第91話 男と男と男

 数日後、真之介はお駒と会う。


真之介「これは姉さん。先日は無理な願いを聞いてもらって、いや、本当に名文で

   この通り礼を申す。で、今日はこれからどこかへ」

お駒 「いえ、ちょいとぶらぶらと」

真之介「それは良かった。そこらで鰻でも。いや、それくらいの礼はしないとな」

お駒 「そうですか…」

 

 と、一瞬、妙な笑いを見せたお駒だったが、歩きだした真之介の後に付いて行く。

 鰻は注文を受けてから焼くので出来上がるまでに時間がかかる。その間、客はたくわんを肴を飲むのだが、お駒が下戸なので茶が置かれている。


真之介「いや、あれは、あの手紙はまさに名文だった。読んでいて思わずため息が

   出た。さすが、戯作者。恐れ入りましたわいなぁ」

 

 お駒はまたも、意味ありげに笑っている。


お駒 「それで、肝心の若殿の反応はいかがでした」

真之介「それが、受け取るとすぐに懐に仕舞われた。一人で読みたかったのだろ

   う」

お駒 「その後、何か、言ってました?」

 

 真之介は首を振った。


真之介「何も…。実は、殿は今ご病気なのだ。父上を亡くされ、密花も遠くへ行っ

   てしまった。そこに今までの…」

お駒 「不摂生が祟り」

真之介「まあ、そんなところだ」

お駒 「そうですか。でも、あちらには若君がお生まれになられたのでは」

真之介「うん」

お駒 「それでも元気が出ないとは、お悪いのですかね」

真之介「いや、それ程のことは…」

お駒 「お気を付けにならないと、不摂生の挙句…」

 

 お駒には安行の病気の具合がわかるのだろうか…。  


お駒 「まあ、私たちには縁のない、贅沢病でしょうから」

 

 昔、糖尿病は贅沢病と言われていた。太っていたのは相撲取りか金持ちくらいの時代に、金に飽かせて美味に走り、駕籠に乗るなどの運動不足が加わるだから、贅沢病と言われても仕方ない。


真之介「まあな」

 

 真之介もこれ以上は言えない。


真之介「しかし、あの手紙は本当にすごかった…」

お駒 「そうですか…」

 

 と、お駒はまたも妙な笑いを浮かべる。


真之介「あれくらいのこと、何でもないか」 

お駒 「いいえ。まあ、旦那だから申しますけど、書くってことは、それだけで大

   変なんです。書くのが百としたら、読むのはそれこそ、一か二くらいです

   よ。茶を飲んでる間にも読んでしまいますからね。でも、書くのは…。一

   行書くのにどれだけ悩み苦しむことか…」

真之介「それなのに、あんな頼みを聞いてくれたとは。これでは鰻だけでは割に合

   わないか」

お駒 「いいえ、鰻で結構です。それも旦那付きで。本当言えば、この鰻だって食

   べる資格ないんですから」

真之介「資格がないとは?」

 

 お駒はまたも笑いだす。先程から、この笑いの意味が気になっていた。一体何の笑いなのか…。


お駒 「ああ、これは失礼をば。実は…。あの手紙。私が書いたんじゃないんです

   よ」

真之介「えっ!」

お駒 「ええ、本当です、私が書いたのではありませんの」

真之介「それは、どう言うこと。では、あの手紙はいったい誰が書いたと言うの

   だ。まさか…」

 

 真之介は一瞬、ふみに似たお夏を思い浮かべていたが、そのお夏が夢之丞の子を生んだことは知らない。


お駒 「多分、違ってると思いますけど」

真之介「じゃ、誰が書いたと言うのだ」

お駒 「それが…」

 

 その時、鰻が運ばれてきた。


お駒 「それが、書いたのは。市之丞なんですよ」

真之介「えっ」

 

 女中が去ってから、やっと口を開いたお駒だったが、それこそ、にわかには信じがたい話だった。


真之介「また、どうして…」

 

