○コンビニに戦士が帰還するまで(閑散期)

 庶民の俺からして、ここは間違いなく高級レストランだと思う。

 豪華な内装、洗練されたスタッフ、極上の料理はもちろん、コンビニとは比べるべくもないけれど、一番の違いはそれではなく、お店に来ている客層だ。

 ちらっと見ただけでも、スタッフへの態度、会話のやり取りやテーブルマナーから伺える教養、服装や身につけているアクセサリーから裕福さが判断できる。

 ここに来ているお客さんはヘルマートになんか来ないんじゃないか?


「何か気になることでも?」


 目の前の彼女の父親の声で我に返る。


「あ、いえ。やっぱり場違いだと思って」


 俺がそう言うと、彼女の父親は笑った。彼女の母親が穏やかな目を俺に向ける。


「君も社会に出るのだし、これからはこういう場所で食事する機会が増えるだろう。だけど今日は身内だけなんだ。予行練習だと思って気楽にしてくれたまえ」


 俺はペコリと頭を下げる。すぐ左隣りに座る彼女が俺を見て微笑んだ。

 今日は彼女の両親に招かれて食事会に来ていた。彼女の両親と会うのは、これで三回目だけど、今日は俺の内定祝いを開いてもらっている。彼女の父親は一流企業の重役で、彼女は文字通りお嬢様だった。


「あそこに内定をもらうなんてたいしたものだ。あそこの会社とは取引きを何度もしているが、本当に洗練された社員が揃っているから君も揉まれれば成長できるぞ」

「ありがとうございます。精一杯頑張ります」


 彼女の父親には娘の恋人として認められているのだろう。会うのはこれで三回目だが、俺への態度は回を追うごとに柔らかくなっている。


「でも、あなたは若いのにしっかりしているからきっと大丈夫だわ」


 彼女の母親が言うと、彼女も同意した。


「しっかりしすぎなぐらいだよ! 出会った時から今の会社に入りたいって言ってて、そのための準備をずっとしてきたもんね」

「そうなの? あなたも見習わなくちゃね。本当に甘やかして育てちゃったから」


 彼女の母親が「普段から手を焼かせちゃってるんじゃない?」と俺を見て苦笑する。


「ママ!」


 彼女は眉をしかめてふくれる。そんな彼女を見て彼女の両親が笑い、俺もそれに合わせるために笑う。

 世間で一流と言われる企業に入り、美人な彼女がいて、その両親にも認められている。

 自分の家も両親は夫婦円満で経済的にも心配はなく、俺自身の貯金も結構ある。

 明るい将来、恵まれた環境と言っていい。


 なのに、どうしてこんなに退屈に感じるんだろう。つまらなく、空しく思ってしまうのは何故なんだ?

 仕事も彼女も欲しかったもの、叶えたかった夢ではなかったか?

 最近の自分はずっと変だ。恵まれているはずなのにそこに喜びや楽しみ、面白さを感じなくなっている。


 何の心配もなく、負担もないのがつまらない。


 え? 何を言っているんだ?

 ヘルマートを辞めてから何もかもが順調だった。そもそもヘルマートは、今の会社に入りたいから、始めたアルバイトだった。アルバイトを始めて一ヶ月経たないうちからシフトは倍に増えたし、仕事の割り振りでも自分への負担は日増しに増えていった。スタッフの意識は低いし、お店に来るお客さんはどうしてか変わった人ばかり、社員は暴力団の組員みたいな人ばかりで、店舗という箱の中は狭い世界なのにドロドロの人間関係や争いが溢れている。


 あそこは戦場だ。ずっと平和を求めていた。俺はもっと早く辞めていておかしくなかった。ずっと辞めなかったのは、今の会社に入るために有利だと思っていたから続けて……


 戦場にいることを楽しんでいた自分がいた

 

 俺は本当に何を言っているんだ?

 精神的に肉体的に追い詰められ、いつだって予想できないトラブルばかりが起こる。助けてくれる人なんて誰もいない、同情してくれる人なんて誰もいない、理解してくれる人がいるわけがない。

 だから、面白かったんじゃないか?


 それに比べて今はどうだ?

