リゲル、夜明け前が一番暗いんだ

青出インディゴ

第1話

 青い太陽がかげる黄昏の空に、隕石がひときわ輝いている。今日の直径はすでに太陽よりも大きい。刻一刻と衝突の日が近づいているのだ。

 ブルースは岩場に寝転んでシガレットを吹かしながら、ぼんやりそれを眺めていた。そうしているうちに震えが襲ってきたので腕をさすった。永久の黄昏が続くこの地帯の気温は、炎族である彼には少しばかり低すぎる。メタルブラックのジャンプスーツのファスナーを顎まで上げた。

 地平線の彼方まで広がる岩の大地。荒涼とした土地に、透明のドームが唯一の人工物として場違いなようにぽつんとたたずみ、中のざわめきが漏れ聞こえている。

 パーティはまったく白々しい代物だった。

 和解パーティ! ブルースは思い出して鼻で笑ってしまう。パーティの目的は炎族と氷族の和解だった。隕石衝突が発表されたのが五十年前。それ以来、リゲル第三惑星の炎族と氷族はそれぞれ独自に迎撃作戦を練ってきたが、とうとう万策尽き果て、協定を結ぼうという方向に固まったのがつい先日。事態はあまりに遅きに失した。パーティ会場の様子は滑稽の一言だった。主賓席の両族の将軍は、言葉を交わそうともしない。和解交渉の破綻は明らかだった。

 ブルースは何本目かのシガレットを取り出し、手のひらに起こした炎で火をつけた。

「こんな惑星なくなっちまうといいんだ」

 つぶやいたとたん、背後で物音がした。小石がいくつか転がり落ちる音。

「誰だっ」

 反射的にふり返ると、ひとりの少女がいた。

 少女は答えず、濃いまつ毛に縁どられた青い目をいっぱいに見ひらいていた。アラバスターのように真っ白な肌。結い上げたプラチナブロンドの髪が夕日を反射して、顔の周りを光輝のように取り巻いている。

 ブルースはシガレットを取り落とした。落とした場所は距離としてはずいぶん離れてはいたものの、彼女はキャッと悲鳴をあげた。彼はあわてて岩の上で火をもみ消した。

「あなたも」少女はおずおずと口をひらいた。「パーティが嫌いなの」

 今度はブルースの見ひらいた目を、少女が見つめる番だったかもしれない。不思議といやな気はしなかった。いつもの彼だったら、ひとりの時間を邪魔する者がいたら無言でその場を立ち去るか、機嫌が悪ければ暴力沙汰になっていることだろう。でもなぜだかそうする気になれなかった。

「わたしもここにいていいかしら」

「あ……ああ、それはどうぞご勝手に……。おれの土地ってわけでもないし。えーと」

「リリアベル」

 彼女はブルースの横に並んで腰を下ろした。年頃は同じくらいだが、岩場に座るなんて似合うような容姿ではなかった。パーティの貴賓席でにこにこ微笑んでいるのならぴったりだが。

