●新入りの私がヘルマートで真実を知るまで Ⅱ(閑散期)

 どんなに眠くても、寝る前に朝に遅刻してはいけないプレッシャーを自分にかければ起きれるんだと思う。夜明け前の朝五時近くに起きて、急いでシャワーを浴びて着替えて家を出る。自転車で朝勤に向かう。朝勤は初めてだった。入って二ヶ月経たないのに、当初は週三の夕勤だけのシフトだったのに、他の時間帯にまたがってもう倍くらい増えている気がする。


 五時半にはお店について、自転車を駐輪場に止めてお店のドアに向かう。外からでも中のお客さんの姿が見えた。朝は学生や年配の方が多い。レジに列を作って並んでいる。レジに店員の姿は見えない。

 深夜勤は不死鳥だった。


 嫌な予感がした。

 お店のドアをくぐると、お客さんの視線をかいくぐって、急いでバックヤード側のドアから事務所へ向かった。

 途中、パン棚の前に配送されたままの状態で積まれたパンの山を見て、予感はますます高まる。

 バックヤード内で無造作にお菓子が放り込まれたいくつかの段ボール箱と、手つかずのまま重ねられたカップ麺などのインスタント食品の入った箱を目にして予感は確信に変わった。


「おはようございます! レジ並んでますよ!」


 うちの店は人件費削減のために、深夜勤は一人体制でやる。体調を崩した時や、トイレに行く時など大変だと思うけど、基本的には赤字しか出さない深夜勤に二人もスタッフを割くわけにはいかない。

 タイミング悪くトイレにいるだけだとかすかな期待を込めて事務所に来た私は、目の前の光景に声を上げることができなかった。

 それでも絞り出すとしたら悲鳴だ。


 デスクの上に広げたノートパソコンにヘッドホンを繋げ、レンタルショップの袋、コーラとポップコーンをその脇に置き、タバコを吸いながらイスにもたれて画面に映る映画を観賞する不死鳥の姿は、まるでホラーだった。

 不死鳥は映画に夢中で私にも気づかないんだから、モニターに映るお客さんに気づくわけがなかった。

 私はバックヤードに引っ込んで、すぐさま制服に着替える。スカートは家ではいて来るからシャツと上着を上から羽織るだけなので早い。


「すみません、お待たせしました!」


 バックヤード側のドアをくぐるのと同時に叫んだ。レジに入った私を、お客様は怒りを込めて睨みつける。私の顔を覚えていたので、遅れて出勤したんだと思われたのに間違いなかった。


「ちゃんと仕事しろよ!」


 年配のお客さんは私を叱る。私じゃありませんとは言えなくて、ひたすら謝り続ける。分かっていたことだけど、不死鳥の仕事ぶりはひどい。

 レジ対応が終わると、私はすぐにレジカウンター内の事務所直通のドアを開けた。


「何やってるんですか―――!?」


 ヘッドホンを奪い取って叫んだ私を見て、不死鳥は目を見開いた。


「お、おお!?」


 不死鳥は事態が飲み込めないようで、驚きの声をあげる。


「ちゃんと仕事しろよ!」


 私が言われた言葉をそのまま不死鳥に返す。


「そもそも事務所は禁煙じゃないですか! もうやだ……ここの人って皆おかしい」


 泣きそうになるのを必死にこらえる。泣いたってどうしようもない。


「おいおい、落ち着けよ。少しだけ休憩してただけじゃねえか。怒んなって。昨日も昼間は 警備員のバイトやってからの夜勤なんだぜ? 疲れちまうのも分かってくれよ」

「他にアルバイトしてるんですか!?」

「単発だけどな。時給がいいんだよ!」


 それで、ヘルマートの夜勤中は休んでるなんて言い訳にならないと思う。


「睨むなって。休んでたのはちょっとだけだよ!」


 言われて、パソコンの画面を観るとちょうどエンドロールが流れ出していた。この映画はシリーズものの二作めで二時間半近くある長編だから、彼は二時間半はまるごと観ていたことになる。これでちょっとだけなの?


「え?」


 ハッとしてデスクの上のレンタルショップの袋を手に取った。

 そこにはもう一枚、今不死鳥が観ていた映画の前作があった。

 この人続けて五時間近くは観てたわけ? 本当に五時間も!?


