○コンビニに戦士が帰還するまで(繁忙期)
大学の学食が美味しくなくても文句を言う奴はいない。
元々期待していないし、値段が安くて量が多いのが売りだからだ。
それに味は正確には美味くも不味くもない。
三年前の入学当初の記憶を思い出して、生姜焼き定食に箸をつけた。
美味しい。
肉を一口食べた途端、頭にこれまでのコンビニ食の日々が走馬灯のように浮かんだ。
ヘルマートでアルバイトを始めてから間もなく、一日二食以上がヘルマートだった。
「てめえが発注したんだからよ! 売れなかった商品をできるだけ買っていけよ」
発注と言うのは、本社がお店に商品を先に買わせることだ。もちろん、仕入れ値ではあるがお客さんに売れる数が分らないのに買わされるのは、売れなかった時のことを考えるとリスクがある。だから廃棄になってしまったら完全なマイナスなので廃棄は出したくない。
ちなみに本社は仕入れさせるだけで儲かるから、お店が傾いても全く響かない。それこそが親元がブランド名と商品を貸すフランチャイズ契約の強みだ。だからSVは強引に各店舗に発注させようとする。うちは直営店だから加盟店とは状況が違ったけど、研修のために一年間限定で派遣されて来たどの店長も廃棄に関して言う事は同じだった。
自分が発注した商品棚の売れ残りは廃棄前にできるだけ買い取ること。
皆が皆それを守ってはいなかったけど、俺はいつも翌日の朝飯や昼飯の分まで買っていた。
勤務年数を重ねるうちに、食がどんどん細くなっていった気がする。うちの店のおにぎりや弁当、サンドイッチ、パンに至るまで
不味いのだ、どうしようもなく不味いのだ。朝と昼の一日二食ヘルマートなんて地獄でしかない。弁当のおかずは乾燥しきってるし、ごはんはベタベタしてる、おにぎりの具は少ない、サラダやスープ、サンドイッチは腐る寸前の食材を冷凍して使い回しているのではないかと思うような味がする。
パンにいたっては、生地がパサパサしてるのと具が少ないだけならまだいい。最悪なのは、そりゃ売れねーだろというような変な具との組み合わせばかりが発売されることだ。
チルドドリンクも同じで、悪ふざけとしか言いようのない味の新商品をいつも発売する。ヘルマートの体育会気質による、上司の理不尽にストレスが溜まっているだろうヘルマート商品開発部の悪意は、お客や俺達スタッフに向けられているんだ。それはまるで、新商品十個開発するなら、売れない・不味い・体に悪いの三拍子揃った商品を一個混ぜてやろうというような子供じみた悪戯。
とっくにうんざりだった。
直営店だから売れるわけがないと思う商品でも発注せざるをえない。発注ノルマを達成しようとするSVに後輩社員が逆らえないからだ。
発注する時はいつも自分が吐き気を抑えて、食べる・飲む姿をイメージする。食欲はどんどんなくなり、ここ半年は一日二食も食べたくないと思うようになっていた。
三年ぶりに食べる学食はあまりに美味しくて、感動で手が止まっていた。
ヘルマートの弁当と比べて値段は安いし量も多い。さらにこんなに美味しいなんて。
「生きてて本当によかった」
気を張らないと今にも泣き出しそうだった。
辺りを見回す。大学は夏休みも終わり、今日から後期が始まった。食堂は多くの学生で賑わっている。
「やり直そう」
自分の人生を取り戻すんだ。今までがずっと間違っていたんだ。
「ど、どうしたの?」
目の前のイスが引かれる音と人の気配に顔を上げる。
パスタセットをテーブルに置いたロングヘアの女の子は俺の彼女だった。
「なんで泣いているの?」
彼女は驚きの声を上げて俺の顔を覗き込んだ。
慌てて袖で涙を拭って「なんでもないよ」と伝える。
すっかり涙もろくなってしまった自分が情けないと思った。ヘルマートでの日々は、体だけでなく心も追い込んでいたのだと痛感した。あのままあそこにいたら、壊れていたに違いない。
目の前の彼女の微笑みに安らぎを感じる。自分がやっとあの戦場から離れられたのだと思うと、また感情が昂ってしまう。
「会うの久しぶりだよね〜インターンどうだった?」
パスタをフォークでクルクル巻きながら、彼女は良い報告を微塵も疑わないと言わんばかりに微笑む。良く笑う女だった。そこに自分は魅かれたのだ。付き合って二年が経つけども目の前で沈んだり泣いたりした顔を見た事がない。戦場で消耗しきっていた自分は、女の子の笑顔の可愛らしさを求めていたのだ。
