○コンビニに戦士が帰還するまで(転換期)

 若き店長はイスに深くもたれかかっていた。

 俺を見上げる目は相変わらず死んだ魚のようだが、その瞳からは強い憤りの色が覗けた。

 間違いなく若き店長は怒っていた。

 怒る理由が分かっているだけで二つあった。


 一つ目は、サポーターと一緒に過ごしている時間を邪魔されたこと。若き店長は俺に呼び出されてお店に戻って来た。「明日にしろ」という若き店長の話を今回だけは「どうしても今日中に話がしたい」とかたくなに譲らなかった。

 そして二つ目は、今俺が言ったことだ。


「今日でヘルマートを辞めさせて下さい」


 それに対して、「分かった」の一言ですむとは思っていなかった。けど、若き店長がこれほど怒ってしまうとは想像できなかった。


「もう一度言ってみろ」


 若き店長の声は震えていた。俺は目をらさずに自分の気持ちを告げた。


「もうヘルマートについていけません」


 若き店長についていけませんと言わなかったのは、彼のやり方がヘルマートのスタンダードなやり方だと知っていたから。彼を責めても意味がない。だからヘルマートそのものについていけないと気持ちを表明した。

 ドンッ

 若き店長はデスクを力一杯叩いた。

 反射的にビクッとすることもできないぐらい自分の気持ちは沈み、体は萎えていた。

 若き店長は、寝不足で充血した目をクワッと見開いて俺の顔を覗き込んだ。


「てめぇっ! 自分のシフトを投げ出すのかよ! 無責任にもほどがあるじゃねえか!」


 それについては返す言葉がない。悪いと思っている。だけど、常識や責任を思っても、心に何も沸かなかった。

 ズキッと頭に痛みが走る。

 これ以上、ここで働くことを心も体も拒否していた。

 俺の沈黙に、若き店長は苦々しい表情を浮かべて舌打ちする。


「次のバイトリーダーはお前だと思っていたのによ! せっかく目をかけてやってたのによ!」


 男喰いに夢中なバイトリーダーの顔を思い浮かべた。

 遅刻して来ても謝らない、めんどくさい仕事は人に押し付ける。自分がシフトに入っていない日でも、男喰いが働いていればお店にやって来て居座る男だ。


 バイトリーダーになっても給料は上がらないし、本来なら他のアルバイトのシフト管理や発注、販促物の制作、新商品やキャンペーンの展開など必要以上に責任を負わされる。シフトじゃない日も給料が発生しない状態で、お店で働かなくてはいけない。今のバイトリーダーはそれを、頼まれたら断らない守護神や断る度胸のないバックレに押し付けていた。


 今のバイトリーダーのように振る舞えるなら、ここでの仕事はグッと楽になるかもしれない。だけど、逃げ出したバックレやここまで追い込まれた自分を思うと、第三、第四の犠牲者を出すことになる。そんなこと自分にできるわけがない。良心が耐えられない。


 自分がバイトリーダーになれば、全ての責任を投げ出すことはできないまま、一週間毎日お店に来て半分は給料なしで働くことになるのは目に見えていた。

 気がつけば視界がにじんでいた。

 頬を熱い液体が垂れ落ちていく。

 感情がせきを切ったようにあふれ出す。


「お願い……します、もう……辞めさせ、て、下さい」


 ポタポタッポタッ

 涙が床にこぼれ落ちて行く。


「てめえっ!」


 若き店長は勢い良く立ち上がった。涙で若き店長の顔は見えなかったけど、怒っているのは分かった。殴られるのかもしれない。でも殴られても辞めることができるならそれでいい。

 ズキッ

 頭に痛みが再び走る。お店に来るまでは比較的静かだった痛みは、ここに来て騒ぎ出した。

 思わず片手を痛みの発する箇所に伸ばした。

 十三針縫う大ケガだった。

 一週間前の日曜日を思い出す。



 ATMをレンチでひたすら殴り続けるガテン系の男。

 ヘルマート一の巨体を誇る深夜勤務の守護神は、メンタルの弱さという弱点を持っていたため、こんな時はオロオロして対応できない。準夜勤務上がりの俺は、放っておけなくて飛び出してしまった。


「お客様どうなさいました?」


 ガテン系の男は俺の声なんか聞こえていないようで、レンチでATMを殴るのを止めなかった。画面はいくつも大きく穴を開けて真っ暗になり、めった殴りにあっている頑丈なボディーには亀裂が走っていた。

 ピーピーピー

 異常事態をセキュリティ会社へ連絡するブザーが鳴り出した。


「お客様!」


 ブザーはかえってガテン系の男の激情に油を注いだようで、男のレンチを持つ手に一層、力が入った。


「なんでお金が下ろせねえんだよ! 下ろせねえならこんな機械いらねーだろーが!」


 男の口からアルコールの匂いが伝わる。

 日曜日だとATMで下ろせないカード会社または銀行が確かにあった。

 もう日をまたいでいるので、日付的には月曜日なんだから朝一でお金を下ろせばいいのに!