 業界最大手の職場で意識が高く優秀な仲間達、このままいけば老後までが簡単に想像できる彼女との付き合い、何不自由なく束縛もなくやりたいことに打ち込めて応援される環境、現状ではそこに幸せな未来しか見えない。


 それがつまらない。読む前から結末が分かっている漫画みたいで面白くない。


 そうか。俺は自分がこのつまらない中に閉じ込められていると感じて、こんなにイライラしているんだ。

 ヘルマートはあんなに狭く思える箱の中だというのに、一度だって退屈だと思ったことがない。店長やスタッフもお客さんも俺をフリーにはしなかった。

 ヘルマートを離れた今はこんなにも広い世界なのに、こんなに窮屈きゅうくつに感じている。

 ヘルマートは刺激的だった。

 俺という人間はひょっとしたら……


 店に悲鳴があがった。

 それは入り口に近い席のお客さん達からだった。

 何事かと思って、そちらを見ると息を呑んだ。

 入り口へと続く通路には見るからに浮浪者だと分かる、何日も洗っていないボサボサの髪の毛、ボーボーに伸びた髭、茶色い肌、ずっと着ているからだろうボロボロの身なりの男性が立っていた。


 男性の近くにいたお客さん達は、いっせいに席を立って後ずさる。お店のスタッフが浮浪者に駆け寄り、それ以上進ませないように立ちふさがって、鬼の形相で退出をするように言い聞かせる。

 浮浪者は口を開いてボソボソしゃべり、両手の平を前に差し出す。それを見た途端、浮浪者の目の前に立っていたスタッフの男性が怒声を上げた。


「出て行けって言ってんだろっ!」


 店内のお客さんを見回すと誰もが非難の目を浮浪者に向けていた。

 浮浪者が頭を下げてなおも食い下がると、スタッフの男性が浮浪者を突き飛ばした。痩せ細った浮浪者は風船のように軽く飛ばされて床に尻もちをついた。

 とっさに立ち上がっている自分がいた。


 おいっ! お客さんに何やってんだよ!


 駆け出そうとした途端、腕を掴まれて引っ張られる。彼女が眉をしかめて俺を見上げていた。


「なんで?」


 彼女の手を力任せに振り払うのは簡単だった。だけど、俺を止める彼女を理解できなくて身動きが取れなかった。

 浮浪者は力任せに店から追い出されていく。その姿が遠ざかるにつれて、店内にいるお客さんが安堵あんどの表情を見せてゆく。


「お客さんなのにっ」


 口かられた言葉に彼女の掴む手に力が加わる。


「あの人がお客さんに見えるの?」


 彼女の俺を見る目は共感できない相手を見る無機質さが宿っている。突き刺さる視線に抗うように俺はヘルマートに入ったばかりの頃を思い出す。



 ヘルマートにもよく浮浪者がやってくる。全身が汚れで黒ずんだ姿にくたびれた大きな布袋を手に持つさまは、さながら黒いサンタだ。そして彼らはいつも店内の商品棚を長時間物色して回る。目的はただ一つ万引きだ。だが彼らがいくらスタッフの目をかいくぐろうと、事務所にいる店長が、店内に仕掛けられた防犯カメラの映像をモニターで観ているからバレバレなのだ。あの時も浮浪者が入って来た段階で、先代の若き店長に連絡をし、俺達スタッフは浮浪者を無視して通常業務に打ち込んだ。