「やべ〜もうこんな時間か。そろそろ仕事しなきゃやべえぞ」


 今から仕事かよ!

 六時まであと二十分も残っていない。こーなったらサービス残業するしかないでしょ。

 不死鳥は急いでレジカウンターに向かう。流し台に水を溜めて洗剤を入れて漬け置きしていたトングや、フライフード保温ショーケース内のステンレスのフライドフードを置く台と、中華まんの保温ショーケース兼スチームマシンの中にある中華まんを乗せる台を手に取る。それから水洗いを始めて次々に水で流していく。


 はたから見てて、スポンジで汚れやぬめりは落としてないけど、洗ったことにはなるなと感心している自分がいた。

 今の時期はおでん休止で、フライドフードを揚げるフライヤー機も二日に一度油を取り替えればいいので、それだけを五分で終わらせて、流しの横で立てかけて乾かす。


 元から、これ以外は一切洗う気がない不死鳥は迷いなく切り上げて、次は配送されたパンを機敏な動きで陳列していく。五分で終えると、空になったカゴを持ってバックヤードに入った。不死鳥は床の研磨けんま機であるバフを持って出て来る。そして、電源コードを突き刺すと、フロアを駆け足でバフを押していく。レジカウンター内をのぞく店内全部を回って、片付けるまでに五分しかかかっていない。


 片付けを終えて段ボールを持ってバックヤードから出て来た不死鳥は、2レジカウンターに置かれた朝刊を急いで、ラックに陳列する。それから、深夜の時間帯にとっくに返本されていなきゃいけないはずの、前日の夕刊をまとめて荷造り紐で縛ってレジ台の下に隠し、カゴに入れられている返本を段ボールに投げ入れていく。無理矢理フタをしてテープを貼り、伝票に記入して段ボールに貼付けて、お店の自動ドアの脇まで運んだ。ここまで五分。時刻は六時になっていた。


「悪い。乾いたらセットし直してくれねえか」


 二十分で仕事を終えた不死鳥は、私にフライドフードのショーケースと、中華まんの保温ショーケース兼スチームマシンのセッティングを頼んで勤怠を終えた。

 私はマニュアルを全て記憶しているので、深夜勤の仕事内容も把握している。

 深夜零時から朝六時までの間の深夜業務は、


 一、前日に配送されたお菓子やレトルト、インスタント食品、文房具などを陳列

 二、新聞と返本まとめ

 三、各什器の清掃と油交換(二日に一度)

 四、冷凍状態のフライドフードを揚げるためのバスケット、油切りの天台、ボウルなどを洗う

 五、鮮度管理

 六、ダスターモップがけ、水拭き、バフ、ダスターモップがけの手順で床掃除

 七、冷凍便の収納と補充

 八、配送されたパンの陳列

 九、前日の夕刊の返本手続きと朝刊の陳列

 十、朝六時から販売できるように、フライドフードと中華まんの用意

 十一、商品棚の整理整頓と前出しと補充

 十二、深夜勤務の報告書記載


 いくらまじめにやっていても、どこかで妥協しないと時間内には終わらないほどの負担がある。不死鳥がどれだけ仕事をハショッたのかは明らかだった。


「あ、もう六時だ!」


 もう一人の朝勤が来ないことが私の注意を奪った。

 事務所に入ると、荷物を片付けている不死鳥を横目に壁に貼られたシフト表を見る。


「孤独」


 パートナーを確認したのと同時にお店の電話が鳴った。すぐさま反応して電話機に駆けよる。画面には孤独の名前が映った。ワンコールで受話器を手に取る。


「おはようございます」


 電話はもう繋がっていなかった。

 受話器を戻して電話の前に立ち尽くす。待っていても電話はもうかかってこない。

 遅刻の連絡じゃないの? 首を傾げていると不死鳥が私の後ろを通り過ぎていく。


「じゃあ、お疲れ様!」

「ちょっと待って下さい!」


 首根っこをつかんでそれを止めた。


「ちょ、ちょ、ちょっと!?」

「今、ワンコールだけ孤独から電話がかかってきたんですけど、どういう状況なんですか?」

「ああ、それか」


 振り返った不死鳥はなんでもないことのように、


「遅刻の合図だ」


 モールス信号かよ!


