第140話 遠く近く… 四

拮平 「とんでもないことって?」

真之介「まあ、いいから座れ。先ずは弥生のことだが、やはり、お里が訪ねて来た

   そうだ」


 弥生は月初めには、借りた金を返しにやって来る。その時に聞いた話によれば、お里は弥生を見つけると笑顔で駆け寄って来たが、弥生には最初はその娘が誰なのかわからなかった。


お里 「まあ、かわいい赤ちゃんですこと」


 思い出した。白田屋に行った時、弥生を睨みつけていた女中だった。それが今はどうだろう。ジョンに引っ張られるままにやって来たと言うが、何か訳がありそうだ。


お里 「あらまあ、うちの旦那様に似てるような…。ああ、いえいえ、これは冗

   談、冗談ですったら」

弥生 「これ、滅多なことを言うでない。白田屋からここまでは距離があると言う

   に、犬の散歩を口実に、それほどまでに仕事が嫌なのか」

お里 「ですから、今日はジョンに引っ張られまして。そうですか、では、失礼致

   します。ああ、たまには白田屋にもお越しくださいませ。赤ちゃんもご一緒

   に。きっと、旦那様もお喜びになられることでしょう」


 と、意味ありげな笑いを見せ、お里は走り去って行った。


 お里のみならず、事情を知っている者なら、弥生の生んだ子は拮平の子ではないかとの疑念が過ったことだろう。急な婿取り、すぐの懐妊である。だが、肝心の弥生はそんなことはおくびにも出さない。


真之介「困った奴らだ。お里は騒ぎを大きくし、お前の縁組を壊そうとしているん

   だろう。佐吉はそのことで、ゆすりをかけて来たようだ」

拮平 「でもさ、俺、言ってやったんだけどなあ…」


 縁組は壊れても構わない。弥生には旗本の坂田が付いている。


真之介「溺れる者は藁をもつかむだ。それより、お里と佐吉の逢引き方法がわかっ

   たぜ」

拮平 「えっ、それってジョンの散歩ついでに」

真之介「まあ、そうだが、何でも屋の二人に目撃されてな」


 ある日の夕刻、仕事帰りの万吉と仙吉はジョンを連れたお里を見かける。仙吉が声をかけようとした時、向こうから若い男がやって来た。


----佐吉…。


 二人は身を寄せるように何やら話し合っていた。やがて、左右に別れて行くが、それでも、振り返り手を振っていた。


万吉 「何だ、あの二人」

仙吉 「ちょいと、訳あり?」

万吉 「まさか…」


 その時はそれで終わった。

 そして翌朝、一人暮らしの高齢者が息子夫婦と同居することになり、その引っ越しの手伝いに呼ばれた万吉と仙吉が呼ばれる。息子は仕事で来られないとかで、赤ん坊を背負った嫁が来ていた。


