●新入りの私がヘルマートで真実を知るまで Ⅰ(閑散期)

 反応閾値いきちの話がある。

 ありはちといった女王を中心にコロニーを形成して生活する昆虫は、幼虫の世話から食料調達に戦闘まで、それぞれが自身の役割を果たし完璧な歯車になって巣を機能させる。人間のように情で動くわけでも、言葉を使ったコミュニケーションができるわけでもない蟻や蜂がここまで高度な分業制を敷ける理由が閾値にある。


 彼らは外から刺激を受けることで、仕事をする。

 反応閾値とは、刺激を受けて仕事に取り組むまでの反応の早さを数値化したもの。それは個体ごとに違う。コロニーでの優先度の高い仕事から低い仕事まで、刺激は強弱が分かれている。虫達は個体ごとに刺激に反応した順番で仕事に取りかかる。反応する順番がそれぞれで違うから、仕事が被らないわけだが、反応閾値が鈍い虫もいるわけで、そういう虫はコロニーで平気でゴロゴロしている。仕事を全て先に取られた後で、やっと反応した時にはもうやることが残っていないから。それでも待機している虫達は予備要員であり、現在仕事に取りかかっている虫達が欠ければ、次に反応した虫がその穴を埋める。


 待機している虫達は、怠け者というわけではなく、彼らがやる前にやってくれる者がいるから動かないのだ。これは、人間社会でも言えること。

 仕事をサボる人がいても、サボっている人の代わりに働く者がいるから成り立つのが組織。ここヘルマートでもそれは変わらない。ただ、ここのスタッフは極めて反応閾値が低いと言えるのかもしれない。


 ため息が漏れる。

 ちらっとレジカウンターを見ると、巨乳がボーッと遠くを見つめていた。先ほどから動く気配を見せない。私は商品の前出しと品出し作業をする手を止めた。うちのお店は住宅街の中心にあって駅からも十分圏内けんないだ。立地条件に恵まれていて、平日は通勤や通学のお客さんで混むはずなのに店内にお客さんはいなかった。最近は、お店に来るお客さんが前より少なくなった気がする。別の系列のコンビニ新店舗が近くにオープンするのは来週だから、今はまだその影響はないはずなんだけど……


 夕勤の仕事量も二人でやってギリギリ終わるぐらい多い。コンビニの仕事はもっと楽だと思っていたけど、実際はそんなことはなくて、負担は大きかった。友達にコンビニのアルバイトの話をする度に、「低い時給に見合ってないんじゃない?」と言われる。頭を振った。それはまた別の話だ。何が言いたいかというと、今はお店も暇なんだから巨乳が少し手伝ってくれてもいいのに。コンビニの仕事は基本的には二人体制で、一人がレジを見ながらフライドフードを揚げつつレジ周りを補充し、もう一人が掃除や品出し、発注といった業務をやる。当然、後者の方が肉体的にきついので、一仕事ごとに交代する。


 なんだけど、巨乳と組むとキツイ仕事は全て私の担当だった。

 入ってもうすぐ二ヶ月経つけど、私は未だに巨乳がレジから出るところを見たことがない。

動かざること山の如し。


 巨乳は絶対にレジを離れようとはしない。だったらせめて、フライドフードを揚げるだけじゃなく、POP作りをやって欲しい。お店に来てくれたお客さんに商品をPRをするための手作りPOPは、画用紙にイラストを描いたり、商品の美味しさを文章で書いたりと、アイデア次第でいろんなやり方がある。ヘルマート本部で作っている広告ポスターは手抜き感があって評判がよくない分、各店舗ともPOPに力を入れている。だけど、コンビニは毎週のように新商品が入るから、いくら作っても終わりがない。そんなPOP作りを若き店長に暇な時にやれと言われているけど、実際は勤務時間内にやる余裕がないからいつも私が家で作って来ていた。作らないと若き店長が怒るんだからね!

