第90話 遠い日…

 安行の側室、お美代の方が待望の男子を産んだ。それも父の四十九日に当たる日に。

 例え、高貴な方が亡くなられたとしても、いつまでも悲しみに沈んでいる訳にはいかない。生きている者は、これからも生きて行かなければならないのだ。初七日を過ぎるころには、それまでと変わらぬ日常を取り戻している。

 そこに、新しい命が誕生したのだ。それも跡継ぎの男子が。仁神家は一気に沸き立つ。お美代の出産のこともあり、四十九日の法要は早めに済ませていた。

 早速に真之介とふみも祝いの品を持参する。


八千代「これはご丁寧に」

 

 さすがに八千代も機嫌がいいと思ったのも束の間、言うだろう、言われるだろうと思っていたことをそのままに言う。


八千代「ふみ殿は、まだですか」

ふみ 「はい…」

亜子つぐこ 「母上、せっかく祝いに来てくれたと言うに、また、その様なことを…。あ

   あ、母上のことは気になさらずに、いつものことです」

八千代「いつものこととは何ですか、私はふみ殿のことを案じて言ったまでのこ

   と」

亜子 「左様でございましたか、私も母上を案じて申しているのでございます。こ

   このところ、ずっとお疲れでしたから」

八千代「疲れてなどおらぬ」

真之介「では、殿は?」

 

 そう言えば、安行の姿がない。祝い客もやって来る、何よりも男子が生まれたことを一番喜んでいる筈ではないのか。


亜子 「いえ、殿はここのところ、何やら気鬱の様で」

八千代「気鬱などではないわ」

 

 我が子の誕生よりも、何を…。


----密花…。


 そして、帰り際に、真之介は安行の年嵩の供侍、今田に呼び止められる。


真之介「今田様」

今田 「殿が…」

 

 真之介はふみに先に帰るように言い、今田に付いて行く。通された部屋は今は仁神家の当主となった安行の居室だった。そこに、安行は座っていた。


真之介「これは殿、ご無沙汰致しております。また、この度は若君ご誕生誠におめ

   でとうございます」

安行 「それはかたじけない。世間は変わりないか」

真之介「それが…」

安行 「何だ、申して見よ」

真之介「実は、密花が身請けされましてございます」

安行 「左様か、して、どちらへ」

真之介「材木問屋の方へ…」


 安行は黙って寂しそうな顔をしているだけだった。思えば、安行のこんな寂しそうな顔を見るのは初めてだ。いや、この男にこんな表情があったのかと思ってしまう。

 上にはへつらうが、自分より下となれば、その全てを見下し、気に入らなければ暴力で打ちのめして来たような男なのだ。

 それが今の顔は、せせら笑いのお陰で上がっていた右の口角が、まるで行き場を失ったかのように垂れているのだ。

 そんなにも、密花を思っていたのか…。


真之介「実は、密花より書状を預かっております」

 

 真之介は懐から手紙を取り出し、今田へ、今田から安行へと渡るが、安行はその手紙を懐に入れたかと思えば、すぐに立ち上がり、部屋を出て行く。

 そして、真之介と今田の二人が残された。しばし沈黙の後、意を決した今田が重い口を開く。


今田 「これは、本田殿を男と見込んでの話である。決して、他言無用に願いた

   い。例え、お身内であろうと。お主も男であり、武士であるなら、秘密は

   守って頂きたいが、よろしいか」

真之介「承知致しました。決して、他言は致しませぬ。刀にかけて…」

今田 「殿は、今ご病気であられる。どこかに良い医者はいないものか」

真之介「ご病気とは…。しかし、それならご当家には掛かり付け医がいらっしゃる

   ではないですか」

今田 「その医者に掛かれぬから、こうして頼んでいるのだ」

真之介「それは、どの様な訳で…」

 

 今田の顔は苦渋に満ちていた。それにしても、掛かり付け医にも言えぬ病とは…。


今田 「実は、先日、殿は吉原へ行かれた…」

 

 安行が吉原へ行ったとて別に不思議はない。


今田 「それも、供は私一人。裏口より抜け出てな。だが、私とて吉原なるところ

   は不案内。事前に近くへ行き、内情のわかる男を待たせていた。だが、駄目

   であった…」

 

 駄目?駄目とは何が駄目なのか。案内人まで用意しながら、駄目とは。悪質な案内人に当たったので、今度は真之介にでも案内しろとでも言うのか。

 それにしては、今田の顔は暗く口も重い。


今田 「お主も男ならわかるであろう。いや、わからぬか。だが、察することはで

   きるはずだ。男があのような遊女を前にしてもダメと言うことは…」

 

 一瞬、何か、すごいことを聞いたような気がした。いや、実際、凄いことだった。


----まさか!?