「内定もらったよ」
「本当!?」
俺の報告に、彼女は声を高らかに上げた。ガヤガヤうるさい食堂中に一際響く声だった。周りの視線に一瞬、気まずそうな顔を見せながらも彼女はすぐに声のトーンを抑えて続きを促した。
「インターンに採用してもらった人にすごく気に入ってもらえて、これからも卒業まで週に三日ぐらい手伝いに来いって言ってもらえた。時給換算で給料も出してくれるらしい」
「すごーい! そんなこと言ってもらえる人って現実にいるんだね。いーなー、私は普通に終わっただけだよ」
俺と同い年の彼女もこの夏はインターンシップだった。でも俺のような例は珍しいことだから、彼女が落ち込む必要はないのだ。
「第一志望の企業だったから本当によかったね。おめでとう」
それでも俺の事を一番に喜んでくれる彼女が愛しいと思った。これまでお互いにアルバイトをしているのもあったし、ヘルマートのランダムで増える勤務日数で一般的なカップルよりずっと一緒に過ごす時間は少なかった。彼女はいつも俺の状況を理解してくれて不平不満を言う事がなく、こんな俺のどこがよかったのか変わらず好きでいてくれた。
本当に、男にとって都合のいい女だ。
え?
とっさに浮かんだフレーズに驚いた。
俺は今なんて言った?
「でもさ、ヘルマートのアルバイトあるじゃん? 被っちゃわない? 若き店長はシフト減らしてくれる人じゃないでしょ?」
彼女の心配そうな声に引き戻された。
「あ、ああ。それなら大丈夫。もう辞めたんだ」
頭を怪我して三週間が経ったので、包帯も取れた。だから彼女は俺に起きた事に気づくことはない。彼女もインターン中だったから、心配をかけたくなくて黙っていたのでなおさら知られる事はない。
「インターンシップが終わっても、その会社のアルバイトに応募しようと思っていたから前々からお願いしていたんだよ」
適当な嘘をついても、彼女は訝しんだりしない。俺の言う事は無条件で信じるのだ。愛した男を疑うのは女の恥だと思うような子だから気を遣う必要がなくて楽だ。
「そうなんだ。じゃあ、これからは一緒にいられる時間が増えるね!」
彼女は本当に嬉しそうに微笑む。
その笑顔を見て彼女を抱きしめたくなる。
女は俺の心にさざ波を立てることなく、隣りでただ笑っていてくれればいい。
しょせんそんなもんだろ。
まただ……
ちょくちょく思考にノイズが混じってしまう。なんだこれは?
「ねえ、じゃあお祝いに今日ごちそう作りに行こっか?」
目を輝かせ満面の笑みを浮かべる彼女に、罪悪感を感じながらも俺は作り笑いを浮かべて頷いた。
午後の講義は経済学史だった。
一番単位が取りやすい講義のため、学生に人気で大教室は満席で埋まってしまう。それでも三分の二ぐらいの出席率なのだ。もしも全学生がサボらずに出席したら立ち見ができる。俺は今日も最前列に座っていた。単位が取りやすいだけで、講義の内容はさほど面白いわけではないので、開始十分前に教室に来れば余裕で確保することができる。出席も取らない講義なのだが、それでも学費を払っているのだし、教授から学ぶことがたくさんあるからサボったことはない。
講義開始のチャイムが鳴って五分ほど経ってから教授が教室に入ってくる。一般の会社ならとっくに定年退職している年齢だが、教授という仕事に定年退職はない。教授は挨拶もほどほどに自分が執筆した本を開いて、黒板に板書していく。大学ではどの講義もたいていは教授の本を教科書にする。自身の考えを伝えやすいことと同時に、一冊二千円以上もする本を学生に買わせることで自身も印税を得ることができるからだ。
九十分間の講義。
教授は休まず黒板に板書していく。
あの年齢で自分の教科書を黒板に書き写していく作業は、とても体力を使うだろう。なんてエネルギッシュな方なんだろうか。
教授は上下二枚の可動式黒板を使い、一枚目を埋めたら入れ替えて、二枚目に続けて書き、二枚目を書き終えたら一枚目と入れ替えて、先に書いたことを消してまた続けて書く。また一枚目が埋まったら、二枚目と入れ替えて先に書いたこと消してからまた書く。ひたすらその繰り返し。俺達学生は、教授が黒板に書いたことを消す前にノートに書き写していく。教科書と全く同じ内容をノートに書き写していく。
パキッ
力を入れすぎてノートに書き連ねていた鉛筆を折った。
なんだこれ?