 今日こそはという思いで私は巨乳に歩み寄った。


「あ、あの!」


 不意に呼びかけられた巨乳は、遠くにあった焦点を手前に引き戻して私を向いた。正面で向き合うと、その圧倒的な大きさの胸がまず視界に入ってくる。胸から目を逸らしようがないほど自己主張して来る。まだ高校生なのに、女性は一生追いつけない差を見せつけられて自信を失って黙り込み、男性はその胸に喜んで全面降伏する。

「巨乳は巨乳枠で採用になったからな。仕事しなくてもいいんだよ」という不死鳥の言葉を思い出す。そんなことが許されていいわけあるか。

 巨乳の興味のないものを見るような視線をはね除けて、私は仕事の手伝いを頼んだ。


「レジ前の商品の品出しや、コピー用紙の補充とかだけでもやってもらえると助かります。お願いできませんか?」


 巨乳はギョッと目を見開いた。信じられないといった表情から直ぐさま私への非難の色へと変わる。


「忙しいから無理です」

「今は何もやってないじゃないですか」

「やってますよ」


 それはレジカウンター内の仕事はちゃんとやっているというアピール。


「手が空いているなら、他の仕事もやって下さい。レジが混んできたら私だって駆けつけているんだから、助け合いましょ?」

「はあ!?」


 巨乳が憤りの声をあげた。

 巨乳は私を指差す。


「誰のおかげで仕事に専念できてると思ってるんですか? 私がレジを見ているからでしょ? ズレたこと言わないで下さい」

「え?」

「誰も彼も本当に仕事の流れが見えてないからなー。あーヤダヤダ! 仕事が分かってるのは人間嫌いぐらいだし。品出し・前出し、掃除、鮮度管理、発注とか全部レジカウンターから離れないとできない仕事じゃん。この私がレジ放棄させてあげてるからそれだけに専念できてるんでしょ? レジを気にかける必要がないように私がカバーしてあげているのに! 私がもしもレジ離れたらどうなると思っているんですか? 守りがいなくなるってことですよ? 事の重大さに気づいていますか?」


 巨乳は一気にまくしたてる。それは一理あると思うけど、今はお店が暇なんだからちょっとだけ手伝ってくれてもいいじゃん。


「今みたいにお客さんがいないなら、レジのすぐ近くだけ見てくれるぐらい……」 

「甘いですよ! 奇襲を受けたらどうするんですか!? 相手を油断させたところを一気に叩くのは戦争の常道ですよ! 歴史を見て下さい。そうやって落とされた城がいくつあると思っているんですか? 油断大敵! どんなに敵が来なさそうでも警戒して守りを徹底しなくちゃいけないんです」


 城って、あんたは歴女か。さすがスピーチコンテスト出場の常連だけあって口が回るなぁ。


「本丸は私が守ります。だから新入りは安心して攻めて下さい!」


 ピンポーン

 自動ドアが開く音がして、振り向くとお客さんが入って来るところだった。お客さんは一直線にレジにやって来る。巨乳は「ほら、言ったでしょ?」という顔を私に向けた。

はいはい、分かりましたよ。私は諦めてレジを離れる。


「肉まんください」


 季節なんて関係なく中華まんはほぼ一年中置いてある。中年の男性客は迷わずにそれを求めた。私は、巨乳が肉まんを取り出すのを見てため息をつく。言ってる事は立派だけどさ、この子は「かしこまりました」や「いらっしゃいませ」とか挨拶もしないじゃん。自分がお局様みたいに思えて来て、諦めるのが正解だと思った。

 感情を殺していくのが長続きのコツなんだろうなぁ。


「ちょ、ちょっと!」


 巨乳の悲鳴に似た叫びにレジを振り返る。

 お客さんが頭を抑えて縮み上がっていた。


「お客様?」


 肉まんを手渡そうとして固まった巨乳が顔を引きつらせている。中年男性は悲鳴をあげた。


「や、やめて! 殴らないで!」


 中年男性は巨乳に背を向けて体を縮こませた。巨乳は怯えるお客さんにどうしたらいいか分からず固まったままだ。私も事情が飲み込めない。見た限り、巨乳が暴力を振るおうとしたようには見えないし。