 真之介は咄嗟に言葉も出ない。

 そんな、そんなことが…。

 何より、安行はまだ三十前ではないか。そんな男盛りが生身の女を前にしても駄目とは…。

 だが、それこそ、先ずは医者ではないのか。また、どうして、そんな難題を、真之介の様な若造にぶつけてくるとは…。


今田 「そのことを知っているのは、私と、今はお主だけである。決して他言する

   でない。それより、知り合いに医師はおらぬか。また、お主の姉は薬種問屋

   に嫁いでいるとか。何か、良い薬はないか聞いてくれぬか」

真之介「はい。ですが、私の知りおる医師は町医者にございます。それで、よろし

   ければご案内いたしますが…。また、姉の方へも問い合わせてみます。しか

   し、今田様。その様な町医者より、こちらの掛かり付けのお医師の方が腕も

   確かかと存じます…」

今田 「殿は、そのことをお母上に知られたくないのだ。いや、すべての女性にょしょうに知られたくな

   いのだ。確かに医師には守秘義務があり、むやみに他言する訳もないが、

   お母上からどうしてもと言われれば、黙ってもいられまい」

 

 そうだったのか…。


今田 「そこで、お主の力を借りたい」

真之介「わかりました。しかし、今田様。それは、その、どの様な具合といいます

   か、いえ、医師にも事前に、知らせておいた方が、よろしいかと…」

今田 「そうであったな」

 

 と、今田は思わずため息をつく。


今田 「それが、ある朝突然のことだそうだ。その時は、疲れたのかなと思い、そ

   れ程気にもされなかったようだが、それから、ずっと。今は女を見てもその

   気になれぬとか…」

真之介「はあ…。では、これより立ち戻り、出来るだけ早く都合を付けるよう計ら

   います。その時は、私と夜の町へ行くと言うことに致しましょう」

今田 「それは助かる。が、何分にも内密に…」

真之介「かしこまりました。決して、他言は致しません」

 

 帰り道、真之介は気が重かった。別に医者の手配のことではない。

 あの密花の手紙のことだ。まさか、安行が男としての自信を無くしているとは、つゆ知らず渡してしまったあの手紙。

 実は、あの手紙は密花が書いたものではない。本当はお駒が書いたものだ。

 事前にその手紙を読んでみたが、それは、せつない女心がつづられた別れの手紙だった。

 誰が書こうと、安行が密花の手紙だと思っていればそれでいい筈だったが、安行の体の状況を知った今は、なぜか心が痛む。

 それにしても、まだ若い男が、その様になってしまうとは…。

 医者宅に着いた頃は夕暮れだった。


若医者「真ちゃんじゃないの。えっ、どっか悪いのかい。ちょうど本日の診察も終

   わったところだから、特別に見てあげるよ。さあ。上がって上がって」

真之介「親父殿、大先生は?」

若医者「まだ、診察中」

真之介「代わってくれぬか」

若医者「駄目だよ、ご指名だから。もう、俺だって一人前の医者なのに。若いと言

   うだけで、指名も付かないんだからさ」

 

 医者と坊主は古い方がいいと言われていた時代である。


若医者「あっ、真ちゃんだってそうじゃない。俺より親父の方が経験豊富でいいと

   思ってやって来たんじゃない」

 

 確かにその通りである。また、若い医師が太刀打ちできるような病ではない。


若医者「ねえ、どこが悪いの。診てあげるから、さっ、着物脱いでよ」

真之介「お前のところはすぐに脱がせるのか」

若医者「そんな、真ちゃんと俺の仲じゃない。遠慮はなしよ」

真之介「遠慮するわ。それに、今日は相談にやって来たのだから、ここで待たせて

   もらう」

若医者「そう、そりゃ、残念。昔はよく一緒に湯に行ってたけど、ここのところ

   さっぱり、真ちゃんの裸見てないからさ」

真之介「気持ち悪いこと言うな。さては、女に飽きていよいよそっちへ走ったか」

若医者「そりゃないけど、たまには一緒に湯に行こうよ」

真之介「いやだ。金輪際、お前とは行かねえ。それより、冗談はそのくらいにして

   くれ。こっちは大変なんだ」

若医者「そう。じゃ、ちょっと見てくれるわ」

 