講義の意味あるのか?
ふざけんじゃねえぞ、ぼったくりじゃねえか!
しかもこの講義ってテストの時に教科書持ち込み可だったよな?
はぁ?
怒りの感情が体を支配していく。
俺はノートを閉じて、荷物をまとめると飛び出すようにして教室を出て行った。
教授は板書に夢中で俺の退出に気づかない。
ただでさえ、講義中後ろを振り向くことなんてほとんどない人だった。
「くっそ!」
棟を出てすぐ近くのベンチまで行くと、鞄を乱暴に置いて腰掛けた。
自分でも驚く。今まではずっとなんとも思っていなかったことではなかったか? 何故今日に限って、こんなに怒りを覚えるのだろう。嫌なことがあってイライラしているから? 逆だ。解き放たれて喜びに満ち溢れていたじゃないか。
自分がおかしくなっている。今日は三限目でもう受講している講義はなかった。もう帰ろうか。怪我が直りきらないまま、インターンシップを乗り越えた疲労がまだ残っているのかもしれない。鞄を取ると校門に向かう。途中、図書館を通り過ぎる時に、建物の前でたむろしている学生達が視界に入った。
四、五人がだべっている。この大学ではどこでもありふれた光景だ。
男達はぽかんとした表情で虚空を見つめている。死んだ魚のような目で、雲の動きを観察しているようだった。誰もがズボンを尻が見えるまでにずり下ろしているのは、この大学の流行のファッションだ。
汚ねえパンツを見せられるこっちの精神的被害を考えろってんだ。損害賠償で訴えて勝てるかな?
彼らは薬をキメているわけでもないのに、呆けている。
「暇だな〜」
「やることねえよな〜」
またいつものお決まりのセリフを聞かせてくれる。
なんなんだこいつらは? この大学では、親の仕送りと奨学金があるからバイトする必要がない彼らのような学生が大半を占める。親に負担をかけないため、勉強に集中するため、では断じてない。遊ぶためだ。その遊びも何年も続けているから次第に飽き飽きしている彼らは新しい刺激を求めているがそれはなかなか見つからない。そんな怠惰の中にいる。
当たり前だろ! 苦しいこと辛いことめんどいことから逃げ続けて楽しいこと面白いことだけやってたら、実はそこまで没頭できないもんなんだよ。そんなこともまだ分からねえのか! こいつらは見ているだけでむかつく!
頭痛が走る。
「くっ」
どうしちゃったんだろう俺は? 今までずっと見てきたことじゃないか。なんでこんなに敏感に反応しちゃうんだろう?
