第112話 出番です!

 市之丞の側に若い女がいたからと言っても、相手はファンかも知れない。こう言う時は、市之丞に営業用の挨拶だけして、通り過ぎるものだ。それくらいのことはお初も心得ている。そして、お初が軽く声をかけようとした時、女がこちらを向く。その女の顔を見た時、驚いて足が止まってしまう。


お初 「えっ、あ、あのあの…」

 

 お初のその様子に市之丞はついにこの時が来たかと言う顔になったが、お夏は訳がわからない。


お初 「あの、こちらは…」

市之丞「ほら、夢之丞の…」

お初 「……」

市之丞「そんなに似てるのかい」

お初 「ええ…」

----まさか…。 


 まさか、真之介と夢之丞ばかりか、ふみとお夏もこんなに似ていようとは…。


----えっ、ひょっとして?


 ここに来てお夏も気が付くが、それは、市之丞が年増の女とも付き合っていると言うこと、その女とはあの真之介の乳母だったこと。それにしても、まさか、こんなところで会おうとは…。


市之丞「お夏ちゃんも夢から聞いてたようだな」

お夏 「ええ…」


 だが、お夏は別のことを思っていた。


----ほんと、姉さんの足元にも及ばない。それなのにどうして、兄さんたらっ。


お初 「本当に、よく似てらっしゃるので。もう、驚いてしまって…。それにして

   も、ご夫婦して、こんなに似ていられるなんて、何か感激してしまいまし

   た。ああ、ごめんなさい。こちらはまだ、お付き合いされているのでした

   ね」

----そうだった。あっちの侍の奥方と私も似てるのだった。そっちか。

 

 お初は、夢之丞とお夏の間に子が生まれていることは知らない。市之丞も余計なことは耳に入れない。


お初 「まあ、つい、驚いてしまったもので、お話の邪魔を致しまして」

お夏 「いいえ、こちらこそ、兄さんと偶然にお会いしたものですから。では、兄

   さん。夢之丞さんによろしくお伝えください」

市之丞「ああ、わかったよ。近い内に逢えるようにするからさ」

お夏 「まあ…」


 と、お夏は娘らしくはにかんでみせる。


----どう、この私の名演技!


お夏 「失礼します」


 お夏は去って行く。


お初 「市さん。それならそうと。知ってたのに、どうして私に教えてくれない

   のよ」

市之丞「どうしてと言われてもさ。俺も夢も真之介旦那にゃ会ったこたあるが、あ

   ちらの奥方にお会いしたこともないのに、迂闊なことは言えねえよ」

お初 「でも、夢さんの、お夏さんが似てることくらい教えてくれたって…」

市之丞「あのさ、夢とお夏のことはまだ大っぴらにゃ出来ねえんだ。夢は今が一番

   大事な時だってことは知ってるだろ。そんな時に女の噂でも出て見ろ」

お初 「せっかくの人気に障る」

市之丞「わかってんじゃねえかよ」

お初 「でも、私にくらい教えてくれたっていいじゃないの。まさか、私がそんな

   に口が軽いとでも?」

市之丞「そうじゃねえ、そうじゃねえけど。ほら、お初は人がいいから…。頼まれ

   りゃ、嫌とは言えねえ、そのやさしさ。この業界にゃ、そんなとこに付け込

   む奴がごまんといる。だからよ、俺んことは何でも話してるけど。夢のこと

   はあんまり知らない方がいいと思ったまでよ。そうだろ」

----もうっ…。

 

 もう、この市之丞の目で見つめられると、何も言えなくなってしまうお初だった。


市之丞「それで、あの奥方とお夏。そんなに似てんのかい。お前、確か、奥方の輿

   入れ前にこっちへ来たんじゃ」

お初 「そうだけど。その後、何度かお会いしてるし、なんたって、ほら、つい先

   日の本田屋のお嬢様と小太郎さんの祝言の時、会ったばかりだからじゃない

   の」

市之丞「そうか…」

 

 そんなこともあり、真之介に会いたくなったお初はこれまた輿入れの決まった、久へ祝いを届けると言う名目で休みをもらい、真之介に会いにやって来たと言う訳だ。


お初 「もう、驚いてしまって…」

真之介「お初、驚くのはもう、それくらいにしとけ。とにかく、ふみの耳に入れぬ

   ように」

お初 「はい。でも、教えて差し上げるくらい…」

真之介「それを知れば、会わせろ何のとうるさい。会えば会ったで何かと…」

お初 「そうでしたわね。あの、仁神の方は本当に大丈夫なのですか。奥方様もお

   茶会に呼ばれていらっしゃるとか」

真之介「それは大事ない。あちらの奥方様が付いて下さっている」

 