「お客様、肉まんは要りませんか?」


 すると、お客さんはハッとして巨乳を振り返った。


「ください!」

「あ、どうぞ」

「ひいっ! やめて!」


 巨乳が手渡そうとすると、再びお客さんは身を翻して頭を守るように手で抱えて縮こまる。 巨乳が舌打ちして、急いでレジカウンター内の事務所に通じるドアを開けて若き店長を呼んだ。


「若き店長! 助けて下さい」


 若き店長は、顔だけ外に出して状況を確認すると、


「現場処理で」


 それだけ言い残して、ピシャリとドアを閉めた。


「若き店長? ちょっ……」


 巨乳が再びドアを開けようとするが、鍵がかかっていてドアは開かなかった。


「え? ど、どうして?」


 さて、私は次はジュースや酒を補充するためにウォークインに行くかな。レジには鉄壁の防御を誇る巨乳がいるから安心して攻めよっと。


「し、新入り!」


 巨乳の私を呼ぶ声が店内に響いた。


「何さ?」


 振り返って見た巨乳の顔は今にも泣きそうだった。なんだかかわいそうに思うのと同時に私はレジに向かっていた。


「お客様? どうしました?」


 笑顔を浮かべて縮こまっているお客さんに声をかけると、お客さんはまた何事もなかったように姿勢を正してこちらを向いた。


「肉まんが冷めてしまいますよ? 要らないんですか?」

「要ります」


 男性は即答した。私は巨乳に手を差し出して肉まんを受け取ると、お客さんに差し出した。


「やめて! 僕を殺す気ですか!?」


 男性はまた身を縮こませた。その表情は本気で恐怖しているように見えた。ふざけているわけじゃないみたいだけど何がなんだか分からない。それでも先日のオタクよりは分かる気がした。怖がっているんだったら、危害を加える気はないと伝えられればいい。

 私は、目の前の男性よりも視線が下になるように膝を地面についた。それから、見上げるようにして両手で肉まんを差し出す。


「お客様どうぞ。冷めたらおいしくありません」


 やっと男性の顔から恐怖の色が抜けた。男性は恐る恐る肉まんに手を伸ばす。そして肉まんに触れるとバッと勢いよく取った。


「ありがとうございました。またお越し下さいませ」


 お辞儀をしてお店を去るお客様を見送る。なんとかなってよかった。

 でもやっぱり助け合いでしょ? 巨乳もこれで分かってくれたはず。

 期待を込めてレジを向くと、何事もなかったようにそっぽを向いて立ち尽くす巨乳の姿が。

 えー? ブレないなぁ。ヘルマートのスタッフはあまりにも個性が強すぎるんじゃないの?

 ため息をついて私は自分の仕事に戻った。


 前出しと品出しを終え、鮮度管理をして廃棄を下げると残すは発注の仕事だった。夜十時の交代時間まであと一時間ちょいある。客足が弱いおかげでいつもよりは余裕があった。発注の仕事はおにぎりやお弁当、パンといった中心商品は基本的に店長がやり、私達アルバイトはお菓子やドリンク類といった消費期限が比較的長い物持ちの良い商品を担当する。事務所に置いてある発注機を取りにいくと、めずらしく若き店長が電話を中断して私を呼んだ。


「おい、取りすぎるなよ。いつもの八割くらいに抑えとけ」


 最近はお客さんが減ったからだと思った。店内に出てザーッと棚を見回す。おにぎりやお弁当、パンの棚もスカスカだった。この時間はもうすぐセンター便が来るから、商品が少なくてもおかしくないんだけど、今日のスカスカはまずい気がした。うちは午後五時ちょっと前にはセンター便が来て補充してあるんだから。本当なら今日みたいにお客さんがほとんど来ない日に、棚がガラガラになるわけがない。若き店長がいつもよりずっと少なく発注しているからだった。

 お客さんが減れば商品を少なく発注するのは分かるんだけど、それでどの棚もスカスカだとそれを見たお客さんは何もないなって思わないのかなぁ。良くない気がする。

 私は言われた通り、少なく発注することを心がけた。


「おいお前!」


 突然肩を掴まれた驚きで、発注機を落としてしまう。


「何やってんだ!」


 とっさに手を伸ばして空中で発注機をキャッチした男性は私を怒鳴りつけた。

 Yシャツを着て、首から身分証をぶら下げた男性は振り返った私を睨みつけて腕を掴んだ。


「しっかり持ってろ! いくらすると思ってんだ!」


 な、何この人?


