第86話 花ゆれ

 思えば数刻前、佐和と落ち合い仁神家の門をくぐった。


佐和 「絶対に、ふみ殿から離れませんから」

 

 と、佐和も気を引き締めていた。履き物を脱けば、一人の女中がそれとなく近づいて来る。


静代 「静代にございます」

 

 その声は、何も言うなと言っていた。黙って、静代の後について行く。広間には既に数人の女が来ていた。


ふみ 「遅くなりまして」

 

 と、二人揃って、同じ包み紙の手土産を差し出し挨拶を済ませた、ふみと佐和が末席に座った時、廊下に摺り足が響く。


絹江 「まあ、遅くなりまして」

 

 と、よく通る声がした。


絹江 「早く、姉上」

雪江 「何ですか、人さまのお屋敷を子供のように走ったりして」

絹江 「でも、皆さま、もうお集まりではないですか」

雪江 「まあ、不作法で申し訳ございません。お招きをありがとうございます」

 

 さすがに、今日は雪江も手土産を持参していた。そして、ふみを一瞥した絹江はわざとらしく佐和の隣に座る。


八千代「まあ、皆さま、ようこそ、お越しくださいました。今日も女ばかりの楽し

   いひと時をと思いまして…」

 

 八千代の言葉と共に茶菓が振る舞われるが、その菓子に女たちは思わず目を見張る。前回はカステラと言う珍しい異国の菓子だったが、今日は色も鮮やかに花を模った美しい菓子だった。


奥方 「何と、美しいのでしょ」

   「これでは、食べるのが、勿体ないですわ」

   「本当ですわね」

 

 と、口々に賛辞を述べるのだった。


八千代「京より、職人を呼び作らせましたの」

奥方 「まあ、あの、もしや今日のためにでございますか」

八千代「ええ、材料もすべて京より取り寄せました」

 

 これには一同感嘆するしかなかった。


奥方 「さすがは仁神様。私共にはとてもとても…」

   「そのような貴重な菓子を頂けるとは、この上ない感激でございます」

八千代「惜しむらくは、京の水を使えなかったことです」

奥方 「それは…。もう、言葉もありません」

   「左様ですわ、もう、何と申してよいのやら…」

   「誠に、恐縮の極みでございます」

八千代「喜んでいただけて幸いです。ささ、茶が冷めないうちに、どうぞ」

絹江 「まあ、何と、美味な!」

 

 またしても、絹江が声を張り上げる。


雪江 「いえ、あの、余りのおいしさに、つい…。申し訳ございません」

 

 と、必死でフォローする雪江だったが、すぐに小声で絹江を叱責する。


雪江 「はしたない。そんなに大きな声を出すものではありません」

 

 絹江はどこ吹く風の態であったが、それからは少し大人しくなった。


奥方 「この前頂きました、カステリャも誠に美味でありましたが、異国にもこの

   ように美しき細工菓子はあるのでしょうか」

 

 と、一人の女が問えば、八千代は胸を張って答えるのだった。


八千代「それはまた、良いところにお気付きを。異国の菓子もそれは珍しくも美味

   なものでありますが、我が国の様な繊細な菓子はあまり見かけないそうで

   す。また、我が国ほど四季を大切にする国もあまりないとか。ですから、エ

   ゲレス人たちはかんざしなどの細工物、着物の柄の素晴らしさに皆驚くそうで

   す」

奥方 「では、エゲレス人たちは簪や着物などを買うのでしょうか」

八千代「それは、国許の妻や娘たちに買うのですよ。何より、何でも女を優先させ

   る国だそうで」

奥方 「まあ」

   「それは、何やら、ちと、羨ましいような…」

八千代「ほんに。おっほほほほ」

 

 と、今日の八千代はいつにもまして機嫌が良かった。


絹江 「そう言えば、先日、町に出かけました時、毛唐を見かけましたわ」

雪江 「絹江、毛唐などと言うものではありません。エゲレス人です」

絹江 「どっちだってよろしいではないですか。とにかく、背は高く、色白く、鼻

   高く、目は青い…。ちと、不気味でしたわ。それがでございますね、何と、

   ふみ殿の実家、いえ、ふみ殿のご亭主の真之介殿の実家の店に入って行きま

   したの」

奥方 「では、通辞(通訳)も一緒でしたの」

絹江 「いえ、あちらの者たちばかりで」

奥方 「それでは、言葉が…」

ふみ 「あの、店には、エゲレス語のできる者もおりますので」

奥方 「左様ですか。では真之介殿も、エゲレス語が?」

ふみ 「はい、いささか」

絹江 「それで、ふみ殿も」

 

 と、またも絹江が話を振る。


ふみ 「いえ、私はさっぱりにございます」

絹江 「でも、お宅にはあちらの本もたんとあったではないですか」

ふみ 「それは、真之介が元より持っておりましたもので」

絹江 「まあ、こちらには、ちきゅとか、何とかと言う、この世の模型と言うもの

   もありますのよ」


 その話はこの前も聞いた。


絹江 「でも、本当にこの世とはあんなに丸いものでしょうかしら」

奥方 「ああ、それは、私共の息子も申しておりました」

   「私も聞いたことがあります。この世とは、とてもなく大きな丸いところ

   に、私たちは住まいしておるのだそうです」

   「にわかには信じがたい話ですけど、私も一度その地球儀とやらを見てみた

   いものです。ふみ殿、いつか、お邪魔してもよろしいかしら」

ふみ 「ご都合のよろしい時にお越しくださいませ」


 絹江はふみと真之介の西洋かぶれをあげつらうつもりだったが、自分たちの母親ほど年の離れた女たちが、まさか地球儀などに興味を持つとは…。


奥方 「まあ、そう言えば、今日はお美代殿のお姿が見えませんわね」

 