 お駒が真之介から代筆を頼まれた、密花から安行への手紙の下書きをしていた時、ようやく市之丞が起きてきた。


市之丞「朝早くから、もう仕事かい」

お駒 「そんなに早くもないよ。お前さんが遅いんじゃないか」

市之丞「たまにゃ、朝寝させてとくれ」

お駒 「してるじゃないか」

市之丞「それより、これは何だいっと…。ははぁ、次は手紙をパッと開いててって

   やつか」

お駒 「違うよ。これはある芸者に熱を上げた侍への別れの手紙。それを頼まれた

   の」

市之丞「へーえ、いつも忙しいお駒さんに、そんな余裕があったとは」

お駒 「それが話を聞いてみれば、ちょいと面白くて」

市之丞「はあ、そう言うことか。それで、どんな話だい」

お駒 「その前に、顔くらい洗っといでよ。役者がなんてザマだい」

市之丞「役者はさ、舞台の上で輝いてればいいのさっと」

 

 市之丞は立ち上がり、顔を洗いに行く。その後、食事をしながら、密花と安行の話を聞くのだった。


市之丞「こりゃ、面白れぇや。で、今度はどんなオチを付けるんだい」

お駒 「それは、まだ」

市之丞「まあ、手紙が先だよな、どれ」

 

 と、文机の上の書きかけの手紙に目をやる。


市之丞「何だい、大して書いてないじゃないか」

お駒 「だから、これからだよ」

 

 と、下げた器を洗い終えて部屋に戻ってみれば、なんと、市之丞が手紙の続きを書いているのだ。


お駒 「へーえ、お前さんが筆を持った姿、初めてみたわ」

市之丞「うるせっ、邪魔すんねぃ」


 しばらくして書き終えた市之丞はすぐに文机から離れる。


市之丞「どうだい、俺だってやる時ゃやるんだよ」

お駒 「うん、悪かぁないね」

市之丞「ふん、それだけかい」

お駒 「どう、少しは私の苦労がわかったかい」

市之丞「いいや、わかんねえ。わかってるのは、人の書いたもの書き写すより、自

   分で書いた方が楽だってこと」

 

 一番最初にお駒が書いたものを自分が書いたことにするために、市之丞はそれこそ、喘ぎながらそれを書き写したものだ。


お駒 「じゃ、これからはお前さんも戯作物書きなよ」

市之丞「いや、俺は駄目だ。話の筋が浮かばねえ。これはやっはり、お駒さんでな

   くちゃ」

 

 と、すぐにいつもの市之丞に戻ってしまう。

 その手紙をお駒が清書、いくつか手直しして真之介に届けたと言う訳だ。


お駒 「まあ、今までだって、一行たりとも書いたことないのが、こんなの書くと

   はちょっと意外でした」

真之介「では、これからは戯作の方も書いてもらえばいいのでは」

お駒 「それは私も言いましたよ。でも、駄目です。あれ以来また、見向きもしま

   せん。あんなの単なる気まぐれですよ」

真之介「気まぐれであんな手紙が書けるのだから、役者ってのは並の感性の持ち主

   じゃねえってことか」

お駒 「ええ、あれだけ堂々と嘘をつくんですからね。でも、その役者に嘘をつか

   せてるのが戯作者ですよ。それに比べりゃ、役者の嘘なんてかわいいもんで

   す」

真之介「嘘がつきたくなったら、役者やればいいか」

お駒 「ええ、旦那でしたらいつでもどうぞ」

真之介「そうだな、食い詰めたらやって見るか」

お駒 「夢之丞と一緒でしたら、それこそ何十役も早変わりが出来ますわ」

真之介「いや、私が間に合わない」

お駒 「そん時はしごきますよ。いいえ、旦那でしたら、しごき甲斐があると言う

   ものです」

真之介「それより、姉さん。また、これ、書くのか」

お駒 「それが、最後のオチが…」

真之介「はあ、書くときには既にオチも決まっているわけか」

お駒 「大体決まっていますね。まあ、書いてて変わる時もありますけど、今度ば

   かりは…。ひとつ、思い付いてるんですけど、これでは、あまりに安直すぎ

   て…」

真之介「どの様な…」

お駒 「密花さんではなくて、つまり、その芸者が男だったと言うオチにしようか

   なと思ったんですけど、役者は皆、男ですからねえ…」

真之介「……」

 