 その時、玄関で声がした。


お初 「あら、お帰りになられたようですね」

真之介「お初。くれぐれも、その口、締めておくように」

お初 「はい、かしこまりました」

ふみ 「ただいま戻りました。まあ、お初ではありませぬか」

 

 ふみと久が入って来た。


お初 「お邪魔致しております」

ふみ 「では、二人して、私のことをあれこれと」

お初 「いいえ、久様のことです」

久  「まあ、私が何か?」

お初 「ええ、近頃はめっきりお美しくなられたとか、やっぱりなられたとか、と

   かとか」

久  「まあ…」

お初 「久様、本当におめでとうございます。これは心ばかりの品にございます。

   どうぞ、お納めを」

久  「まあ、お初さんまで…。ありがとうございます」

お初 「いいえ、こちらはおめでた続きで。結構なことではございませんか」


 お房が兵馬の側室となり、その後のお伸と小太郎の祝言に続いて、近く久も輿入れするのだ。


真之介「ご実家の方は変わりなかったか」

ふみ 「ございました」

真之介「何があったと言うのだ」

ふみ 「はい、お房が、よくやってくれております」

久  「それはもう、陽の光が差し込んだようと、殿様も奥方様もお喜びにござい

   ます」

ふみ 「また、姫も立ち上れる様になり、歩き始めるのももうすぐかと」

真之介「それは良かった。それで、兵馬殿は?」

久  「若殿はもう、何か、お房殿に圧倒されているようです」


 お房はたすき掛けで台所でお焼を作ることもあると言う。今日はそれが手土産の返礼だった。そして、お咲がそのお焼を持って来たので、お初もご相伴に預かる。


お初 「でも、さすがでございますわ。奥方様のお目の高さ。良い方をお選びにな

   られましたこと」

ふみ 「いえ、たまたま近くにいただけのことです」

 

 と、言いながらもまんざらでもない、ふみだった。


ふみ 「お初の方も変わりなく」

お初 「はい、こちらのお店のお嬢様もそれは元気に走り回られております」

ふみ 「その、お初の方にも、何か、良き殿御がいるとか…」

お初 「あら、まあ、どう致しましょ。奥方様まで…」


 お初は手にしたお焼を、思わず取り落としそうになる。


お初 「まあ、これは、長居を致しまして。そろそろ失礼をば…」

ふみ 「まだ、何も答えてはおらぬではないの」

お初 「いえ、あの、それは、ご想像にお任せ致します」

ふみ 「私は町方の、そう言うことには詳しくないゆえ、どの様に想像すればよい

   のやら」

お初 「それは旦那様からお聞きくださいませ。では、これにて」

真之介「お初も逃げるすべを覚えたか。いや、ついぞ、お初のうろたえるところな

   ど、見たことないわ」


 真之介の知っているお初はいつも母だった。また、母として自信にあふれていた。それが今はどうだろう。男の話をそれもまさかの、ふみから振られて慌ててしまうとは…。

 そんなこんなで、冷やかされつつも、若夫婦の仲睦まじい様子を喜びつつ、お初は真之介邸を後にした。今夜は本田屋に泊めてもらうことになっている。

 お初が本田屋の裏口から入れば、そこには隣の女中のお里がいた。犬小屋から、ジョンとみかんが顔を覗かせている。


お初 「あら、お里ちゃん。こんなとこで油売ってちゃ駄目じゃないの」

お里 「まあ、そんなぁ。聞いてくださいよ、お初さん。もう、しどいったらあ

   りゃしない…」

 

 と、如何に、お芳がケチであり、人使いが荒いかをまくし立てるのだった。


お初 「お里ちゃん、そんなこと私に言われても…」

お里 「いえいえ、ですから。私、本当は本田屋さんで働きたいんです。それで、

   お初さんから口利いてもらえません?お初さんの口利きなら、こちらのご新造

   様だって、お嬢様、若ご新造様だって、聞いてくださるのでは。その、お礼

   とかも…。まあ、何と、今日のお初さんの特におきれいなこと。何ですか、

   役者さんとお付き合いされているとか。さすがですねえ」


 お初は苦笑するしかない。


お初 「あのね、私はもうここの人間じゃないから。そんなこと言えないわよ」

 

