第89話 浅い川 二

 男にとって、最高の女性は母である。

 誰よりも愛してくれるのが母であり、母は子のすべてである。腹に宿し、産まれてからも母の助けなしでは生きていけない。例え、母に愛されなかったとしても、心の中の理想の母親像に死ねまで支配されるのが男である。

 特に、アジア系の家族主義の強い国で育った男は、すべからくマザコンである。女はこのことをしっかり肝に銘じておくべきである。だが、夫をマザコンと蔑みながらも、我が息子をきっちりとマザコンに育て上げるのも女である。

 娘が輿入れし、嫁となればそこにはうるさい姑が待っている。その姑がいなくなり、我が天下となったと思えば、今度は息子に嫁が来る。そして、自分がうるさい姑になったことは棚に上げて言うのだ。

「嫁は、他人」と。

 他人を入れなければ、家の存続のためには、他人の女を嫁として迎えなければならないのに、その頃にはかつて自分が嫁であったことすら忘れている。いや、過去の自分は美化されている。

 自分は健気に耐えて来た、だが、今の嫁は辛抱も奥ゆかしさも足りない…。

 そして、自分を産んだ母と、自分の子供を産んだ嫁の間に立って、なす術もなく狼狽えてしまうのが男である。

 ♂のマークも一本の棒が出ている不安定な玉を互いに取り合っているように見えて仕方ない…。

 いつの世も、嫁と姑は永遠に不滅である。

 かと言って、男のマザコンばかり責める気もない。常にとやかく言われる男のマザコンに対し、女のマザコンは形を変え、仲良し母娘といわれるが、これも、気持ち悪い。

 だが、すべて女が悪いと言うもの酷である。

 男はすぐに、女を「ババア」と呼ぶ。この日本で、ババアと呼ばれなかった女がいるだろうか。面と向かってはないにしても、絶対、皆そう呼ばれている。

 男とは女がいなければ夜も日も明けないくせに、すぐに女をババアにする、してしまう。十代の若者ですら、二十歳ババアと言う。

 これが若さにしか女の価値を見出さない日本の男の姿である。 

 姑が嫁いびりをするのも、欲求不満だからである。世間はともかく、夫からも女として見てもらえない、息子はよその若い女に夢中。その若い女は、二十年育て上げた息子をものの四半時で馬鹿にしてしまう。面白くないと言うより、やるせなさでつい、嫁に当たってしまう…。

 また、いじめをする子供も欲求不満だからである。その不満を弱いものにぶつけているだけである。

 負の連鎖は留まるところを知らない。留まると言うことは「死」を意味するのだ。

 そんな、母と妻のせめぎ合いなど、全く関心のない安行だが、女とは、母、妻、娘だけではない。

 世の中には色々な女がいる。


 今夜も恋しい密花に会うためにやって来た安行だが、それにしても、少しはゆっくり話が出来ぬものかと思いながら、いつもの座敷へ案内される。


安行 「密花!」

 

 なんと、そこには既に密花が待っているではないか。


密花 「遅うございましたわね」

安行 「いや、色々とあってな」

密花 「色々と何でございます」

安行 「それは、それ。いや、その様なことより、今宵はゆっくりと二人だけで語

   り合おうではないか」

密花 「はい、では、このかんざしどなたからのものでございますかしら」

 