 若医者は真之介を残し部屋を出て行く。医者になっても、真之介たちの前では昔と変わらないが、これで患者の前では真面目くさった顔になるのだ。やがて、親医者がやって来た。


真之介「ご無沙汰しております」

親医者「これはお変りもなく、色々武勇伝も受けたまわっております。それで、今

   日は何かご相談とか」

 

 その時、若医者が茶を持って来る。


真之介「これは若先生、お手ずからとは恐れ多いことで。そこで、ついでと言って

   は何だが、決して、人を近づけぬよう、ご配慮いただきたい」

 

 若医者は黙って部屋を出て行く。

 ここに来る道すがら、どのように話を切り出そうか思案をしていたが、この期に及んでも、何か空恐ろしい…。


親医者「何か、お悩みでも」

真之介「はい。これは、私のことではなく、さるお方のことです…。ある朝突

   然、その、女人に関心を持てなくなったとか…」

親医者「まだ、お若い方ですか」

真之介「はい、まだ、三十前かと。それが、そのことを誰にも知られたくない、特

   に女の方には知られたくないそうで。それ故、掛かりつけ医にも相談できぬ

   とか。そこで…」

親医者「わかりました。一度、お越しになられるようお伝えください。とにかく、

   会ってお話を聞かない事には、何とも申し上げられません」

真之介「はい、その様に伝えます。それと、決して、誰も近づけぬようご配慮願頂

   きたいのですが…」

親医者「その様に取り計らいますので、ご安心なさってください」

真之介「よろしくお願いします」

 

 と、思わず頭を下げる真之介だった。


真之介「おい、絶対、口外するなよ。そして、誰も近づけるな。いいか、わかった

   な。お医師殿」

 

 真之介は玄関まで送りに来た若医者を睨みつけながら言う。


若医者「何言ってんだい。こちとら、江戸っ子だよ。医者だよ。何でも屋以上に口

   は堅いぜ。頼まれたことはきちんとやるからさ、まかしときってんだ」

真之介「おお、それ聞いて安心した。じゃあな、頼んだぜ」

若医者「でも、真ちゃんのことでなくて良かった。まだ、子供もいないのにさ、そ

   んなことにでもなったらと思うと…」

真之介「しっ、声が大きい。この話はもう無しだよ」

若医者「はい、提灯」

 

 医者宅を出ると、もう日は暮れていた。少し風があり、提灯が揺れる。ふと、安行は今こんな心境だろうか、いや、もう、既に…。

 幸い安行には、側室に男子が生まれ、先ずは一安心と言うところだが、いくら子が生まれたからと言って、男としてはやり切れないだろう…。

 人の性格はそう簡単に変わるものではない。

 女を遊戯感覚で襲ってきただけでなく、気に入らなければすぐに暴力を振るう。そんな野郎が、もしこのまま男として生きられないとしたら、逆に、その凶暴性に拍車がかからないとも限らない…。 

 どちらにしても、厄介なことではあるが、乗りかかった舟から降りる訳にもいかない。

 気の重いまま家に帰り、夕食が済めば、やはりふみが聞いてくる。


ふみ 「殿のご様子はいかがでした」

 

 ふみも密花の手紙のことは知っている。

 ある日、何でも屋の万吉が大事そうに小さな箱を抱えてやって来た。


万吉 「お駒姉さんからです」

真之介「ご苦労。まあ、茶でも飲んで行け」

万吉 「ありがとうございます。あら、お房ちゃん、今日もかわいいね」

お房 「それはどうも。そう言ってくれるだろうと思って、はい」

 

 お房は茶と共に饅頭も出す。


万吉 「まあ、これは気が利いてんだか、いないんだか。でもさ、悪いけど、まだ

   これから仕事あんの。でも、せっかくだから」

 

 と、万吉は茶を飲み、饅頭を懐に帰って行く。

 真之介は箱を開ける。中には手紙が入っていた。そっと中の文面を取り出し読み進めれば、思わずため息が漏れる。


真之介「はぁ…」

 

 そして、その時は笑いが込み上げて来た。


ふみ 「何か、その様に面白きことが書いてありますの」

真之介「いや…」

 