「お客様止めて下さい!」


 守護神の方を見ると、青ざめた顔をしてオロオロするだけだ。その巨体があるなら、飛びかかって抑え込むぐらいの気概きがいを見せて欲しい。

 ガテン系の男は強盗ではなさそうだった。ATMは丈夫だ。レンチで殴りつけたぐらいじゃ壊れない。このまま取り押さえようとしないで、セキュリティ会社の到着を待つのが最善だろう。さっきのブザーで、店内カメラの映像がセキュリティ会社に送られている。ガードマンが派遣されて来るのと同時に警察にも連絡がいっているはずだ。

 一向に止める気配を見せないガテン系の男から距離を取って、彼らの到着を待つことにした。不意にガテン系の男はこちらを振り向いた。


「ちくしょー!」


 叫びながら男は辺りを見回り出した。それから、2レジに視線を止めると、2レジに駆け出した。

 まさか。

 うちのお店では深夜の時間帯は一人しかいないので、2レジはお金を抜いて金庫に保管し、電源を落としておく。だから2レジにお金はない。レジのお金を置く受け皿を外に出して、見ただけで停止中かつ中身は空っぽだと分かるようにしてある。

 ガテン系の男の目的がお金じゃないのは分かった。だから2レジを持ち上げようとする男の手を俺は掴んだ。


「お客様、ダメです!」


 2レジを壊されたらスタッフの皆の仕事の負担が増えてしまう。若き店長がこの時間の担当だからって、守護神に責任を押し付けて何らかのペナルティを課す可能性があった。

 ATMに2レジをぶつけようとした男は邪魔をした俺を見た。


「邪魔すんな!」


 レンチが視界に入った次の瞬間には、衝撃が頭を襲った。

 体の平衡感覚を失って視界がぐるんと回る。

 後頭部にさらに衝撃が走って思わず声が出た。


「いてぇっ」


 まっすぐ先に天井が見えた。

 どくんどくんと頭部の血管が波打つ。


「善人面!」


 体が抱き起こされる感覚。

 意識は途切れてはいない。だけど、顔がとても熱い。

 切り裂かれたような激痛が頭部に走った。

 手を伸ばす。ぬめりとした温かさとパックリ開いている手触りにゾッとした。

 反射的に手を離して見る。手の平は真っ赤に染まっていた。

 右目に赤いものが見えたと思うと、目の中に入り込んで開いていられなくなる。


「お、おめえが悪いんだぞ! 邪魔するから」


 ガテン系の男の声が聞こえた。

 ピンポーン

 お店の出入り口の自動ドアは開く度にブザーが鳴る。

 駆け出す足音とブザーの音に、ガテン系の男が逃げ出したんだと分った。


「おいっ! 大丈夫かよ!」


 事務所のドアが開く音がして、ずっと閉じこもって身の安全を守っていた不死鳥の声が聞こえた。


「タオルだっ! あと救急車も!」


 今さらの守護神の的確な指示に不死鳥はテンパった。


「タオルなんかない!」

「ここはコンビニだ! 何でもあるに決まってる! お店の棚から早く!」


 守護神の叫びに不死鳥は頷いた。


「あ、でもお金は?」

「そんなことは後でいいから!」


 こんな状態なのに抜けないアルバイト気質に苦笑してしまった。

 不死鳥はタオルを持って来てくれて、それで頭の傷口を押さえた。


「すみません。ヘルマートなんですけど、スタッフが襲われて。すぐに来て下さい」


 不死鳥の声を聞きながら、自分の意識がハッキリしているのを確認する。

 俺はレンチで頭を殴られたのか。

 お店に他のお客さんがいなかったから、まだよかったな。スタッフが怪我をするのとお客さんが怪我をするのとでは、責任の追求が全然変わってくる。


 あれ?

 こんな目にあっているのに俺はお店のことを考えているのか。人のこと言えないな。自分に染み付いたアルバイト気質に辟易へきえきした。自分で考えるよりも、お店の立場や、スタッフとしての自分のあり方を優先して動いてしまう。