 この中で一番年嵩の女は、安行の母の眉が吊り上がっていることには気が付いた。絹江が地球儀を話題にしたことから、座の中心がふみに集まってしまったのが気に入らないのだ。これはいけない。そこで、何か話題を変えなければと、ふと、安行の側室のお美代の姿のないことに気付く。この女にすれば、苦肉の策だったが、このことは、結果として功を奏した。


八千代「実は…。お美代が懐妊いたしました」

奥方 「まあ!それはおめでとうございます」

 

 またも、女たちの歓声が上がる。


奥方 「今度こそ、若君がお生まれになりますわ」

   「そうですとも、これで、仁神家は万々歳です」

 

 安行には娘が二人いるが、そこは何としても、男子の誕生が待たれる。


八千代「ええ、是が非でも、男子を生んでもらわねば…」

 

 今日は、これで、呼んだのか…。

 きっと、側室の懐妊に託け、まだ、子の無いふみと佐和を俎上に載せるつもりのようだ。そんな、ふみと佐和が思わず気を引き締めた時だった。一人の女中が八千代の許に行き、耳元に何やらささやく。


八千代「まあ、おほほほ…。あの、皆さま」

 

 今度は何事かと一瞬の静寂があった。


八千代「実は、その。もう、どうしようもないことで、どう致しましょう…。全

   く、困ったものです」

奥方 「何か、おありになられたのですか」

八千代「それが、あの、息子が…。皆様にご挨拶したいと申しておりますの。ほほ

   ほほ」

 

 これには、安行の正室、側室たちも驚きを隠せない。誰もそんなことは聞かされてない。それにしても、本当にこの場にやって来るとは。それも、ふみがいると言うに…。


奥方 「まあ、では、若殿はもう、お元気になられましたの」

 

 と、年嵩の女が予定調和に聞く。


奥方 「あら、お子様がお出来になられるくらいですもの、お元気に決まっており

   ますわ」

 

 ここで、わざとらしい笑いが起きるも、これ以上、面白い筋立てがあるだろうかと、皆、ふみをチラ見している。だが、当のふみは、口元に笑いさえ見せている。


----まあ、嫌に落ち着いてること。

----どうせ、今だけでしょ。


 ふみにしても、まさかこの場に安行が姿を現すなど、夢にも思わないことだった。だからと言って、今更、どうと言うこともない。ましてや、かつて一度茶を出しただけで、ろくに顔も見てない。何より、今の自分は、本田真之介の妻なのだ。


八千代「では、皆様からご了承を得たと言うことで…」

安行 「失礼致します」

 

 なんと、言い終わらないうちに、安行が姿を現したのだ。一瞬、どよめきが起きる。


八千代「何ですか、まだ、途中ではありませんか」

安行 「いえ、あまりに楽しそうなので、つい…」

八千代「まあ、幾つになってもこの通りですから、ほほほ、困ったものです」

安行 「これは、皆様、ようこそお越しくださいました。折角の楽しくも美しいこ

   の場を、無粋にもお邪魔させていただきます。まあ、これはまた、花畑の様

   ではございませんか。久々によい目の保養にございます」

奥方 「まあ、若殿。すっかりお元気になられましたこと」

   「皆、心配しておりましたのよ」

 

 安行は表向きは病気と言うことになっている。


安行 「お陰様にて」

 

 この時、安行がふみに目をやったのを、女たちは見逃さなかった。だが、ふみは一瞬戸惑う。安行の顔を覚えてないとはいえ、どうにも印象が違うのだ。真之介から聞いてはいたが、それ以上に安行は太ると言うより、むくんでいる様に見えた。


絹江 「まあ!若殿!」


 そして、さあ、これから何が始まるのかと、皆の期待の高まった時、またも、すべてを打ち破るかのような絹江の声が響く。


絹江 「その御髪おぐしどうなされましたのぉ」


 一瞬、女たちの体が揺れる。


雪江 「絹江!」

 

 この時ほど、雪江は慌てたことはない。


絹江 「ご病気と伺っており…」

雪江 「絹江、何てことを言うのです!申し訳ありませんっ」

 

 と、雪江が絹江の頭を下げさそうとするが、さも、当然のようにその手を払いのける絹江だった。


絹江 「ですから、ご病気と伺っておりましたに、髪まで短くなるとは。それは一

    体、どのような病いかと」

 

 一同が言葉を失う中、安行と母は怒りで顔が赤くなっている。


雪江 「絹江!お止めなさい!何てことを…」

絹江 「でも、姉上。ちょっとお聞きしただけではありませんか」

雪江 「申し訳ございません!いいから、お黙り!本当に、申し訳ございません!」

 

 と、今度は渾身の力で絹江をねじ伏せようとした時だった。


佐和 「あの、絹江殿はただいま、更年期の真っ最中でございまして、この様に訳

   がわからなくなっているのでございます!」


 そう言ったのは、佐和だった。


佐和 「女にとって、更年期とは大層つらいものと伺っております。そうでござい

   ますわね」

 