 と、真之介はその手紙を、ふみに渡そうとする。


真之介「ああ、気を付けて読んでくれ。大事な手紙だからな」

 

 だが、ふみはこの手紙が誰に宛てて書かれたものか咄嗟にはわからない。


ふみ 「まあ…」

 

 文面の終わりの方に来て、やっとその手紙の内容を理解できた。そして、やはり、手紙が気になる久に手渡しながら、真之介と同じことを言うのだった。


ふみ 「大事な手紙ですからね」

久  「はい」


 読み終えた久は黙ったまま手紙をきれいに畳み、真之介に返す。


久  「本当に、ため息ものです…」

ふみ 「この様な手紙が書けるとは。えっ、でも、これはお駒と言う人からの…」

 

 手紙には密花から安行への切ない別れの言葉がつづられていたのに、万吉はお駒からだとか言っていた。


真之介「代筆だ。それにしても、さすが戯作者である」

 

 密花は手紙、それも恋文の類が苦手だった。とは言っても、色町には代書屋がいる。芸者たちは余程のことがない限り、客への「恋文」は代書屋に頼む。

 そんな折、真之介とお駒は偶然に合う。


お駒 「旦那、ご無沙汰してます」

真之介「姉さんも相変わらず、いや、ますます女っぷりに磨きがかかったのではな

   いか」

お駒 「それは、嬉しいことを。いいえ、そう言ってくださるのは旦那だけです」


 二人は近くの茶店に腰を下ろす。


お駒 「ところで、最近、何か面白そうなこと、ないですか」

真之介「久しぶりに会ったと言うに、すぐに仕事の話とは」

お駒 「ええ、ですから、戯作者なんぞと関わり合うと、ろくなことがないってこ

   とですよ。でも、ここで会ったが百年目。何か聞かない限りは帰しません

   よ。何てたって、旦那はネタの宝庫ですから」

真之介「残念ながら、近頃は何もない」

お駒 「まったまた、知ってますよ。近頃、とんでもないお方と夜の町へ…」

真之介「さすが、地獄耳だなぁ」

 

 そこで、真之介は安行が蜜花にご執心なこと。だが、蜜花には身請け話がある。また、安行は父親が病気のため、思うように外出できなくなっていることなどを話す。


お駒 「密花さんの身請けはもう決まったんですか。だとしたら、どちらへ」

真之介「材木問屋だ」

お駒 「そうですか…」

真之介「ところで、その密花からの別れの手紙。代筆してやってくれまいか。あの

   密花と言う芸者、顔に似合わず、手紙は苦手、字は下手ときている。代書屋

   でもいいが、姉さんの、春亭駒若の筆に掛かればどのような手紙になるかな

   と思って」

お駒 「話によっては、お引き受けしてもよろしゅうございますわ」

真之介「話とは?」

お駒 「ですから、本当のところはどうなのかと言うことですよ」

真之介「本当も何も、今話した通りだが、男の方は密花に惚れられたと思っている

   で、そこんところ、よろしく」

お駒 「そう言うことですか…。よございますよ。他ならぬ旦那の頼みですから

   やって、いえ、書かせていただきます」

真之介「それは、楽しみに、待っている」

 

 そうして、書きあがって来た手紙を安行に渡したまでは良かったが、まさか、あの様なことになっていようとは…。

 そして、今、ふみもその手紙を読んだ時の安行の様子が気になる。


真之介「うん、手紙はな、すぐに懐に仕舞われた。やはり、お一人でお読みになり

   たいのだろう」

ふみ 「そうでしたか。でも、殿にすれば、やはり衝撃が大きかったことで

   しょう」

真之介「うむ…」

 

 今は、体の方が…。

 そして、安行と医者へ行く日になった。


ふみ 「殿はもう、お元気になられたのですか」

 

 安行と夜の町へ行くと思っている、ふみが支度を手伝いながら言う。


真之介「密花だけが芸者ではないし、男とは新しい花に目移りするものだ」

ふみ 「まあ、では、旦那様もお目当ての芸者がいらっしゃるのですか」

真之介「今夜行って、物色してくるか」

 

 忠助が供をしようとするのを止める。


真之介「今夜は私が殿のお供だ。殿はまだ喪中である。お忍びで行かれるで、出

   来れば少人数の方がいいと申された」

 