 アルバイトの正しい姿勢であり、雇い主の喜ぶことだ。


 唐突に悔しさがこみ上げて来た。

 自分がとてもダサく思えた。

 最初にセキュリティ会社を呼び、次に警察を呼んで、時間をおいてから救急車を呼んだ。


 最初に着たのは、救急車だった。

 不死鳥が電話をかけてから十分経たずに駆けつけてくれた救急車のすぐ後に、セキュリティ会社が到着した。


「遅いですよ!」


 担架で運ばれながら、不死鳥のセキュリティ会社への文句を聞いた。


「呼んでから二十分も経ってからの到着ってどういうことなんスか?」

「わ、私達も全力で来ました」


 うちのセキュリティ会社の事務所はわりかし近くにある。もしもの時は十分ぐらいで来てもらえるという話を聞いていた。


「まじで使えねえじゃん! 取り返しがつかないことになったじゃねえか!」

 こういう自分に非がない時は不死鳥は相手を容赦ようしゃなく責めるよな。

 自分はずっと隠れていたことは簡単に棚に上げてしまう。


「私達もマニュアルがありますから!」


 救急車の中に運ばれて背後のドアが閉められる直前、聞いてはいけないことを聞いた気がした。


「私達にも保険がかかっているから、呼ばれてから五分経ってから出動する規則になっているんですよ!」


 ガードマンの言葉が胸に突き刺さった。

 目頭めがしらが熱くなる。

 なんだよそれ。

 警察は未だに到着しない。ここら辺の警察は呼んでからだいたい三十分経って到着する。


「受け入れ先の病院は見つかったから! 大丈夫、五分で着けるよ!」


 救急隊員の声が温かかった。


「助けてくれて……ありがとう、ござい……ます」


 言い切る前にもう泣き出していた。



 頭部を十三針縫う重傷だった俺は、それから一週間入院していた。一人暮らしをしていたので、母が上京して来てくれて手続きやら身の回りの世話やらをしてくれた。

 俺を殴った男はあの後、最寄り駅前で酔いつぶれて寝ているところを捕まったらしい。


 俺の治療費は、その男が賠償ばいしょうしてくれた。そうじゃなければ自腹だった。勤務時間が終わって退勤したのに、お客さんの前にしゃしゃり出た俺は、労災保険が適用されないらしい。伝言してくれたのは守護神で、「余計なことしなければよかったですね」と冷たく言われてしまった。母親にも「なんでそんなバカみたいなことしたの!」と責められた。

 若き店長は、入院中一度も見舞いに来てくれなかった。


「……迷惑かけてくれやがって」


 守護神から伝え聞いた時は、もう辞めることを決めていた。

 自分のシフトである月・金・土・日の準夜勤務とバックレの穴埋めをしていた火・木の夕方勤務を守護神、不死鳥、男喰い、お坊ちゃん、バイトリーダーそれぞれに頼んだ。


 そのむねを若き店長に告げるが、「そんなことですむ問題じゃない」と言われてしまう。

 目の前の若き店長の顔を直視しても、涙で視界が濁ってしまって表情まで窺い知ることができない。


「てめえっ、入院中これだけ迷惑かけておいて、迷惑かけた分これから頑張りますっていう男気はねえのかっ!」


 何度目になるか数えきれない怒声が飛んだ。


「お前はなんて薄情な奴なんだ。あ? 一人で生きて来たと思っているのか? 助け合いの精神はないのか?」

「もう、心も体も限界なんです」


 自分の素直な気持ちを伝えるだけだった。


「てめえっ男だろ! もっと頑張れよ!」

「もうこの職場も、関わる人達も、誰も信じられないし、頼れないんです」


 我が身を可愛がる不死鳥も、助けに行った俺が間違っていたと言った守護神も、普段からろくに仕事をしない他のアルバイトも、一番肝心なセキュリティ会社も警察も、何より若き店長が一番信じられないし頼れない。


 誰か一人が犠牲になれば、他は上手く回ると言わんばかりのこのお店が嫌だ。

 そんなヘルマートのアルバイト気質に染まった自分が、バカに思えてしまう。


「お前にはガッカリだ! このまま頑張っていれば、お前を我が社の正社員に推薦してやってもよかったのに! 自分でそのチャンスを棒に振るのか?」


 ヘルマートの正社員?

 毎月400時間オーバーの労働時間のうち半分以上がサービス残業で、暴言や暴力で下を押さえつける体育会系。不眠不休による感情の不安定と思考の停滞、あとくされのない女性スタッフに手を出すことを唯一のストレス発散であり楽しみだと考える思考……目の前の若き店長のようになるってこと?

 背筋が寒くなった。


「俺には絶対に無理です」

「てめえっ!」


 若き店長が拳を振り上げたその時、携帯電話が鳴った。もちろん若き店長のだ。


「ああ、悪い。もうすぐ行くから!」


 電話に出た若き店長はそう言って携帯電話を切る。

 それからわざとらしく肩を落として、大きくため息を吐いた。


「お前は目先の苦しさしか見えてないんだ! なんでもっと先が見えねえ?」


十分に先を見越して出した結論です。


「お前ならよ。これから先もヘルマートの力になってくれるって思っていたのにな! 俺が太鼓判たいこばん押してやる。お前にはこのヘルマートが向いているんだ! このまま頑張っていればいい社員になれるから!」


 あなたのような人になりたくない。

 あなたに太鼓判を押されること=同じような最低な人種と宣告される、じゃないですか。


「お願いします! もう辞めさせて下さい!」


 もう一度、深々と頭を下げた。

 頭上の上で若き店長の舌打ちが聞こえた。

 今までここで働いた日々が走馬灯のように思い出されて行く。大学一年の途中から働き始めて二年近く経った。今日までここで働いててよかったと思ったことは一度もない。


 やりがいを感じたこともない。やる気になったこともない。

 全てただの義務感から来るものだった。

 その義務感ももう自分には沸かない。

 一秒だって長くここにはいたくない。


「お前はどうしようもねえ奴だ! もう好きにしろっ! 今すぐ出て行け!」


 これがコンビニ。

 最後のアルバイト先。

 俺のヘルマート最後の日だった。

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