 と、蜜花は髪に差していた簪を抜く。


安行 「それは、私が蜜花のために送ったものではないか」

密花 「左様でございますか。いえ、それならよろしいのですけど…」

安行 「それならとは?」

密花 「ええ、何ですか、店の支払いを本田屋に回したとかお聞きましたので」

安行 「ああ、あれは。いや、その通りであるが、それが何か」

密花 「まあ、若殿は、ご自分のお金で私に会いに来てくれているものだとばっか

   り思っておりましたに…」

安行 「いや、これは真之介と私との間のことで、その様になっておるのだ」

密花 「それは、どの様なことでございますの」

安行 「まあ、そのぅ。つまりは、真之介は、私に借りがあるで…。まあ、そう言

   う訳だ」

密花 「あら、真之介様が、若殿に借りとは?それは、どのような借りでございま

   すの」

安行 「いや…。それ、その、何だ。とにかく、今はそんなことはどうでも良いこ

   とではないか」

密花 「まあ、良くはございませんわ。ぜひ、お聞かせくださいませな。そうでな

   ければ、今後のこともございますし…」

安行 「今後のこととは…。もう、とにかく、それは、私と真之介の間のことだ。

   つまりは、男同士のことである故」

密花 「左様でございますか。その様なこととはつゆ知らず、若殿は私の様な女に

   はびた一文、金を使うお気持ちはないのか、私はその程度の女であったのか

   と…」

 

密蜜花が長襦袢の袖で、涙をぬぐうしぐさをすれば、それだけで慌ててしまう安行だった。


密花 「では、この簪は若殿が私のために買って下さったものでございますか」

安行 「それは…。い、いや、そ、そうである」

 

 と、さらに狼狽えそうになるが、ここはびしっと決めなくてはいけない。


安行 「この簪は、私がそなたのために買い求めたものだ」

密花 「それは嬉しゅうございます」

 

 と、酒を勧めれば、続けざまに盃を干す安行だったが、脇の下を伝う冷や汗の感触がいつまでも気持ち悪い。そうなのだ密花にプレゼントしたこの簪も真之介に調達させたものだった。

 その時は一応、真之介も誘うも、舅の播馬が風邪をこじらせて寝込んでいるとの事だった。


安行 「風邪くらい」

真之介「舅は私が夜遊びするのを好みません。婿とはつらいものです」

 

 安行は真之介が一緒であろうとなかろうと、別に構わない。ほんの儀礼で言ったまでのことである。簪が手に入ればいい。


安行 「どうだ、気に入ってくれたか」

密花 「はい、それは、もう…」

 

 と、笑顔を見せる密花だが、実際はおかしくてたまらない。

 この簪は、元はと言えば、密花自身の持ち物であり、こんなこともあろうかと、真之介に渡しておいたものだ。それを真之介が親しい小間物屋へ持って行き、きれいに包装してもらい、安行に渡したと言う訳だ。

 そんなことを知る由もない安行はうまくごまかせたと、内心ほくそ笑んでいた。他人の金で、好きな女を口説けるのだ。こんないいことはない。ここはもうひと押し!


安行 「密花を身請けしてくれぬか」

 

 もう、密花なしの暮らしは考えられない。どうしても、手元に置きたい。側室にしたい。その金を真之介に…。


真之介「無理にございます」

安行 「どうして…。芸者一人身請けするくらいのことがどうして無理なのだ。御

   家人の株を買い、侍の地位を手に入れたような男が、どうして芸者一人身請

   けできぬと言うのだ!」

 

 安行は込み上げて来る屈辱の怒りを抑えつつ言う。


安行 「身請けしてくれれば…」 


 安行は、真之介の目を見て言う。思えば、真之介と正面から目を合わせたことなど、ついぞなかったことだ。それだけ、安行は真剣だった。


安行 「身請けしてくれれば、すべてを水に流す…」


 と、安行にすれば一大決心を打ち明ける。


安行 「実は、実は。私はいつかはそなたの髷を切り、ふみ殿も奪うつもりでい

   た。だが、今は何より、密花が大事である。側にいてほしい…。一人の女

   に、この様な気持ちになったのは初めてだ。だから、頼む。身請けしてくれ

   ぬか。いや、口約束だけではない。証文も書く。今後、そなたにもふみ殿に

   も手出しはせぬと…。そうだ。旗本になれるよう、尽力しよう。お主も旗本

   になれば、舅殿に気兼ねすることもあるまい。旗本になれば、将軍、上様に

   拝謁できる。名誉なことではないか。その時は私が後ろ盾になる」

真之介「無理にございます」

 