 と、女たちに必死に訴えかけるのだった。


奥方 「そ、そうですとも!」

   「そうです。私にも経験がございますわ。その最中と言うのは、訳もなく周

   囲に当たり散らしたり…」

   「ええ、ある時、急にあらぬことを口走ったりしたものでございましたわよ

   ねえ」

雪江 「そ、その通りでございまして…」

 

 雪江も必死だった。佐和が更年期と言い出したので、ここはそれにのるしかない。


雪江 「実は、本日もそのことでこちら様のお招きを辞退しようかと思っておりま

   したけど、妹があまりにも楽しみにしておりましたもので、つい…」 

  

 ここに来ても、絹江はまだきょとんとしている。


奥方 「でも、絹江殿はまだお若いではないですか」

ふみ 「近頃は若くとも発症するそうにございます」

 

 いぶかしがる問いに、ふみが答える。


ふみ 「実は先日、厚かましく乱入して参りました白田屋のことにございます。あ

   の者の父親が後添えを迎えたのですが、それが、息子と同い年。あの者にと

   りましてはそれだけでも面白くないのに、何と、一年足らずでもう軽い更年

   期症状が始まり、難儀いたしておるそうです」

奥方 「その後添えの齢は?」

ふみ 「確か、今年、二十三とか。絹江殿も同じくらいかと…」

絹江 「失礼な。私はまだ二十二です」

雪江 「いえ、あの、絹江も二十三にございます」

絹江 「あら、そうでしたかしら」

雪江 「本当にこの通りにございまして、誠に申し訳ございません」


 と、弱り果てる雪江だった。


奥方 「まあ、でも、更年期と言えば、三十過ぎてからと聞いておりましたの

   に…」

ふみ 「ですから、私たちもうかうかしておられません。早いか遅いかだけの違い

   にございます」

 

 ふみも必死だった。


亜子 「母上、どうやら、私もその更年期の様です」

 

 その声は、安行の正室、亜子つぐこだった。ふと見れば、そこに安行の姿はなかった。


亜子 「もう、何やら、体が訳もなく熱くなったり、苛々したりと。私もそろそろ

   疲れてまいりました。本日はこの当たりでお開きと致しませぬか」

八千代「……」

 

 八千代は黙ったままだ。


奥方 「それがよろしかろうと…」

 

 と、年嵩の女が言った。


雪江 「あ、ありがとうございます。では、お言葉に甘えまして、お先に失礼させ

   ていただきます」

 

 と、雪江が絹江の腕をつかんで立ち上がろうとする。


絹江 「姉上、これは一体どういうこと、わあっ」

雪江 「お黙り!」

 

 怒り心頭の雪江は立ち上がったかと思えば、絹江の襟を後ろから掴み、渾身の力で絹江を引きずり出そうとする。


絹江 「苦しっ、首が、わっ」


 一刻も早くこの場を立ち去りたい雪江だった。


奥方 「では、私たちも失礼致しましょう」

 

 年嵩の女の言葉を待っていたかのように、一同は礼を述べつつ立ち上がる。それでも、安行の母は押し黙ったままだった。

 仁神家の門を出れば、それぞれに別れて行き、やっと、ふみと佐和だけになった時、互いに顔を見合わすのだった。


佐和 「まあ、一時はどうなることかと思いました」

ふみ 「申し訳ありません」

佐和 「何も、ふみ殿が謝ることは」

ふみ 「いいえ、あれでも従姉ですから…」

佐和 「でも、絹江殿は一体、どうされたのでしょ。やはり、本当に更年期なので

   すか」

 

 あの時、ふみは咄嗟に更年期だと佐和にささやいたのだ。


ふみ 「さあ…。私にもよくわかりません」

佐和 「あら、更年期は辛いとか、白田屋の後添えのこととか詳しかったではあり

   ませんか」

ふみ 「とんでもない。白田屋の拮平と後妻のそりが合わないことは確かですけ

   ど、いつもの口喧嘩で、売り言葉に買い言葉でつい言ってしまったのだそう

   です。でも、後妻の方も負けずに近頃は男にも更年期があるとか言い返した

   そうです。そのことを思い出したまでです…。でも、佐和殿のお陰で何とか

   切り抜けられました。ありがとうございます」

佐和 「そんな、お礼を言われるようなことでは…」

ふみ 「いいえ、もう、私もそれはもう…」

佐和 「あら、私だってあの時、必死で声を張り上げたのです。何だか、まだ体が

   揺れているようで…」

 

 佐和の声は低く、それでなくとも、普段から物静かで大きな声を出すことなどないことだった。


ふみ 「はい、それはもう…。ありがとうございました。お疲れになられたことで

   しょう」

佐和 「はい、疲れました」

ふみ 「では、ごゆっくりお休みくださいませ」

佐和 「ふみ殿も」

ふみ 「はい、ありがとうございます」

 

 と、二人は別れる。そして、帰宅すれば、こんな時に限って兵馬が来ているではないか。さらに、どんなことがあったのかと根掘り葉掘り聞いて来る。

 ここは涼しい顔で、女同士のおしゃべりをしていたとだけ言っておいた。それでも、実家の父母には、真之介サゲ、ふみアゲで話が盛られることだろう。


ふみ 「そのような次第でございまして…」

真之介「それは、お見事。咄嗟にその様なことを思いつかれるとは…」

ふみ 「はい、もう、二年近く旦那様のお側におりますれば、火事場の…。苦肉の

   策にございます」

真之介「またも、私はあまりよろしくない事をお教えしたようで」

ふみ 「はい。でも、それが役に立ちました」

真之介「お疲れになられたであろう。早く休むとしよう」

 