嫁  「まあ、すまないわねえ。こんなに朝早く来てもらって」

万吉 「いいえ、仕事ですので、朝だろうと夜中だろうと構いませんよ」


 その時、犬が吠えた。


嫁 「また、来てるよ。朝からお盛んだこと」


 見れば、その犬はつながれたまま外に出されていた。


万吉 「すみません、おかみさん。あの犬、いつもああなんですか」

嫁  「いいえ、本当はそこ、空き家なんだけど、大家の婿とかが時々女連れ込む

   んだって」

仙吉 「でも、それ、見つかったらまずいんじゃないですか」

嫁  「さあね、ここの長屋はもう古くて建て替えが決まってんだよ。だから、も

   う、見て見ぬ振りだとか。その大家の娘ってぇのがさぁ…」


 その時、戸が開く気配がした。慌てて三人は家の中に隠れ様子を伺うが、仙吉は思わず声を上げそうになった。

 犬を連れ、出ていく男と女。それは、佐吉とお里だった。

 何と言うことだろう、まさか、あの二人が…。


万吉 「白田屋の旦那に知らせなくちゃ」


 引っ越しも終わり、白田屋へと急いでいた時だった。  


真之介「おい、何でも屋、いいところで会った」


 いいところで会ったのは、万吉と仙吉も同じだった。そして、二人は佐吉が拮平に脅しをかけていることを知り、真之介はお里と佐吉の関係を知るのだった。

 それにしても、拮平の妻の座狙いのお里がどうして、佐吉などと…。


 そして、事態は急展開を迎える。


お恭 「やい、お里!どこにいるんだい!出て来やがれ!!」

女中 「あっ、あの、何か…」

お恭 「何かじゃないよ!おい、お里どこへやった!早く、出しやがれ!」

女中 「あの、それ、どう言うことですか。さっぱり、わからないんですけど…」


 裏口から、いきなり上がり込み、般若の形相で喚き散らす女に、どうしていいのか、おろおろするばかりの女中だった。


お恭 「ああ、お前じゃ話にならねえ。そうだ、お縫、いるだろ」

女中 「いますけど」

お恭 「なら、さっさと呼びやがれ!」

女中 「ですから、どなたですか」

お恭 「つべこべ言ってないで!早く呼んで来い!」

お縫 「何よ、うるさいわねえ」


 お縫がやって来たので、幾らかほっとした女中だった。


お恭 「お縫!一体、どうしてくれるんだい!」

お縫 「誰かと思えば、あの、お恭じゃないか。なんで、私があんたから呼び捨て

   にされなきゃなんないのさあ!」

お恭 「ふん、今は女中頭だそうじゃないか。なら、自分とこの女中くらい、きち

   んと監視しとくんだね」

お縫 「何の話さ。うちの女中がどうしたって言うのさ。もう、あんたにゃ関係な

   い話だろ。お芳さんはもういないよ」

お恭 「だから、お里、出せって言ってんだよう!」

お縫 「お里がどうしたって言うのさ」

お恭 「お里、お里の奴!うちの亭主に手を出しやがった!」

お縫 「ええっ」


 お縫は女中にお里を連れて来るよう合図をする。それにしても、日頃ののんびりゆったりしたお恭の姿から、想像もつかない程の荒れようではないか。


お恭 「お里ぉ!!」


 と、次の瞬間、お里に掴みかかるお恭だった。


お里 「何すんのよ!」


 と、一度はその手を振り払ったお里だったが、それしきのことでお恭がひるむ筈もなく、今度はもみ合いとなるが、お里はお縫が、お恭の方は女中たちがやっとの思いで引き離す。