 近くに来ると、光沢のある銀色のジャンプスーツに覆われた体のラインがいやがうえにも視界に入ってきて、ブルースはあわてて目をそらした。

「リリ……そうか。おれはブルース」

「ばかばかしいと思わない、ブルース? まるで会場の真ん中に透明の壁があるみたいに、氷族と炎族が分かれて踊ってるの! なんのための和解パーティかしら」

 リリアベルはブルースの予想外にざっくばらんなしゃべり方をする。

「おれもそう思うよ。だが、やつらにとっちゃお互いの息遣いさえ我慢ならないんだろう」

「せっかく黄昏地帯で会ってるのにね。ここはもう緩衝地帯でさえないわ。カンカン地帯よ」

「カンカン……?」

「カンカンよ。みんな、こーんなになってるんだもの!」

 リリアベルはそう言って、両目の端を指で引き上げる。怒ったような三角形になった。ブルースが思わず吹き出すと、リリアベルはにっこり笑った。

「あんた若いのにずいぶん達観してるんだな」

「若いのはお互いに、でしょ。シガレットを吸ってる不良さん。あなた何者? 政治家じゃなさそうだし」

 そのときドームから、何かが割れるような音と怒号が聞こえてきた。ふたりはそちらに顔を向けた。

「いやだ……やっぱりこうなるのね」

 リリアベルは震える声で言った。彼女が立ち上がろうとするので、ブルースは我知らず引き留めた。

「戻るなら騒動が収まってからにしたほうがいい」

 その言葉にリリアベルはいったんは向き直ったが、大きな目は曇っていた。「だけど、争いの中心にいるのはきっとおとう――」言いかけた言葉を途中で飲みこんだ。

「え?」

「ううん、なんでもない」

「震えてる。寒いんだろう。おれもそうだ。少しあったまろうや」

 ブルースはそう言い、手のひらを岩の上にかざして炎を噴き出した。直後、リリアベルは悲鳴を上げて卒倒した。

 突然のことに泡を食ったブルースは助け起こそうとするも、彼女の肩に触れたとたん水蒸気が立ち昇り、自身も悲鳴を上げる。尋常でなく冷たいのだ。反射的に手を引っ込めたので水蒸気はすぐ消えたが、手が真っ赤になっている。凍傷だった。

 その瞬間、彼女が何者であるかを察知し、ブルースは言葉を失った。

「いた、あそこだ!」

 声がしたほうを見やると、ドームから数人の大人の男たちが駆けてくる。数時間前にパーティで見かけた氷族たちだ。

「お嬢様、無事ですか!」

「おまえ、何をしている! どけ、どくんだ!」

 ブルースは動転して立ち上がり、両手を振って潔白を表明しようとする。

「誤解だ、そんなつもりじゃ――」

「炎族将軍子息ブルース! 交渉はたった今決裂したのだ! リリアベル様を返せ!」

「あ……ああ、もちろんそうするよ」

 しかしブルースがそう言ったにもかかわらず、男たちのひとりが両手から氷混じりの激しい水流を放った。直撃は免れたものの飛沫が腕をかすめ、肉がえぐれる。

 ブルースは背中を向けて走りだす。

 氷族たちは追わず、リリアベルに駆け寄ったようだった。

 ブルースは一度だけふり返った。リリアベルは白い肢体を黄昏の下に横たえていた。


「この馬鹿者がっ!」

 衝撃でブルースは吹っ飛んだ。壁に当たってようやく倒れないで済んだ。父親である炎族将軍はさらに責め立てる。

「交渉が決裂したのはおまえのせいだ。氷族将軍の娘を手にかけおって」

 決裂したのは、おれがパーティを抜け出す一時間も前じゃないか。血のにじんだ唇の端をぬぐいながら心の中で反論するが、口には出さなかった。言っても無駄であるどころか暴力がますますひどくなることは、生まれてこのかたよく染みついているからだ。

「家名の名折れめ。火柱のひとつも立てられないとはわが息子とも思えん。なんのために士官学校に行かせていると思っている!」

 あんたが特別なだけだ。ブルースは再び心でつぶやく。あんたみたいな火柱をみんなが立てられたら、炎族の土地はとっくの昔に荒廃してるさ。

 この惑星は、太陽リゲルに対して常に同じ面を向けながら公転しているため、片側は常に灼熱の昼、片側は常に極寒の夜である。結果、それぞれの側の住人たちは、同じ人間でありながらまったく異なる種族へと進化したのだった。昼側に住む炎族は炎を生じさせ、操ることができる。ただし、その才能に応じて。

 父親は怒鳴り散らしてある程度溜飲が下がったのか、きびすを返して立ち去った。

 ブルースはいつものとおり、のろのろと立ち上がって自室へ帰っていく。シューッという音を立てて自動扉があき、靴も脱がずに寝台に身を投げ出した。そのまま目を閉じていたが、少し寒かったのでエア・スタビライザーの設定を摂氏一二〇度まで引き上げた。じきに心地よい熱波が部屋を満たす。炎族将軍の邸宅だけあって、設備は昼側で一、二を争う豪華さだ。もっとも、そういう家に生まれたことをありがたいと思ったことはない。