 そう言えば、先日のお伸と小太郎の祝言の時、あの忙しい最中にも女中たちはお里の姿が見えないことを話題にしていた。


女中1「珍しいこともあるものね。あのお里がやって来ないなんて」

女中2「そりゃ、先越されたもの」

女中1「ああ、お房ちゃんにか。ああ、もう、気安くお房ちゃんなんて呼べないん

   だった」

女中2「そうよ、お房の方様だもの」


 真之介の妹、お伸の祝言である。当然、三浦家も招待されている。だが、正直なところ、兵馬はまだお伸が諦めきれてない。だから、お伸の祝言など、行きたくもない。そんな兵馬の心など知る由もないお房と、町方の祝言を楽しみにしている両親に説得され、しぶしぶやって来たと言う訳だ。

 それを知ったお里の方は、兵馬と並んだお房の姿など見たくもない。また、見れば、今度は自分がお房に頭を下げなければならない。同じ様に女中をしていて、取り立てて美しいわけでもないのに、一方のお房は旗本の側室に。自分はキープ要員だった拮平にも去られてしまい、また、その後の白田屋のお芳の変貌ぶりときたら、それはもう筆舌には尽くしがたい。


女中 「まあ、お初さん。あら、お里ちゃん、まだいたの。早く帰らなきゃ、お縫

   さんに、また雷落とされるよ」

 

 本田屋の女中が言うからには、お里の抜け出しはよくあることのようだ。


お里 「ですから、お初さん。よろしくお願いします。本当にお願いしますった

   ら、この通りです」


 と、手を合わせつつ、お里は帰って行く。


女中 「嫌だ、あの子、お初さんにまで頼んでる」

お初 「隣はそんなにひどいの」

女中 「ええ、隣のお芳さんがケチに目覚めたとかで…。まあ、本当のところはわ

   かりませんけど。隣でなくてよかったって、皆そう言ってますよ」

 

 本田屋の者たちは陰では、お芳のことを隣のご新造ではなく、お芳さんとさん付けで呼んでいる。


お初 「そう言えば、うちの弟、あれから…」

 

 ふいに弟のことがお初の頭をよぎる。

 道で市之丞と偶然会い、立ち話をしている時だった。何と、弟、吉造がチンピラ風の男とそれもこちらへ向かって来るではないか。話に夢中で吉造の方はお初に気がついてない様だったが、袂で顔を隠すお初を察した市之丞と歩き出す。

 思えば、市之丞とはそれが縁だった…。

 その後は不思議と吉造に会うこともなく過ごしてきたが、ここに来てなぜか思い出してしまう。


女中 「ええ、来てませんけど。大丈夫ですよ、誰も何も言いませんから」

お初 「いえね。しつこいたちだから、あれでもまたやって来たかなと思って聞いた

    までよ。悪いわね、いつまでも迷惑かけて」

女中 「そんな、迷惑だなんて」

 

 本田屋の人間は皆、お初の苦悩を知っている。


 明くる朝、本田屋を辞したお初は心地いい風の吹く中、渡し場へと向かっていた。そして、ふいに、お初の前に一人の男が立ちはだかる。  

 手土産を抱え、少し俯き加減に歩いていたお初の目の前に男の着物柄が、まるで、行く手を遮る様に飛び込んで来た。一瞬驚きはしたものの、お初が顔を上げれば、それは何でも屋の万吉だった。小柄なお初と長身の万吉では頭ひとつの差がある。


万吉 「お初さん、いいとこで会いましたよ。お見かけしたんで、まさかと思いな

   がら走って来ました」

 

 と、まだ、息の荒い万吉だった。それにしても、万吉が息を切らせるほど、何があったと言うのだろう。


お初 「まあ、久し振りだわねえ」

万吉 「それより、これからどちらへ。どうしてもお耳に入れたいことがあるんで

   すよ」

お初 「えっ、旦那様には昨日会って来たばかりだけど」

万吉 「そうじゃなくて、お初さんのことですよ。あの、ほんと、ここでは何です

   から、うちまで来てもらえませんか。お急ぎですか」

お初 「そうでもないけど」

万吉 「それなら、是非。実は弟さんのことなんです」


 弟のこと…。

 お初が万吉と一緒に何でも屋に行けば、それこそお澄も驚く。


万吉 「偶然、偶然に会ったんだよ。良かったぁ」

お澄 「本当にこれは天の助けですよ」

お初 「それより、弟に何かあったの」

 

