第149話 消えない火 六

 それより、安行が体調を崩してしまう。医師の診断は過度の飲酒によるものだった。

 怒り心頭の今田が、誰が安行に酒を飲ませたのか、厳しく問いただすも、誰もその様はことはしてないと言う。当然、真之介も呼びつけられるが、その疑いはすぐに晴れ、帰宅しようとした時、またも八千代が呼びつけたそうだ。

 それにしても、安行が寝付いていると言うに、八千代は真之介とどんな話があると言うのだろう。まさか、八つ当たりでもあるまいに…。

 そして、今日の茶会である。八千代の隙を見て、女中が耳打ちしてくれた。真之介が安行の許に来ていることを。

 茶会がお開きとなると亜子つぐこは、ふみから目を離さなかった。そして、ふみに一人の女中が近づくのを阻止した。


ふみ 「ありがとうございます。では、失礼させていただきます」


 丁寧に会釈をし去って行く、ふみの後姿を見れば、ふと妬ましくもあった。今は、安行に対して、サバサバとした感情しか持ち合わせてないが、こうして、互いを気遣う夫婦もいるのだ…。


 一方のふみも、最初に声をかけてきて女中のことが気にならないでもなかったが、亜子の意を酌んだ女中に促されるままに、玄関へと向かえば、そこには、他の奥方たちと談笑している真之介の姿があった。


   「まあ、奥様がお見えになられましたわ」

   「ほんに、いつまでも仲のおよろしいことで」


 仁神家を後にした、ふみと真之介は三浦家へと向かう。今日は二人とも外出するので、息子を預かってもらっていた。


ふみ 「殿のお話はどの様なことでしたの。お体の方はもうよろしいので」

真之介「ああ、快方に向かっておられる。近く、釣りに行かれるそうだ。今度は若

   君もご一緒に」

ふみ 「まあ、それは…。若君は、今日も茶会の席に顔をお出しになられました

   わ。実は、先ほど」


 と、ふみは帰り際に起きたことを話すのだった。


----やはり、そうだったか。


 迎えに行って、正解だった。それにしても、亜子の心配りには感謝の念しかない。しかし、ここまで来たら、ふみにも話をしておいた方がいい。


ふみ 「やっと、寝てくれました。それで、実際のところは、何があったのです

   か」


 その夜、やはり、ふみも気になっていたようだ。


真之介「実はな、あちらのご後室様が、奥を手元に置きたいそうだ」

ふみ 「手元に置くとは?それは、また…」

 