 安行のお忍びと言うことで、一人、家を出た真之介だが、やはり、気が重い。さらに、医者宅で、今田と二人、診察中の安行を待っている時の何とも言えない陰気な気だるさ…。

 やがて、診察を終えた安行と親子医師が、真之介と今田の待つ部屋へと戻って来たが、安行の表情は硬い。


親医者「先ず、肝の臓が弱っておいでです。そこから治療致しませぬと」

今田 「さすれば、殿の症状も回復されると?」

 

 憮然としている安行に代わり、今田が聞く。


親医者「とにかく今のお暮しぶりを改めて頂かなくては、何とも…。お聞き致しま

   すに、酒量も多く、かなり偏食であられるとか。そのことは、お体つきを拝

   見しただけでも察しがつきます。先ずは、酒をお控えに。出来ればしばらく

   の間、お止め頂きますよう。また、食事も野菜をお召し上がりなされて…」

安行 「その様に、草ばかり食えるか!」

 

 急に激高する性格は健在の安行だった。


安行 「はたまた、その様なことをやったからとて、それで、それで、元のように

   なると申すのか!それは確かであるか!」

今田 「殿、お静まりを」

安行 「うるさい!さあ、どうなのだ。有態に申せ!」

親医者「では、はっきり申し上げます。治るかもしれませんし、治らぬかもしれま

   せん。それは、これからのお心がけ次第にございます」

安行 「治らぬやもしれぬものを、何をその様な、坊主の様な暮らしをせねばなら

   ぬのだ!」

親医者「今のままのお暮しでは、天寿を全うできません!」

安行 「この様な体で生きながらえて何になる。死んだ方がましだ」

親医者「では、お好きなように。その前に、一つ申し上げておきますが。今のまま

   では、悪化すれば、足が壊死することも、最悪、失明のするやもしれませ

   ん」

安行 「どうして、この私が失明すると言うのだ。この通り、目はちゃんと見えて

   おる!」

親医者「ですから、今のお暮しを続けるなら、その可能性がないとは言い切れない

   と申しておるのです。現に不摂生が祟り、その様になってしまった者を知っ

   ております。これが飲水病(糖尿病)の恐ろしいところです」

安行 「……!」

今田 「お医師殿、それは誠にござるか」

 

 たまらず、代わりに今田が聞く。


親医者「誠にございます。殿にその可能性がないとは申せませぬ。但し、今後、お

   暮しぶりをお改めなされるなら、最悪の事態は避けられましょう」

今田 「殿、ここはお医師殿の仰せに従うべきかと存じます」

安行 「……」

親医者「お子様はお幾つにございますか、まだ、お小さいのでは。お子様のために

   もこれからは自重されるがよろしかろうと存じます」

今田 「それで、回復なされるのか。その…」

親医者「それは、今はどちらとも申し上げられません。回復なされるとも、なされ

   ないとも…」

 

 すべてはこれからの心がけ次第だと言う。


親医者「先ずは酒をお控えください。十日、出来れば七日に一日くらいは全く飲ま

   ないと言う日も、必要と存じます。お食事も魚の倍くらいの野菜をお召し上

   がりください。それと、何か、体を動かすこともおやりになられるべきで

   す。さすれば体の代謝機能が上がります。何卒…」


 そのための処方箋を真之介が受け取り、今田が診察料を払い医者宅を後にした三人の男は黙って歩く。

 妙に夜風が冷たく感じられる…。

 帰宅すれば、ふみがまだ起きていた。


真之介「先に眠るように言ったのに」

ふみ 「殿のご様子はいかがでした」

安行 「心配するほどのことはない。生きていれば色々なことがある。それより、

   疲れたで休む」

 

 翌朝、早速に真之介は忠助を供に、行先も告げずに出かけて行く真之介を、ふみと久は何があったのかと顔を寄せ合うのだった。

 真之介が姉のお類の嫁ぎ先の薬種問屋で薬を手に入れている間に、忠助は羊羹を購入していた。そして、仁神家へと急ぐ。


真之介「殿、お薬をお持ち致しました」

今田 「本田殿」

 

 今田が慌てる。夕べは三人で夜の町へ繰り出したことになっているのだ。それに、今は母の八千代も正室の亜子も同席しているのに、何と言うことを…。

 

----大丈夫です。


 と、真之介の目は言っていた。


八千代「薬とは?」

 