「お前は新入りか?」


 男性は私に発注機を持たせると、身分証を突きつけてきた。


「エリア担当スーパーバイザー……?」


 初めて聞く職業だった。状況を理解していない私に気がついた男性は、私の頭を叩いた。


「俺がここの店を担当しているんだよ! とにかく偉いってことだけ覚えておけ。にしても、何だこの店の棚はスカスカじゃねえか!」


 声が一々大きいから近くにいると怖い。

 男性は私の頭をグイッと掴んで自分の近くに引き寄せて睨みつける。


「お前どういう発注しているんだ? ふざけてねえだろうな?」


 え? え? 


「おにぎりとかのこと言ってるんでしたら、私の担当じゃないです。それに若き店長には少なく発注しろって言われてますし……」

「あ!?」


 なんでこんなにすぐ近くで話しているのにこの人は声を荒げるんだろう。怖くて男性を直視できない。男性は怯える私の肩に手を回す。さっきから何回触られてるんだろ。何のこの人?


「若き店長はいるのか?」

「は、はい。事務所に」


 恐怖で頭がパニックだった。この人が嫌すぎて、顔を背け目をつむる。そうすることで、現実が変わると思ってただ怯えていた。自分がさっきの男性客と被ってハッとする。

 あの人もこんなに怖かったんだろうか。


「ちょっと来い!」


 男性は私を抱き寄せたまま連行して、バックヤードから事務所に向かった。

 事務所に入ると、私は初めて電話をしていない若き店長を見た。若き店長は、イスから立ち上がり背筋をピンと伸ばして最敬礼でSVを出迎える。


「SVお疲れ様です」


 SVは私の肩から手を離して解放すると、若き店長にそのまま歩み寄りこぶしを振り上げた。若き店長は顔面を殴打されてデスクまで吹き飛ぶ。背中から後ろに崩れ落ちて、苦悶くもんの声を上げた。


「わ、若き店長!」

「てめぇ、この野郎!」


 私の声をさえぎってSVが傍にあった休憩用のイスを蹴飛ばした。壁に当たったイスは鈍い音とともに穴を空ける。

 何なの? いきなりすぎてついていけないんだけど。


「なんだよこの発注は!? 俺のノルマに響くし、売り上げ下がってんだろうが? てめぇ、ふざけんじゃねえぞ!」

「す、すみません!」


 若き店長はすぐに立ち上がり、深々と頭を下げた。


「すみませんじゃねえだろう! てめえ、なめてんだろ? あ?」


 SVに胸ぐらを掴まれた若き店長は。両手を後ろに回してまた「すみません」と謝った。


「てめえよぉ! 謝ってどうにかなることか? てめえに責任取れねえだろ! 分かっててやってんだよな? 責任取らされるのは俺なんだよ! てめえ、追い込みかけるぞ!?」