大学の時間は時々あまりに長く感じる。ゆったりとした時間の流れ、緊迫感のない空気に居心地の悪さを感じてしまう。生きるか死ぬか、潰すか潰されるか、あの刺激に満ちた戦場は苦しいだけだった気がしたけど、戦っているという充足感があった。
それだけは間違いない。
しっかしりしろ。今日は彼女が家に来てくれるんだし、早く帰って部屋の掃除して勉強しなきゃ。今週からアルバイトも始まるんだし業界についてもっと知識を増やさないといけないから。今度はまともな所だ。会社は福利厚生がしっかりしているし、残業手当も出る。何よりも社員の仕事に対する意欲の高さと責任感の強さはヘルマートと比べ物にならない。
ヘルマートの社員達を見ていると、やらされ感しか感じない。成績が悪いと上司に怒鳴られ殴られるから仕方がなく、だ。あそこでは仕事を楽しんでいる者に出会ったことがない。食っていくために仕方がなく、誰もがアルバイトの延長で働いているようにしか見えない。社員なんかより加盟店の店長の方が、自営業だから覚悟を決めていて苦しさと戦っているからカッコいいよ。通称・奴隷契約を結ばされているからかわいそうな気がするけど……ああ、あそこは本当に地獄だ。
ヘルマートの社員と比べて、今回内定をもらった会社は競争も激しいけど、社員の皆がそこで働いていることに誇りを持ち、会社を良くしようと燃えている。そうでない人は自然淘汰されていく厳しさはあるけど、それこそ会社ではないか。
駅のホームに上がると、この時間はうちの大学の学生しか見えなかった。都内から遠ざかったこの駅には、うちの大学といくつかの高校しかない。この時間だと高校はまだ下校時間ではないので、必然とそうなる。
自動販売機でコーヒーを買おうと歩いていると、見知った奴らと目が合った。
「あ」
俺に気づいたその数人の男は会釈をした。死んだ魚のような目とパンツが見えるまでにズボンを下ろしたファッションは、彼らにも浸透している。それに合わせてこちらも会釈をする。大学二年時まで在籍していたサークルの後輩だった。俺がヘルマートのバイトが忙しくなりすぎて辞めてしまってからも、会う度に社交辞令をやり合うぐらいの仲を維持しいた。
「もう帰りですか?」
聞かれて「お互い様じゃん」と笑った。
「たりいっすよね〜休みなんてあっという間ですよね」
二ヶ月近くもある夏休みをあっという間と言えるのはおかしいだろ。そこまで何かに打ち込んだのか?
「全然遊び足りなかったです」
「海もっと行きたかった」
「サークル合宿最高に楽しかった」
あ、そう。否定はしないけどね。別段、貧富の差があるわけでもないし、お互いに特殊な才能があってそれを活かしているわけでもないのに、同じ世代でここまで住んでいる世界の違いを感じることがあるんだな。
ったく、つまらねえ奴らだ。
違う! 何言ってんだ俺は?
まだ大学三年生でもないんだから遊ぶのは当然だし、大学生なんかそんなもんじゃないか。いや、でも俺は一年の時でも……だから、関係ないんだって!
「先輩?」
後輩達の心配そうな顔にハッとする。また思考が迷走していた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、実はちょっと具合が悪くてさ」
やっぱり疲れているんだと思う。
「働き過ぎなんじゃないですか?」
後輩の一人が場を和ませようと笑った。
「先輩はまだヘルマートでアルバイトしているんですよね? あそこってどこの店舗もアルバイトするのがキツイって評判ですよ。よく続きますね」
いや、もう辞めたけどね。
「そういえばあいつは辞めたんですよね?」
あいつと振られて、すぐに一人しか顔が浮かばなかった。
バックレだった。
ヘルマートをバックレた男。
そもそもあいつがバックレたことで、俺はそれまで以上に追い込まれてしまったんだった。
バックレは彼らと同じ二年生で、俺と同じ大学だった。彼らのグループに属していたから、バックレがヘルマートで働くようになる前からお互いに顔を見知っていた。バックレとは当然、もう連絡も取っていない。いつもつるんでいたこいつらと一緒にいないのに不自然さを覚えた。まさかバックレた罪悪感で自殺してないよな?
「あいつは今日休みなのか?」
恐る恐る聞くと、意外な答えが返って来た。
「まだ寝てるんじゃないですかね?」
それを聞いて、まさか引きこもっているのか? と連想してしまう。あいつはそんなにだらしないイメージはなかったから。
「あいつホスト始めたんスよ」
バックレの奴がホスト?