 浮浪者が会計せずに商品を持っている袋に詰め込んだ瞬間、若き店長は事務所から飛び出し浮浪者を怒鳴りつけにいくわけだ。

 万引きを防ぐためには仕方がない。

 大学一年生の俺はそんな常識にとらわれた浅はかな男だった。

 浮浪者は手に持った牛乳を、商品の前出しをしている俺が気づくぐらいあからさまに、緩慢な動作で布袋に詰め込む。俺は若き店長が出て来ると思って、浮浪者から離れた。


「おじさん」


 金髪にガンぐろメイクに露出の多い派手な格好をしたギャルだった。

 その声に振り向くと、ギャルは浮浪者の万引きを咎めていた。


「袋から出しなって」


 ギャルが浮浪者の持つ布袋に手を伸ばすと、浮浪者はわずかに抵抗を見せるがなすがままに奪い取られる。女性は浮浪者の持っていた布袋から牛乳を取り出した。


「万引きはダメだって!」


 バックヤード側のドアが開く音がして若き店長がやってきた。ギャルは、鬼の形相を浮かべて浮浪者に詰め寄ろうとした若き店長の前に立ちはだかる。


「許してあげてよ。未遂なんだから」


 若き店長が目に殺意を浮かべる。だが、ギャルは空気が読めないのか動じない。ギャルは振り向いて、怯えた表情を見せる浮浪者を見た。


「おじさん待ってて」


 そう言って、牛乳と近くにあったパン棚からいくつかのパンを持ってギャルはレジへ向かう。会計を済ませて戻って来たギャルは、袋に詰め込まれたそれを浮浪者に手渡した。


「生きるために頑張って、それでも苦しい時は誰かに助けを求めるんだよ」


 信じられない光景だった。見るからに遊んでいるギャルが浮浪者に買ってあげるなんて。浮浪者は突然のことに何が起きたのか呑み込めず、ぽかんと口を開けている。

 若き店長も動揺を隠せず貧乏ゆすりする。

 ギャルは浮浪者、若き店長、俺とひと回り見てから微笑んだ。


「ここのスタッフとかさ! ここは誰もがいつでも来れて、しかも二十四時間開いてんじゃん」



 あんなにも自分を恥ずかしいと思ったのは初めてだった。

 俺は彼女の手を振り払う。

 ここは高級レストランだ。富裕ふゆう層以外はお客さんとして来ない。浮浪者を客だと思うわけがないんだろう。

 だがな!


 ヘルマートは来る者拒まず! どんな人だってお店に来ておかしくないんだよ!


 出口に向かって全速力で駆け出す。お店のドアをくぐる時、背後で彼女の呼ぶ声が聞こえた。

 お店の外ではさっきの男性スタッフが地面に這いつくばった浮浪者を蹴り飛ばしていた。


「やめろ!」


 浮浪者を庇うために男性スタッフの前に立つ。


「お客様?」


 虫を踏みつぶすような殺意に満ちた目をしたスタッフは、目の前に突然現れた人間に困惑こんわくする。そんなスタッフにすぐ敵意を抱いた。


「やめろって言ってんだ!」


 彼の目に映るのは、まるで深夜にコンビニの明かりに引かれてやってくる虫。勝手に店内に侵入し、宙をひらひら舞う虫を踏みつけようと狙いをつけた。あと一歩で踏みつぶせるという所で、レジ会計を求めるお客さんに呼ばれた深夜勤務者のように目が血走っていた。

 スタッフは、間に入った俺を一瞥いちべつすると、他のスタッフと目を合わせて頷き、その場を後にする。俺は地面に倒れた浮浪者に駆け寄った。


「大丈夫ですか?」


 浮浪者は差し伸べた手を掴む。


「大丈夫じゃよ」


 俺の手を掴んで引っ張って立たされた浮浪者は、はぁと息を吐いた。


「怪我は? 病院に行きましょうか?」


 銀行には無駄に貯まった金があるから、この人が保険証持ってなくても大丈夫だろ。浮浪者は首を横に振った。膝に手をついてうなだれる。その姿を見て憐憫れんびんの気持ちが沸いて自分の財布を取り出した。


「これで何か食べて下さい」


 浮浪者は目の前に差し出されたお札を見た。だが、彼は首を横に振った。


「どうしてですか? 食べ物をもらいたかったんじゃなかったんですか?」


 浮浪者は首を横に振る。もうわけが分からない。


「わしらが本当に欲しいのは人の優しさじゃよ。思いやりをほんの少しでいいから恵んでほしかったんじゃ」


 カーッと熱が腹の底から頭の先までこみ上げて来る。こんなに自分を恥ずかしく思うのは大学一年生の時以来だった。

 謝罪の言葉を口にしようとするが出てこない。浮浪者は背筋を伸ばすと俺を見ないで歩き出す。彼が思いやりを求めてこの高級レストランにやってきて、拒絶された時点でもう欲しいものは手に入らなくなったんだ。


 手をぎゅっと握りしめる。手の中のお札がぐしゃぐしゃになる。

 俺は一体何をやっているんだろう?