 あんな厄病神のような弟でも、やはり、気になるのだ。


お澄 「いいえ、まあ、お座りくださいな」

万吉 「じゃ、後のことは頼んだぜ」

 

 と、万吉はすぐに出て行く。仙吉と一緒に仕事先に出向いたのだが、今日に限って万吉の方がお初の姿を見つけ、仙吉に先に行くように言い、お初を連れて来たと言う訳だ。


お澄 「実は、弟さん、昨日、うちに見えられましてね…」

お初 「吉造が?」

お澄 「ええ、姉さんの行き先調べてくれって」


 その時は、万吉も仙吉もいた。


万吉 「お初さんなら、旦那のご親戚のお店の方に行かれたと聞いてますけど」

吉造 「じゃ、その店知ってるのかい。知ってたら教えてくれませんかねえ。いえ

   いえ、只でとは言いませんよ」

万吉 「これは本当です。本当に、行かれた先の店も所も知りませんから」

吉造 「本当に?」

 

 側で仙吉も大きくうなづく。


----知ってて知らない振りか。まっ、それが商売ってもんか。

吉造 「それなら調べちゃもらえませんかね。こちらは頼めば、何でもやってくれ

   るんでしょ」

お澄 「やりますよ。話によっては」

吉造 「話ったって、弟が姉の行方を知りたいだけじゃないですか。これでも心配

   してるんですよ。何と言っても、たった一人の姉ですから」


 そのたった一人の姉から、二十年近く金を無心し続けたくせに…。


お澄 「でも、調べ事は値が張りますよ」

吉造 「少しくらい、大丈夫だよ」

 

 その金もお初に払わせる筋書きなのだ。


お澄 「そうですか、では、お引き受けしますので、前金を」

吉造 「えっ、前金?」   

お澄 「ええ、縁談の相手の素性や人探しは前金を頂くことになってます。それ

   に、調査日数分もかかりますので」

吉造 「でもよ、調査たって、本田屋さんの誰かから話を聞くだけじゃないの。そ

   れを、前金だなんて」

お澄 「それなら、吉造さんが直接お聞きになればいいじゃありませんか」 

吉造 「いや、それが出来ないから、こうして頼んでんじゃないの。まんざら知ら

   ない仲でもあるまいし」


 お澄と万吉は吉造の顔こそ知っているが、話をするのは、ほぼ今日が初めてである。それを知らない仲とは、聞いて呆れる。


お澄 「でも、本田屋の人達がそう簡単に教えてくれますかね。あの人たちも私た

   ち同様口が堅いですから」

吉造 「じゃ、どうやって、調べるって言うのさ」

お澄 「それは、同業者同士の横の繋がりってもんがありまして。広い様で狭いの

   が世間。意外なところから意外な話が聞けるもんですよ」

吉造 「ふーん、そうかい。じゃ、その横の何とかで何とかしちくれぃ」

お澄 「ですから、こうして前金をお願いしてるんじゃないですか。お互い商売で

   すからね」

吉造 「それで、いくらだい、その前金」

お澄 「そうですね」

 

 と言って、お澄は算盤を入れる。


吉造 「えっ、こんなに!そこをもう少し、何とか…」

 

 今まで、姉のお陰で何とかなってたものだから、何でも何とかなると思っている。


お澄 「他所へ行っても同じですよ」

吉造 「わかった、わかったよ。生憎、今日は持ち合わせがねえんで、いやさ、す

   ぐに持って来るからさ。そん時は早いこと頼むぜ」


 そう言って、吉造が帰って行ったのが一昨日。ここまでお初に話して、お澄はとんでもないことに気付く。


お澄 「お初さん、奥へどうぞ、お茶入れますから」

お初 「あら、ここでいいわよ、それに…」

お澄 「いえ、ひょっとして吉造さんが来るかもしれませんもの。ああ、うっかり

   してたぁ」


 何とか金の都合が付けば、吉造はそれこそ一目散にやって来るだろう。そして、二人が奥の部屋に入った時、勢いよく戸が開く。思わず、ドキッとする二人だった。   


お鹿 「誰も、いないのかい」 


 その声は、隣のお鹿だった。


お澄 「お鹿さんかあ。もう、びっくりしたぁ。一体、どうしたって言うのよ」

 