 とっさには状況が呑み込めない、ふみだった。


真之介「側女中が暇を取るで、その代わりにとの申し出である」

ふみ 「その代わりと申されましても、代わりの方はいくらでもおいでになられる

   でしょうに。第一、私には子がいます。まさか、子を置いて…」

真之介「子も一緒でいいそうだ」

ふみ 「えっ、でも、では、旦那様は?」

真之介「今すぐでなくともよいが、いずれは離縁の方向で」

ふみ 「そ、そんな…。それで、旦那様は何と」

真之介「大名にして頂けるのならと」

ふみ 「だ、大名!」

真之介「しっ、声が大きい。子が目を覚ます」

ふみ 「それでは何ですか。大名になりたさに、まさか、まさか、承知されたと

   か」

真之介「落ち着け」

ふみ 「これが落ち着いてられますかっ」

真之介「誰が、そう簡単に大名などなれるものか。いわば、ハッタリだ」

ふみ 「それにしても、どうして、絶対に妻子は手放せぬと、それくらいのこと、

   言ってはくださらないのです。まあ、ひょっとして、本当に大名になりたい

   とか」

真之介「未だかつて、町人から大名になった者はおらぬわ。だから、ハッタリだと

   申したではないか。相手はあの八千代殿だ。私に対する憎悪は計り知れぬも

   のがあると思わぬか」

ふみ 「今は、それほどのことは…」

真之介「何を言うか。考えてもみろ。理由は何であれ、大事な一人息子の髷を切っ

   た男を許せる母親がいると思うか。奥も今は母である。我が子を傷つけた者

   を、そう簡単に許せるか」

ふみ 「でも、今は、旦那様と殿は仲良うしておいでではないですか」

真之介「それが余計にも気に入らぬのだ。思い出してもみろ。あの茶会の最初の目

   的を」


 そうだった。旗本の奥方の集まる席に、今は御家人の妻となっている、ふみの参席を強要した。そこには従姉の雪江と絹江もいた。また、元弟嫁の園江も一度だけ呼ばれたことがあった。

 八千代の底意地悪さを感じつつも、何とかそれらをかわしてきた。ふみも、もう何も知らない旗本の娘ではない。町人上がりの御家人、本田真之介の妻である。まして、相手はそれを承知で、この席に座らせているのだ。ここは、落ち着かなくてはと姿勢を正していた。

 そして、今、ふみも母となった。もう、少しくらいのことで動じない。それくらいの自信は持っている。だが、何と言うこと。そんな、ふみを八千代は手元に置きたいと言う。


----誰が、行くものですか!

ふみ 「では、今日の…」

真之介「おそらく、そうだ」

 

 茶会がお開きとなった時、一人の女中から呼び止められたが、すぐに、亜子が真之介が迎えに来ていると言ってくれた。この女中の話が何であるか、気にはなったものの、亜子に急かされるまま、真之介とともに帰宅した。