お恭 「何だい!あんたたちまで、お里の味方すんのかい!」

お縫 「先ずは落ち着きな」

お恭 「これが落ち着いていられるかい!いいかい!このお里はさあ!私の亭主寝取っ

   たんだよう!もう、只じゃ置かないから、邪魔しないどくれ!」

お縫 「邪魔はしないけどさ、そんなの、余所でやっとくれ。私らにゃ関係ないか

   らさ」

お恭 「女中頭のくせして、関係ないだとぉ!大体、お前の監督不行き届きじゃない

   か!人の家庭壊しといて!やい、お里!よくも舐めた真似してくれたもんだ」


 お里は黙ったままだ。


お縫 「お里、それ、本当かい」

お里 「まあね」

お恭 「なにが、まあねだ!この、泥棒猫!」

お里 「何さ、愚図でのろまのくせして」


 またも逆上しそうになるお恭だったが、ここはお縫が制した。


お縫 「お里!いくら何でも、それは言いすぎだよ!」

拮平 「何だい、大きな声出して。そんなんじゃ、店まで聞こえるじゃないか」


 騒ぎを聞きつけた拮平と手代がやって来た。


お恭 「誰だい、この人」


 お恭が拮平を睨んで言う。


お縫 「この白田屋のご主人だよ」

お恭 「へえ、お芳もろくなもんじゃなかったけど、主人も大したことないねえ」

拮平 「お縫、この人、誰」

お縫 「それが、ほら、病気持ちのお恭ですよ」


 さすがのお里も言わなかった最後の部分を口にしたお縫だった。


拮平 「そのお恭、さんが何だって」

お縫 「何でも、お里が亭主寝取ったとか」

拮平 「お里、それ、本当なのか」

お里 「違うんですよ…」


 と、今度は泣き崩れるお里だった。


お里 「この、お恭さんのご亭主に、無理やり…」


 これには、女中たちも驚きを隠せない。


お恭 「何が、無理やりだよう!さっき、認めたじゃないか!いや、ネタは上がってん

   だよ!」

お里 「それは、お恭さんの剣幕に、つい…」

お恭 「とにかく、証人もいるんだから。このアマ!よくも!」


 お恭が再び、お里に掴みかかろうとした時だった。


母  「おきょうぉぉぉ!」


 と、これまた、ものすごい声を発しながら、お恭の母親が飛び込んできた。


母  「だ、大丈夫かい。怪我はないかのかい」

お恭 「おっかさん、お里が、お里が…」


 と、お恭は体を震わせながら倒れ込んでしまう。例の発作が起きたようだ。母親はお恭の口に手ぬぐいを押し込む。痙攣によって舌を噛んでしまうかもしれない。


拮平 「誰か、早く医者を」


 だが、誰も動かない。他の女中たちもお縫から話は聞いていた。発作が治まるのを待つしかないのだ。まして、それを貧血と言い繕う母娘なのだ。


母  「あっ、あの、大丈夫。貧血だから。それより、番頭なら、どうしてお芳さ

   ん呼んで来ないのさ。もう、まったく、ろくでもない男世話してからさ」

お縫 「こちらは、この白田屋のご主人です。それに、お芳さんはもう、うちとは

   関係のない人です。知らなかったんですか」

母  「えっ、そう言や…。でもさ、ここの主人なら、この落とし前どう付けてく

   れるのさ。あんたちの女中が人の亭主、寝取ったんだよ!」

拮平 「では、お里を番屋へ突き出しますか」

母  「番屋へ…。とにかく、お宅の使用人が不始末仕出かしたんだよ。ここは、

   一つ、落とし前付けてもらおうじゃないか!」


 と、お恭そっちのけで凄みを効かせる母親だった。


拮平 「それより、娘さん、このままでいいんですか。おい、何か掛けるもの持っ

   てきてお上げ」


 座布団を枕に薄物を掛けた頃には、お恭の痙攣は治まりつつあった。


真之介「何やら、取込みのようだな」


 その時、まさかの真之介の登場に、皆驚いてしまう。


母  「これは…」

真之介「声をかけても聞こえぬとは、余程のことか」

母  「あの、申し訳ありませんけど、これは町人の男と女の話でして、お侍に関

   係ないことなんで放っておいてもらえませんか。どうぞ、お引き取りを」

お縫 「こちらは、隣の本田真之介様です。旦那様とは子供の頃からの…」

母  「ああ、隣のにわか…」


 その時、お恭が気が付いたようだ。


母  「まあ、お恭!」


 と、母はお恭を抱き起す。


お恭 「あら、何、これ…」

----えっ、いい男…。


 お恭は真之介を何度か見かけたことはあるが、正面からその顔を見たのは初めてだったが、手代の鶴七より、ずっといい男ではないか。お恭は慌てて着物の前を合わせ、立ち上がる。


お恭 「まあ、私、また、貧血起こしたりして…」


 その時、拮平の後ろに隠れているつもりのお里に気が付き、一瞬睨みつける。


お恭 「まあ、どう致しましょう。では、後日、改めまして…」


 と、母に帰るよう促すのだった。


母  「そんな、お恭、まだ、話は終わっちゃないよ」

お恭 「それは、後日、失礼致します」


 と、最後にもう一度、真之介の顔を見すえて言うお恭だった。一同があっけにとられる中、お恭が振り返りつつも歩き出せば、その後を追うしかない母だった。


女中 「何、あれ…」

   「さあ…」


 と、言いつつも、女中たちの目はお里から離れない。


拮平 「お里、ちょいと来な。真ちゃんもお願い」


 そして、二階の拮平の部屋に行く。


拮平 「お里!」


 こうなったら、ここぞとばかりに泣き伏すお里だった。


拮平 「泣いてちゃわからないよ。あの話、本当かい。本当だったら許せないけ

   ど、とにかく、ここは有体に話んだね。泣いて、どうにかなるってことじゃ

   ないだろ!」


 ようやく泣くのを止めたお里が言うには、ジョンの散歩中に偶然に佐吉と会って話をした。その日はそれだけだったが、その後も偶然が続き、あれこれ話をするようになった。実は、お恭は一度結婚していた。