 今度は真之介が妙な顔をしている。


お駒 「どうかなさいました。それじゃ、いくら何でも密花さんに失礼とか」

真之介「いや、その反対と言うか…。そのままだから」

お駒 「えっ、まさか…」

真之介「まあ、姉さんだからいいだろ。その、まさかだ」

お駒 「でも、どうして男の人が芸者に?それなら、役者にでもなればいいのに…」

真之介「その当たりの事情は知らないが、とにかく、そうなのだ」

お駒 「やはり、近くで見るとわかるものなんですか」

真之介「いや、私も最初は女だと思っていた。第一、男の芸者がいるなど普通思わ

   ないだろ」

お駒 「では、どうしてわかったんです」

真之介「ある夜、客を送り出した後、偶然聞いたのだ。低い男の声で、やってられ

   ねっと。その時は嫌な客だったんだろうと気にも留めなかったが、それから

   妙に気になってな。それにしても男にしては小柄だし、何より手が小さい。

   これが手とは案外大きいものなんだ」

 

 と、言いながら真之介は広げた手を顔の前に持って来る。


真之介「なっ、顔とそれほど変わりないだろう。錦絵の女の手は異常なくらい小さ

   く描かれているが、実際の女の手もそれくらいの大きさはあるが、男に比べ

   りゃ小さいものだ。だから、まさかと思ってたんだが…」


 もっともこのことは、弟の絵描きの善之介から聞いたことだ。


お駒 「それは言えてますよ。女形の踊りの着物のゆきは通常より長く仕立てるんで

   す。それで大きな手を隠すんです。手に白粉塗ったって小さくはなりません

   からね」

真之介「なるほど」

 

 そこで、自分に岡惚れしている静奴を締め上げ、ついに吐かせてしまう。


お駒 「そうだったんですか。では、身請けした材木問屋は…」

真之介「大名の方はともかく、材木屋の方は知っての上だろう」

お駒 「はあ…。聞いてみなければわからないものですねえ」

真之介「それで、オチはどうするんだ」

お駒 「さあ、どうしましょうか。これから考えてみます。でも、本当に男だった

   とは…」

真之介「知らなかったとは言え、あの手紙を書いたのが男だったとは…」

お駒 「何と言う巡り合わせ。その手紙を読んだ殿の反応も気になりますけど、そ

   れにしても、いつまでも旦那は大変ですね」

真之介「身から出た錆ゆえ、また、とんでもない舟にのってしまった。今度ばかり

   はいつ降りられることやら…。しかし、姉さんなら、この後どんな展開に

   持っていく」

お駒 「まあ、私の場合は人に見せるためのものですから、ハチャメチャやります

   けど」

真之介「例えば」

お駒 「例えば…。また、別の芸者に夢中になって今度は手ひどく振られるとか。

   でも、実際はそうでなく、もっと別のことになってしまうとか、とかとか」

 

 どうやら、真之介の様子から、何かを感じ取っているようだ。


真之介「さあな、一寸先は闇だ。明日生きているという保証は誰にもない。そう

   だ、お夏はどうしてる」

お駒 「元気にしてますよ」

 

 妻に似ているお夏のことも気になるようだ。


真之介「やはり、姉さんと一緒に暮らしてるのか」

お駒 「ええ…」

 

 本当はお夏は別住まいで、実は夢之丞の子を生んでいる。だが、このことは世間に秘密であり、真之介にも言えない。


真之介「それはよかった」

----旦那のところも早く子供が出来ます様に。

 

 子供とはどうして、欲しがっているところにはできないのだろう。


お駒 「それでは、また逢う日まで」

真之介「それを楽しみに」

 

 と、別れ際にお駒は振り向いて言う。


お駒 「やっぱり、男にします」

 

 思えば、初めてお駒の顔を見た時も、振り向いた顔だった。  


 そして、お駒と別れ帰宅すれば、早速に安行からの伝言が待っていた。


ふみ 「明日にでもお越し願いたいとの事でした」

真之介「左様か」

ふみ 「この度はどの様なことでございましょうか」

真之介「それは、行ってみねばわからん」

ふみ 「何か、喜んでいいのか悪いのか、よくわかりません」

真之介「私にもわからん」

 

 今はこのまま進むしかないのだ。それにしては、ふみの顔が明るい。にこにこさえしている。


真之介「何か、いいことでもあったか」

ふみ 「はい…」

真之介「何かな」

ふみ 「いえ、その、あの…。あっ、あの、私のことではないのですけど。それを

   先にお知らせしておかなければと思いまして、ふふっ」

真之介「それで」

ふみ 「あの、実は。佐和殿が…」

真之介「佐和殿が、じれったいことで」 

ふみ 「懐妊されました」

真之介「おう、それはめでたい」

ふみ 「あの、それだけでございますか」

真之介「それだけとは。めでたいからめでたいと言った」

ふみ 「あの、次は…。私たちの番だと思いませんか」

真之介「そうなれば言うことはないが」

ふみ 「あの、子授けの祠があるとか。でも、そこは夫婦揃って行かなければ駄目

   だそうです。ですから…」

真之介「その内」

ふみ 「早い方がいいのですけど」

 