ふみ 「殿は、そのこと、ご存じないのですね」

真之介「ああ。それより密花に会いたいと仰せられてな。だが、今、密花は向島の

   別宅の方へ行っており、来月にならぬと帰って来ぬ。そのことをお知らせ

   に。また、尾崎様は新しい釣りの本を持参されて。近いうちに釣りに行くと

   言う話になったと言う訳だ」

ふみ 「ここのところ、お加減が悪かったとお聞きしておりますが、では、お元気

   になられたのですね」

真之介「殿は酒は一日に一合と決められていたのを、つい、飲みすぎて体調を崩さ

   れた」

ふみ 「誰も、お止めしなかったのですか」

真之介「それだ。今田様が怒り心頭で、誰が殿に酒をと、屋敷内すべての者に聞い

   て回られたが、誰もそのようなことを致すものはおらぬ。そこで、私も疑わ

   れた…。本当に殿に酒を飲ませたのは誰だと思う」

ふみ 「誰と申されましても…」

真之介「八千代殿だ」

ふみ 「えっ、まさか。誰よりも息子の体を気遣う母ではありませんか」

真之介「最初は、殿に乞われて、つい、と言うところだろう」


 酒を持っていけば、息子は喜んだ。久し振りの息子との語らいがどうにも楽しくてならない…。


真之介「我が子の健康を願うなら、心を鬼にしてでも阻止すべきではないか。母の

   愛も、一歩間違えば命取りになる。これからは、奥もそこのところをよく考

   えるように」

ふみ 「私は、例え、一人息子であったとしても、決して、甘やかしたりは致し

   ません」

真之介「それは、賢明な心掛けにて…。ならば、今一つ、気を引き締められよ」

ふみ 「八千代殿のことにございますか。それも大丈夫です。あの、ひょっとし

   て、まだ、旦那様の目にも、私が世間知らずの旗本の娘にお見えになるので

   すか。もう、嫌なものはきっぱり嫌と申します」

真之介「左様か。しかし、今は我が息子のことしか頭にないお方。さらに、ご自分

   のなさることは、すべてが息子のためと信じて疑わない方であるからして」

ふみ 「えっ、私のことも、殿と何か?」

真之介「い、いや、その様に思い込みの激しい方だと言うことだ」


 危なかった…。うっかり、ふみを安行の形だけの側室にしようと八千代が企んでいることを話してしまうところだった。


真之介「今後、どのような手を使って来るやもしれぬ。私の留守にあちらから呼び

   出しがあらば、何とする」

ふみ 「それは。きちんとお断りいたします。その、子の加減が悪いとか、実家の

   母も加減が…」

真之介「病人ばかり作ってどうする。では、しばらく実家へ帰られるか。いや、そ

   れだと、理由が…」

ふみ 「実家へ帰った後、子の加減が…。そうです。私の加減が悪くなったことに

   でもすれば」

真之介「父上や母上には、何と説明する」


 義弟の兵馬も口が堅いとは言えない。


ふみ 「とにかく、差し当たって、実家へ帰ってみます。それから、考えて見て

   も…。大丈夫です、私にも知恵はあります」

真之介「では、そうなされよ」

ふみ 「でも、旦那様。私がいないからと言って、あまり羽根を伸ばされませぬよ

   うに、私は帰りたくて実家に帰る訳ではないのですから。いわば、緊急避難

   です。そこのところをお忘れなく」

真之介「そんな、羽根を伸ばす暇があるか」

ふみ 「と、申しますと」

真之介「釣りのお供もあるし、芝居見物と言うこともあるやも」

ふみ 「芝居見物ですか…」

真之介「ここは、殿のお側にいた方が、あちらの動向も耳に入る。とにかく、私も

   明日か明後日には、ご実家に顔を出すゆえ、そこのところは、上手くやって

   いただきたい」

ふみ 「お任せくださいませ。私も母にございます。息子から、父を引き離すよう

   なことは致しません」


 その時の、ふみの顔は母だった。


 翌日は、にわか雨が降るなど、忙しい天気だった。道の舗装などされてない時代、雨が降れば外出は控えがちになる。御多分に漏れず、真之介も子守を押し付けられる。

 子は生むまでも大変だが、生まれてからはもっと大変である。しかし、どうにも泣き止まない息子が、母に抱かれれば泣き止むのだ。改めて、母と子の結びつきの深さを感じずにはいられなかった。互いに、最高の異性なのだろう。

 そして、雨が止めば、ふみと息子を実家の三浦家に「一時避難」することにした。


加代 「何かあったのですか」


 娘や孫と過ごせることは嬉しいが、加代も母である。何か感じ取ったようだ。

   

真之介「いえいえ、また、私が野暮用に振り回されておるような次第にて…。どう

   か、よろしくお願い致します」


 と、金包みを手渡せば、わかりやすい程、笑顔になる加代だった。


加代 「まあ、真之介殿は色々とお忙しい方ですもの。私も、ふみとゆっくり話が

   出来ると言うものです」


 その時、兵馬がやって来た。


兵馬 「兄上、今日はゆっくりと将棋でも差しませぬか。もう、父上を始め、屋敷

   の者とでは勝負になりません」


 父の播馬はともかく、屋敷内の者は兵馬を勝たせているに過ぎない。


真之介「その後、エゲレス語の方はいかがですか」

兵馬 「まあ、何とか…」


 何かやりたいことが見つからないと言う兵馬に、真之介はエゲレス語の習得を勧めるが、そう言えば、兵馬からはその後の話がない。きっと、飽きたのだろう。今は将棋をやっているようだが、この調子ではまた…。


真之介「では、久し振りに白田屋の拮平と話でもされては」 

兵馬 「ああ、白田屋ですか。いいですねえ。今からですか、それとも明日」

真之介「拮平も嫁取りが決まりました。何かと準備もあろうかと。都合の程は、明

   日にでもお知らせします」

兵馬 「そうですか。楽しみにしていると伝えてください」

真之介「承知いたしました。私はちと用がございまして、これにて失礼致します」 

 と、早々に三浦家を後にした真之介と忠助だったが、本田屋の近くまで来た時、思いがけない人物と会う。

 

真之介「密花…」

 

 

 



 










 












  

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