 江戸期の離婚率は武家、町人を問わず、現代のアメリカ並みの高さであった。また、女性の再婚率も高く、逆に、結婚経験者として「優遇」されることもあった。 そんな時代であり、別に隠すほどのことではないのに、なぜか、お恭はそれを隠していたばかりか、前の亭主のものを平気で新しい亭主の佐吉に使わせていた。それが気に入らないと佐吉は言った。そんな二人がうまく行く筈もない。また、佐吉は白田屋のことも聞いてきた。

 お里は、あの後、嘉平が病気になり、拮平が戻ってきたこと、嘉平の死後、お芳は実家へ帰った。近く、拮平が嫁を迎えることなどを話したと言う。

 そんなある日、面白いものがあるからと、誘われるままに付いて行った先で、あっという間に襲われてしまった。


お里 「もう、どうしていいかわからず、その時は、死のうと思いました…」

拮平 「なら、どうして、その時に言わないのさ」

お里 「恥ずかしかったんです」

拮平 「でもさ、その後も続いてたじゃないか」

お里 「だから、言うことを聞かないなら、白田屋へ行って全部話すと脅されたん

   です。そんなことされたら、私、もう…」

拮平 「じゃ、今は恥ずかしくないのかい。お前だって、いずれ、こうなることく

   らい、わかってただろ」

お里 「それが、女房とは別れるって言ってくれたんです。それなら、もう少し、

   待ってもいいかなって」

拮平 「へえ、そうかい。じゃ、そんなお前が何で、弥生さんに会いに行ったの

   さ。これも偶然かい。普通、犬の散歩にあの辺りまでは行かないさ」

お里 「行けって言われたんです」

拮平 「何でだよ。弥生さんと佐吉は何の関係もないだろ」

お里 「これは、これは、佐吉が言ったことです。本当に、佐吉が言ったんです」

拮平 「何を」

お里 「その、ひょっとして、あの弥生様の生んだ子は、旦那様の子じゃないかっ

   て…」


 それで、脅しをかけて来たのか。


----いや、待てよ…。


 かわら版屋が、その程度のことで強請れると思うだろうか。こういう話は、特に女の方が白を切ればそれまでである。生まれた子供が成長して、男に似てくれば問題になるかもしれないが、それは先の話である。それとも、拮平ならそれで強請れると見くびられたのか。

 拮平がちらと真之介の方を見れば、その目は違うと言っていた。

 いつの世も、男と女の間には嘘が付いて回るが、男の嘘は往々にして行き当たりばったりなものである。物事を余り深く考えない。計算高いのは女の方で、すぐに保身に走る。


真之介「それは、お前が佐吉をけしかけたんじゃないか」

お里 「違います!本当なんです!あの男が!」


 繁次からの情報によれば、佐吉夫婦がうまく行ってないことは確かで、結婚歴を黙っていたこともあるが、お恭は地主の娘ではなかった。

 この時代の大家とはその土地、建物のオーナーと言う訳ではない。家賃取り立てなどの管理を請け負っている場合がほとんどである。だが、お恭は親が管理している家作は親のものだと思っていたことだ。

 当てが外れた佐吉は当然面白くない。そんな頃、お里と再会する。当初は互いに愚痴をこぼすだけだったが、やがて、お里が白田屋の妻の座を狙っていることに気づく。女中風情が大店の内儀になどなれる訳もないのに、ひたすら固執するお里が可笑しかった。


佐吉 「おい、お前、色気ねえなあ。そんなんで、旦那狙えるか」

お里 「……」

佐吉 「俺が教えてやろうか。女の色気ってもんをよ」

お里 「でも…」

佐吉 「だから、どの男からも見向きもされねえんだよ。大体、男ってもんは

   よぅ」











































































































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