 ブルースは再び目を閉じたが、寝つけなかった。なにか気がかりがあるのだろうか、と自分に問いかける。理不尽な言いがかりをつけられて殴られたことか? ちがう、それはいつものことだ。パーティのことだろうか。そうじゃない。あれは糞みたいにつまらなかったが、おれがクヨクヨするようなことじゃない。隕石なんて落ちるなら落ちればいいんだ。今さらどんな対策したって……。

 彼はため息をつき、寝返りをうった。わかったわかった、自分に嘘をつくのはもうやめだ。今日の気がかりなんてひとつだけだ。

 リリアベル。

 寝台の上で目を見ひらいた。リリアベル、リリアベル。何度も心の中で繰り返してみる。それから意を決して口に出してみた。

「リリアベル」

 なんて甘い響きだろう。初めて聞いた、奇妙な名前だ。だが、彼女にぴったりだと思う。リリア、は、確か百合のことだっけ。ベルは鈴。氷族の少女にふさわしい、清らかで澄んだ名前だ。

 リリアベル、どんな人なのか。

 リリアベル、もう一度会いたい。


 屋敷を抜け出すにあたって最も難しかったのは、そもそもエントランスから外へ出ることだった。普段は息子の行動に無関心の父親でも、重大な交渉の場を決裂させた(と思いこんでいる)直後の外出とあっては、いらぬ疑いを抱かないとも限らない。ブルースはなるべく事を荒立てたくなかった。しかし、将軍家のエントランスとあって、セキュリティは厳重である。

 エントランスホールの隅に立って、何か抜け出すいい方法はないかと考えをめぐらしていると、不意に肩をたたかれたので、驚いて飛び上がった。

「坊ちゃま、いかがされたのですか」

 見ると、昔からいる執事のトラバントだった。ブルースはほっと息をつき、事情を説明する。ただし、リリアベルという肝心な部分は省いた。

 トラバントはピクリとも表情を変えずに(彼は常にそうだった!)うなずくと、ホールの壁に備えつけられたセキュリティ・パネルを操作した。

「恩に着る」

 ブルースは言い残して飛び出そうとしたが、トラバントは静かに押しとどめて、冷たいタオルを手渡した。

「これを届けにうかがうところだったのです」

 ブルースはうなずいて受け取って頬に当て、今度こそエントランスをあとにした。

 それから数分して将軍がホールを通りかかり、その場にいた執事に息子の居場所を尋ねた。その答えは「さあ?」だった。


 リリアベルは星空を見上げていた。

 惑星の裏側にあたるこの地では、永久に夜が続く。話だけで聞いたことがある、昼の太陽に興味がないわけではないが、彼女はこの壮大な天球一面に散らばった銀色の宝石が好きだった。しかし氷族の本能には、太陽への痛烈な憧れが眠っていると言われている。それが氷族と炎族の因縁の理由のひとつなのだろう。

 ついたため息は、輝くダイヤモンドダストとなって惑星の大気の中へ消えていった。

 彼女は自宅のテラスにいた。夜空を背景にして、永久凍土の上に、銀色の円錐塔が立ち並んでいる。これが氷族の都市で、巨大な氷柱が立ち並んでいるように見える。中でもひときわ立派なのが将軍の邸宅で、彼女の自宅でもあった。

 リリアベルはもう一度だけ空を見上げた。美しい星空に輝く不気味な隕石。いずれは惑星表面に衝突し、人類を滅亡させるだろう。今はまだ人々の間に恐怖は具現化していないが、集団パニックが起こるのは時間の問題だった。

 部屋に戻ろうとしたときだ。カーンという金属音が聞こえた。

 怪訝に思ってふり返ってみると、床に小石が転がっている。どうやらテラスの手すりか床に当たって音が鳴ったらしい。なんとなく気になってかがみこむと、テラスの下、地上数メートルのところに、小型の乗り物が浮かんでいるのが見えた。エアカーだ。窓があいていて、奥に小さな明るい光が見えた。星のように明るいが、星ほど冷たい色でなく、ほのかに赤みがかっている。

