第85話 我が世、常に

 ある日のこと、あわただしく数人の侍がやって来た。その時、真之介とふみは庭にいた。


侍  「御免、本田真之介殿でござるか」

真之介「はい、本田ですが」

侍  「いや、ご無礼は承知の上で申す。われらは仁神家の者。若殿の使いで参っ

   た。すぐに屋敷までご足労願いたい。いや、その…。若殿がお呼びである」

 

 仁神家の使いと聞いて、一瞬緊張が走るが、使いの侍たちは息が荒い中にも安堵の表情、物腰の柔らかさが見て取れた。


真之介「それは、また、急なことにて。どのようなご用向きでございましょう」

侍  「いや、その、とにかく、火急のことで済まぬが、お主に今すぐ参ってもら

   いたいのだ。若殿がお急ぎゆえ、頼む。お頼み申す」

真之介「はあ、では、着替えてまいりますので、どうぞ、お上がりください」

侍  「いや、ここでよい。水…」

 

 その時、忠助が侍たちに水を持って来る。真之介とふみは部屋に入り、ふみと久が着替えを手伝う。 


ふみ 「何があったのでしょうか」

真之介「知らぬ」

ふみ 「大丈夫でございますか」

真之介「何か知らぬが、昼間、こうして迎えをよこしたのだ。滅多なことでもある

   まい」

 

 とは言うものの、真之介が一番気がかりなのだ。屋敷に呼びつけてまで、何を企んで…。それにしては、使いの侍にそれ程の緊張感がない。


真之介「お待たせ致しました」

侍  「いや、では、参ろう。お邪魔致した」

 

 この時、水を飲み落ち着いた侍たちの目は一斉に、ふみに注がれる。


----これが、若殿がご執心だった、ふみ殿か…。


 先日の茶会は女ばかりで、近づくことも出来なかったし、先ほどは真之介の後ろに隠れていた。


侍  「いや、驚かれたであろう。当家の若殿はいささか気が短く。思い立ったら

   即…」

真之介「何がおありになられたのですか」

 

 速足で歩きつつも、このままではさっぱり状況がつかめない。


侍  「それが…。今日は屋敷に河原者をお呼びになられた。ほれ、お主によく似

   ていると言う」

真之介「中村夢之丞でございますか」

侍  「そう、そ奴の他に十数人やって来てな。これでもわれらも大変だったの

   だ。にわかの舞台作りに駆り出されたりして。なんで、武士が大工のまねな

   どせねばならんのだ」

 

 一方の中村座にしても芝居は休めないし、センターの夢之丞が抜けるのは痛いが、旗本の要請とあれば致し方ないことである。そこで前列メンバーから二人、後は市之丞が適当に選び、鳴り物と共に仁神家にやって来れば、そこには何とか人がのれそうな台がしつらえてあるだけだった。鳴り物は敷物を用意してもらっての始まりだった。

 それでも、踊りが始まり、合間には寸劇で一同を笑わせ、和やかなうちに演目が終われば、座敷で酒が振る舞われることとなった。


侍  「そこまではよかったのだがな」 

 

 まだ、町を出歩けない安行の気晴らしのための余興であるにしても、一同の関心は、真之介に似ていると言う役者の夢之丞に集まる。


安行 「近こう寄れ」

 

 しびれを切らした安行が夢之丞を呼び、夢之丞はそっと近づく。


安行 「もそっと。もっと、近くに来ぬか」

 

 夢之丞は、安行の六尺(約2m)くらいにまで近づくことに。


安行 「うーむ、なるほど」

 

 とっくりと嘗め回す様に夢之丞を眺める安行だった。


安行 「何か、申せ」

夢之丞「中村夢之丞にございます。本日はお招きいただきまして、誠にありがとう

   存じます」

安行 「こりゃ、声まで似ているとは…」

 

 次の瞬間、声を張り上げる安行だった。


安行 「本田!見事である!」

 

 以前、兵馬にも真之介だろうと言われたことはあるが、それでも、この場でまたも同じことを言われるとは思ってもみない夢之丞だった。


夢之丞「いえ、あの、私は河原者の中村夢之丞でございまして、決して、本田様で

   はございません」

安行 「そう、慌てずともよいわ。久しぶりようのう…」

夢之丞「あの、よく似ていると言われますが、それだけでございますので、何

   卒…」

安行 「あれから、どのようにしておった」

夢之丞「あの、お戯れは…。何卒、ご容赦願います」

安行 「まあ、噂には聞いておるが、さぞかし…」

 