 またも、真之介は同じ言葉を繰り返す。


安行 「どうして、無理なのだ。芸者一人身請け出来ぬ訳でもあるまい!」

真之介「ご存じないのですか」

安行 「何を?」

真之介「じつは、密花には、今、身請け話がございます」

安行 「そんな、そんな話は聞いてない」

真之介「左様でございますか。実は、密花を身請けしたいと申される方が、二人お

   りまして」

安行 「ならば、そなたも手を上げればいいではないか」

真之介「だから、それが無理だと申しておるのです。その二人の御仁は、一人は十

   万石のお大名。もう一人は江戸一番の材木問屋にございます。そんなお二人

   に、少しばかり知られた呉服屋がどうして太刀打ちできましょうや。我が実

   家の身代注ぎ込んだとて、無理にございます」

安行 「しかし、身請けの金の上限は五百両ではないか。それくらいなら何とかな

   るであろう」 

 

 天明の頃の遊女の身請けは千両くらいが上限であったが、さらに、過熱が懸念され、寛政になると上限は五百両と制定される。


真之介「それは、表向きのことにございます」

 

 身請けとは、客が遊女の抱え主に身請けしたい旨を伝え、その遊女も了承すれば成立する。だが、身請け希望者が勝ち合えば、ここが思案のしどころとなる。いや、その二人を競わせるのだ。


真之介「その他にも色々と。先程も申し上げました様に、私共とは比べ物にならな

   い方たちがお相手ではいか様にも…」

安行 「では、一体、いくらあれば身請けできると言うのだ」

真之介「ですから、無理だと申し上げているのです。こちらが千両出せば、あちら

   は二千両と…。これではすぐに息切れしてしまいます。では、これから、私

   の実家へ参られますか。蔵の中に如何ほどのものがあるか、ご自分の目で確

   かめられませ。また、私共は店の奥に住まいしおりますが、かの材木問屋は

   店自体はそれ程大きくございませんが、住まいは別です。そのご本宅は大名

   屋敷と見紛うばかりの豪奢な造りにて。また、別宅もございます。もう、私

   共とは桁が違います。あちらは番頭までもが出掛ける時は駕籠にて」

安行 「わかった。私はその様な話を聞きたいのではない。では、密花は。密花の

   気持ちはどうなる…。この世で一番いとしいのは私だと申しておるのだ。そ

   の心根を哀れだとは思わぬか」

真之介「と申されましても、こればかりは…」

 

 一文の金も使わず、錦絵にも描かれるほどの芸者を身請けしようとは、どこまでもセコイ野郎だ。


安行 「ならば、私もいくらか金を調達する。だから、そこを、何とか…」

 

 すっかり、密花の手管にのせられ、どうしようもないくらいにのぼせ上っている。


真之介「相手は、十万石のお大名と江戸一番の材木問屋だと言うことをお忘れな

   く」

安行 「冷たい奴だな。もう少し、女心がわかると思うていたに…。密花の心情を

   わかってやれぬのか」

真之介「わからぬことはございませんが、それが、芸者と言うものです」

安行 「もうよい。金は私が何とかする」

 

 この安行に金が調達できるだろうか…。

 きっと、母親に泣きつくのだ。だが、あの母が、いくら息子の頼みとは言え、そう易々と金を出すだろうか。まあ、ここは、お手並み拝見と行こう。

 翌日、安行は決死の覚悟で、母の八千代に金の無心をする。


安行 「ですから、これからは心を入れ替え、きちんと致しますゆえ、母上、何

   卒、お願い申します!」

八千代「左様であるか、でも、それは…」 


 八千代は、少し考える振りをする。


八千代「それは…。それは、亜子つぐこ殿に申されよ」

安行 「亜子に!?」

八千代「ええ、この前の払いも言えば、私が払ったのにと、それは残念がっており

   ました。つまり、夫が使った金は妻が払うのが当然と申されてな」

安行 「……」

八千代「何とまあ、出来た嫁ではないですか。ですから、これからは思う存分…」

安行 「それは、誠にございますか」

八千代「では、この母が作り話をしていると、お思いか」

安行 「いえ、決して、その様なことは。ただ、にわかには信じ難く…」

八千代「では、これより行かれて、その真偽を確かめればよかろう」

安行 「はあ…」

八千代「きっと、実家より、たんと、貰っていることでしょう。何とも、羨ましい

   限り…」

 