「だあれ?」

 それは、リリアベルが生涯で二度目に見る炎だった。よく目を凝らすと、キャンドルを持ち、分厚いコートのフードを目深にかぶった人物が、操縦席に座っているのだった。

 彼女はこわいとは思わなかった。

「おれだ」

「ブルース!?」

 リリアベルはびっくりしてテラスから身を乗り出した。コートの人物は、フードをわずかに上げて目元をさらすと、急いでもう一度かぶった。

 赤毛と切れ長の目。暗闇ではあったが、ブルースにまちがいないと、彼女は確信した。

「昨日は悪かった。あんた、体調はどうだ」

「わ……わたしはもう大丈夫。そのことでここに来たの? でもどうして、ブルース? どうやってここに? どうしてわたしの家が? 氷族の人たちに見とがめられなかったの? ああ、いえ、そんなことより、あなた寒いんじゃない?」

 ブルースは笑った。キャンドルの炎が揺れて、夜闇に光の軌跡を描いた。

「実を言うと今にも倒れそうなんだ。どうだい、これから黄昏地帯に行くってのは? あんた出て来れそうか」

 もちろん、と彼女が言うと、エアカーがテラスのところまで浮上してきた。


「あんたが氷族将軍の令嬢だってわかってたからさ、家を見つけるのは簡単だった」

 ふたりは永久に続く黄昏のもと、岩場に座って語らっていた。背後にはブルースの愛車、中古の〈コンコルドTu-42〉が地上一メートル地点に停車している。

「むちゃくちゃよ! もう何時間かいたら、あなた凍死してたのよ」

「かもな。氷族にとってはあれが適温なのかい。信じられないな」

「そうよ。炎族とはちがうのよ」

 少し沈黙が続いた。

 リリアベルはもう「なぜ会いに来たか」とは訊かなかったし、ブルースも「なぜついて来たか」とは訊かなかった。それはもうふたりにとっては自明の理であって、今さら確認の必要もなかったのである。

 リリアベルはブルースを見上げて言った。

「もうフードをかぶってる必要はないでしょう。取ってちょうだい」

「寒いんだ」ブルースは首を振る。

「お願いよ。あなたの顔が見たいの……って言わなきゃダメ?」リリアベルはいたずらっぽくすねてせがんだ。

 ブルースはためらっていたが、やがてしぶしぶとフードを脱いだ。リリアベルの笑顔が凍りつく。ブルースの頬は大きく腫れ上がっていた。

「どうしたの、それ……」

 ブルースはしばらく黙っていたが、リリアベルの大きな青い目に後押しされて、やがて話しはじめた。努めてなんでもないことのように。事実、彼にとってはそうだったから。父親に殴られるのは日常のことだったし、父親の怒りが自分に向く根本の原因である炎の能力が劣っていることも事実だったから。

 だから、リリアベルが泣きだしたときにはかえって驚いてしまった。

「かわいそう……」

 彼女はそう言って、顔を両手で覆った。ブルースはどきまぎしながらも、その涙の美しさに心を奪われていた。実際、それは彼がこれまで見た中で最も美しい物体だった。

「おれがこわくないのか?」

「どうして?」

「みんなそうだから」

「だってあなた、わたしと同じにおいがした」

「におい?」

 リリアベルはそれ以上何も言わず、目の端の涙を指で払っていた。ブルースは気が抜けて前を向き、遠くの岩場を眺めた。

「リリアベル、これからも会ってくれるかい」

 そう訊くと、彼女がためらったので、ブルースは胸がつぶれそうになった。なんて馬鹿なことを言ったんだ、と後悔さえした。が、次に彼女の言ったのは思いがけないような言葉だったのだ。