 夢之丞はもうどうしていいかわからない。


市之丞「若殿、お待ちくださいませ」

 

 思わず市之丞が駆け寄り、平伏する。


市之丞「この者は、夢之丞に相違なく、本田様ではございません。私も本田様にお

   会いしたことがございますが、確かに双子ではないかと思うくらいによく似

   ておられました。それだけでございます。今、ここにおりまするのは、中村

   夢之丞にございます。決して、本田様ではございません」

安行 「左様か。本田に会ったことがあると言ったな。では、その時に、二人並ん

   でいたか」

市之丞「いえ、本田様と、後はお知り合いの方たちでした。夢之丞はまだ、本田様

   にお会いしたことはございません」

安行 「では、二人、並べてみたいものよ、のう」

八千代「ならば、呼べばよかろう」

安行 「呼んでもよろしゅうございますか」

八千代「その方が白黒ついて。面白かろう」

安行 「これ、母上のお許しが出た。誰か、本田を呼んでまいれ!」


 家来たちは一応返事をするが、皆、誰か行くだろうと思っている。別に、本田真之介と言う男を迎えに行くのが嫌と言う訳ではないが、ここは目立った動きはしたくない。安行だけならともかく、その母の前では特に慎重に振る舞わねば後が怖い。そして、命を受けた武士たちがやって来たと言う訳だ。


安行 「よいか!急ぎ、連れてまいれ。首に縄を付け、縛り付けてもよい。とにかく

   急ぎ連れてまいれ。もし、真之介が在宅していない時は、探せ」

八千代「行き先はほぼ、実家、道場、後は町をうろついておるわ。それ、何でも屋

   とか申すところとか。それでもおらねば、かっぱ寺とか言う、ボロ寺やもし

   れぬ。それと、三浦殿の屋敷と言うこともある」

 

 これには一同驚くしかない。今、仁神家の実権を握ってるのは、この八千代である。そんな大奥方が一介の成り上がり御家人のことをそこまで知っているとは。いや、そこまで調べ上げていたとは…。

 こうなった以上、武士たちは、真之介が在宅していてくれることを願うばかりだった。でなければ探し回らなければならない。実家周辺はともかく、道場の場所もかっぱ寺も、皆おおよその場所しか知らないし、特に、かっぱ寺までは距離がある。


侍  「いや、本当に助かり申した」 

 

 そんなことだろうと思った。

 それにしても、真之介と夢之丞を並べ、あの安行がどんな憂さ晴らしをするのだろう。それも母親付きで…。いや、母親がいるので、余計に気が大きくなっていることだろう。

 とにかく、ここは落ち着かねば…。

 やがて、仁神家に到着すれば、皆、にこやかに出迎えてくれる。それどころか下働きのものまで、庭の隅から顔を覗かせている。これから始まるであろう「見世物」に皆興味津々なのだ。


侍  「本田殿をお連れ申しました」

 

 真之介は廊下で平伏する。


真之介「本田真之介にございます。お召しにより参上いたしました」

 

 ふと、挨拶はこれでよかったかなと思ってしまう…。


安行 「何だ、参ったとな…。これ、そこでは顔がよく見えぬ。もそっと近くへ参

   れ」

真之介「はっ」 


 真之介は夢之丞の少し後ろで手を付く。


真之介「ご無沙汰を致しております。いかがお過ごしにございましたか」

----白々しいことを…。

安行 「これ、もそっと近こう。夢之丞と並べ」

 

 真之介が夢之丞と並べば、またも舐め回すように二人を見る安行だった。


安行 「いや、実によく似ておる。実はな、そなたがついでに役者もやっておるの

   ではと思ってな」

真之介「それはまた…。如何に、私が酔狂であるとは申せ、そこまでは…」

安行 「いや、それ程に似ておると言うことだ」

侍  「はあ、噂には聞いておりましたが、確かに…」

 