 顔を上げる。夜でも豪華絢爛ごうかけんらんな街灯が町を照らしている。だがこの町は真っ暗だ。この社会は闇の中にある。あの浮浪者が求める思いやりは、わずかな光は、まるで見出せやしない。


 ああ、文明が発展した反面、人と人の関わりが希薄きはくになった現代では、なんと光を少なく感じることか。高級レストランに戻る気になれず、町を歩く。予約制の高級レストランがあった繁華街を抜けると、駅へと続く大通りに出た。

 まっすぐ進めば道の先に駅がある。車の通る道を挟んだ両脇にはいくつもの光が見える。

 一〇〇メートルおきに点在する光はどれも同じ看板だ。

 闇夜に浮かぶヘルマート。


「ドミナント戦略!!」


 光は光でもあれは絶望の光。

 地獄の一丁目。

 歯ぎしりしている自分がいた。

 駅までの大通りには、短い間隔でヘルマートが連続して隣接りんせつしている。同じ建物の一階も二階もヘルマートだ。

 一〇〇メートルおきにヘルマートを作ったのだ。

 もちろん、それぞれの経営者は違う。


 ヘルマートの本部がある場所なら、一ヵ所に集中していくつものお店を開くのは分かる。その町はホームであるのだから、他社チェーンの侵入を防いで自社一色にしたいし、新入社員の研修などで利用するから利益度外視であっていい。


 だが、この町は本部とは関係がない!

 恐らく全てが直営店ではなく加盟店だ! あるいは元加盟店だが経営難に陥ってオーナーが手放して直営店になったか。例外はあるが、最初から直営店をこんな間隔を置かないで開くことはしない。店同士が食い潰し合って利益が少ないからだ。


「これがヘルマートのやり方だ」


 ドミナント戦略は、囲い込み戦略と呼ばれる小売業の常套じょうとう手段だ。一つのエリア内で複数店を開くことにより、お客さんをよその店に行かせないようにする。立地条件に大きく影響を受けるため、他社との競争の激しいコンビニではとくにこの戦略は重要視される。最優先は、人通りの多い場所にある優良物件を確保して直営店を開くこと。しかし、立地に恵まれていない場所であっても、他社の同エリア内侵入を防ぎたいために一時の施策しさくで利益度外視で直営店を開くこともある。だから直営店は基本的には薄利はくりになる。直営店はロイヤリティがないけど元から儲けが少ないから、ちょっとでも赤字が続いたら、本社はすぐにその直営店を畳もうとする。加盟店オーナーは年中募集しているので、応募があれば、立地に恵まれていない直営店舗を率先して使わせようとする。その際は加盟店オーナーを口八丁くちはっちょうで丸め込み、利益が上がらなかったら経営努力不足の一言で突き放すのだ。


 もちろん、商売は一種のギャンブルで、いつ路頭に迷うか分からない。個人事業主になったなら、常に必死でやり、時には勝負に出ることも必要になってくる。しかし、多くの加盟店オーナーは、ヘルマートの看板さえあれば儲けられると高をくくってしまう。その側面は確かにある。だけど、素人に元から利益を見込めないような店舗を紹介し、予備知識も与えず覚悟も問わないで、とにかく店舗を経営させようとするやり方は、やはり加盟店オーナーの甘い考えを差し引いても問題があると言わざる終えない。


 それだけ、コンビニ競争においては店舗数が生命線であるわけだ。だけど、ヘルマートのこれはやりすぎだ! 他のコンビニチェーンは、こんな一〇〇メートルおきに店を開いたりしない。目の前の現状は他の多くのエリアでも同じなんだ。

 オーナーが違う店舗がほとんど一〇〇メートルおきにある現状は、お客の取り合いにより共倒れしかねない。その結末が待っていようと、ヘルマート本部は構わないのだろう。

 何故なら、加盟店が潰れる分には本社に損がないからだ。


 加盟店契約を結ぶ際、いくつか契約スタイルがあるが、基本は加盟店オーナーと本社が互いにお金を出資して店を開く。どの契約であろうと、ヘルマートの看板を使って商売しているのだから、ロイヤリティと呼ばれる上納金を毎月ヘルマート本部に収めないといけない。 


 ロイヤリティのパーセンテージは、最初に加盟店オーナーがいくら出資したかによって上下するので、お金を持っているオーナーなら毎月の負担も少なくてすむが、八割以上の加盟店オーナーは最低限の出資しかできない。足りない分は本社にお金を借りて店を開くわけだから、その借金返済も含めた多額のロイヤリティを課される。コンビニの単価の安さから売り上げなんてたかがしれている。その中からロイヤリティで持っていかれれば雀の涙くらいしか残らない。

 それらの加盟店オーナーはどうするのか?