 ふみは床についてもなかなか寝付けなかった。何か、まだ、体が揺れているようで眠れないのだ。

 それにしても、絹江があんなことを言い出さなければ、よもやの安行が現れ、あれからどんなことが起きていただろうか…。

 それはそれで、また、恐ろしいような気もする。

 結果としては、今回は絹江に助けられたようなものだが、あの従姉二人は次回の茶会にお呼びはかからないだろう。それにしても、安行の母のあの能面の様な顔が思い出されてならない。そして、次回こそ、絹江たちのいない次回こそ、安行はまたも姿を現すのだろうか…。 

 こんなことがいつまで続くのか、さらに、仁神母子の最終目的は何なのか…。

 そんなことを考えていると、ますます寝付けなくなってしまう。おそらく真之介も眠ってはいないだろう。

 ふみは真之介の布団に潜り込む。


 翌日、佐和がやって来た。

 大人しい佐和にすれば、昨日のことはかなり衝撃的なことであり、やはり、まだ尾を引いているようだった。


佐和 「こんなにも近い内に、やってまいりまして…」

 

 と、しきりに恐縮している。


真之介「いえ、昨日は妻がお世話になり、ありがとうございます」

 

 在宅していた真之介が礼を述べる。


佐和 「そんな、私はふみ殿の指示に従ったまでです」

ふみ 「指示だなどと。お願いしただけです。今日はこんなものしかございません

   の。少し、柔らかくなってますけど」

 

 ふみが固焼き煎餅の残りを出せば、佐和にやっと笑みがこぼれる。


佐和 「もう、昨日はあれから、夜、なかなか寝付けなくて…。いえ、その前に夫

   に茶会でのことを話しましたの。もう、夫もそれは驚いてました。ふみ殿も

   随分としっかりなさってらっしゃるとか、そんな話をしていますと、寝付け

   なくなってしまいまして…」

 

 きっと、佐和も夫と共に眠ったのではと思うと、ふみは恥ずかしくもうれしくもあった。


佐和 「それにしても、絹江殿はどうしてあのようなことをおっしゃったのでしょ

   うか。若殿のことを知らないはずはないのに…」

ふみ 「おそらく、そのことを失念してたのだと思います」

佐和 「まさか…」

ふみ 「いいえ、そう言うところのある人なのです」

佐和 「あのような事件を忘れるなんて…」

 

 佐和には到底信じられないことだが、目の前に、その張本人の真之介がいたのただった。


佐和 「まあ、どう致しましょ。そういうつもりでは…」

真之介「いえいえ、この際、下手人のことはお捨ておきください」

 

 と、真之介は笑っているが、佐和は慌てていた。


ふみ 「我が従姉のことで、佐和殿にまでご心配をかけるとは…」

佐和 「いえ、心配だなんて、ちょっと…」

ふみ 「それは、誰でも驚きますわよ。一番…」

 

 誰より、一番衝撃を受けたのは安行だろう。


佐和 「でも、あの若殿はどういうおつもりで、あのような場に顔をお出しになら

   れたのでしょうか」

 

 そのことについても、当然真之介と話し合った。


真之介「きっと、ご退屈されてるのでしょう」

 

 と、真之介は言ったが、ふみの今の姿が見たかったのもあるだろう。


佐和 「そうですわねえ。二年近くもお屋敷の中で過ごされていたのですから」

真之介「はい、実は先日…」

 

 と、夢之丞と引き合わされた話をするのだった。


佐和 「まあ、その様なことがございましたの…。それにしても、役者にしたいよ

   うな真之介殿によく似た男が本当に役者になるなんて…。それで、ふみ殿は

   その役者に会ったことは?」

ふみ 「まだ…」

佐和 「私もですけど、ふみ殿もお会いになりたいのでは」

ふみ 「それは、会ってみたいものです」

佐和 「芝居を見に行けばよろしいのでは」

ふみ 「それが、連れて行ってはくれませんの」

佐和 「まあ、真之介殿が行けば、それは大騒ぎになるかもしれませんもの」

ふみ 「そうでしょうか」

佐和 「そうですわよ、舞台と客席に同じ顔をした人がいるのですから」

ふみ 「でも、役者とは男でも化粧をするのでは」

佐和 「ああ、役に合わせて。それなら、それ程騒ぎにもなりませんか…。あの、

   それで、その、いつか、芝居見物に行かれるときは、私たちもご一緒させて

   いただけませんか。何しろ、我が夫はそう言うことには疎いものでして」

ふみ 「それがいいですわね。旦那様、いつか、近い内に佐和殿もご一緒に。よろ

   しいですわね」

 

 真之介は生返事をしていた。別に、芝居見物が嫌だとか言うのではなく、今後の仁神母子の方が気になるのだ。

 今の安行はまだ表立った行動には出られないにしても、母親の目論見は二度も外れている。そのことについて、今一度、ふみに言って聞かさねばならないことがある。


 翌日、棒手振り《ぼてふり》の魚屋が回って来た時、真之介が魚桶の中を覗けば鰈があった。ひょっとしてと思っていると、そのままに、舅姑が揃ってやってきた。きっと、兵馬の大仰な話し振りが気になってのことだろう。そう思って、昨日のうちに茶菓子用の羊羹を忠助に買いにやらせた。