「本当にわたしでいいの?」

 ブルースは驚いて彼女を見る。リリアベルは頬を染めてうつむく。

「だって……わたしたち触れあえないのよ、永遠に」

「それがなんだって言うんだよ?」

 ブルースがそう言ったときの彼女の微笑みは、青い太陽リゲルの残像のように、長く彼の心に残ることになった。


 それから長い間、ふたりは黄昏地帯の岩場で語りあっていた。

「ねえ見て」とリリアベルが言って、空を差す。日々直径を増す隕石が、明るく輝いていた。

「だいぶ大きくなったわね」

「そうだな」ブルースはうなずいて、腕を枕にして寝転ぶ。そうしながら隕石を眺めるのが好きだったのだ。それからポケットからシガレットを取り出そうとして、やめた。

 隕石は彼が生まれたときにはすでに空にあって、その脅威は散々聞かされてきた。だけど上空に浮かぶそれはあまりに日常的すぎて、もはや脅威なのかどうなのかさえ曖昧だ。今では昼側夜側問わず惑星中の人が、生き延びることをあきらめてしまっているようだった。

「衝突は時間の問題だろうって、氷族の科学者は言ってるわ……二週間か、一週間か、明日かもしれないって」

「炎族の科学者も同じさ。世界は滅亡する。ずっと前から予言されてたとおりに」

「こわい」

 ブルースが視線を向けると、リリアベルは震えていた。彼は腕に手を触れようとして、そうできないことに気づいてやめた。リリアベルは続ける。

「パーティのときに、何かの対策が講じられると思ったのに。結局いがみあってばかり。どうして氷族と炎族は仲良くできないの? 体温がちがうから? 能力がちがうから? でもわたしたちはそうできてるよね。じゃあどうして?」

「あんたが気に病むことじゃないさ。それに、どっちにしろ対策なんて無理だろ。なあ知ってるか。この惑星の祖先の伝説」

「地球っていう惑星から移民してきたんだっけ。小さな頃、お父様にお話してもらったわ。彼らは宇宙航行の技術を持ってたんだって。でも惑星の厳しい気候に適応していく過程で、その技術は失われたって」

「そいつらだったら、何かできたかもしれないけどな。今おれたちにできる唯一の方法は、衝突直前に隕石を破壊することくらいだけど、そんな強大なエネルギーを出せるやつぁいない」

「でもブルースのお父様はすごい能力者なんでしょ?」

「それだって限界がある。火の力だけで隕石を溶かすなんて無理だろ?」

 リリアベルは空の隕石を見上げる。

「きれいだわ……昼の太陽もあんな感じなの?」

「ちがうね。もっと小さくて、強烈に青いんだ」

「わたしたちを破滅させようとしてるのに、きれいなんて皮肉ね」

 ブルースは体を起こした。

「なあ、あんたらしくないよ。こわがるのはもうやめなよ。こうなるのは前からわかってたことだろ?」

 リリアベルはうつむく。長いまつ毛が頬に影を落として、白い肌がいっそう映えた。

「ねえ約束して。二週間後か一週間後かわからないけど、いよいよってときになったら、ここに来てちょうだい。ここでふたりでいましょうよ」

「わかった」

 そのとき、ブルースはそれほど事態を深刻にはとらえていなかったかもしれない。だが、約束の日は意外にも早くやってきたのである。


 その日帰ってから、ブルースはまた父親に暴力をふるわれた。理由はもはやわからない。しかしそのとき、ついに彼の中の何かが切れたのだ。もうこれ以上我慢する理由はなかった。おれはもう十七なんだ。ひとりでだってやっていける。そう思った。

 ひとり壁際にうずくまって痛みに耐えていると、執事のトラバントがやってきて、冷やしたタオルを当ててくれる。

「トラバント、今日でお別れだよ。今までありがとう。あんたは、あんただけは、この昼の世界でのおれの唯一の友達だったよ」

 老人は片眉を上げた。

「何を言いはじめるのです、坊ちゃま。どこかへ行かれるのですか」

「ああ、もう戻って来ないつもりだ。あんたにはおれの持ち物を全部やるよ。ただおふくろの形見のコンコルドだけは別だ。あれはなくちゃ困るから」

「出てお行きになるのは旦那様のことが理由ですね。許してあげてほしいとは申しません。ですが、旦那様も苦しんでおいでなのです。おわかりでしょう。隕石への対抗策を持てないことで、世論は旦那様を責めています。自分たちの恐怖を旦那様ひとりにぶつけることで、精神の均衡を保っているのです。しかし誰があの悪魔の隕石をとめられると言うのでしょうか」