 SVの怒声が事務所に響き渡る。若き店長は、ぎゅっと目をつむって歯を食いしばっている。


「す、すみません……」


 なんとか絞り出した弱々しい声だった。若き店長の手足は震えている。心底、目の前のSVを恐れているのが伝わって来る。


「どうしてくれるんだ? あ?」

「か、改善します!」


 若き店長は叫び声をあげた。SVは舌打ちして、若き店長から手を離して突き飛ばした。


「だったら、今すぐ発注し直せ! いつもの倍は取れ!」

「ば、倍ですか!? それはいくらなんでも廃棄になっちゃいますよ!」

「てめえが死んでもいいからなんとか売れや! 無理なら自分で買い込め!」


 SVは店長のデスクのイスを引き寄せて腰を下ろす。それから、立ち尽くしている若き店長を睨みつける。


「早くやれや!」

「は、はい!」


 若き店長は私に駆け寄って、発注機を奪い取るとすぐに発注を始める。全身に脂汗をかいていて、手足が震えている。こんな若き店長は初めて見た。


「おい、あと単価の高い商品をリストアップしといたから全部取れ!」


 SVがそう言って突きつけた用紙を受け取った若き店長は悲鳴をあげた。


「こ、こんなの売れっこない!」

「ああ!?」


 SVに凄まれても若き店長は抗議こうぎを止めなかった。


「うちの平均客単価の倍以上もある商品をこんなにとったら、赤字になっちゃいますよ! うちは加盟店じゃないんですからそこまで追い込みかけないでも……」

「てめえは事態の深刻さを分かってないんだよ! プライオリティーがあるのは、客単価の高い商品を客に買わせることだ! ここ二ヶ月ずっと売り上げが下がってんだぞ? さらに来週には近くに他のコンビニがオープンするんだから、対抗するにはそれしかねぇ! 今手を打たないでどうすんだ?」


 若き店長は口を開こうとして閉じ、それでもまた開きかけるけど、SVの睨みに耐えきれずうなだれた。それは諦めだった。

 電話がかかってくる。


「あ」


 SVと若き店長が反応を見せないので私が電話に出た。このお店の電話は、かけてきた電話番号が表示されるシステムなので、登録されている人の名前が画面に表示される。

 同じアルバイトの普通からだった。


「おはようございます。普通ですが、新入りはいますか?」

「おはようございます。私が新入りです」

「ああ、新入りか。ちょうどよかった。明日の朝勤代わって欲しい」


 この場にそぐわない普通の用件にため息がもれそうになる。


「僕は明日提出するレポートがまだ終わらなくてヤバいんだ。お願いだよ」

「私も明日は早いんですけど……」


 明日はめずらしく午前中は講義の休みが重なって空いたから、友達皆で野球部の試合を見に行こうって約束してた。カッコいい先輩がいるのだ。


「お願いだよ。新入りしかいないんだ」


 一瞬、頼まれれば絶対に断らずに駆けつける守護神が頭に浮かんだ。だけど、そうやって人に押し付けるのには抵抗があった。


「……分かりました」

「ありがとう。よろしくお願いします」


 電話を切ると、若き店長とSVの視線が私に注がれる。


「普通に代わって明日の朝勤に出ることになりました」


 二人は返事は返すことなく私から視線を外した。


「仕事戻ります」


 若き店長の背中に哀愁を感じながら私は事務所を後にする。


「おい」


 バックヤードのドアをくぐろうとした所で、SVが後を追いついて来た。反射的に体が震えて身構える。SVはまた私の肩に手を回して抱き寄せると、自分の名刺を手渡して来た。


「今日はちょっと驚かせちまったけど、これも店のためなんだ。お前が頑張ってるのは分かったからよ。何か困ったことがあったらいつでも俺を頼っていいから!」

「は、はぁ」

「今度食事でもしながら相談に乗ってやるから。後でメールよこせ」


 ええ!?

 返事を待たずにSVは引き上げていく。誰も悩みがあるなんて言ってないのに。名刺をポケットにしまって、ため息を吐きながら店内に戻った。お店にお客さんの姿はない。事務所に自動ドアが開く音が聞こえなかったから、分かっていたことだけど。こんなにお客さんが来なくて大丈夫なのかな?


 レジでは巨乳がレジ内の金額が合っているかレジ点検をしていた。

 もうすぐ交代の時間になる。今日の準夜勤はお坊ちゃんと留年だ。

 ピンポーン

 自動ドアが開くと、守護神が入って来た。

 あれ? 今日は守護神だったっけ?


「おはようございます」


 守護神と目が合う。守護神は私の顔を見て胸の内の疑問に気づいてくれた。


「ああ、留年に代わってくれと頼まれたんですよ」


 また代わったんだ。本当に断らない人だなぁ。この人はどこか風格すら漂わせている。すごい人だ。自分がさっき普通に頼まれた時に丸投げしないでよかったと思った。


「あいつしばらく戻って来れないですよ」


 守護神はニヒルな笑みを浮かべる。


「実家に大学の前期取得単位がゼロだったのが通知されて、親に呼び出されたんですよ」


 ええ? 前期単位ゼロって何それ?