「あ! レジ行かなきゃ」


 不死鳥から手を離して私はレジカウンターに向かった。


「いらっしゃいませ〜おはようございます!」


 そんな連絡されてもどれだけ遅刻するか分からないじゃん。それとも、ルールが決まっていて、分かる人には分かっているわけ?

 レジが一段落付くと、通路に立つ不死鳥に気づいた。


「なんですか? 孤独が来るまで残ってくれると助かるんですけど」

「ラッシュ○ワー3」


 不死鳥の返事は返事になっていない。


「らっしゅあ○ーすりー」

「は?」

「ぃらっしゅっわっしぃえ〜」


 不死鳥は親指をつきたてた。


「ネイティブっぽく言えば、いらっしゃいませに聞こえる!」


 ドヤ顔をする不死鳥に唖然だった。


「こうやって、接客のストレス解消をするんだぜ」


 ほとんど仕事してないあんたにストレスあんのかい!


「じゃあ、頑張れよ」

「……お疲れ様です」


 片手を振りながら出口に向かう不死鳥。逆光を浴びるその背中は光に呑まれる暗黒に見えた。

 平日の朝勤は、出勤する会社員や登校する学生が立ち寄る。とはいえ、ピークは七時半から八時半までなので、今はまだ混雑することはない。ピークまではレジを離れなければ一人でやれそうだ。それまで他の仕事はできないけど。なんだか巨乳の言っていたことが的を射ている気がしてきた。


 レジ対応しながら、不死鳥が洗ったものとまだ洗っていなかったものを洗い直した。それから、中華まんを蒸し、フライドフードを揚げ、レジ袋や割り箸、フォーク、スプーン、ストローなどを補充する。

 三十分経っても孤独は姿を見せない。こちらから電話したほうがいいのかな。


「今日からヘルポイントボーナスキャンペーンが始まりますからね」


レジ前を通り過ぎようとしたおばさんに声をかけられて、そちらを向くとおばさんは穏やかな笑みを浮かべて私を見た。


「あ、はい。大変お得なのでぜひうちで買い物していって下さい」


 私の返事に満足そうにうなずいてそのおばさんは通路を通り過ぎていった。そういえば今日から一週間はキャンペーンだった。うっかり忘れていた。

 今日から五百円以上の買い物で、通常のヘルポイントに加えて五%のヘルポイントがつくことになっている。正直、ヘルポイントなんてヘルマートでしか使えないポイントだから微妙なところだけど、五%はなかなか大きい印象をお客さんに与えると思う。


「あれ?」


 さっきのおばさんが目の前を通り過ぎていく。ほうきとちりとりを持っているのに違和感を覚えた。おばさんはお店を出ると、外掃除を始めた。

 今バックヤードから出て来たの?

 掃除しているってことは孤独?

 声をかけにいこうとして、レジにお客さんがやって来るのが見えて止めた。


「ありがとうございましたー」


 七時が近づいてきて、だんだんお客さんが増えて来た。レジも並ぶようになり、これ以上人が増えたらお客さんを待たせそうだった。マニュアルでは、三人以上並んだら、もう一人が駆けつけることになっている。

 気がつけば、さっきのおばさんは店内掃除を始めていた。

 孤独だよね?

 今日が初対面だし、今着きましたと声をかけてくれないから確証が持てない。


「中華まんはまだないの?」

「ヘルコロッケが欲しかったんだけどまだなの?」


 本来なら六時には、中華まんもフライドフードも種類を揃えて、販売できる体制にしていないといけない。なのに不死鳥のせいでスタンバイが遅れていた。中華まんはスチーム中で七時すぎないと販売できないし、フライドフードもまだ一種類しか揚げていない。レジの回転率も上がって来たので、フライドフードだけに専念できないのが響いていた。こういう時こそ、もう一人欲しい。


 作業片手間に店内を見渡すと、おばさんは窓拭きに入っていた。

 あの人が孤独なのはきっと間違いない。

 レジには三人以上並んでいた。

 孤独はレジには見向きもしない。


 やばい。もうすぐ七時になるのに、フライドフードが全然できてないぞ。一種類、揚げるだけで五分以上かかり、油を切るのに二分は置くから、一種類につき七分以上かかる。いっぺんに揚げられるのは、大きさにもよるけど平均十個ぐらい。実際は、レジ対応があるからとりかかれる時間もまばらになり、もっとかかった。洗い物を終えたのが六時半だったから遅れに遅れていた。朝は五種類以上は揚げないといけない決まりだ。