「あんたは聡明だね、トラバント。でももう決めたんだ。あんたが父親だったらよかったのにってずっと思ってた」

「氷族のかたのところへ行かれるのでしたら、恐れながらおやめくださいと申し上げます」

 ブルースは笑った。「あんたの言うことわかるよ。それじゃあな」

 トラバントはもうとめず、ブルースはタオルを持って屋敷を飛び出したのだった。


 ブルースは黄昏地帯に着くと、エアカーを停車させた。見上げれば、隕石がすでに天空の一角を占めるほどに広がって光り輝いている。決着は意外に早くつきそうだ。明日か……今日かもしれない。

 それですべてが終わる。隕石は地上に衝突し大爆発を起こすだろう。超巨大地震が起こり、クレーターから湧き上がった噴煙が大気を覆う。衝突の衝撃で数百万が命を落としても、それだけでは収まらない。噴煙は環境の激変をもたらす。この惑星の人類が――炎族も氷族も――かつて体験したことのないハルマゲドン。昼側の火山は凍りつき、夜側の凍土は溶け出し大洪水が……。

 彼は突然恐慌に陥った。

「ブルース、やっぱり来てたのね」

 狼狽したまま声のしたほうを見ると、リリアベルが立っていた。彼は駆け寄ろうとして、数歩のところで足をとめた。あまり近づくとお互いに蒸発してしまう。

 彼女は困ったように笑っている。

「もうきっと今日ね」そう言って空を見上げる。

 天空のきらめきが彼女のプラチナブロンドをいっそう引き立てる。ろうそくの最後の輝きにも見えて、ブルースは胸が痛くなった。

「おれ、やっぱり……」とブルースは声をしぼり出した。「やっぱりいやだ。隕石が落ちるなんて」

 リリアベルは空を見上げたまま答えた。

「わたしだっていやよ。でももういいの。前にブルースが言ったとおりなんだと思う。どうしようもないならあきらめなくちゃ」

「あきらめられない!」

 ブルースの叫びに、リリアベルはふり向いた。

「隕石が落ちたらどうなるか、さっき想像してたんだ。何もかもなくなる。おれも、あんたも、あんたの家も、あのきれいな氷族の銀色の塔も、あんたと出会ったこの岩場も、あのドームも」と言って、彼はパーティ会場だったドームを指差した。「おれにはトラバントっていう友達がいるんだ。そいつもいなくなっちまう。でもそいつはなんにも悪いことしてないんだ」

 ブルースの子供っぽい話しぶりを黙って聞いていたリリアベルは、突然顔を覆うと、

「今頃気づいたの!?」

 と言って泣きだした。

 ブルースは駆け寄って両肩に手を置いた。水蒸気が立ち昇って、急いで手を引っ込める。両手が痛かった。彼女の銀色の肩口に黒い染みがついた。リリアベルは涙に濡れた大きな目で見上げる。

 その瞬間、啓示が下りた。

「水蒸気だ……」

 ブルースはリリアベルから離れて歩きはじめた。彼女は怪訝そうに見ている。ブルースは突然ふり向いた。

「あんた、水流は出せる?」

「それは氷族だから一応は……」

「おれも火炎が出せる。一応」ブルースはニヤリと笑った。「水蒸気爆発は知ってるか。高熱の物質に触れた水が急激に気化して起こる爆発現象だ。火山の水蒸気噴火は、山ひとつを吹っ飛ばすこともある。それぐらい激しい爆発なんだ」