 それにしても、この時とばかり、兵馬も付いて来るのではと思っていたが、供を連れただけだった。


ふみ 「まあ、父上、母上も」

 

 ふみが嬉しそうに出迎える。


真之介「これは、お越しなされませ」

ふみ 「まあ、何かございましたの。お揃いで」

播馬 「何かなければ、来ては都合が悪いか」

ふみ 「そんなことはございません。でも、お珍しいので…」

加代 「ええ、きっと、明日は雨が降りますわ。殿、先ずはお茶でもいただきま

   しょう」

 

 やはり、そうなのだ。逸る気持ちを抑えつつ茶を飲む播馬だった。


加代 「ほら、ふみをご覧なさいませ。この通り、落ち着いているではありません

   か」

播馬 「うむ…」

加代 「兵馬は、ちと心配性なだけです」

ふみ 「ああ、お茶会のことなら、ご心配には及びません。女同士のおしゃべりの

   場です。それに、仁神様は珍しい茶菓子をご用意くださいますの。この前は

   カステラ、この度は京より職人を呼びよせ、京の食材を用いて、それは見事

   なお菓子でした。ただ、京の水を使えなかったのが残念だと申されました」

 

 と、ふみは、努めて明るく話すのだった。


加代 「まあ…。でも、仁神様と言えば…」 

ふみ 「それは昔のことにございます。兵馬にもその様に申しましたのに」

加代 「それが、兵馬は言わされているのではとか…」

ふみ 「まあ、その様に嫁いだ姉を心配するより、少しは我が娘のことを心配すれ

   ばいいのに。どうなのです、その後は」

加代 「相変らずです」

ふみ 「父上も私が生まれた時、あのように無関心でしたの」

播馬 「いや、私は、決してそのようなことは」

ふみ 「ならば、兵馬にもっと厳しく言い聞かせてくださいませ」

播馬 「いや、それは、私も言っておる。言っておるが…。今日はそのようなこと

   で参ったのではない」

ふみ 「わかっております。でも、それは先程申したではありませんか、何も心配

   いらぬと」

播馬 「いや、婿殿に尋ねたき義がある」

真之介「どの様なことにございますか」

播馬 「どうして、仁神家からの茶会の誘いを先ずはお断りしなかったのかと言う

   ことだ。お主とて、我が三浦家と仁神家の因縁を知らぬ筈はあるまい。それ

   とも、もうお忘れか」

真之介「忘れてはおりませぬが、私の留守中にあちらの使いの者が来たそうです。

   とにかく、強引で用件だけ伝えるとそのまま帰られたとか」

ふみ 「そうなのです。私も一応はお断りしました。でも、来るのが当然という態

   度で帰りました」

播馬 「だが、その後でも、断る術はあったろうに」

真之介「無論、お断りすることも考えましたが、せっかくのお申し出。ここはお受

   けするのがよかろうと、ふみとも話し合ってのことにございます」

ふみ 「その通りです。それに初めての時は、旦那様が手を打ってくれました」

播馬 「どの様な手を?」

 

 ふみは白田屋の拮平を差し向けてくれた話をする。


加代 「そうだったのですか…」

 

 加代が感心している。


ふみ 「それから、先日は…」

 