 それにしても、安行の変わり様にも驚きを隠せない。髷がまだ寸足らずなのはともかく、すっかり太っているではないか。もっとも、この時代、太っている人間は羨ましがられていた。ほとんどの人間はどこへ行くのも徒歩。食事は現代で言えば、完全なダイエット食、粗食。これでは、太れる筈もない。太っている人間は相撲取りと金持ちだけである。


安行 「それにしても、よく似ておるわ。まさか、ふた…」

 

 真之介は安行には構わず、急ぎその母の方に手を付く。


真之介「これは、奥方様。お初にお目にかかります。本田真之介にございます。先

   日は手前の愚妻がお招きに預かり、誠に有り難きことにて、お礼の言葉もご

   ざいません。また、雅な茶会を白田屋と申す者が邪魔を致しましたことを、

   この場にてお詫び申し上げます」

八千代「ああ、あの足袋屋か」

----どうせ、お前が差し向けたのであろう。 

八千代「いや、中々に、面白い男であった」

真之介「恐れ入ります」 

八千代「これ、何をしておる。酒がないではないか。この者にも盃を」

 

 と、母が言えば、息子はすぐに呼応する。


安行 「おう、そうじゃ、皆も飲むがよい」 


 真之介の到着を待っている間、話術のうまい踊り手が座を取り持っていたが、いよいよ主役の登場となれば、さっと緊張感が漂い、思わず皆、盃を置いたものだが、これからは酒を飲みながらの高見の見物が出来そうだ。

 真之介の前にも酒が供され、夢之丞が酌をする。


安行 「はっはははは、同じ顔の者同士が差しつ差されつか。これも一興である

   な、はははははっ」

 

 安行は余程、笑いに飢えていたと見える。


安行 「そうだ、真之介。ちと、先のことではあるが、また、夜の街へ繰り出そう

   ではないか」

真之介「はい、お供させていただきます」

 

 理由はともかく真之介のせいで、町歩きが出来なかったのだ。その借りを返せと言うことか…。

 だが、側室たちは一瞬顔をしかめる。この二年近く、荒れる安行の機嫌をどれだけ取って来たことか。それも髪が伸びるまでと、夜の無茶な扱いにも耐えて来た。なのに、髪が少し伸びたと思えば、もう、夜遊びの話。それも、遊び人の真之介が一緒ではまたものめり込んでしまうに違いない。

 もはや安行に関心のない正室に比べ、なぜか母親は微笑んでいる。

 女とは、いくら男の女遊びが許される時代とはいえ、自分の夫が遊び呆けることに気分がいい筈はない。だが、息子は別である。少しくらいの遊びはむしろほほえましいくらいだ。さらに、自分の懐が痛まないとなれば、言うことはない。


----そう、これからは、この男に散々金を使わせてやれ。だが、それだけで終わると思うな…。

安行 「そうだ、本当に双子ではないのか」

 

 またも、安行は話を蒸し返そうとする。


真之介「それはございません。歳も違います」

安行 「幾つだ」

 

 と、夢之丞に聞く。


夢之丞「十八にございます」 

安行 「真之介は、確か、三だったかな」

真之介「はい」

安行 「うーむ。五つ違いか」

八千代「干支は?」

夢之丞「寅にございます」

八千代「まあ、役者の歳など当てにならぬが」

 

 歳は簡単にごまかせるが、干支までは気が回るものではない。それを夢之丞はすんなり答えた。相当頭に刷り込んだことだろう。それが安行の母には面白くなかったようだ。その時だった。


亀之丞「さようでございますとも。ここだけの話、実はこの鶴之丞。何と、歳をご

   まかしているのでございますよ」

鶴之丞「うるさい!あ、失礼いたしました」

 