 リリアベルは、突然何を言い出すの、この人、というような顔をしていた。ブルースは結論を急いだ。

「だからさ、おれとあんたが、最大限の――そうさ、最大限の力を一気に出せば、水蒸気爆発が起こるんじゃないかってことだ」

 リリアベルは最初は飲みこめないような顔をしていたものの、徐々に理解しはじめたと見え、最後には、あっと小さく叫んだ。その間の表情の変化の魅力を、ブルースはこの期に及んで存分に楽しんだ。

「すごいわ、ブルース! それで隕石を破壊できるかもしれないってこと?」

「やってみないとわからないけど」

「やってみる価値はあると思うわ。こんな単純なこと、どうして今まで誰も思いつかなかったのかしら」

「誰もおれたちみたいに話しあおうとしなかったからじゃないか」

 そこでふたりは向きあって声を上げて笑った。

 ブルースとリリアベルは、岩場に並んで座った。できる限り近くに。

 隕石はもうすぐそこまで迫っている。

 ブルースは静かに口をひらく。

「わかってるな、リリアベル。これからやろうとしてるのがどういうことか」

「わかってるわ、ブルース。わたしたち、隕石と一緒に吹き飛んで世界を救うのね。素敵じゃない?」

 リリアベルはいたずらっぽく笑う。どうして笑えるんだろう、ブルースは不思議だった。と同時に、だからこそ彼女に惹かれてどうしようもないのだと思った。

「そのことは誰も知らないことになるんだ。それでもいいのか? 惑星のやつらは、隕石が勝手に粉々になったと思うだろうな」

「わたしに確認してるっていうより自分に言い聞かせてるみたいね。わたしはかまわないのよ。だってパーティに出席したのも、世界を救うためだったんだもの。ブルースはそうじゃないの?」

「あのときはちがった。でもいまはその逆だ。だけど、ひとつだけ残念なことがあるとすれば――」

「なあに?」

「あんたにもう会えないことだよ、リリアベル。世界を救う代わりに一番大切なものを失うなんてな」

「それでも世界のほうを選ぶ理由はなに?」リリアベルはささやくように言った。それは天国の鈴のように甘い調べだった。

「わからない。でもそうしたいって思ったんだ。あんたに出会ったからかな。あんたみたいな人を生み出すような世界は、もしかするとそれほど悪いものじゃないかもしれないって思ったんだ」

「シガレットを吸わなくていいの?」

「いいんだ」

 何時間そうしていただろう。いよいよというときになって、ふたりはブルースの〈コンコルドTu-42〉に乗って旅立った。

 長い旅だった。黄昏の空を高く高く上りつめ、ついにあと数十秒後には隕石と衝突してしまうというところに来て上昇をとめる。

「前から不思議に思ってたの」

 リリアベルがひとりごとを言う横で、ブルースは伸び上がってサンルーフをあけるのに手こずっていた。彼女は夢見がちな顔で続けている。

「黄昏地帯は夜と昼の中間地帯なんだから、夜明け地帯って呼んでもいいのになあって。どうして黄昏なのかしら」

「今に夜が明けるさ」やっとサンルーフがあき、ブルースは向き直ってリリアベルを見た。「準備はいいか!」

 リリアベルもはっと身を起こした。

 上空すぐ、巨大な黒い岩塊が猛スピードで落ちてくる。

 ブルースは素早くサンルーフから両腕を差し出してかかげる。すべてのエネルギーをこめ、体を燃やしつくさんとばかりに火炎を噴き出す。エアカーが激しく振動しはじめる。岩塊の下部に到達した火炎は、ドミノ倒しのごとくあっという間に表面を覆いつくし、隕石は紅蓮の火の玉と化した。

「今だ、力を解放しろ!」

 ブルースが叫び、リリアベルは両腕をかかげた。上空に向かって激しい水流が噴き上がる。彼女の顔からみるみる血の気が引いていくのがわかる。ありったけのエネルギーをほとばしらせている上に、すぐ横では火炎が噴き出しているのだ。命をかけた戦い。それはブルースも同じだった。