 本当に、あの亜子がそんなことを言ったのだろうか…。

 半信半疑の安行だったが、ここは、蜜花のためにも亜子に頭を下げるしかない。そんな、安行の姿を目にした亜子の女中が慌てて報告に行く。


女中 「大変でございます!あの、あの」

亜子 「えっ、父上がどうかされたのか」

女中 「い、いえ。あの、若殿がこちらへお見えにございます」

亜子 「ああ…」

 

 まさかと思っていたが、そのまさかがこんなに早くやってこようとは…。

 母を除けば、女など、慰み者ぐらいにしか思ってない安行が、密花とか言う芸者にそこまで入れ込むとは…。


安行 「これは、ご機嫌麗しく」

亜子 「別に麗しくはございません」

安行 「また、とんだご挨拶を。久々に語り合おうと思ってやって来たに」

 

 と、取って付けた様な愛想笑いを見せる安行だった。 


亜子 「それはちょうど、よろしゅうございました。私からもお話したいことがご

   ざいました」

安行 「ほう、それは、どの様なことであるか」

亜子 「いいえ、ここは殿から、せっかくお越しになられたのですから、どうぞ、

   お話を」

安行 「いや、奥の話も気になる」

亜子 「いえ、私の話はすぐに終わります。それに引き換え、殿の方は何やら…。

   どうぞ、お先に」

安行 「左様か。では、その方たちは下がれ」

 

 と、女中たちを下がらせる。


亜子 「では、お話しくださいませ」

安行 「いや、その。私も、色々と反省しておる…。このままではいけない、これ

   からは心を入れ替え、家のため、奥のためにも、良き夫にならねばと思って

   おる」

亜子 「それは、良きお心がけにて」

安行 「そこでだ。そこで…。これは最後のわがままと思って聞いて欲しい」

亜子 「ですから、どの様なことでございます」

 