 それより、安行の方が気になる。今度はまた、何を…。

 近頃は仁神家を訪問すれば、丁重に出迎えられる。どうやら、今はわが殿の一番のお気に入りと認定されているようだ。


今田 「これは、本田殿。先日早速に、殿は菩提寺に参られ、いささか距離はあっ

   たが、行き帰りともお歩きになられた」

安行 「ああ、お陰でいい運動になった」

真之介「それはよろしゅうございました。それで、お薬の方は」

安行 「ちゃんと飲んでおるが、苦い。まあ、幾分慣れた」

真之介「何よりにございます」

安行 「他には何かないか」

真之介「他と申されますと」

今田 「本田殿。先日の菩提寺の昼間の外出がお気に召されたようで、その他にも

   どこか行けそうなところはないかと仰せられてな。お主ならその当たりのこ

   とも詳しいのでは」

真之介「お近くをお散歩なされては」

安行 「それでは面白くない」

今田 「どこか、少し離れたところで面白いところはござらぬか」

真之介「面白いところと申されましても…」

 

 まだ、町中は歩きたくない。歩けば、目引き袖引きで好奇の目にさらされる。だが、外へ行きたい。それも、余り安行の顔を知られてないようなところへ。

 真之介は実家の別荘も考えたが、ここも日帰りではきつい。また、旗本以上の士分は外泊できないのだ。

 しばらく考え込む真之介だったが、ふと、ひらめいた。


真之介「あの、殿。釣りはいかがでしょうか」

安行 「釣りか…」

真之介「釣りでしたら、あちこちと出かけられますし、魚に休みはございませんの

   で、年中何か釣れます」

安行 「魚に休みはないか。なるほど言われてみればそうであるな。魚に休みは

   ない、はははは」

今田 「本田殿、それは良きことに気が付かれた」

真之介「しかし、私はあまり、釣りに詳しくはございません」

今田 「私も一応釣竿くらいは持っておりますが、ここのところ釣りはさっぱりに

   て。誰か…」

真之介「それが、お詳しい方がいらっしゃいます」

今田 「はて。私も知らぬのに、本田殿がご存じとは、一体誰にござるか」

真之介「尾崎様にございます」

今田 「尾崎殿…」

 

 今田は安行の顔を見る。

 尾崎友之進は以前は安行の側近くに仕えていたが、許嫁を安行に凌辱され、その許嫁は自害してしまう。だが、真之介たちに襲われ髷を切られた安行を見つけ出し連れ帰ったのもこの友之進なのだ。その後も当時の安行の供侍を遠ざけることを進言し、供侍の牛川と猪山は今は親戚筋の屋敷で下働きをさせられている言う。

 また、友之進には安行の異腹の弟と言う噂がある。その真偽はともかく、安行にすれば自分の無様な姿を見た者なのだ。やはりその顔を見たくない。そこで、遠ざけられることになった。

 今は別宅を与えられ妻も迎えている友之進だが、安行を連れ帰る時に真之介が駕籠を差し向けてくれたことを感謝し、安行の母の八千代が茶会と称して、ふみへの意趣返し計画をしていることを教えてくれた。元はと言えば、ふみが黙って安行の側室に来れば起こらなかったことである。

 しかし、わからないものである。その真之介と安行が今は表面上は仲良しと言うことになっている。ならばと、真之介は友之進が釣りをやっていることを思い出す。


真之介「はい、色々とお詳しいようにございます。一口に釣りと申しましても、川

   釣り、沖釣り、季節によっては夜釣りと、これが中々奥深いものと伺ってお

   ります」

安行 「うむ、釣りか。それも一興であるか」

今田 「殿、それもよろしかろうと存じます」

 

 安行が釣りに興味を示したことにほっとする今田だった。


真之介「それでは、私がこれより尾崎様の許へ行き、殿のご意向をお伝え…」

安行 「いや、すぐに呼べ。今すぐ、誰か呼びにやれ」

 

