第113話  待ちつ、待たれつ…

 お初はすぐにでも、市之丞に逢いたかった。舟の進みが遅く感じられる。店に戻れば、主人がいたので、事の顛末を話す。


主人 「そうかい、そりゃ大変だねえ。それで、どうするつもりなのさ」

お初 「はい、市之丞さんに相談してみようかと…」

主人 「でも、あの人も今、忙しそうじゃないか」

お初 「ええ、でも。前々から、何かあったら、特に弟のことで何かあったら、い

   つでも言ってくれって、言われてますもので…」

 

 と、お初は恥ずかしさと、誇らしさに身がよじれそうだった。今まで、主人の前で市之丞の名を口にしたことはない。


主人 「それならいいけど…」

 

 店の主人にしてみれば、お初とのことは、最初は女好きの市之丞の気まぐれくらいにしか思っていなかった。だが、最近の市之丞は役者をこなしつつ、舞台演出、若い踊り手の面倒と忙しくなったせいか、遊びも以前ほどではなく、自然消滅した女もいる中で、不思議とお初とだけは続いているのだ。


----これで、意外と相性がいいのかもしれない。

主人 「まあ、もし、何だったら、店を移ったと言うことにしてあげてもいいよ」

お初 「ありがとうございます。まあ、一応は伝えませんと…」

主人 「そうだね。じゃ、誰か使いにおやりよ」

お初 「はい、ありがとうございます」

 

 そして、使いの小僧に、きつく言い聞かせるお初だった。


お初 「いいかい。私が、お初が、あの弟のことで困っている。もう、すぐに、至

   急逢いたいって。ここのところをきちんと伝ええるの。伝えてちょうだい。

   いいわねっ!」


 と、使いの小僧に小遣いを渡す。いつもより多い額に気を良くした小僧は元気いっぱいに言うのだった。


小僧 「はいっ。頭を下げてしっかりお願いしてきます。もう、お初さんが倒れそ

   うで見てられないと!」

お初 「その調子!」

 

 だが、何事も待つ身の辛さよ…。  


 その頃、何でも屋には再度やって来た吉造が、お鹿を前にお澄の帰りを苛々しながら待っていた。

 

吉造 「まだかよ。一体、いつまで待たせる気なんだ。それで、どこ、行ったっ

   てぇ?」

お鹿 「知らないよ。いつだって留守番お願いね、だけだもの。遅くなる時は遅く

   なるって言うけど。そんでさ、今日はその遅くなる日。間が悪かったと思っ

   て、黙って待つことだね」

吉造 「これが黙って待ってられるかいってんだ」

お鹿 「へえ、そうかい。黙ってられないのかい。じゃあ、聞いてやろうじゃない

   か。話して見な」

吉造 「おばさんにゃ、関係ない話」

お鹿 「誰がおばさんだってぇ。お前さんと大して齢ゃ変わらないと思うけどさ」

吉造 「ああ、もう、俺もおじさんなんで」

お鹿 「あのさ、それだったら少し年上の女には、姉さんと言うもんだよ」

吉造 「ったく、うるせえ、ババアだなあ」

お鹿 「それがいけないってんだよ!」

吉造 「うるせえな。ちょいと黙っててくれねえかい」

お鹿 「何さ、お前さんが退屈してるから相手になってやってんじゃないか」

お澄 「ただいま。まあ、お鹿さん、ちょっと聞いてよ」


 と、お澄が帰って来れば、お鹿も立ち上がる。


お鹿 「なになに、何があったのさ。おや、いい目刺しじゃないか。どこで買った

   んだい。えっ、道で売ってたってぇ」

お澄 「それでさ、これ、お鹿さんの分。いつも留守番してもらってるからさ」

お鹿 「そうかい、済まないねえ」

お澄 「いいのよう」

吉造 「あのよう!こちとらさっきからずっと待ってんだい、いい加減にしろい!」


 しびれを切らした吉造が声を張り上げる。


お澄 「まあ、吉造さん、いらしてたんですか、それはそれは…」

お鹿 「じゃ、私ゃこれで、帰るからさ。お邪魔様」


 と、お鹿がもらった目刺しを吉造に見せながら帰って行く。


吉造 「全く忌々しいババアだぜ。それより、これ」


 吉造は懐から金を取り出す。


お澄 「まあ、これはこれは。では、今、受け取りを書きますんで」

 

 と、お澄は奥へ行こうとする。


吉造 「おい、ここに硯あるじゃねえかよ」

お澄 「ええ、先ずは台所に目刺し置いて、それから判子持ってきます。まさか、

   目刺しの側で拇印て訳にゃ行きませんでしょ」

吉造 「そうかい、だったら、早くしちくんな」

お澄 「少々お待ちを」

 