 お澄が出て来る。


お鹿 「へえ、珍しいねえ。お澄ちゃんが中へ引っ込んでるなんて」

お澄 「お客さんなのよ。そうだ!お鹿さん、ちょいと手伝ってよ」

お鹿 「いいよ。私ゃ、いつだってヒマだからさ」

お澄 「じゃ、留守番しててよ。それで誰か来ても、夕方まで留守だって言ってほ

   しいの」

お鹿 「訳ありの客かい」


 お鹿は奥を覗く振りをして言う。


お澄 「そうなの。だから、お願い」

 

 店はお鹿に任せて、お澄はお初と向き合う。


お澄 「それで、どこまで話しましたかしら」

お初 「吉造がどこかで金の工面を付けてやって来るのではってところ」

お澄 「まあ、少し吹っ掛けましたから、金の工面に戸惑ってるのかもしれません

   けど、どこか、借りる当てあるんですかね」


 おそらく、隣のお辰にでも泣きつくのだろう。


お澄 「そうですか。それよりお初さん。これから、どうされます。こちらとして

   も、見つからなかったと言う訳にも行かないので…」

お初 「それは、相談して…」


 お初は少しはにかみながら言う。市之丞が何とかしてしてやると言ってくれたのだ。


お澄 「あ、ああ、そうでしたわね、そうでした…」


 お澄もすぐに納得するが、すぐに相談できる人が側にいるお初が羨ましい。お澄の夫は腕のいい大工で、ここのところ、単身赴任が続いている。たまに帰って来るがこれまたすぐに出掛けてしまう。


お澄 「それなら、少しでも早く戻られた方が…」

 

 その時、またも勢いよく戸が開く。


吉造 「あれ、誰もいないのかい」

お鹿 「ここにいるじゃないか」

吉造 「婆さん、誰だい」

お鹿 「婆さんとは何だい。そう言うお前さんだって、満更若いって訳でもある

   めぇに、この礼儀知らずの爺ぃ」

吉造 「何だと、誰が爺ぃ何だよう」

お鹿 「それが礼儀知らずって言うんだよ」

吉造 「うるせっ、お前なんかと話してるヒマはねえんだ。こちとら、急いでん

   だい」

お鹿 「だから、夕方まで戻って来ないって言ってるじゃないか。用なら、伝えと

   いてやるよ」

吉造 「いいや、じゃ出直して来らあ」

お鹿 「そうかい、愛想なかったね」

吉造 「ああ、なかった。なくて結構だぜ。ちぇっ」


 吉造が帰り、お澄に呼ばれたお鹿が部屋に入れば、そこにはお初がいた。


お鹿 「あら、お初さんじゃないの、久し振り」

お初 「ご無沙汰してます」

お澄 「お鹿さん、もう一つ頼まれてくれない」

お鹿 「いいよ、私ゃ、どうせヒマなんだからさ」

お澄 「このお初さんを裏から、道のわかるところまで案内してあげ…。いや、

   やっぱり、このまま留守番してて」

 

 お鹿に、後でと目で言い、お初を例のくぐり戸へと誘う。


お澄 「お初さん、こちらへ」

 

 何でも屋とその裏手の家の間には細い溝がある。その溝の淵は片足ずつなら辛うじて通れる。とは言っても、元から戸が付いている筈もなく、何でも屋は台所の隅にくぐり戸を作った。夏はここから風が入って涼しいのだ。それを見た隣のお鹿が同じのを作ってほしいと言う。単に夏の涼を取るための戸でしかないが、これでも何かの時には役に立つことがある。 

 以前、拮平が江戸を離れるために実家へ立ち寄れば、案の定、店の者に後を付けられるが、この溝道でうまく巻き、真之介とも会うことが出来た。

 お初も何でも屋にこんな「仕掛け」があることは知らなかったが、すぐにお澄に後に付いて行けば、用心しながら、渡し場まで送ってくれた。


お澄 「では、連絡お待ちしてます」

お初 「本当にありがとうね」


 さあ、ここからは、あの役者兼戯作者の中村市之丞の出番だ!

 あの時、何とかしてやると言ってくれたではないか…。

















































  












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