「あいつんち、親の仕送りが少ないからヘルマート辞めたのはいいけど、このままじゃ生活できないらしいんスよ。だから次のバイト探さなきゃってあせってたんですけど、今度はもっと楽でお金をもらえる所がないかなって言うもんだから……ほら、あいつって顔が良いじゃないですか? 夜の仕事の求人だけが載ってるフリーペーパー渡したらマジで応募しちゃって、働き始めてからもう三週間ぐらい経ちますね。上手くやってるみたいです」
まじか。
「今までコンビニでバイトしていたのがバカらしいぐらいお金は稼げるし、女にモテるし、良いことばっかだって喜んでました」
あっそう。
話しているうちに電車が来た。ホストに打ち込んだあまり学業に興味なくさないといいけどな。無事にやっていると知って安心する気持ちと、あいつの要領の良さに苛立つ気持ちが交互に胸に広がった。まぁ、同じく辞めた俺が何かを言える立場にないわな。
×
コタツと同じくらいの面積と高さしかないちゃぶ台は、食事と勉強にパソコン作業の兼用だ。面積一杯に並べられた料理は、一人暮らしの男子ではめったにおめにかかれない華やかさをかもし出していた。ハンバーグと海老フライ、チーズドリア、手作りマルガリータ、シーザーサラダ、コーンスープ、ワインボトルや瓶ビールはどれも俺の好物だ。一人どころか二人でも食べきれない量の料理を前にして俺は彼女と向き合っていた。
「作りすぎじゃない?」
「残っても後で私が食べるから」
ニコニコしながら俺の顔を見つめる彼女は、待ちきれなさそうにソワソワしていた。言葉が欲しいのだ。それを察して俺は口を開く。
「こんなに大好物ばかり作ってくれてありがとう。すごく嬉しい」
彼女の笑みがまるで蕾が一気に花開いたように弾けた。
俺はスプーンを手に取って、コーンスープを一口啜った。彼女はまだ手を付けずに俺を見つめる。
「美味しいよ」
今度は桜が満開になったような華やかな笑みを浮かべた。
母親のしつけが厳しかった彼女は、炊事や洗濯、掃除といった家事全般をそつなくこなす。何よりも自分が一歩退いて男を立てるようにしっかり教育されていた。俺が一通り料理に手をつけるまで彼女は黙って見ている。俺が何の問題もなく「美味しい」と言い終わってから、彼女はやっとスプーンを手に取った。
世間一般ではできた女と言うんだろう。そして男にとっては、妻として迎えるなら理想の女だ。
つまらない。
彼女の容姿は好みだし、家事は進んでやってくれるし性格も良い。それら全てが今日はここまで気持ちを萎えさせるのはどうしてだろうか?
今まで彼女と一緒にいてこんなに気持ちが沈んだことはない。俺自身に彼女に対してやましいことがあるわけじゃない。
ハンバーグを一切れ口に入れる。
正直、感動することはなかった。昼間の食堂で学食を食べた時はあんなに感動したのだが、学食なんかよりはるかに美味いはずの彼女の料理に何も感じない。
くっそ、やっぱり今日は調子が悪いのか?
まだ精神的に回復していないのかもしれない。
しっかりしろ。
自分が苦しんだヘルマートからは足を洗った。
お金の心配はない。バイト漬けで遊ばなかったから、昔からの貯金と合わせて二百万以上ある。
就活の大変さを味わうことももうない。三年の半ばで、第一志望の内定をもらえたし、これからはそこでアルバイトをさせてもらえる。
もう寝る時間や遊ぶ時間を削って勉強をしなくていい。アルバイトの負担が減ったことで学業にも専念できるようになり、キャンパスライフを楽しむ余裕もできたから。
食事だって、強制的に食わねばならなかった不味いコンビニ飯ともおさらばできた。
そして、自分にはもったいないぐらいの可愛い彼女もいる。
俺が高校時代に憧れた大学生活の全てを手に入れているはずなのに。
なんで、全く嬉しくないんだ?