 と、絹江が自爆した話を聞かせた。

 これには、播馬も加代も開いた口が塞がらない。


加代 「でも、兵馬はその様なことは何も申しませんでしたけど」


ふみ 「それは、兵馬は、とかく話が大袈裟なのです」

加代 「そうですね。ですから、今日は殿と二人で坂田殿を尋ねると言って屋敷を

   出ました。こちらへ参ると言えば、付いて来ると思いまして」

播馬 「いや、しかし、今一度、婿殿に伺いたきことがある」

真之介「はい」

播馬 「改めて聞くが、あれは、あの仁神の息子の髷切りは、本当にお主がやった

   ことであるのか!」

真之介「はい、私が仕出かしたことにございます」

播馬 「しかるに、その訳とは」

真之介「先ずは、妹のためにございます」

播馬 「妹?いや、坂田殿はお主が、ふみを娶りたいがためにやったことであると

   申された」

真之介「その坂田様からご縁組みの話をいただいた時はそれはもう驚きました。ま

   さか、町人上がりのにわか武士のところへ旗本の姫がお輿入れなど…。到底

   信じられず、誠に失礼とは存じましたが、調べさせていただきました」

播馬 「調べただとぉ」

真之介「申し訳ございません」

加代 「殿、過ぎたことではないですか、ここは真之介殿の話を…」

播馬 「それで」

真之介「はい、如何に旗本筆頭のお家柄とは申せ、あの若殿の所業は目に余るもの

   がございます。これではひょっとして、もし、姫が私の許へ輿入れともなれ

   ば、今度は妹に危害を加えぬかと不安に駆られ、あの様に大それたこと

   を…。私の父が亡くなりました時、妹は五歳でした。それからの私は妹の兄

   であり、父でもありました。父上が、ふみを守ってこられたように、私も妹

   を守らねばなりません。ましてや、私のせいで妹がひどい目にあうなど、耐

   えられぬことです」

播馬 「うむ…。したが、どのようにして、仁神に近づいたのだ」

真之介「はい、先方も私のことが気になっていたようで、町で出会いました」

播馬 「それから」


 真之介のこれまでの話を黙って聞いていた供侍と女中も思わず身をのり出す。 


真之介「まともにぶつかって、勝てる相手ではありません。ここは私の土俵に上げ

   るべく、茶屋へ誘いました。あちらの大殿が昔、芸者遊びにはまっていたと

   かで、奥方様が大層芸者を毛嫌いしており、それ故、若殿は茶屋遊びは不慣

   れのご様子。しかし、まさか、日頃の放蕩が役に立つとは…」

播馬 「したが、かわら版には町人だけでやったとあったが」

真之介「かわら版屋も私の、いえ、町人の味方でございます。それ故、私のことは

   伏せてくれました」

播馬 「では、どうして、あの様に手の込んだことを。それ、別々に括り付けたり

   したのだ」

真之介「あの男たちに手籠めにされた娘は、泣きながら一人で歩いて帰ったことで

   しょう。その気持ちを少しでも味合わせてやりたかったのです」

播馬 「ならば、供の奴らの髷もどうして切らなかったのだ」

真之介「奴らがもし、屋敷を追い出されたとしたら、男が髷がなくては生きていけ

   ません。食い詰めて押し込みなどされたのでは、藪蛇ではございませんか」

播馬 「うむ…」


 と、考え込む播馬だった。


播馬 「いや、それにしても、どのようにして、その、襲ったと言うか、本当にか

   わら版に書いてあった様に、あのようなやり方で?」


 あの夜はいつもの様に、安行たちと別れた後、真之介は走り出した。酒などろくに飲んでない、飲むふりをしていただけだ。そして、忠助、弦太、壮太、何でも屋の万吉と仙吉に弥助と言う、安行たちに恨みを持つ若者が潜む、待ち伏せ場所へと急ぐ。そこにかわら版屋の繁次も潜んでいたことは後で知った。


 やがて、安行たちが近づいてきた。真之介の合図で荷車を引いた忠助が、三人の行く手を阻み、小競り合いで足の止まった三人を弦太と壮太が棒で殴り付け気を失わせる。後は全員で刀や着物を脱がせ、縛り上げた安行は壮太が担ぎ、弦太と弥助が一緒に、かっぱ寺近くの木に括り付け、弥助が安行の髷を切った。一方の二人は荷車に括り付け、反対方向の神社近くの木に括リ付けた。