 この前の真之介と夢之丞を引き合わせた時と同じく、安行のせっかちさであるが、今度は他ならぬ友之進である。このことで、安行が持っている友之進へのわだかまりが解けることを願って止まない今田だった。  

 友之進を待つ間、釣りの話となるのだが、真之介は子供の頃釣りに興じたことはあるが、安行に至ってはほんの数回のことでしかないらしい。今田はそれでも安行の父が健在の頃はまだ、釣りをする機会もあったようだ。


今田 「これでも、少しは釣って殿の膳にお載せ致したこともございましたが、

   今はもう腕も鈍っていることでしょう」

安行 「そんなことがあったか」

 

 安行にすれば、膳の上の魚を食べたに過ぎない。その時に今田が釣って来たものと聞いたかもしれないが、全く覚えてない。


安行 「では、今度は私が今田の膳に魚を載せてやるわ。そうだ、本田にも」

今田 「これはありがたきことにて」

 

 と、安行が取らぬ狸の皮算用をしているところへ、友之進が到着したと知らせがあった。


安行 「おお、もう、来たか。これへ」

友之進「失礼致します」

 

 急いでやって来たのだろう。まだ少し息が荒い。


友之進「ご無沙汰を致しております。殿にはお変りもなくご健勝のご様子にて、恐

   悦至極にございます。また、本日は…」

安行 「もうよいわ、その辺に致せ。それより、近頃は釣りをやっておるとか」

友之進「はっ?いえ、あの、暇に任せて魚と戯れておりますが…」

 

 友之進にすれば、突然の安行からの呼び出しに、何事かと心配しつつ走って来たのだ。それでも安行の側に真之介がいたことで、少しは安堵したものの、挨拶もそこそこに釣りの話とは…。


真之介「尾崎様、ご無沙汰をしております」

友之進「これは本田殿」

真之介「実は、殿は医師から、酒を控え少しは体を動かすようにとの進言がござい

   ました。とは申しましても、年寄りの様に散歩ばかりと言うのも。そこで、

   釣りをお勧めしたのですが、勧めた私が言うのもなんですが、あまり詳し

   くないのです。そんな時に、尾崎様のことを思い出したと言う様な訳です」

友之進「左様でございましたか…」 

真之介「近頃の成果はいかがでございます」

友之進「いえいえ、私など、まだまだ。下手の横好き程度でしかございません。私

   などより、今田様の方が腕は確かかと」

今田 「いや、私もここ数年はさっぱり。竿にも触っておりません」

友之進「そういうお方が竿を持てば、それこそ魚の方が寄って来ることでしょう」

今田 「それはまた、その様な買い被りを…」

 

 と、まだ続きそうな今田と友之進の釣り話だったが、安行が面白くなさそうにしている。


真之介「あの、もう、そのくらいに。尾崎様、先ずは殿に釣りのご説明を」

友之進「これは申し訳ございません」 

 

 関ヶ原の戦い後、徳川幕府ができ平和な世が続くと、番方(警護役)より、役方(行政の事務役)の武士たちが勢力を占めてくる。老中や若年寄、大目付、勘定奉行、寺社奉行、町奉行などの上級職はそれこそ過労死するほどに仕事が忙しい。だが、参勤交代に付いて来る武士は単身赴任であり、勤務もゆるやかなものであった。つまり、暇。でも、金はない。そこで見つけた余暇の過ごし方で人気を博したのが釣りである。

 “四海浪静に武士も釣りを垂れ”

 四方の海が静かなように、国が平和になって武士は戦うことなくのんびり釣りをしている、と詠んだ川柳もある。

 江戸時代、武士達の間に広まっていった釣りであるが、それは遊びでも晩御飯のためでもなかった。

 長辻象平(釣魚史研究家)によれば、武士にとって釣りは大義名分のある遊びだった。それは太公望の存在に関係があるという。

 釣好きの代名詞でもある太公望は、中国周王朝を建国した武将・呂尚の呼び名。元々呂尚は川のほとりで、ただ釣りばかりして過ごしていた。ある日そこを通りがかった周の文王は、釣りをする呂尚にただならぬものを感じ、この人物こそ、父大公が待ち望んでいた人物であると召し抱えた。