 真之介を待っている間、軽妙な話術で座を取り持っていたのは、群舞メンバーの亀之丞と鶴之丞だった。


亀之丞「いいえ、まあ、お聞きになられてくださいませ。それもでございますよ。

   何と、たったの一歳をごまかしているのですから。まだ十七のくせに十八歳

   だと言うのです!普通、歳をごまかすとなれば一歳でも若くが常ではございま

   せんか、それなのに、ああ、それなのに、どう言う訳かこの野郎、歳を一つ

   上にしてるのでございます。おかしったらありゃしない」

鶴之丞「そう言うお前は何さ。おい、私が知らないとでも思ってんのかい。お前こ

   そ、十九のくせに十八だと言ってるじゃないか」

亀之丞「いえいえ、違いますわいなあ、鶴之丞兄さん」

鶴之丞「何が、兄さんだ。本当はこの亀之丞の方が年上なんですから」

亀之丞「それじゃ、聞くけど、なんで歳を多く言ってるのさあ」

鶴之丞「そりゃ、顔、実力とも、夢之丞さんの次は私だからさあ、少しでも、あや

   かろうと思って…」

亀之丞「よく言うわ。夢之丞さんと並んで踊っているのは、そこの萩之丞さんと荻

   之丞さんじゃないか。私たちなんぞまだやっと二列目なのにさ。大きなこと

   言うんじゃないよ」

鶴之丞「でもさ、知ってるだろ。夢之丞さんはそろそろ卒業だってこと」

亀之丞「えっ、本当!」

鶴之丞「本当だよ。今度は役者に専念するんだってさ」

亀之丞「へえ、噂にゃ聞いてたけど」

鶴之丞「そこで、空いた空いたよ、ど真ん中。そこへ、並み居る踊り手をふわりと

   飛び越えて、この鶴の舞い…」

亀之丞「無理無理」

鶴之丞「ああ、亀にゃ無理じゃわいなあ。のろ亀と違って、美しき鶴はぁ」


 と、踊り出そうとする鶴之丞を亀之丞が押さえつけ、それをまた鶴之丞がすり抜けると言うしぐさを面白おかしくやるものだから、笑いが起きる。


市之丞「これ、二人ともいい加減にしないか。若殿が呆れておられるではないか」


 と、予定調和に市之丞が二人をたしなめる。


市之丞「誠に申し訳ございません。この通りの礼儀知らずの河原者にて、何卒ご容

   赦頂きたく存じます」

安行 「いやいや、中々に面白かった」

市之丞「そのようにおっしゃって頂きますれば、この上ない喜びにございます」

安行 「いや、今日は今、人気の踊りに、瓜二つの男と、面白い話も聞けた。こん

   なに笑ったのは久々である」

市之丞「ありがとうございます。私共にとりましては、何よりのお言葉にございま

   す」

安行 「本田も急に呼びつけて済まなかったな」

真之介「恐れ入ります」

亜子 「これ、夢之丞とやら」

 

 それは安行の正室、亜子つぐこだった。


夢之丞「これは若奥方様」 

亜子 「その方、これからは踊りだけでなく役者もやるとな」

夢之丞「はい、今も少しばかりやらせていただいておりますが、これからは役者に

   専念したいと思っております」 

市之丞「奥方様、夢之丞は今月も芝居に出ております」

亜子 「では、今日はこれより立ち返り?」

市之丞「いえ、日替わりで役についております」

亜子 「さようか。どのような役である」

市之丞「人間に化けた狐のお話でございます。お忙しいとは存じますが、一度小屋

   の方にもお運びくださいますよう、お願い申し上げます」

 

 と、市之丞以下、頭を下げる。

 

 やっとお開きとなり、真之介も役者たちと一緒に仁神家の門を出ることが出来た。そして、角を曲がると皆一斉に一息つく。


真之介「いや、助かった」

 

 と、真之介が鶴之丞と亀之丞に礼を言う。彼らも真之介と安行の因縁は熟知している。


亀之丞「いえ、あれくらいのことしかできませんでした」

鶴之丞「そうです。もっと面白いことが言えるようにならなきゃ駄目です」

 

 この鶴之丞と亀之丞の二人、二列目で踊っているが、それではあまり目立たない。そこで、去り際に二人でおどけたりしていた。無論、最初は市之丞から注意されていたが、それでもやり続けわずかな会話も挟むようになり、今ではそれが、面白いとちょっとした人気になっている。


真之介「私の実家にも鶴七と亀七と言う手代がおるが、お前たちほどには機転が利

   かぬ。えらい違いだ」

夢之丞「私こそ、何も出来なくて…」

市之丞「本田様はこれからが大変なのでは」

真之介「これからのことは、何とか…」

市之丞「あの、私供はあまり自由が利きませんけど、お駒でしたら何かお役に立て

   ることがあろうかと」

真之介「それは…。何かの折にはお願いするやもしれんで、姉さんによろしく」

市之丞「伝えておきます。それと、あちらの大奥方様。本田様のことを色々とお調べ

   になられてるようです」

 