「ねえ」
長い沈黙を彼女が破った。
「ゴールデンウィークどこか行かない? 会社も休みになるでしょ?」
「あ、ああ。そうだな」
彼女を見ると笑顔に少し曇りが見えた。俺の様子のおかしさに気づいたのだろう。彼女の視線に居心地の悪さを感じて、テレビのリモコンに手を伸ばした。
「なんか旅番組とかやってないかな?」
会話を打ち切るための逃げ口上だった。
「次のニュースをお伝えします。本日ヘルマートが日本国内二万店舗を達成しました。これで合わせて全世界三万五千店舗を達成したことになります」
横のテレビに映ったのはまさかのニュースだった。
「これでヘルマートは店舗数で、国内コンビニ業界のトップに立ちました。CMの後はヘルマート社長の独占インタビューを放送します」
「まじかよ?」
驚きが先にあった。去年のこの時期の店舗数からわずか一年で五千店舗も増やしたのか? やりすぎだろ。
「すごいことなの?」
彼女がとぼけたことを言う。無知なのは恐ろしい。
「いいか? 今の時代、コンビニは国内だけに留まらずアジアを始めグローバルに店舗を拡大し続けている。世界一コンビニがある日本では、とっくに市場はパンクしかけていて他社同士が喰い潰し合っているのが現状だからだ。では日本にあるヘルマート以外の各コンビニチェーンの店舗数はどれくらいだろうか? 答えはおよそ一万店舗〜一万五千店舗だ。店舗数の多さは業界一位から順に減っていくのは想像できるよな?」
彼女は頷く。
「あとは海外にバラけて店舗を作っていくんだけど、これは市場だけで言うなら日本よりずっと広いからか他社同士で食い潰し合う危険は低いかもしれない。その代わり、外国に工場を作って商品開発、流通から販売と一からコンビニシステムを作るわけだから先行投資で、何年かは赤字続きになる。だから長期スパンでの黒字化を計画せざるを得ない」
「じゃあ海外のコンビニの店舗数は各社ではどれくらいなの?」
「上位はそれぞれ一万〜一万五千店舗ぐらいだな。韓国・台湾・中国・タイ・ベトナム辺りが多い。アメリカやヨーロッパにもわずかだか存在してはいる。海外の店舗数では、各社それぞれ差はあんまりないよ」
ここまでで彼女は気づいただろうか?
「じゃあ、ヘルマートが国内二万店舗ってすごいね。業界二位と五千店舗も差があるなんて」
「ヘルマートは業界一位じゃない」
彼女が「え?」と声を上げた。そこなんだ。それがヘルマートが地獄のコンビニチェーンと呼ばれる
「さっきも言ったけど普通、店舗数は業界一位から順に下がっていく。そうじゃないとおかしいよな? 業界一位じゃないのに店舗数が一位だったら? 商品はそこまで売れていないのに店舗数だけはダントツに多いって意味はどういうことだ?」
しかもそれが国内で他社より五千店舗も多いことが意味するのは?
次第に彼女の俺を見る目に恐怖の色が伺えた。俺も背筋に冷たいものを感じる。
テレビでは、CMが終わってヘルマート社長のインタビューが流れる。インタビュアーが日本での店舗数を一年で五千店舗も増やしたことを危惧して質問していた。
「業界一位になるためには今が攻め時だと考えて決断しました。昨年度は激動の年でした。そしてそれはこれからも続きます。この大攻勢によって、社員も加盟店の店長も今年度は昨年度以上の競争を強いられ、苦労するでしょう。ですが彼らあっての会社なのです。昨今、アメリカのような個人主義を見習い、プライベートを優先すべきだと言う声もあります。ですが、我々はルーツを思い出すべきです。我々日本人は武士の血を継いでいるのです。武士とは忠誠を尽くすものです。そこに喜びを見出し、誇りを持つのです。会社のために社員や加盟店の皆さんが苦労することが会社を大きくするのです。そしてそれは彼らの生活を守ることになるのです。私は断腸の思いで言います。会社のために苦労して下さい。会社を支えて下さい」
もうすぐ定年を迎える年齢の人の良さそうな顔をした男は、ソファに腰掛けて自分の口ひげをを指で触りながら微笑んでいた。
「店舗数を増やしたんだったら、売り上げも上がるね」
俺は彼女に向き直った。的外れなこと言ってんなぁ。
「このままじゃ、同じヘルマート同士での食い潰し合いが加速度的に起きちゃうんだよ!」
答える俺の感情は昂っていた。これからヘルマートに起こることを予想して危機感を抱いている。もう何の関係もないはずなのに、まるでそれが自分にのしかかろうとしているように思えた。
それなのに。
どうしてか分からない高揚感が全身に回り、俺は今日初めて楽しいと感じていた。
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