 しばしの沈黙の後、安行は意を決して言った。


安行 「芸者を一人身請けしたい…」

亜子 「それが、殿のお心を入れ替えると言うことですか」

安行 「だから、最後のわがままと言っているではないか。いや、芸者と言って

   も、決して浮ついた女ではない。心根の優しい女だ。何より、私を慕ってお

   る。一時も離れたくないと言うほどに。その心情を汲んでやってくれぬか」

亜子 「はて、どうしてそのようなことを、私にお話しなさるので。側室がもう一

   人増えるだけのことではございませんか。それとも、これ以上増えては、私

   が嫉妬するとでも」

安行 「いや、それが、それがだな。奥にはわからぬかもしれぬが、芸者を身請け

   すると言うのは…。それ、金が要るのだ」

亜子 「その金を私に出せと仰せられるので」

安行 「だから、そこを、何とか…」

亜子 「殿。どうして、私がそのような金を出さなければならないのです」

安行 「それは。それはそなたが、夫のためならいくらでも金を出すと言ったから

   ではないか。現に先日の払いも自分が払うのにと言ったと聞いておる」

亜子 「はい、殿お一人で行かれた料亭の払いでございます。それくらい払いませ

   ねば、旗本筆頭がそれを町人ふぜいに押し付けたとあっては、外聞が悪かろ

   うと言ったまででございます」

安行 「いや、母上が…」

亜子 「まさか、母上が今後一切の払いは私がするとでもおっしゃられたのです

   か。どうやら、勝手に拡大解釈されたようですね」

安行 「それでは…。いや、だから、こうして頼んでいるのだ。頼む、何とかなら

   ぬか。それも全額でなくともよいのだ。真之介がケチりおっていくらか足り

   ぬと言うで、その足りぬところを出してほしいのだ」

亜子 「殿!まだ、あの様なにわか侍にたかるおつもりですか」

安行 「たかるとは何だ!たかるとは。これはすべて真之介から言い出したことだ。

   誘われて料亭へ行けば、そこにいた芸者が私に思いを寄せ、身請けして欲し

   い。いや、口では言わぬが素振りでわかる。だが、そこは名の知れた芸者。

   安い金では引かされぬ。そこで、真之介が身請け金は負担すると申したが、

   ああいう世界は、それだけでは済まないのだ。だから、こうして頼んでおる

   のだ。頼む、何とかしてくれぬか」

----よくも、自分の都合のいい様に言えたものよ。

 

 安行は亜子が何も知らぬと思っている。


亜子 「殿。今、その様なことを言っている場合ですか。父上はご病気。お美代殿

   には子が生まれます。それも、今度ばかりは男子ではないかと言われており

   ます。そのような時に、芸者ごときに…」

安行 「いや、会えばわかる。美しいだけでなく、頭も良い。何より心根がその、

   いいのだ」

亜子 「では、父上の今のご病状をご存じで」

安行 「それは、知っておる。ここに来る前に父上を見舞ってきた」

 

 と、またも安行は急場しのぎの嘘をつく。


亜子 「左様でございますか、それで、父上のお加減は」

安行 「それは、よく眠っておられた」

亜子 「あれがよく眠っておられたですと?私はずっと父上に付いておりましたが、

   さすがに疲れました故、今はこうして下がらせていただきました。その様な

   時に、芸者の身請け話など、またにしてくださいませ」

安行 「それが今でなければだめなのだ!」

 

 その時、廊下を走る足音が…。


女中 「申し上げます!」

 

 と、息遣いも荒い女中が手を付く。


女中 「大殿が、大殿が重篤にございます」

亜子 「えっ!」

 

 安行と亜子が舅の部屋に駆け付ければ、八千代も駆けつけたところだった。

 何とか小康状態を保っていた舅だったが、今夜が峠だと言う。


安行 「父上!父上!しっかりしてくださいませ!父上!」

----父上、今、死なれては困るのです…。 

 

 今、父が亡くなれば、通夜、葬儀、いや、四十九日当たりまでは自由が利かない。だとすれば、当然、蜜花にも会えないばかりか、きっと、誰かに身請けされてしまう…。

 考えただけで、胃が痛くなる。安行は腹に手を当て部屋を出て行く。


亜子 「若殿は」

 

 亜子に問われた女中が様子を見に行き戻って来た。


女中 「若殿はお腹の調子が悪いとのことでした」

八千代「それは」

 

 と、すぐさま母の八千代が立ち上がり、安行の部屋へと向かう。


八千代「まあ、大丈夫ですか」

安行 「母上!話が違うではありませんか」

八千代「何が違うのです」

安行 「亜子は金は出せぬと申しました。では、一体、どうすればいいのです」

八千代「それはともかく、今は時期が悪い。そうであろう。父上が明日をも知れぬ

   容態では、いくら何でもそのような時に、身請け話など…」 

安行 「では、私はどうすればいいのです!今でなければ、このままでは蜜花は他の

   誰かに、身請けされてしまいます!」

八千代「どうして、待てぬのじゃ」

安行 「密花には他に身請けの話があるのです」

八千代「えっ、身請けとはだれでも出来るものなのか」

 

 八千代も花街の事情には疎い。


安行 「ええ、今の時代、金さえあれば、何でもできます!」

八千代「だとしても、いくらそなたの頼みであっても今はどうすることも出来ぬ。

   そうであろう」

安行 「では、では、私は一体、どうすればいいのです。このままでは、このまま

   では…。何とかしてくだされ、母上。これが最後の頼みです。密花を手元に

   置けるなら、それ以上のことは何も申しません…。だから、頼みます頼みま

   す、母上!」

八千代「しかし…」

 