 七時が過ぎた。あと二十分経たないと中華まんは販売できない。もう十人以上断っていた。フライドフードはやっと二種類用意出来たけど、それも売れてきたのでまた作らないといけない。もう十人ぐらい妥協して仕方なく買わせていた。

 レジ対応しながら孤独を見ると商品の前出しを始めていた。レジには三人並んでいる。ギリギリブザーを押していいか悩む人数だから何も言えない。それでも絶えず三人が並ぶ状況は、他の作業をする時間を容赦なく奪っている。


 七時十分。

 孤独は商品の補充をしている。

 七時二十分。

 孤独は本棚を整理している。

 七時半になろうとしていた。

 孤独を見ると店の外の花壇の花に水をやっていた。

 自分の手が震えているのが分かる。これは怒りの感情から来る。


「君!」


 レジ会計を終えた目の前のお客さんがレシートを睨んでいた。そのお客さんの後ろには二人並んでいる。


「このボーナスポイントはいつから反映されるんだ?」


 え?

 通常のヘルポイントはその場ですぐにつく。だけどボーナスポイントはいつからつくのか分かっていなかった。


「少々お待ち下さい」


 やばい。うっかりしてた。レジカウンター周りに貼られているシールに目をやる。キャンペーンのことが書かれているのを見つけると、情報を探す。


『キャンペーン終了後に反映されます』


 とても微妙な答えだった。


「おい! いつからなんだ?」


 年配のお客さんに限って気性が荒い。これって、どう答えたらいいんだろ?

 レジに並ぶ後ろのお客さんの目つきが鋭くなった。朝は誰だって急いでいるから、待ちたくないし待つ余裕がない。

 自分じゃお手上げだと思ったので、孤独を探す。

 孤独はどこにいるか分からなかった。

 ええー!?


「ちょっと!」


 他のお客さんも声を荒げた。私はレジの下にあるスタッフ呼び出しブザーを押す。

 これで駆けつけてくれるはず。

 一分経っても孤独は現れなかった。


 やばい。事務所に入って、バックヤードへ回る。孤独はいなかった。どこなの? バックヤード側のドアから店内を見渡しても見つけられない。レジに戻って来るとお客さんの目は血走っていた。


「どうしたの!?」


 その声に横を向くと、若い女性が立っていた。


「お客さんをこんなに待たせて何やっているの!?」

「ま、マネージャー!」


 私はマネージャーにすがりつくように手を伸ばした。その手をマネージャーは容赦なくはじき飛ばして、嫁に怒る姑のような形相を見せた。


「ちゃんと仕事しろっ!」


 私は何度、こんな理不尽なことを言われなければいけないんだろうか。

 マネージャーがお客さんに「終了翌日から順次反映されます」と無難な答えをしてその場を円満に収めることに成功した後は、通勤ラッシュ時を迎えてお店が一気に混み始めた。一日に三回来るセンター便の第一便もこの時間に重なるので本当に慌ただしい。すると、今までどこにいたのか、孤独がレジに戻ってきた。


「どうも初めまして。あなた大学生なの? よろしくお願いしますね」


 口調と物腰の柔らかさの裏には揺るがない鉄の意思を感じ取れた。孤独。ガチガチに固めた自分ルールを持つ者。自分のフィールドから決して外に出ない。彼女のルーティーンには、七時半までレジ対応が含まれていない。


「分からないことがあったら何でも聞いて下さいね」


 この時、「七時半以降限定でね」のニュアンスが込められていたのを私は後で知る。

 それまではブザーを鳴らしたって来やしない。彼女は自分の世界を守る孤高の戦士。もしも彼女の世界を脅かすとしたら、それは唯一、若い女性以外は女性とは認めないバイトリーダーだけだと言われている。

 誰もが彼女を恐れて言う、「おでんシーズンは彼女と一緒に朝勤被りたくない」と。

 朝一で手間がかかるおでんの仕込みを、レジ対応しながらやることのストレスは強烈無比らしい。


「おいっ新入り!」


 ピークを終えた時刻は八時四十分、マネージャーが怒りの形相で私を事務所に呼んだ。マネージャーは若き店長の一年下の後輩で、若き店長が午後から夜中までの勤務であるのに対し、朝から夕方までの勤務を普段は担当する。以前は、若き店長と違って気性が穏やかでか弱いイメージがあったらしいけど、今年の夏ぐらいからまるで人格が逆転したみたいに荒々しくなった。


