第150話 あさきゆめみし 一

真之介「密花…」


 それは、向島の別宅に行っている筈の密花だった。


密花 「これは、真之介様。ご無沙汰いたしております」

真之介「いや、向島の別宅に行ったと聞いた。帰りは来月とか」

密花 「まあ、よくご存じですこと。いいえ、先日の火事で亭主が帰ると申します

   もので、一緒に帰って参りました。それで、久し振りに、こちらの方へ足

   が向いたと言う訳ですの」


 少し前に火事があった。小規模ではあったものの、知り合いの家も焼けたと聞いた夫は、すぐに見舞いに駆けつけ、優先的に材木の手配をしたものだ。


真之介「左様か。それにしても、久し振りだな。ここで、立ち話も何だから、私の

   実家へでも…」


 思いがけず、会えたのだ。ここは話をしておきたい。その当たりの察しは付いている蜜花だった。真之介とともに、裏口の方へ回れば、ちょうど、白田屋の勝手口の戸が開き、一人の女中が姿を現した。


真之介「拮平に、来るように伝えてくれ」


 女中は、真之介より、側の密花に思わず目が釘付けとなってしまう。


----誰、あの女の人…。


 身なりはすっかり堅気の女だが、それでも、やはり違う…。

 本田屋の裏口から入れば、犬のみかんがしきりに尻尾を振って来た。密花付きの女中は忠助に任せ、二階へと上がる。


密花 「まあ、いい眺めですこと」


 町のほとんどの家は平屋であり、密花の知っている二階からの眺めは、暗い夜の町でしかない。しばらく、外の景色を眺めていた密花だったが、真之介が、話があることくらい察しはついている。ここは座り直して聞くとしよう。その時、お伸が茶を持って来た。


真之介「妹だ」

お伸 「お越しなされませ」


 密花は座布団を降りて手をつく。


密花 「お初にお目にかかります。密花と申します。旦那様にはお世話になってお

   ります」

お伸 「伸にございます。ようこそ。では、あの江戸一番の芸者と言われた、密花

   さんですか」

密花 「まあ、私の様な者をご存じとは、痛み入ります」

お伸 「まさか、それもこのようなところて、お目にかかれるとは…。ああ、これ

   は、お邪魔を致しました。どうぞ、ごゆっくり」


 お伸も兄の真之介が懐かしさだけで、元芸者をわざわざ実家に連れて来たとは思ってない。何か話があるに違いない。


真之介「察しは付いていると思うが、また、会いたいと仰せられてな」


 お伸が下がると、真之介が言った。


密花 「そうは、おっしゃられましても…。いいえ、亭主がうるさいとかではな

   く、これが、逆に面白がってまして」

真之介「それなら、いいのでは」

密花 「いいえ、私自身が、それほどお会いしたい方でもないので…」


 芸者時代、安行をその気にさせたことは確かだが、客の疑似恋愛の相手をするのも芸のうちである。むろん、本気になる客もいるが、そこをうまくかわすのも芸者である。だが、今は引かされた身。また、好もしい男ならともかく、密花にしてみれば、安行など、いけ好かない男でしかない。