 台所へ目刺しを置き、部屋へ入ったと思ったのも束の間、お澄の声が響く。


お澄 「あらぁ、どこへ行ったのかしら。私の大事な判子ぉ。ちょいとぉ、居たら

   返事してよぅ。おうい判子ちゃーん」

 

 それを聞かされている吉造のイライラはつのるばかりだった。


お澄 「まあ、すみませんねえ。本当に、この判子、足が付いてるんじゃないかと

   思うくらい、移動が激しいんですよ」

吉造 「ちゃんと、仕舞っておきやがれ」

お澄 「はい、以後気を付けます、と、この判子が申しております」

吉造 「それより、早く受け取りを」


 お澄が受書を書いて渡せば、それをじっくり眺める吉造だった。


----へえ、こういうことは、きっちりしてんだねえ。

お澄 「それと」


 吉造が受書を懐に仕舞うのを見てお澄が言った。


吉造 「ああ、すぐにも調べてくれるんだな。とにかく、早いとこやってくれよ」

お澄 「ええ、早速明日から、かからせてもらいますけど」

吉造 「けど?けどじゃねえよ。とにかく、こちとら急いでんだい」

お澄 「支払いの方も、その時にお願いしますね」

吉造 「えっ?ああ、あ、そうかい。う、うん。まあ、何とかするからさあ。とにか

   く一時も早く…」

お澄 「まあ、最低でも、後、二両はご用意ください」

吉造 「に、二両!?前金の上に、まだ、そんなにぃ。いくら何でもそりゃ、ちと…」

----阿漕なのかってぇ。阿漕なのはお前の方じゃないか!

お澄 「身元調査ならともかく、人探しなんですから、そりゃ、時間と労力を要し

   ますよ。それとも…」

 

 お澄は、胸元に仕舞い込んだ金を取り出そうとする。


吉造 「い、いや、そう言う訳じゃねえが。もちっと、安くならなねえもんかなあ

   と思ってよう」


 いくら、お初に支払いをさせるにしても、あまりに高額だと差し当たっての自分の取り分が少くなっしまう。


お澄 「ですから、最低でもと言ったじゃないですか」

吉造 「うーん…」

お澄 「人探しって大変なんですよ。それこそ、他の仕事断ってでもあちこち捜し

   回らなきゃいけないんですから。それに、すぐに見つかるって保証はありま

   せんもの」

吉造 「まあ、いいだろう。その代わり、早いとこ、見つけてくれよ」

 

 お初の居所さえわかれば、後は何でもなる。さすがに少しは嫌味を言うだろうけど、その時は女房が子供が病気とでも言えばいい。


----この二年、さぞかし貯め込んでいることだろう。


 と、思わず口元がほころぶ。

 そんな吉造が帰ると、お澄は台所から塩壺を持ち出し、戸を開け塩を撒く。


万吉 「そんなことだろうと思った」

仙吉 「ま、気持ちはわかりますけどさ」


 左右から、お澄の前に立ちはだかる、万吉と仙吉だった。


お澄 「それがさ、今ね」

万吉 「ああ、その先で会ったさ」

仙吉 「きっと、姉さん、塩でも撒くじゃないかって」

お澄 「もう、忌々しったら、ありゃしない…」

万吉 「わかったから、晩飯」

お澄 「すぐに用意するからさ、仙ちゃん、代わりに塩撒いといて」


 お澄は仙吉に塩壺を渡す。


万吉 「今夜は何だい」

お澄 「目刺し」

万吉 「またかい!例の前金が入ったと言うに、目刺しとは…。元気でねえなあ」

お澄 「ああ、明日、張り込むからさ」

万吉 「そうかい、そうこなくっちゃ」

仙吉 「じゃ、鯛に鮃が所狭しと並んでるとっ、期待してやすよ、姉さん」


 塩を撒き終わった仙吉が言った。


お澄 「そうだね。絵に描いとくよ」

 

 と、こちらはいつもの夕飯が始まるが、一方のお初は落ち着かないことこの上ない。当時の芝居は早朝から始まり、夕刻には終わるし、今月の市之丞の出番は八つ(午後3時)頃には終わる筈なのに、未だにやって来ない。もっとも、ここのところ、中々逢えないのだ…。

 多くの弟子たちを抱え、忙しいのはわかるが、他でもないお初の一大事なのだ。こんな時にはすぐも駆けつけてくれると思っていた。

 ひょっとして、また、あのお駒のところへ…。

 お初がいくら頑張ったとて、お駒に勝てる筈もない。お駒はまだ若く、何より、仕事上の大事なパートナーなのだ。お初も市之丞の筆名、春亭駒若がお駒から付けたことくらい今は知っている。