「どいつもこいつも信じられない」「助けて欲しいのに皆見て見ぬ振り」「私なんて死んだって誰も泣いてくれない」といったつぶやきがことあるごとに聞こえてくるらしい。

きっと悲しいことがあったんだろうな。

 マネージャーは鼻先が触れるぐらいに顔を近づけて来ると眉間にしわを寄せて睨みつけてくる。


「あんたさ〜入ってもう二ヶ月経つんでしょ? あんな仕事ぶりで許されると思ってるわけ? 若い人って本当にダメね!」


 マネージャーは酒臭かった。


「お客さんは許してくれないのよ? 若いから頭が回らないのかしら? 若いから皆優しくしてくれると思っているんでしょ? なめた考えしやがって! 大人は若いだけの女を相手しねえんだよ!」


 酔っぱらいにからまれるってこういうことなんだろうな。それにしてもマネージャーは若い女に恨みがあるの? ううん、マネージャーだって二十三歳だ。今年二十歳の私にむかって若いって言うんだから逆かもしれない。マネージャー自身が経験豊富な大人の女性ぶってる。若い人を見下ろしたい気持ちが言葉に出ている気がする。やっぱり、マネージャーとしてなめられないための必死のアピールなんだろうな。


「あんたも大人になりなさいよ!」 


 自分よりも年上への対抗から、若さへの嫌悪が芽生えているのかもしれない。年上に負けた恨みでも?


「聞いてるのっ!?」

「は、はい!」


 マネージャーはどすんっとイスに腰を下ろすと、水筒のフタを開けてごくごく飲み干していく。ぷはーっと吐き出して口元を拭った。本当に以前は温厚な女性だったんだろうか? 目の前のマネージャーからはその面影が見えない。