 水流が隕石に達したそのとき、激しい爆発が起こった。

 瞬間、少年と少女の体の周りを金色の光が包みこんだ。

 光。

 衝撃。

 震動。

 轟音。

 すべては吹き飛んだ。


 最初に異変に気がついたのは、炎族の人々だった。

 昼側の土地に、雪が降りはじめたのである。それは上空の大気に冷やされて氷の粒となった、隕石のかけらだった。実のところ、降っていたのは昼側だけではない。夜側にも降っていたが、それはいつものことだったので、夜側では異変に気づくのが遅くなったのである。

 突然の異常気象に肝をつぶした炎族の人々が空を見上げると、さらなる異変が起こっていた。そこで初めて隕石がなくなったことが知れ渡り、衝撃はやがて惑星中を覆っていった。

 翌日には、昼側でも夜側でも科学者たちがもっともらしく解説を始めた。隕石は大気圏の熱によって破壊されたのだと言う者もいれば、火山のマグマに落ちた瞬間に溶解したのだと言う者もいた。怪しげな素性の者の中には、あれは実はとなりの惑星に落ちかけていたのを勘違いしたのだと言う者まで出て来た。そういった解説が続々とマスメディアに載るにつれ、多くの人々は、いずれにしろ隕石の脅威がなくなったことのありがたさには変わりないのだから、ということで理由の追究を忘れていった。炎族にしろ氷族にしろ、将軍への非難は潮が引くように消え去り、彼らはかつての権威を取り戻しつつある。それにつれて、ただひとりをのぞいては、人々の間に秩序が戻っていった。

 そのただひとり、トラバントは荷物をまとめると、将軍の屋敷をあとにした。代々この家系に仕えてきたが、このへんが潮時だろう。現当主であるところの将軍も何かを察したのか、あえては引き留めなかった。老人は隕石に対して何が起こったか、はっきり知っているわけではなかったが、うすぼんやりとした予感めいたものを持っていた。坊ちゃまが……いや、いずれにしろ自分の関知するところではない。彼はいつだって模範的な執事だった。


 ところで、時間はトラバントの退職から二週間ほど前にさかのぼる。隕石が破壊された、まさにあのときだ。

 惑星の住人たちは誰も知るところではないが、黄昏地帯に大クレーターができていた。その中心で、黒焦げのエアカーが無残な姿をさらしていた。

 長い時間が過ぎた。突然、エアカーは音を立てて傾いた。それからガタガタと雪崩のように解体してしまった。

 外気にさらされた座席には、煤だらけの少年と少女の体が横たわっていた。

 時が過ぎ、ついに少年が身じろぎした。

「うーん……」

 つられたように少女もまぶたをあける。ふたりはしばらくぼんやりとしていたが、やがて飛び起きた。

「うそでしょ、ここは天国?」

「天国にしちゃあ殺風景だ」

 リリアベルは眉をひそめて、ブルースの頬にそっと手を当ててみる。

「少なくとも現実じゃないわ。だって爆発しないもの」

「いや……」

 ブルースは彼女の手を取り、きょろきょろとあたりを見回した。

「現実だよ。見てみろ、雪が降ってる。これ雪って言うんだろ? 隕石のかけらだ。吹っ飛んだんだ。成功だよ!」

「ブルース!」

 ふたりは岩場に駆けだした。

 実のところ、炎と氷の能力を使い果たしたふたりは、太古の祖先と同じ体質になっていたのである。しかし喜びを爆発させている彼らが、そのことを含めて冷静に頭を働かせることができるのはまだ数日は先のことだ。様々な問題は山積みだが、どういうわけだかブルースには上手くやれるという確信が芽生えていた。

 黄昏の岩場に雪が舞っている。シェルターとなって彼らの命を救った〈コンコルドTu-42〉の残骸も、静かに白に消えていく。

 地平線の東では昼の光がきらめき、西では星々がまたたく。天空は遠大な紺と金のグラデーションを描く。ブルースとリリアベル。この惑星の英雄たちの功績は誰にも知られず、今後も知られることはない。それでも今この世界で最大の幸福を噛みしめているのは彼らだった。

 遥かなる青い太陽リゲルのもと、笑い声がいつまでも響いていた。

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