真之介「今にして思えば、何と、大それたことを…。しかし、あの時はそれしか思

   いつきませんでした。浅知恵のなせる業でございます。髪はいつか伸びるも

   のです。そのことに思い当たらなかったわけではございませんが、あの時

   は、目先のことにとらわれるばかりで…」


 真之介の話に一同、沈黙してしまう。 


播馬 「わかった。わかったが、ちと、腑に落ちぬことがある」

真之介「と、申されますと」

播馬 「お主はすべて妹のためと申したが、坂田殿は、ふみのためにやったことと

   申された。それにお主も、その後、すぐにこの縁組を受け入れたではない

   か」


 父の播馬にすれば、妹半分、ふみ半分であったと思いたい。


真之介「坂田様は、なぜか、私とふみを結びつけたきご様子にて…。私はこの縁組

   は、仁神から逃れるための一時しのぎに過ぎないことと思っておりました。

   故に、事を起こせば自然消滅になると…。坂田様にもその様に申し上げまし

   たところ、武士とは例え口約束であろうとも疎かにせぬもの。先様は承知さ

   れていると申されました」


 結納金…。

 ふみが提示した破格の結納金がネックになっていた。


播馬 「坂田殿も、仲人口を使いおって…」

ふみ 「でも、それは、私が望んだことです…」


 と、ふみが言えば、加代も娘の援護をする。


加代 「殿、今更そのようなことを言ったとて、何になると言うのです。それよ

   り、これからのことの方が大事ではないですか」


 女の考えは生産的実利に基づく。


播馬 「そうであった。では、これからは、どのようにしていく。事と次第によっ

   ては、ふみを、我が娘を連れ帰らぬでもない」

ふみ 「父上!何があっても私は帰りませぬ!一度、嫁いだからには最後まで添い遂

   げます」

播馬 「いや、これが、普通のことなら、私も何も言わぬ。だが、これから、あの

   仁神を相手にどうやって行くと言うのだ。今度はあの母も一緒なのだ。何か

   策はあるのか」

真之介「今は、まだ…」

播馬 「そんなことで、ふみがどうなっても構わぬのか!」

ふみ 「父上!私もいつまでも」


 思わず、貧乏旗本と言いそうになってしまう。


----危ない、危ない。

ふみ 「世間知らずの娘ではございません!」

播馬 「いや、その」


 ふみのあまりの剣幕に、思わずたじろぐ播馬だった。  


ふみ 「あちらの奥方様にしてみれば、私が黙って側室に参れば何事も起きなかっ

   たのにとお思いなのでしょう。事実、その通りです。だから、私も憎いので

   は。そこで、茶会を口実に呼び出し、何か恥の一つでもかかせてやりたいと

   のおつもりなのでしょう。でも、私もむざむざやられるようなことは致しま

   せん。ですから、あまりご心配なさらぬように。先程も申しました様に、私

   ももう子供ではございません。大丈夫です」


 未だかって、ふみが父母の前で、こんなにも長く、物事をきっぱりと言い切ったことがあっただろうか…。


ふみ 「それに、二度とも不発に終わっております」

加代 「まあ、ふみは本当にしっかりして…」


 母の娘の成長を喜ぶが、父にとっての娘は心配でしかない。


播馬 「な、ならば。いや、既に仁神の息子が現れたと言うではないか」

ふみ 「それは、絹江殿があのようなことを申したので、しばらくは顔をお出しに

   なられないでしょう」

播馬 「では、完全に髪が伸びた時は何とする」

ふみ 「その時はその時でございます。父上、取り越し苦労が過ぎます」

播馬 「違う。私は婿殿に聞いておるのだ。改めて聞くが、その時はどのように致

   すつもりか、聞きたい」

真之介「先程も申しました様に、今は、まだ…」


 策と言うほどではないが、考えていることはある。 


播馬 「私は何も娘のことばかり心配致しておるのではない!婿殿も、我が三浦家の

   大事な一員である。その婿殿が、もしや、もし、髷を切られるようなことに

   でも…。これこそ、三浦家の恥である!」


 そうなのだ。仁神母子の目的は、真之介の髷を切り、ふみを奪うことだ。


真之介「若殿の髷が伸びきるには、後三月ほどございます。今、しばらく…」

播馬 「その様な悠長なことでどうする。何か早急に。ほれ、お主は世情にも通じ

   ておるではないか。何か策はないのか!」


 例え、策があったにせよ、この場で言えるものではない。


供侍 「殿!逸るお気持ちはわかりますが、ここは、婿君をお信じになられて。あれ

   だけのことをやってのけられたお方です。きっと、これから良い策を。何

   卒、今しばらくのご猶予を、私からもお願い申します」


 と、供侍が頭を下げれば、女中も手を付く。


女中 「差し出がましくはございますが、私からもお願い申し上げます。まだ、三

   月ほどございますれば、如何に、知恵あるお方とは申せ、この場ですぐと言

   うのは、あまりにも…」

播馬 「その知恵のツケを今、払わされてるのではないか。この度は私も吟味する

   ゆえ、一日も早よう策を…」

真之介「ご尤もにございます。ただ、今すぐには何も思い浮かびませぬ。しばしの

   猶予を頂きたく存じます」

播馬 「では、何か、思い付いたれば、即刻私に報告するよう。しかと申しつけ

   る」


 これは困ったことになった。この調子では、播馬に知られれば、すぐに広まってしまうだろう。その時、久が入って来た。


久  「お食事の用意が出来ました」


 真之介は正直ホッとする。久はお房と共に、台所にいたのだ。


播馬 「いや、もうその様な刻限か」

真之介「少し早ようございますが、もう用意が出来ましてございます。鰈の煮付け

   が冷めないうちにお召し上がりくださいませ」

播馬 「鰈の煮付けとな」

加代 「まあ、それは…」

真之介「子持ち鰈にございます」


 子持ち鰈の煮付けと聞いて、供侍と女中にも思わず笑みがこぼれる。

 この時代、水揚げされた魚は先ず大奥が必要量を取り、残りが市中に出回るが、武士のところにまではあまり回ってこない。


ふみ 「では、早速に」


 と、ふみが言えば、お房と久が膳を運ぶのを女中も手伝おうとする。 


久  「まあ、お客様ではございませんか。どうぞ、そのままお座りになってくだ

   さいませ」

女中 「いえ、それでは」

久  「たまには上げ膳据え膳も」

女中 「そうですか…」


 やがて膳が設えられ、食事がはじまる。それにしても、おいしいものの前では皆、和やかになる。先程までの気難しい顔はどこへやら、真之介にすすめられるままに盃を干す播馬と供侍だったが、見れば、久と女中も女同士で楽し気に酒を酌み交わしていた。