 釣りは他の人から見ればただの遊びではないかと思われがちだが、彼らにとって武道の精神、武道の真髄に通じるものがある遊びが釣りだった。

 釣りをして大出世を果たした太公望の逸話によって、武士たちは釣りを単なる暇つぶしではなく、自分を磨く修練の場としたのだった。


 昔から釣竿は竹、釣り糸は麻糸や馬の尾などが使われていたが、江戸初期、阿波の国・堂浦(徳島県)から漁師が大阪見物に出かけた際のこと、ある薬問屋に入ってみると、薬を包んだ油紙を縛っていた糸が気になった。手に取って引っ張ってみると強くて切れない。


店主 「それはテグスというものです。うちには無用のものです。よろしければ好

   きなだけどうぞ」

 

 テグスとは中国から入って来た薬の袋を縛るための紐として使われていた。

 原料は中国に生息するテグスサンと呼ばれるヤママユガ科の幼虫。その幼虫の体内から絹糸腺という糸を取り出し、酢に浸して引き伸ばした後、陰干しすると透明な糸ができる。

 水に強くて透き通っている。これなら海の中で見えないはず、釣りに使えると漁師は思った。このテグスを使ったことで、魚に警戒心を与えず、簡単に釣ることができるようになった。堂浦の漁師たちはこれによって、一本釣りの技術がひらめいたと言われている。

 釣り針も元は動物の骨などであったが、江戸期には鉄製の針が使用されていた。浮きはこれも主に竹製のものだった。

 そんな釣りのうんちくを友之進から聞いた安行は、早速に明日から釣りに出かけると言う。

 仁神邸を辞した真之介と友之進は釣具屋へ行く。真之介も釣道具を買い求め、友之進は安行用の釣竿を慎重に選んでいた。


  「この竿でしたら間違いはございません」


 と、店主が太鼓判を押した竿と道具一式を付いて来た仁神家の下男に託すのだった。


友之進「まさか、殿が釣りをおやりになるとは夢にも思わぬことで…」

 

 と、改めて驚きを隠せない友之進だが、それでもうれしそうだった。


真之介「では、明日、楽しみにしております」

 

 友之進と別れ、釣竿片手に帰宅すれば、ふみが不満そうに言う。


ふみ 「まあ、明日からは釣りにございますか」

真之介「さすが、察しがいい」

ふみ 「察しがいいではございません。それではお参りに行くのはいつになるので

   すか」

 

 子授けに霊験あらたかな神社があるらしい。そこへは夫婦で行かなければ駄目だとか。


真之介「しばし、待たれよ」

ふみ 「……」


 翌日、友之進と落ち合い、安行との待ち合わせ場所に行けば、何とそこには釣竿を持った数人の侍たちもいた。


今田 「殿が釣りをされるとわかると、釣竿を持っておる者たちが付いて来おった

   わ」

真之介「にぎやかでよろしいではございませんか」 

今田 「それにしても、男ばかりで色…」

 

 今田は慌てて口をつぐむ。幸い、安行は友之進と話をしていた。


今田 「私としたことが…」

真之介「そろそろ参りませぬか!」

 

 真之介が声を上げ、一同は歩き出す。

 俗に釣り人は短気だと言われるが、傍目から見れば、釣り糸を垂れて釣れるのを待っている人のどこが短気なのかと思ってしまう。しかし、これが余りにのん気な人だと餌をとられても気が付かないことがある。その点、短気な人は釣れなければ、今度こそと場所を変えて見たり、仕掛けを工夫したりするので、上達が早いと言う訳だ。

 それにしても、安行が友之進に餌を付けさせた竿を振りかざしただけで歓声が上がったのには笑えた。もっとも、今と違って水質汚染など無い時代、近くの川でもそこそこ釣れる。


今田 「いや、いい眺めですな」

 

 少し離れたところで釣り糸を垂れていた真之介の側に今田がやって来た。


真之介「はい」

 

 今田が言ういい眺めとは景色のことではなく、安行と友之進が並んで釣りをしている姿を言っているのだ。


今田 「あの二人が兄弟であることはご存じで」

真之介「噂には聞いております」

今田 「しかし、この様な日が来るとは…。それもこれも本田殿のお陰です」 

真之介「いえ、私は何も」

今田 「殿もこれからは、落ち着きかれることであろう」

 

 そうだろうか。本当にそうだろうか。

 そうなって、くれれば言うことはない…。







 















































  








 












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