水曜日

 後回しにしていた仕事が終わった時には、深夜の四時近くになっていた。このまま家に帰って寝たら起きれないと思ったので、事務所の床に段ボールを敷いて仮眠した。

 ここまでで、バックレは何か事情があって来ないんじゃなくて、本当にバックレたんじゃないかという気がしてきた。


「もう時間ですよ」


 肩を揺さぶられて目が覚める。

 ドスケベだった。


「ああ、ありがとう」


 体を起こす。さすがに眠い。だけど、お金をもらっているんだからしっかりしなきゃ。

お店側の事務所の入り口が開く。

 入って来たのは、孤独こどくだった。


「あら、どうしたんですか?」


 丁寧な口調で挨拶をしてきたのは、五十を過ぎたばかりの中年女性だ。子育てを終えて間もなく夫に先立たれた彼女は、子供はみんな結婚しているために一人きりで暮らしている。このお店に勤めて長く、週の半分以上、朝勤務に入るベテランだけに、独自のペースで仕事をして相手に合わせる事はなかった。

 またやりづらそうだ。


「普通の代わりに入ります。今日はよろしくお願いします」

「あら、そうなの? こちらこそよろしくお願いします」


 すぐに着替えて、時計を確認して勤務に入った。朝はおでんの仕込みがある。夏になるというのに、まだおでんを売る本部の指向は理解しがたい。

 深夜勤務の時間でおでんの廃棄と容器の洗浄をしてくれているので、だし汁と具を一から用意する。朝は七時まではお店はそこまで混まない。七時になれば、通勤のサラリーマンや通学の学生がやってきてピークを迎える。それまでは、朝早い高齢者がほとんどだ。


 仕事をしていて何が一番精神的にしんどいかというと、レジに呼ばれて自分の作業を中断しないといけないことだ。仕方がない事とは言っても、慣れる事じゃない。とくにおでんの仕込みは、しっかりと手洗いをして臨むので、レジの接客の度に手を洗い直すのはすごくめんどくさい。普通、こういう時はもう一人が接客をしてくれるはずなんだけど。お店を見回すと、孤独の姿は見えなかった。どこにいるんだろう?


 彼女にはルーティーンがあって、それは店周りの掃除、店内の掃除、店内商品の品出しと推移していくんだけど、その中にレジ接客だけは入っていないんだ。彼女は七時までよほどのことがないとレジの接客はしない。

 おでんの仕込みなら、集中してできれば二十分もかからない。その間だけでもやってくれると助かるんだけどなぁ。


「じゃあ、お疲れさまです」


 ドスケベがシフトを上がる。

 手には気に入って購入したエロ本を抱えていた。

 ため息がこぼれる。ずっと一緒にいたから分かるけど、彼は仕事中、三時間ぐらい読書タイムだった。この店はそれでいいのか?


 ドスケベがお店を出るのと同時に孤独がお店に入って来た。外の掃除は終わったらしい。彼女は早速、次の店内掃除に移る。

 入り口のドアが再び開く。お客さんが入ってくる。若いけど学生ではないだろう男性客だった。リュックを背負っていた。男性は入って来た時からどこか挙動不審で、入り口のドアに立ったままキョロキョロと辺りを見回してたかと思うと、急にこっちを向いた。


「え?」


 次の瞬間、男性客はまっすぐ突進してくる。反射的に避けようとするが、こういう時は体は固まって動けなくなる。男性客はそのままレジを飛び越えて入ってくるかと思ったけど、次の瞬間、意味不明な行動に移った。

「ひーひーひーっ!」

 レジ台の中にはゴミ箱がある。外にはゴミ捨て口がついている。男性客はゴミ捨て口から頭を突っ込んでうめき声を上げた。


「ひーひーひーっ!」


 全身に鳥肌が立つ。

 危なく、持っていたおでんの具が入った容器を落っことしそうになる。

 何これ?

 男性客は執拗にゴミ箱に頭を突っ込んだまま吠える。おでんの容器を置くと、慌ててレジの外に出た。何やってんの、この人。


「お客様、いかがされました? 落ち着いて下さい」

「ひぃあああああああっ!」


 男性客の叫びは最高潮に達した。男性客は勢いよく顔をゴミ箱から出すと床に仰向けに倒れた。


「うおおおおおおおおおう!」


 叫び声はまだ続く。お店にいた他の客さんが事態の急変に気づいて次々にお店を出て行く。

 どうしよう?

 そうだ!

 ベテランの孤独は?

 辺りを見回しても、孤独の姿は見えない。

 まさか!

 お店側の入り口から事務所に入ろうとして、鍵がかかっている事に気づく。

 え?