ふみ 「本当に申し訳ありません」


 播馬達が帰った後で、ふみが言う。


真之介「いや、別に気にしてなどおらぬ。やはり、ご心配なのだ」

ふみ 「旦那様、何度も申すようですけど、私は大丈夫です」

真之介「まあ、用心するに越したことはない」


 そんな数日後、今度は供侍が一人でやってきた。


供侍 「実は、その、殿が、何か変わったことはないかとおっしゃられ…」

----やれやれ…。

真之介「あの、何かあらば、こちらからすぐにお知らせいたしますので。それよ

   り、まさかとは思いますが、ひょっとして、内通者がいるやもしれませぬ。

   あまり、目立つようなことはなさらぬ方が…」

供侍 「そうでした。内通者が、なるほど…」

真之介「それに、ここは慌てず騒がずの平常心が良かろうと存じます。本当に何か

   あらば、すぐにお知らせいたしますので」

供侍 「わかりました。いや、何しろ殿が…。お齢のせいでしょうか、近頃、特に

   気が短くおなりで…」

真之介「そこを何とか、そのお気持ちをお鎮いただきたく、お願いいたします。こ

   こも見張られているやもしれませぬ。くれぐれもご用心を」


 いくら何でも、そこまでのことはないと思うが、この際、これくらい大仰にしておいた方がいい。


供侍 「いや、その通りにございます」


 その供侍が帰った後、何でも屋の万吉がお駒からの手紙を託って来た。

 真之介はその手紙を読み返した後、ふみに手渡す。

 さらに、翌日、まさかと思っていたが、そのまさかがやって来た。またも、真之介の留守を狙って…。


お房 「あら!まあ!これはこれは!ようこそ」


 お房はいつも以上にハイテンションに声を張り上げるが、ようこそは低めに言う。


絹江 「何なの、お前は。ふみ殿もちゃんと女中の教育なさい」

雪江 「そんなことより、まあ、ふみ殿。聞いてくださいませ。この絹江ときた

   ら、まだ、よくわかってないのですから」

絹江 「あら、わかってますわよ。あの若殿がこちらの真之介殿に髷を切られた男

   だったと言うことでしょ」

雪江 「そんなことではないわ!」

ふみ 「お待ちください。真之介が何を致したと言うのですか」

絹江 「ほら、あの、仁神の髷を切ったことですよ」

ふみ 「それは何かのお間違いでは。真之介はそのようなことは致しておりませ

   ぬ」

絹江 「あら、だって、皆そう言ってるじゃないですか」

ふみ 「皆とは」

絹江 「皆と言えば皆ですよ!また、しらばっくれて」

ふみ 「別にしらばっくれているわけではありません。第一、若殿はご病気と伺っ

   ております。違いまして」

雪江 「まあ、ここは、内輪の話ですから。よろしいではないですか」

ふみ 「よろしいも何も、私は事実を申し上げているのです」

雪江 「では、申しますけど、絹江ではありませんけど、あのように髪が短くなる

   病気などありまして」

絹江 「そうそう、あの寸足らずの髷。おかしったら」


 と、絹江が我が意を得たりとばかりに姉に同調するが、すぐに雪江に睨まれてしまう。


ふみ 「あの、若殿のご病気のことでたしら、仁神様に直接お聞きくださいませ。

   私共にはわかり兼ねます」

----まあ、盗人猛々しいとはこのことだわ。

ふみ 「それで、今日は、若殿のご病気のことでいらしたのですか」

絹江 「だから、それは、忘れていたのです。そんな、昔の、二年も前のこと。ま

   さか、あの若殿だったとは」


 絹江は話を蒸し返そうとするのではなく、勝手に話を前後させてしまう時がある。


ふみ 「ですから、先程から申し上げているように、若殿はご病気なのです」

絹江 「では、あの侍の髷切り事件はどこの誰だと言うのかしら」

ふみ 「存じません」

絹江 「そんな、あれは、真之介殿の仕業でしょ」

ふみ 「違います。それはただの噂です」

絹江 「あらっ、噂って馬鹿にできませんわよ。そうでしょ。火のない所に煙は立

   たぬ、天知る地知る人が知る。人の噂も七十五日。それが噂の噂たる由縁で

   はないですか。今日だって、姉上がそうでしょ」


 と、噂に関する、自分が知っている限りの謂れを並べただけのような話が繰り返され、いい加減うんざりする、ふみだったが、その間にも、雪江は羊羹を口に押し込み、茶を流し込んでいる。


雪江 「まあ、二人とも暢気なこと!」


 それを言うなら、口の中をすっかり空にしてから言ってほしい。雪江は人一倍気取り屋のくせに、気を使わなくていいところでは、このザマである。


雪江 「私がどれだけ恥をかいたと思ってるの!」

絹江 「だから、それは忘れていただけだと言ったじゃないですか」 

雪江 「そんなこと、忘れてどうするのです!」

ふみ 「あの、姉妹喧嘩でしたら、ご自宅でやってくださいませ」


 この調子では、まだまだ続きそうだと思い、ふみは言った。


雪江 「ですから、それを、あなたたち二人が暢気に、ああでもない、こうでもな

   いと言っているからですよ。私の身にもなってください!」


 雪江の身になれと言われても、絹江のやったことであるし、ふみは、それをフォローしたではないか。いや、雪江は次の茶会に呼ばれないであろうことが悔しいのだ。その怒りの矛先は当然絹江であるが、今一、ピンとこない絹江に業を煮やし、今度は、ふみにその矛先を向けにやって来たのだ。


雪江 「あーあ、もう、あのお茶会に呼ばれることはないでしょうよ」

絹江 「はいはい、わかりました。では、今度は私が姉上に何かご馳走します。そ

   れで、よろしいのでは」

雪江 「では、カステリャを。さもなくば、京の職人による京の材料を使った菓子

   とか」

絹江 「やれやれ、でも、どうですかね、あの京菓子にしても実際のところは怪し

   いものです。江戸にも京の職人が大勢いるではないですか、また、カステ

   リャなんて、どこに売ってますの」

ふみ 「さあ、私は存じません」

絹江 「真之介殿なら知っているのでは」

ふみ 「どうでしょう」

雪江 「そうそう、真之介殿に手に入れていただくと言う手もありますわ」


 雪江が平然と言う。


----まだ、あの一両も返さないくせに、カステラまで催促するとは…。

ふみ 「でも、あのお茶会で、皆様のお話を聞くのは勉強になりますわ。特に、あ

   ちらの若奥方様。やはり、お大名の姫様ともなれば私たちとは違いますわ。

   あのご見識の高さ…」


 と、ふみは雪江の虚栄心をくすぐるように言う。食べ物もそうだが、上昇志向の強い雪江にはそれも手痛いことに違いなかった。  


 そして、やっと、二人が帰り、静かになった部屋で、ふみはお駒からの手紙を読み返してみるのだった。 


















































 











   

 
























































 











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