 それは予想していたこととはいえ、一見関わりの無さそうな役者達にまでそのような話をするとは、ついに宣戦布告か…。

 ならば、受けて立つしかない。だが、その標的が自分一人ならともかく、その毒牙は、ふみにも向けられることだろう。いや、最大の目標はふみかもしれない…。

 市之丞達と別れ帰宅を急げば、その先にお房の姿が見えた。お房は真之介と忠助の姿を確認すると、一目散に駆けだす。ふみと久に真之介が無事帰って来たことを知らせるのだ。


ふみ 「お帰りなさいませ」

 

 門の前で出迎えたふみも久も笑顔だったが、真之介の胸の内は重い。そして、それは思いの外早く、またも、ふみへの茶会の招待だった。


 真之介は弦太に、祝言を来月に控えている尾崎友之進に祝いの品を届けさせる。


弦太 「承知いたしました」

 

 真之介の意をくんだ弦太は小僧を連れ、友之進の住まいへ行き、隣近所に聞こえるように声を張る。


弦太 「ご注文の品をお届けに参りました」

 

 奥から、何事かと友之進が出て来る。


弦太 「本田屋にございます。旦那様からのお祝いの品にございます」

友之進「これは、ご丁寧に」

弦太 「あの、旦那様が例の鰻屋でお待ちでございます」

友之進「わかった、すぐに行く」

 

 友之進は急ぎ鰻屋へ向かう。


真之介「これは、ぶしつけにもお呼び立て致しまして、申し訳ございません」

友之進「祝いの品をありがとうございました」

真之介「ほんの気持ちばかりです」

 

 真之介は友之進に酌をする。


真之介「尾崎様。その節はありがとうございました」

友之進「いやいや、しかし、さすがですな」

真之介「いえ、もう、これが本当の苦肉の策でして、何ともはや…」

 

 この友之進とも不思議な縁である。

 侍株を買い、町人から武士になった真之介の許に持ち込まれた縁談相手は、何と旗本の娘だった。何か裏があるのでは思い調べてみれば、相手の娘は、旗本筆頭の家柄である仁神安行から側室にと望まれていた。だが、この安行がとんでもない強姦魔だった。

 反対していた祖母の喪が近く明ければ、業を煮やした安行が娘、ふみを奪還にやって来ると言う噂もあり、その前にどこかへ嫁がせようと言うのが狙いだった。

 それだけでも気が重いのに、もし、相手の娘、ふみが真之介の許へ輿入れともなれば、今度は妹お伸にその魔の手が伸びるのではとの懸念もあった。また、安行の方も真之介を探していたようだ。そこで、偶然を装った必然で出会うことになる両者。

 真之介は自分のテリトリーである料亭に誘い、江戸一番の芸者の呼び声の高い蜜花に安行を篭絡させ、そして、ある夜の料亭からの帰り、安行と供侍二人を忠助、弦太、壮太達と襲う。

 供侍は神社近くの木に縛り、安行はかっぱ寺近くの木に括り付け、その髷を切り落とした。

 翌朝、安行が戻らないので、探しに出た仁神家の家来の中に、安行に凌辱された許嫁が自害すると言う過去を持つ友之進の姿もあった。探し回った挙句、友之進が見つけたのは、髷を切られた頭を長襦袢の袖で隠しうずくまっている無残な安行の姿だった。

 友之進が安行の頭を隠すべく、着物を脱ごうと腰から刀を抜こうとした時、町駕籠が通りかかる。すぐに安行を籠に押し込み走り去る。

 そして、この事件はかわら版で大々的に報じられることになる。

 この時代、特に男は町人であろうとザンバラ髪では外は歩けない。ましてや、侍が髷を切られたとあっては、これ以上の屈辱はない。安行は病気と称して、屋敷に籠らざるを得なかった。