 多くの加盟店オーナーは自分が店長を兼任する。

 まず人件費削減のためにスタッフを減らしたり、自分が深夜勤に入る。廃棄ロスを防ぐために発注を減らす。そうすることで、サービス面でも商品面でも質が落ちていき、ますますお客さんの足は遠のくという悪循環に入る。その間、SVの罵声が飛ぶ。やがて加盟店オーナーは体を壊す。何度も壊せば、再起は不可能になりお店をたたむことになる。


 そうなれば、あとは借金が残るだけだ。ヘルマートは絶対に借金を返させる。お店をたたむ際、ヘルマートの商品はそのまま別店舗に移動させればいいのだから、オープンする際の建設またはテナントを借りているだけなら改装代だけしかかかっていないことになる。その分もヘルマートは加盟店オーナーにお金を貸しているので、利子を付けて返してもらえればまったくの損失なしどころか利益が生まれる。


 お店はたくさん作れば作るほど本部が儲かる。SVには見込みのない店舗は、一定額返済までお店を畳ませないようにというノルマが課せられるからしんどいが、お店はたくさん作って潰して構わない。また次に新しいお店を開けばいいだけだ。潰れた分だけ新しく開く。お金がない脱サラの加盟店オーナーなどはまさにカモで、無限にこのシステムを循環させるための動力源と言っていいだろう。日本一の店舗数を誇るのに、売り上げが業界一位ではないヘルマートの実態がこれなんだ。


 コンビニではおにぎりや弁当、パンやフライドフード、一部のチルドドリンクなどは自社製品なので、その売り上げが多いほど会社は儲かる。けれど、ヘルマートのプライベートブランドは評判が今ひとつで利益が上がらない。ヘルマートは時間とお金を投資しなければ成果が出ない商品開発に力を入れることを選ばず、店舗数を増やすことで短期で売り上げを出す方法を選んだ。何も知らない人には、店舗数が多い=勢いがあると映るが、店舗数を増やさなければ利益を上げられないのが真実だ。たくさんお店を作って、自社の商品を発注させ、ロイヤリティを徴収ちょうしゅうし続けなければヘルマートは成り立たない。

 一列に並ぶお店を眺める。

 店長達の嘆きと悲鳴が聞こえて来るようだった。体が震える。怒りが込み上げて来る。

 俺はそこから一歩も動けずいつまでも立ち尽くす。見たいと思った。

 深夜勤務に入っている店長達の顔を。


 腕時計を見ると時刻は深夜零時を回っていた。とっくに深夜勤務が開始している時間だ。都内なので車の通りは変わらないが、さすがに人通りは減って来る。深夜の時間は基本、赤字しか出ない。俺は順に店舗を見ていくことにした。

 どのお店に入っても、一番最初に三十代から四十代くらいの男性店長を発見できる。脱サラが一番多い年代だ。一国一城の主を夢見てヘルマートのオーナーに応募し、通称・奴隷契約を結んでヘルマートの奴隷となった。


 店長はお客さんがほとんどいない店内で一人で深夜業務をやっている。もうその顔には表情がなかった。目に光はない。睡眠不足と疲労困憊によるうつ状態。人件費削減のために滅多に休めない、たまの休みは一日中寝るだけ、年のほとんどを長時間お店の中だけで過ごすことによって喜怒哀楽が摩耗した姿だ。いくら働いても儲けは少ないし、一日に必要なパンを得るためだけに働いているとしか実感できなくて、希望なんて見えない。

 どんな作業をやっていても、その目はうつろで目の前に焦点は合っておらず、遠くに向けられていた。


 どこか遠くに、ここではない遠くに。子供の頃の俺は冒険に憧れていたんじゃないのかと自問するかのようにひたすら遠くを見ている。


 頬を涙が伝う。

 店長から視線を逸らし、嗚咽おえつが漏れないように口を抑えた。自動ドアの近くの外側の雑誌コーナーまで足早に移動する。これ以上見ていられない。

 食っていくためにはとにかく働け。働かざるもの食うべからず。働くことは厳しい。働いていて楽しいなんて思えるわけがない。しんどくて当たり前なんだからしんどい思いをしろ。社会に出る前から俺達はそう教えられ、社会に出てからはその通りだと思い知らされる。

だけど……


「俺達は一日三食食べるためだけに生きているわけじゃないだろ」


 動物じゃないんだ。

 仕事にやりがいを感じ、成果に喜びたいじゃないか。そのチャンスを一切与えない、今のヘルマートが正しいとは思わない。働く人全員が一生懸命だとは言えなくても、一生懸命頑張った人にはチャンスが与えられるべきだ。

 そんなシステムであるべきだ。今のように上が下から搾取さくしゅするだけのシステムは、絶対に間違っている。

 お店の透明ガラスに映る自分の顔を見る。俺は本当は何がやりたいんだ?