 母である八千代がいち早く反応する。


真之介「いえ、それが昨夜、三人で歩いておりましたところ、私の友達の医者に

   ばったり会いまして。それで、その医者共々料亭に参りましたところ、そこ

   は医者にございます。そちらの殿はお疲れのご様子とかで脈などを拝見致

   し、肝の臓の働きが悪いのではと申します。それで、私がこうして薬をお持

   ちしたような訳にございます。ああ、ご心配には及びません。薬と申しても

   補助薬の様なものでございまして、早めの対処が良かろうと言うことにござ

   います」

八千代「じゃが、その様なことは今初めて聞いた。どうして、もそっと早ように言

   わぬのじゃ」

 

 と、八千代は今田を睨みつける。


真之介「いえいえ、それは私がこうして薬共々に、ご説明申し上げると言うことに

   なっておりまして、生真面目な今田様がおっしゃられては、何か深刻に聞こ

   えます。そこは、私の様な軽輩者がお話しした方がよろしかろうと…」

八千代「左様か。では、殿、本当にお加減は悪いのですか」

 

 息子とは言え、今は当主となった安行である。


安行 「大丈夫です。ちと、疲れただけです」

八千代「それなら、よろしいのですけど」

真之介「あの、これは補助薬にございます。しかし、薬と言うものはどれも苦いも

   のでございまして、そこで、羊羹もお持ち致しましたような訳にございま

   す」

亜子 「それは気の付くこと。では、その薬の代金は如何ほどであるか」

真之介「ああ、いえ、これは。私の姉が薬種問屋に嫁いでおりまして、そこへ行

   き、番頭を刀で脅して手に入れたものですから、どうぞ、お気遣いなく」

亜子 「これは、また…」

 

 と、笑いが起きる。


八千代「では、あの人を斬ってみたいから侍になったと言う話も、あながち妄言で

   はなかったのか」

真之介「まあ、近からじ、遠からじ…」

八千代「これでは、迂闊なことは申せぬではないか」

真之介「いえ、本日は勝負刀ではございませんので、ご安心を。これは町人用の刀

   にございます」

八千代「何と、刀を町人用と武家用に使い分けておるのか」

真之介「はい」

八千代「それで、その勝負刀とはどの様な。さぞかし名の知れた名刀あろうな」

真之介「それは…」

八千代「では、次回はその名刀、勝負刀を差してくるがよい」

亜子 「でも、母上、それでしたら、恐くて近寄れないのでは…」

 

 と、亜子も笑いながら言う。


八千代「そうであったわ。だが、その勝負刀とやらを見てみたいものじゃ」

真之介「それが、まだ出来上がっておりません」

八千代「出来てもおらぬものを、勝負刀とは。まあ、よいわ。していつ頃仕上がっ

   て来るのじゃ」

真之介「はぁ…。何しろ、地獄の閻魔様にお願いしたものですから。いつのこと

   やら…」

八千代「何を戯けたことを、ほほほほっ。ああ、久し振りに笑ろうたわ」

真之介「それはよろしゅうございました」

 

 そんな冗談の後で、男同士の話と称して別室に移る。


今田 「しかし、本田殿。あれで良かったのか」

真之介「下手に隠し立てを致しますとかえって怪しまれます。それに、薬を煎じな

   ければなりません」

今田 「そのことよ。いっそ、私の薬として煎じさせようかと思っていたが、その

   必要はないな」

真之介「もし、こちら様のお医師から尋ねられるようなことあらば、こちらの薬を

   お見せください」


 と、羊羹の下に隠していた薬を出す。


安行 「何から何まで、済まぬ」

真之介「いえ、私にはこれくらいのことしか出来ませぬ。この上は早くお元気にな

   られますよう…」

今田 「いやいや、本田殿のお心遣い痛み入る。ここまでしてくださり、殿もお喜

   びである…」

 

 と、今田は感激している。安行が誰かに礼を述べることなど、ついぞないことだった。


真之介「それより、お食事の方は?」

今田 「まあ、それはこれから、追い追い…」

 

 今度は言葉を濁す今田だった。安行は子供の頃から好きな物しか食べなかった。膳の上に野菜の煮付けなど見向きもしなかった。


父  「食べ物を残すでない」

 

 と、父から注意されても平気である。


安行 「もう、腹一杯で食べられません」


 そして、食後の間食が好きときている。


父  「腹一杯ではなかったのか」

安行 「これは、別腹にございます」

 