 そんな押し問答を繰り返すしかない母と息子だった。

 そして、ついに、その時がやって来たようだ。


家来 「奥方様!若殿!大殿が、大殿が…」

 

 と、野太い声がする。だが、二人が急ぎ駆けつけた時には、夫、父は息を引き取った後だった。


亜子 「遅うございましたわね」

 

 と、亜子が冷たく言い放つ。


安行 「父上!父上!どうして…」

 

 と、座り込んだ安行が大仰に嘆く側で、八千代も負けじと亜子に言い返す。


八千代「どうして、もっと早く呼びに来ぬのか!」

亜子 「呼びにやらせましたけど、何やらお取込みの様子で、お声をお掛けしても

   ご返事がないと女中が申します故、女の声では小さくて聞こえなかったよう

   で、それで、声の大きい男を呼びにやらせたわけですが、あろうことか、一

   足違いでございました」

八千代「それは、安行の具合が悪く、臥せっておった故…」

亜子 「左様でございますか。それは、お気をお付けくださいませ。では、早速に

   診て差し上げよ。この上、若殿にまで何かあっては一大事である」

 

 亜子は枕元近くに控えている医師に言う。


医師 「若殿、あちらへ」

安行 「うるさい!いらぬ!いらぬ!薬などいらぬ!」

 

 と、父の側を離れようとしない安行だったが、心の中は掻き毟られるほどにつらい。


----父上、どうして、もっと生きてくださらなかったのです…。ああ、もうこれで、密花に会えぬのか…。


 あれに見えるは、愛しい密花ではないか。向こう岸から、手招きしている。

 安行は川の中へ入って行く。

 浅い川だった。川幅も狭く何ほどのことはない。水は冷たいがそれが何だ。

 思えば、安行にとって、この世は浅い川の様なものだった。たまに袴の裾を濡らすこともあったが、それくらい何ともない。だが、そんな浅い川で、真之介から深みに突き落とされた。まさか、自分の行く手にこんな深みがあろうとは…。

 それを二年かけてやっと抜け出した。今度こそは、真之介を深みに突き落としてやろうと思い計画を練り、もう少しのところで、またも、今度は父の死と言う急な流れに足を取られてしまった。

 まさに、父が恨めしい。いや、密花が遠くに行ってしまうことの方が何倍も恨めしい。いや、真之介がもう少し早く気を利かせてくれたらと、歯がゆいことこの上ない。

 浅くても深みに気をつけて歩いていたのに、浅い川にも急な流れがあったのだ。

 そして、蜜花は…。 

 通夜、葬儀の間も、安行はそんな白日夢に悩まされていた。

 ほとんど言葉も発せず、うなだれたり、あらぬ方向を眺めたりする安行に、参列者の多くは、やはり、安行も人の子、さすがに父の死は堪えたと見えるなどとささやあっていたが、実際は密花が遠ざかってしまったことの方が堪えているのだ。

 弔問客に中には、真之介とふみもいた。回復したとは言え、まだ咳が完全に治まらない播馬に代わり参列した兵馬夫妻の後に続いていた。

 兵馬は母と共に参列する気でいたが、園枝がどうしても行くと言う。園枝にしてみれば、今は御家人の妻に成り下がっている、ふみが仁神家の茶会に呼ばれ、自分に声がかからないのが何とも悔しいのだ。そこで、自分の方が各上だと言うことを仁神家をはじめ、多くの人たちに認識させる必要に駆られ、半ば強引に来たばかりか、一足早かった真之介の前に兵馬をこれまた強引に割り込ませる。

 うなだれていた安行だったが、ふと、顔を上げれば、そこにはふみの姿があった。

 何か、遠い日の花火を見たような気がした…。

 





























 

























































  

  





 

  


 





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