 すぐにレジに戻って、レジ側から事務所に入ろうとするがそこも鍵が閉まっていた。

 おいおい。


「ちょっと、なんで鍵かけてんですか?」


 ドアを叩くが、返事はない。


「ひぃあああああああああああっ!」


 背後で男性客は雄叫びを上げている。

 大きくため息をついて、俺はレジ台の下にある緊急時に警察を呼ぶためのスイッチを押した。でも押したからって、この辺りの警察はすぐに来ない。

 俺はすっかり心が冷めていた。まだ叫び続ける男性客のそばに行ってしゃがみ込んで観察する。男はなおも叫び続けたが、五分、十分と時間が経過していくにつれて落ち着きを取り戻し、立ち上がる。俺は彼を見上げる。男性客は、何事もなかったように店を出て行こうとした。

 すぐにその腕を掴んだ。

 振り向いた男性客の顔は俺を非難する色を浮かべていた。


「ふざけんなっ! ここにいろっ!」


 頭で言おうとした言葉を無視して口から出たのはそんな言葉だった。

 はたして警察は三十分後に来た。警備会社にしろ警察にしろ、ブザーが鳴ってもすぐに行かないようにしていると聞いた事があったから、今さら驚かなかった。誰だって自分の事が一番大事なんだから仕方がない。だけど、気持ちはどんどん冷めていくよな。


「もうちょっと早く来てもらえないですか? いつもいつも三十分も経ってから来られても困ります。何かあってからじゃ遅くないですか?」


 一応、今後のためにという義務感から警察にお願いする。

 若い二人組の警察は愛想笑いを浮かべて、


「すみませんねぇ。もっとパトロール強化しますから」


 これまた決まりきった言葉を返すだけだった。

 警察が来て男性客を拘束してお店から連れ出したので、孤独もやっと事務所から出て来た。ちぇっ、自分から孤独を選んでいたじゃないか。事務所と言う安全地帯にいることを望んで。


「大丈夫ですか? 私驚いちゃいましたよ」


 何事もなかったようにそんなことを口にするので、相手にするのがバカバカしくなった。


「若き店長に連絡してもらえますか? 警察も来てしまったので」

「あ、はい。分かりました」


 朝一で呼び出された店長は怒るんだろうなと想像して、さすがにげんなりする。孤独がすぐに戻って来た。


「繋がらないんですけど」


 あの若き店長なら、時間帯を選んでわざと電話に出ない事もありえるなと思った。九時にはマネージャーが来るから任せればいいだろってアピールしているのかもしれない。


「じゃあ、マネージャーに連絡お願いします」


 マネージャーも今からでは、通常通り九時近くの到着になるだろう。警察の事後報告を受けるだけだから、本当はそんなに急ぐ必要はないのだしそれでいいと思った。

 九時近くになって、サポーターと静寂せいじゃく、そしてマネージャーが到着する。


「おっはよ! この間の日本代表のアウェーの試合観た? 感動したよね?」


 日本代表のユニフォームを来てお店にやってきたサポーターは、開口一番がサッカーの試合だった。日本代表にしても応援しているクラブチームにしても、試合の翌日はいつもこうなのだ。とりあえず、今は相手にしている気力はないので、「見ました。すばらしかったです。すみません、またあとで聞かせてください」とスルーした。


「おはようございます。何があったんですか?」


 次に緊張した面持ちでマネージャーがやってきた。マネージャーも社員研修中の人なので、若き店長よりも一歳だけ若い。若き店長とSVの間で板挟みになっていつ会っても追い込まれた顔をしている。

 事件の説明をしていると、いつの間にか静寂が着替えてお店に出ていた。いつもながら、気配を察知させない静けさだ。


 説明が終わると。挨拶もそこそこにシフトを上がった。

 今日は大学の授業が二限目からあるので、ゆっくりしている余裕はない。一度帰宅するのも惜しくて、そのまま駅に向かった。電車で三十分かからない場所に大学はある。電車に乗っている間、メールを確認するけど、バックレから返信はなかった。安否だけが気になって仕方がない。

 携帯電話をポケットにしまうと、ため息が漏れた。

 最近はため息ばかりだな。こんなんじゃダメだ。気を取り直そう。決意を新たにして顔を上げたら、向かいの席に座るバックレに気がついた。


「え?」


 携帯電話をいじくっていたバックレが視線を感じて顔を上げる。眠たそうな顔が。みるみると驚きに変わっていく。電車が次の駅に止まるためにスピードを落とし始めていた。


「バックレ?」


 名前を呼ぶとバックレは直ぐさま席を立ち上がった。そして、荷物を持ってドアへ向かう。


「おいっ」


 俺もその後を追った。


「どうしたんだよ? 何かあったの?」


 ドアの前で電車が止まるのを待つバックレは、振り返らない。


「みんな心配してるよ? 大丈夫なの?」


 バックレは貧乏揺すりをしながら、電車が駅に止まるのをまだかまだかと待っている。


「バックレ?」


 電車が駅に着いて、ドアが開いた。バックレは振り返らないで駆け出した。それ以上は追いかける気になれなくて、俺は電車を降りないでその背中を見続ける。

 もう分かっていた。

 彼が文字通り、バックレたんだということを。

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