 と、父親を呆れさせる。長じれば、これらに酒が加わる。いや、酒肴中心の食事となり、益々野菜から遠ざかってしまう。また、体を動かすことが嫌い。これで、体にいい筈はない。 


真之介「では、菩提寺にお参りなされてはいかがでしょうか」

今田 「おう、それは…」

 

 真之介は、まだ昼間、町中を歩く気にならない安行に提案してみる。


今田 「殿、それもよろしいかと」

安行 「うむ…」

 

 父や先祖の墓参りに行けば、世間によき息子アピールも出来る。


真之介「その時は駕籠でなく、お歩きになられれば良い運動になりましょう」

安行 「そうだな、そうするか」

 

 そして、やっと仁神家を辞することが出来、やれやれと思いながら歩いていれば、これまた、往診帰りの若医者に見つかってしまう。


若医者「真ちゃん」

 

 若医者は真之介を道の端に引っ張って行く。


若医者「昨日の侍だけどさぁ…」

 

 だが、それ以上は何も言わなかった。その時の真之介の顔こそが何も言わないと言う顔だった。


若医者「真ちゃんも、大変だねえ」

真之介「この辺りまで往診に来るのか」

 

 下級武士の住まいのあるところだった。


若医者「そう、これでも、繁盛してんの。まあ、役人と医者は繁盛しない方がいい

   んだけどさ」

真之介「いや、病気のタネも尽きぬようだ」

若医者「そうなんだよね」

 

 と、二人は歩き出す。


若医者「でもさ、真ちゃんも…尽きぬ人だねえ。よくもまあ、感心するわ」

真之介「……」

若医者「はあ、さっすが、お侍様は違いますわ」

真之介「おだてても、何も出ぬぞ」

若医者「それより、本田様こそ、あまりご無理なさいませんように。具合の悪い時

   はすぐにお越しくださいませ。お待ち申して、おりませんけど」

真之介「医者も坊主も遠い方がいいか」

若医者「真様の場合、どちらも近こうございますからね」

真之介「向こうからやって来られる」

若医者「とにかく、お気を付けなさいませ」

真之介「ああ…」

 

 若医者が心配してくれるのは嬉しいが、家に帰れば、ふみと久が待ち構えている。着替えが済めばすぐに茶が出て来る。ところが今日に限って何も聞いてこないのだ。これはこれで逆に気持ち悪い。


真之介「何か変わったことは、ないか」

ふみ 「ございません」

真之介「それは良かった」

ふみ 「良かったもございません」

真之介「何か、悪かったことでも」

ふみ 「はい、旦那様はまたも黙って何やらこそこそと」

真之介「別にこそこそしているわけではないが、ああ、今日のことか」

 

 と、真之介は昨夜は若医者も一緒に騒いだこと。そして、安行の不調を若医者が見抜き、今朝は薬を届けたことを簡潔に話した。


ふみ 「まあ、肝の臓がお悪いのですか」

真之介「悪いと言うほどではないが、気を付けるに越したことはないと医者が言う

   で」

久  「それでは、姉上様のところまでお薬を取りに行かれたのですか」

真之介「そうだ」

久  「本当に旦那様は人がよろしいと言うか、いえ、妙な因縁でございますこ

   と」

真之介「乗りかかった舟だ」

久  「呉越同舟にございますか」

 

 確かに妙な因縁かもしれないが、呉越同舟とはちと違う。

 呉越同舟とは、敵対する者同士や、仲の悪い者同士が同じ場所に居合わせることの例えであり、その例えは当たっているが、また、そのような者同士でも、同じ困難や利害のために協力することを言うのだ。

 春秋時代、敵同士であった呉と越の人がたまたま同じ舟に乗り合わせた時、暴風に襲われて舟が転覆しそうになった時には互いに助け合ったという故事から来ているが、真之介と安行の場合は少し違う。行きがかり上、同じ舟に乗ってしまったに過ぎない。

 さらに安行も今は「病気」なのだ。そのことで落ち込んでいるに過ぎない。これから先、治る兆しが見えてくれば、これはこれでまた大変だが、回復しないとしたら、あの激しい性格はどこへ向かうだろう…。

 いつ降りられるとも限らない舟だが、これは案外、乗ったままの方がいいのか…。


---医者の言うように、様子を見ましょう、か…。  


















   


 


 

 

 






 











 

 





























 






































 





















  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る