 だが、今はお駒への嫉妬ではなく、お初の危機なのだ。それも、その時には何とかしてやると胸を叩いた市之丞ではないか。それなのに、待っても待ってもやって来ない…。 

 そんな中でも、お初は店の片づけをテキパキとこなしていた。いや、じっとしてられないのだ。


お初 「本当に、ちゃんと伝えてくれたんだろうねえ!」


 つい、使いに出した小僧にも当たってしまう。


小僧 「伝えました、本当です」


 小僧は困った顔をしている。そして、やっと、市之丞から連絡があった。だが、それは芝居小屋から少し離れたところにある神社近くに来いと言うものだった。

 こんな時に、それも大事な時に、そんなところへ呼び出すとは、と、胸の内で悪態をつきながらもお初は急ぎ駆けつけるのだった。


お初 「市さん…」

 

 お初はすぐにも市之丞に縋りつきたかったが、いつ、どこにどんな人目があるかもしれない。それでも側に行けば、込み上げてくるものがあった。


市之丞「一体、どうしたと言うんだい」

お初 「それが、どうもこうもないんだよ。もう、私、どうしていいかわからな

   い。でも、市さんがそん時ゃ俺に任せろって言ってくれたでしょ」

市之丞「だから、何があったってんだ」

お初 「だから、大変なんだって」

市之丞「おい、少しゃ落ち着いて話しな。子供じゃねえんだから、話ってもんは順

   序立てて言うもんだよ。それで、いつ」

お初 「こないだ、ほら、久様のお祝い持ってた日のこと」

市之丞「どこで」

お初 「その帰り道」

市之丞「誰が」

お初 「何でも屋の万ちゃんとばったり会ったの」

市之丞「それで、何を」

お初 「それがぁ。もう、どうしたらいいのよぉ」

市之丞「だから、何でも屋が何だってぇ」

お初 「そうだった。あの、弟がさ、何でも屋に私の居場所調べてくれって来たん

   だって…。まあ、何でも屋も商売だから、調べない訳には行かないとか言う

   から、だから、私、言っちゃったの。相談したい人がいるって…。そした

   ら、その時、お澄ちゃんが気を利かしてくれて座敷で話してたのよ。そした

   ら何と、吉造が前金もってやって来たの。ああ言うのって、前金取るんだ

   ね。お澄ちゃんもしっかりしてるから。それよりもう、びっくりしちゃっ

   て…。もう少しで鉢合わせするとこだったんだからさぁ」


 いつにない、お初の飛び飛び話だったったが、それだけ焦っていると言うことだろう。


市之丞「それで、その弟がいつやって来るって」

お初 「それはまだ。いえね、何でも屋は出来るだけ引き伸ばすって言ってくれた

   んだけど、もし、やって来たらどうしよ、どうしよ。ねえ、市さーん、私、

   どうすりゃいいのよぉ」

市之丞「……」

お初 「そんな、黙ってないで、何とかしてやるって言ったじゃない…」

----そんなこと言ったっけ…。


 男は自分の言ったことをすぐ忘れるが、女は忘れない。


市之丞「わかったから、その手、放しな」


 先程から、市之丞の腕をつかんで離さないお初だった。


お初 「それじゃ、どうしてくれんのさ」

----ひょっとして、どこか、別のところへ住まわしてくれるとか…。それって、もしかして囲われ者ってこと?それでも、いや、それなら、最高!


市之丞「考えてみる」

お初 「考えて見るったって、出来るだけ早くって言われてるんだよ」

市之丞「少しは俺にも考える時間くれよ。何も今日明日にもやって来るって訳じゃ

   ねえんだろ」

お初 「そうだけど、もう、私、もう、どうしたらいいのか…」

市之丞「だから、少し時間くれって言ってんじゃないか。いくら、戯作物書いてる

   からって、今すぐ、どうのこうとは思い付かないさ。それもお初のことじゃ

   ないか、慎重にもなろうって言うもんじゃないか」

お初 「うん…」

市之丞「今夜、じっくり考えて見るからさ。今日のとこはこれで」

お初 「そんな…。久し振りに逢えたって言うに、そんなの嫌!」

市之丞「嫌と言われても、俺は仕事いっぱい抱えてて忙しんだよ」

お初 「そんなの、萩ちゃんと荻ちゃんに任せときゃいいじゃないの」


 夢之丞は役者で忙しい。今はその下の萩之丞と荻之丞が集団舞いのメンバーの面倒を見ている。それもこの二人にほとんど丸投げしているとか…。

 お初は、市之丞の腕をがっちりとつかみ歩き出す。


----このまま帰ろうたって、そうはいかないよ!


 市之丞は頭が痛い。お初に何とかしてくれ、任せろと言ってくれたではないかと泣きつかれれば、放っておくことも出来ない。何となく、別れるきっかけのないままに関係を続けて来たお初だったが、弟子たちにも気遣いしてくれ、何より、着物の仕立の腕がいいのだ。とにかく、ここは何とかしなければならない。そこで、市之丞はひいきの旦那から頼まれたこととして、お駒に相談する。


お駒 「そんなの、簡単じゃない」

















   









 


































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