「もっと悔しいと思いなさいよ!」


 天井を見上げてマネージャーが吠える。マネージャーの叱咤しったは内容がともなっていない、あるのは感情の爆発だけ。


「あ、あの〜」


 事務所のデスクの向こう側、バックヤードへ曲がる角から誰かが顔を出していた。

 男性だった。見た目から同年代だと思う。マネージャーが振り向いて呼んだ。


「パチプロ?」

「おっす」


 パチプロは飛び跳ねるように事務所に入って来た。


「どうしたの?」

「いや〜ちょっとマネージャーにお願いがあって」


 パチプロは自分の頭をさすりながらゆっくりとマネージャーに近づく。


「何?」

「お金を貸して欲しいッス」


 その瞬間、その場の空気が止まった気がした。

 単刀直入なのはいいけど、火に油注がないでよ。

 マネージャーが眉をピクピクとひくつかせる。


「な、なんだって?」

「いや〜先日大負けしちゃって! いや、今日こそ勝ちまッス!」


 ギャンブルにハマってる人の常套句じょうとうくじゃん。

 マネージャーが席を立ち上がった。


「こんな時だけ私に頼らないでよ! いいわけないでしょ!」


 もっともだと思った。だけど、パチプロも引き下がらない。


「それでも俺にはマネージャーしかいないんです!」

「え?」


 マネージャーがその言葉に出鼻を折られたみたいに固まってしまう。


「助けてくれるのってマネージャーしかいないッス。マネージャーだけなんでッス。それにマネージャーもうすぐ誕生日じゃないですか!」


 マネージャーが両手で口元を抑えた。目をしばたたかせて驚きを隠せない。


「俺、今日勝ちますから! お願いしまッス」


 マネージャーはパチプロに背を向けた。だけど、その手は自分のバックに伸びていた。


「マネージャー!」


 マネージャーが財布を取り出し、万札を二枚取り出して、振り向かずにパチプロに向けて差し出した。


「何もそんなに必死にならなくてもいいのに……気持ちだけで私は……」

「あざーッス」


 パチプロは二万円を受け取ると、勢いよく駆け出した。バックヤード側のドアが開いて閉まる音がしてからマネージャーが口を開く。


「本当はもう誕生日過ぎてるけど、遅れても嬉しいものね」


 え? 過ぎてたの? というか、別にパチプロは誕生日プレゼント用意するとか一言も言ってなかったと思うんだけど。


「あなたももう行っていいわよ。次から気をつけてね」


 マネージャーはすっかり毒気を抜かれたようで、一人で余韻よいんに浸りたい様子すらあった。

 ああ、この人は男性に騙されるタイプだ。

 ため息をつきそうになって、慌てて口元を抑えて事務所を出た。

 事務所を出ると、孤独が駆け寄って来た。


「大丈夫? 怒られたの? 誰にでも失敗があるんだから気にしちゃダメよ」


 手が震える。これは怒りの感情からくるものだ。

 だけど、私がしっかり把握してなかったのもあるし、さかのぼれば不死鳥のせいだし、あ〜もう、誰にも文句言えない。


「そろそろレジ点検の時間ですね」


 もうすぐ交代の時間。私は午後から講義があるけど、家に帰って少しは仮眠取れそう。

 そういえば、昼勤務の人と会うのも初めてだ。結局全部の時間帯に関わっちゃうわけなのね。

 レジ点検でコインを並べて計算するコインカウンターに小銭を並べ終え、入りきらない各種五十枚以上のコインはコインケースにしまう。

 ハッとして、私は後ろを振り向いた。


 知らない人が、いた。

 ううん、制服を着ていることからスタッフなのは見て取れる。

 いつの間に? すぐ後ろにいたのにまったく気配を感じなかった。

 目が合っても、相手は無言だった。眼球を動かし、ジロッと私を見つめて来る。


「あら、静寂。おはようございます」


 静寂に気がついた孤独がその名前を呼んだ。私はやっと気を取り戻して、自己紹介をする。


「おはようございます。新入りです。レジ点検は今からです」


 静寂はゆっくり頷いた。

 ドンッと勢いよく事務所のドアが開く。


「おっはよーう、ごっざいまーす!」


 ハイテンションでおばさんが入って来た。おばさんの視線は真っ先に私に向けられる。私より十センチくらい背が高く見える。平均的な女性よりずっと高い。


「おはようございます。新入りです」

「あら〜あなたが新入りなのね! 可愛い子じゃな〜い」


 声が高く大きい。


「私がパートリーダーよ!」


 でしょうね!

 この存在感に思わず納得する。

 お店の自動ドアが開いて、「おはようございまーす」とパンの配送がやってきた。パンの配送も日に三回あって、朝の時間帯は他社のパンだから少ない。この場合、パンの陳列は下っ端の私がやるべきだから、レジ点検は孤独に任せて私はパンに向かう。

 他社のパンはパッケージに値段が書かれていないので、値札をつけるラベル貼付け機器を持っていく。走る私を見てパートリーダーは満足そうに頷く。


「フレッシュね!」


 なんだかめんどくさそうな人だと思った。

 量も少ないのでパンの陳列はすぐに終わる。台車とカゴを片付けてレジに戻るともう時間だった。あ〜疲れた。

本当にシフト入りすぎだと思う。

 レジカウンターにはパートリーダーしかいない。孤独はもう事務所に入っていて、静寂は気配を消しているから見つけられない。


「お疲れ様でした」


 パートリーダーに頭を下げて私は事務所に向かう。


「待ちなさい」


 呼び止められた瞬間、急速にめんどくさい気配を感じた。


「なんでしょう?」


 パートリーダーの元へ戻ると、パートリーダーは私の耳元に顔を近づけてささやいた。


「この店はろくな男がいないから騙されちゃダメよ?」


 本当にめんどくさっ!


「私は大丈夫です!」


 力強く答えてきびすを返した。 

 事務所に入ると、マネージャーは上の空状態で清算をしている。まだ余韻に浸っているみたいだ。お店の電話が鳴る。反応しないマネージャーを見て私が出る。

 画面に映ったSVという名前にヤバいと思うのと、受話器を手に取ったのは同時だった。


「おはようございます。ヘルマートの新入りです」

「おい君っ!」


 電話なのにそんなに大声じゃなくても……恐怖感が先に来た。


「連絡まだしてこないから何かあったんじゃないかって心配したじゃねえか!」

「す、すみません。朝が早かったもので……」

「もう上がりだろ? 早く連絡よこせよ! いいな!」

「はい、分かりました」と答えて、受話器を置く。


 はい、私は悩み相談に乗って欲しいです。

 アルバイト先を間違えたって気づいたらどうしたらいいですか?

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