めて会うはずの男性になんとも言えない好感を持ってしまった。
二人が笑い終わるのと同時に、ピンポーンとチャイムの音と一緒に自動ドアからお客さんが入って来る。
「俺の制服は?」
男性は自分を指さして尋ねる。
「裏にありますよ」
守護神が答えた瞬間、その男性が誰なのか分かった気がした。初めてじゃない。私がヘルマートでアルバイトを始めた日に会っていた。あの包帯をグルグル巻いた半死人のような顔をした男性を、天下取りは呼んだ。
「善人面!!」
私は男性の名前を呼んだ。気がつけば、その場にいなくてバックヤードに入って行く。すぐに後を追った。なんだろうこの期待感は。
バックヤードに入る前にドアを叩いてから開ける。そこには制服の袖に腕を通す善人面がいた。
善人面は私に気づいて微笑んだ。
「君が新入りか」
「は、はい!」
反射的に直立不動の構えを取る。
「朝早起きで散歩好きなご年配の方は、話し相手が欲しかったりする。部活の朝練や大会前にコンビニに寄ってご飯を買いに来る学生達は、ご飯をお店で買うって経験がまだ少ないからそれだけでワクワクしていたりする」
善人面は制服のボタンを止めて、大きく伸びをしてサイズを確認すると、問題ないみたいで頷いた。
「コンビニだけどよ、人の温かさを求めたり、期待感を持って来てくれる人もいるんだ。もちろん、他の時間帯にもな。だから、自動販売機に徹する必要はねえよ」
え?
善人面は私に背を向けて事務所に行く。
「声がデカいから入る前から聞こえてたぜ。そんなにネガティブになるな」
どくんっ
私の冷めた体温が熱を帯びていく。
「あなたは……」
期待を込めて尋ねると、善人面は即答する。
「君の先輩だな」
それは私の求めていた答え。
「これから……どうするんですか?」
もうお店はこんなにガタガタの状態で、間もなく潰れようとしている。あなたは今頃戻って来てどうするんですか?
善人面はそれも即答だった。
「立て直すぞ」
事務所に入って行く善人面を追いかけながら、私は大きく頷いた。
「はい、先輩!」
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