 もう出よう。といっても終電は終わってるから始発まで時間を潰すしかないけど。ここら辺は漫画喫茶とかあったかな?


「お客様! 何やっているんですか!?」


 ビクッと震える。

 え? 俺?

 振り返った俺は、雑誌棚から遠く離れたトイレの前でドアを開けて立っている店長の背中を見た。俺のことではないけど、何事だろう?

 様子を見ようと近づくと、トイレの内ドアの前に男性が体育座りしているのが見えた。男性はトイレ掃除を始めようとした店長の侵入を防いでいる。店長の眉間に皺が寄った。横顔から怒りが見て取れた。


「トイレ掃除するのでどいていただけますか?」


 男性は店長を見上げる。


「お前に一億円の補償ができるのか!?」


 男性は叫んだ。


「俺をどかして、一億円の補償できる覚悟で言ってんのか!?」

「お客様? トイレを利用するのでもなくここに座られたら困ります。他のお客様の迷惑になりますし」


 店長は大きく深呼吸してから言った。だが、男性は同じ言葉をくり返すだけ。


「お前に一億円の補償ができねえなら、俺をどかそうとするな!」


 あのお客さんは何を言っているんだ? 見た目はとてもお金持ちに見えないし、トイレへの侵入を防ぐビジネスなんて聞いたことがない。

 店長は顔を真っ赤にして目をしばたたかせる。呼吸が浅くなって肩が上下する。


「お客様……申し訳ありま、せんが……」


 店長は血走った目を見開いている。睡眠不足と疲労困憊から気が短くなっている今の店長の忍耐が続くとは思えない。だけど、男性はてこでも動かない。


「一億円用意できたら言えよ!」


 店長が天井を見上げる。目を閉じて、何度も深呼吸をくり返す。その拳は固くにぎられていた。

 これ以上はあきらかに限界だった。

 あのガン黒の少女がフラッシュバックする。


「ちょっと待った!」


 店長と男性が俺を向く。

 血走った目に顔をくしゃくしゃにした店長を見てから頷いて、男性を見た。

 迷惑な客だ。ばかじゃねえか、と判断するのは誰でもできる。でもそれじゃ、あの高級レストランのスタッフと同じだし、大学一年生の俺から何も成長していない。


 あの浮浪者は言った。思いやりをほんの少しでいいから分けて欲しい、と。

 この男性はトイレまで追い込まれたんだ。自分が本当はいたかった場所からトイレまでおいやられたんだ。こんなに追い込まれて、悔しくて辛くて、これ以上追いやられたくなくて必死なんだ。

 腰を落として、男性と同じ目線に立つ。


「おじさん、店長も掃除したいだけなんだから意地悪しないで下さいよ。何か大事な話があるんなら俺聞きますから」


 男性はキッと俺を睨む。


「お前は一億円持ってんのか!?」


 俺は吹き出した。


「そんなにお金持ってないですね。でも、一杯おごるから、酒に付き合って下さい。終電逃しちゃって朝まで時間潰さないといけないんです」


 男性はじっと俺の顔をのぞいている。


「行きましょ」


 男性に微笑むと、男性は俺の発言をまだ不審に思っている様子だったが、ようやく重い腰を上げてくれた。

 店長が驚いた顔を俺に向ける。


「いつもお疲れ様です。大変だと思いますが、それでもこんな時間までコンビニがあるのは本当に助かりますよ」


 店長に頭を下げてから、男性を促すと男性は俺の後についてトイレから離れた。

 皆が追い詰められている。追いやられてもうどこにも行けなくて苦しんでいる。それで唯一残された光に引きつけられてコンビニに来るんだ。コンビニは誰も拒まないから。もしも、コンビニまで彼らを追い出したら、この世界は本当に真っ暗になってしまう。

 コンビニはこの世で最後のとりでなのかもしれない。

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