「終わったな、あいつ」


 年下でも敬語を使う度量どりょうの広さを見せるのに、人を見限るのが本当に早い!

守護神のすぐ後にひょろひょろのお坊ちゃんも出勤して来た。


「おはようございます」


 通り過ぎざま、眼鏡の鼻を指でクイッと持ち上げる。男喰いの本命と噂されるお坊ちゃん。あれから男喰いとお坊ちゃん、天下取り、バイトリーダーの四人の関係はどうなっちゃったんだろ? あの男喰いならうまく立ち回れそうな気がするけど、この男達三人がうまくやれるとは思えない。今のところ、男達三人のシフトが重なることはないけど、いつ爆発してもおかしくない爆弾を抱えているのに変りはない気がする。

 守護神とお坊ちゃんが着替えてレジに出て来ると、巨乳はレジ点検のズレがないことを報告した。


「SV来てたんですね」


 お坊ちゃんが、おっかなびっくりと事務所に通じるドアをちらっと見た。


「私、今日初めて会いました」


「めずらしいじゃん。だいたい週に一回は会う頻度だよ」


 そっか。私は今まで運がよくて、今日とうとう運が尽きたんだな。

 制服のポケットにしまった名刺が重い。


「今フライドフードを揚げようとしたんですけど、スカスカじゃないですか」


 守護神の声に私達は反応した。守護神はフライヤー機の真下にある、小型冷凍庫を開けていた。


「今日は暇そうなのに補充しなかったんですか?」


 本来ならそれは、フライドフードを揚げ続けてた巨乳の仕事だった。


「すみません。うっかりしてました。今やります」


 でも仏頂面の巨乳が謝るわけないので私が頭を下げた。


「今日もフライドフード揚げてたのは巨乳ですよね? やらなきゃダメですよ。準夜勤の短い時間じゃなかなか商品補充する余裕はないんですから」


 しかし、ベテランの守護神にはお見通しだったみたいだ。けれど、注意された巨乳は返事をしないままそっぽを向いている。

 ああ、もう!


「ごめんなさい。今度から私が―――」

「ったく、ビッチが」


 守護神の口から漏れた言葉に私は固まってしまう。見れば、巨乳が顔を上げて守護神を睨みつけていた。


「ああ、いいですよ。やっときますから。お疲れ様です」


 守護神に悪気はなかったのかもしれない。それは自分で確認するようなつぶやきだったから。だけど、巨乳は最大の侮辱だと受け取った。


「今なんて言ったんですか?」


 巨乳に詰め寄られた守護神は何事かと戸惑いの表情を見せた。やっぱり、本人に悪気はなかった。人を見限った時の口の悪さも守護神の特徴の一つだから。

 おまけに昔気質むかしかたぎなところがあって、とくに女性に厳しい。


「ひどい侮辱ですよ! セクハラ用語! 女性の敵!」


 歴女でスピーチコンテスト常連の巨乳が黙っていられるわけがなかった。守護神は顔色を変えることなく、「アバズレですね」と呟いた。


「な、何ですって? ちょっと裏に来て下さい!」


 ピンポーン

 お店のドアが開いてお客さんが入って来る。ドアからお店の外を見ると、こちらへ向かって来る人だかりが見えた。このタイミングで混み出すわけ?

 守護神と巨乳に視線を戻すと二人はバックヤードに入っていくところだった。もう私は上がる時間なんだけど……横にいるお坊ちゃんを見ると意に介さないどころか眠そうにあくびをしている。


 ええ?

 私は頭を抱える。あ〜明日朝六時には出勤だよね? というか早く友達に行けないって連絡しないといけないのに。


「あ〜もう!」


 私はレジ側のドアから事務所に入って、タイムカードを切ってレジに戻る。店内は早くも混雑を見せ始めている。もうすぐセンター便も来る。私はサービス残業の覚悟を決めた。

 その後、守護神と巨乳は三時間後の準夜勤終了時になっても口論は終わらず、心配になって迎えにきた巨乳の両親が間に入ってやっと収束した。私はつまり三時間ただ働きだった。

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