 以前にも、真之介に頼まれて一度会ったことがある。あの時、これで最後と、あれほど念を押したと言うに…。


真之介「まあ、気持ちはわかるが。そこを何とか…。いや、本当にこれで最後にさ

   せる」

密花 「本当ですか。何ですか、旦那様もすっかり、あちらの…」

真之介「それもある。それもあるが、あれから釣りなどして、お元気になられてい

   たのだ。それを…」


 と、母の八千代が酒を飲ませてしまった話をする。


密花 「へえ、世には愚かな母親もいるものですね」

真之介「ああ、酒を飲めばお元気だが、飲まなければ何かする気にもならないと

   か…」

密花 「それって、酒中毒じゃないですか。でも、旦那さま。もう、そんなの放っ

   ておけばよろしいんじゃございませんこと。もう、仁神様へは十分尽くされ

   たじゃないですか。そろそろ、よろしいのでは」

真之介「それが、そうもいかぬでなあ…」

密花 「乗りかかった、いえ、乗ってしまった船から降りられない、ですか」

真之介「今はな」


 と、今度は八千代が、真之介とふみの夫婦別れを画策していることを話す。


密花 「まあ…」


 密花にすれば、呆れてものが言えない話だが、真之介の身になれば、決して、笑い事では済まされない。


密花 「でも、旦那さま。その様な時に、殿と私の逢引きのことなど、それこそ、

   どうでもいい話じゃありませんこと」 

真之介「いや、それはそれだ…」

密花 「さいですか。で、今度はどこで会います?また、かっぱ寺ですか」

真之介「そうだなぁ。かっぱ寺でも良し、鰻屋の二階にでもするか」

密花 「嫌ですよ。鰻屋の二階は止してくださいな。鰻がまずくなっちまいます

   よ。いえ、それこそ、食べるどころか、次からは鰻屋へ行く度に思い出しそ

   うですよ」

真之介「そうだったな…。では、ここにするか」

密花 「ここって、ここですか?」

真之介「そう、ここだ」


 こことは、今いる本田屋の二階の客間のことである。


密花 「そうして頂けると、私としても助かります」


 真之介は知らないが、何もないかっぱ寺での安行と二人だけの時は、鬱陶しくもあった。だが、ここは二階である。日頃見なれない二階からの眺めで、話も適当にはぐらかせると言うものだ。


密花 「でも、本当に、これが最後の最後ですからね。そこんとこ、お忘れなく」

真之介「それは、約束する。ここは私を信用してくれぬか」

密花 「はい。では、それって、いつなんです」

真之介「それは、これから」

密花 「早いとこ、片づけちまいたいもんで…」

真之介「わかった。出来るだけ早めにする。そうだ、折角呉服屋に来たのだから、

   ついでに何か見ていくか」

密花 「いいえ、それは、この次、改めまして、ゆっくりと」


その時、階段を軽やかに上がってくる足音がした。拮平だった。


拮平 「あらぁ、やっぱり密花だった…。いやさ、もう、女中が大騒ぎしてさ。真

   ちゃんが、見たこともないような、ものすごくきれいな女の人を連れてたっ

   て。ああ、これは、どうも、ご無沙汰を致しまして…」

 

 と、密花の前に手を付く拮平だった。


拮平 「その節は、本当にお世話になりました。こうして、戻りましたのに挨拶も

   致さず、お詫びの言葉もありません」


 かつて、八百屋お七と同名、同齢、同家業の娘と拮平の婚姻をお芳が真っ向から反対しただけでなく、その後のお芳との軋轢に嫌気がさした拮平は家出を決意する。とは言っても、転がり込む先もなく、また、そんな先ではすぐに嘉平に連れ戻されてしまう。そこで、幇間になる決意をした拮平は、既に引かされていた密花を訪ね、置き屋を紹介してもらうのだった。もっとも、そこも見つかりそうになり、やがては横浜へと都落ちをする。

 その後、嘉平が倒れてしまう。行き先を知っている真之介に呼び戻され、父親の死に目に会うことが出来た。

 あれから、何だかんだでお芳も白田屋を出て行き、折角の新しい恋も、思いがけない別れが待っていた。そして、今…。


密花 「まあ、これは、ご丁寧なことで。いえ、私は、別に大したことは致してお

   りませんのに。どうぞ、もう、お手をお上げくださいな」


拮平 「いや、本当なら、一番に挨拶に行かなきゃいけないのに、あれから、色々

   あって…」

密花 「若旦那も大変でしたわね。でも、見違えましたわ。もう、すっかり、大人

   になられて…」


 密花の知っている拮平はのん気な若旦那でしかなかったが、今の拮平は商家の主の風格すら漂わせているではないか。


拮平 「お陰様で…」

密花 「そうでした。今度、お嫁さんをお迎えになられるそうじゃないですか。お

   めでとうございます。では、もう、若旦那とは呼べませんね」

拮平 「ありがとう…。本当にさ、密花にも真ちゃんにも、みんなに助けてもらっ

   て、ようやくここまで、来れたってとこ。でもさ、まさか、隣の二階で、密

   花に会えるとは…」

真之介「偶然だ」


 その時、亀七が急ぎ階段を駆け上がって来るが、その目線は密花に釘付けだった。

 

亀七 「旦那様!あの、今、お店に、三浦家の方がお見えになられまして…」

蜜花 「まあ、では、私はこれにて失礼致します」

拮平 「じゃ、ついでに、うちに寄っとくれよ。いいね、真ちゃん」

真之介「済まなかったな、よろしく頼む」


 真之介がすぐに階下に降りて行けば、そこには播馬の供侍がいた。

 

供侍 「若旦那様。すぐに、お屋敷の方へ」


 真之介は三浦家では、若旦那様と呼ばれている。


真之介「何があったのです」

供侍 「それが…」












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