 後に、友之進は都合よく町駕籠が通りかかったのは、真之介の指示によるものだと気付く。

 それから一年余、真之介は一人の侍に真之介は呼び止められた。一瞬、誰かわからない程に明るくなった尾崎友之進だった。聞けば、今は仁神の屋敷を出て別に居を構え、近く婚礼の運びとなっていた。あの時の駕籠を礼を言われるが、そこのところは曖昧にしておいた。この友之進には、安行の異腹の弟と言う噂もある。

 だが、そこで思いがけない話を聞く。何と、安行の母が茶会に、ふみを招くつもりらしいと言うのだ。安行の母にすれば、息子を辱めたのが真之介とわかっていながら、どうにもできない悔しさでいっぱいなのだ。

 元をただせば、ふみが黙って側室に来ていれば、この様なことは起こらなかった筈。ふみに対する怒りも決して治まったわけではないのだ。せめて、一矢報いてやりたい…。

 母にすれば、旗本の奥方の中に今は御家人の妻となった、ふみを呼びつけ、万座の中で恥をかかせてやろうと言う算段が出来ていたようだ。例え、今回口実を作って誘いを断ったところで、次々と手を打って来るだろう。

 そこで、真之介は拮平を送り込むことにした。安行の母がどのような計画を練っているか知る由もないが、とにかくその出鼻をくじくことだった。それには厚かましくも憎めない拮平が打ってつけであり、また、反物と違い足袋は軽くて小さい。

 当日、足袋を抱えた手代と共に、真之介からの一両の金に気をよくした拮平は仁神家へのり込むことに成功した。集まった女たちに足袋を配り、そして、その話術で座を沸かし、意気揚々と帰って来た。

 ふみだけでなく、さすがの安行の母も拮平のテンポのいい話しぶりに、苦笑を浮かべるしかなかったと言う。拮平が帰った後の座敷はすっかり和やかなままに茶会は終わる。


友之進「考えましたね。その手がありましたか」

 

 友之進は茶会の一部始終を懇意にしている女中から聞いた。


友之進「でも、奥方もそれは落ち着いてらしたそうではないですか」

真之介「そうですか…」 

 

 ふみも妻としての自信と、少しは度胸も付いたようだ。


友之進「それより…」

真之介「もう、お聞き及びで」

友之進「ええ。それで、若殿のご様子は」

真之介「お元気になられましたが、何しろ、まだ…」

友之進「はあ、寸足らずとか」

真之介「はい、面目ありません」

友之進「本田殿が気にされることはありません。私は今となっては、あれで良かっ

   たと思っています。若殿にはいい薬になったでしょう」

 

 実はそうではないのだ。逆に恨みを募らせ、母親ともども真之介のみならず、ふみにまで意趣返し、それも倍返しをしようとしているのだ。


友之進「何ですか、本田殿と夢之丞とか言う役者が似ているとかで、呼びつけられ

   たとか」

真之介「はい、若殿は私が役者も兼ねているのではとお思いになられたようです」

友之進「いくら何でも、それは…」

真之介「いえ、この通りの道楽侍ですので、三足くらいの草鞋も履けるのではとお

   思いになられた、とは冗談ですけど…」

友之進「それで、その役者とは、そんなに似ておられるのですか」

真之介「はぁ、それが、双子ほどに…」

友之進「それは、私も会ってみたいものです。ああ、そうでした。何かお話がある

   のでしたね」

真之介「はい、実は。また、妻に茶会のご招待がありまして」

友之進「もうですか。それで、今度は何を。前の様にとはいかないのでは」

真之介「そこで、お願いがあるのです。お屋敷の信頼できる女の方にお引き合わせ

   願いたいのですが。今度ばかりは、私も何もできません。どなたか…、あ

   の、尾崎様とお親しいお女中様に」

友之進「わかりました。しかし、奥女中と言うものはそう簡単に外出など出来ませ

   ん。では、私が明日にでも行って話をしておきます。その者の名は、静代と

   申します」

真之介「ありがとうございます。では、その静代様に、これをお渡しくださいま

   せ」

 

 真之介は半襟を差し出す。中には金が忍ばせてある。その時、鰻が焼き上がって来た。


友之進「それで、具体的にはどのように」

真之介「先ずはお召し上がりください」

 

 友之進は早速に鰻を食べる。


友之進「やはり、職人の焼いた鰻はうまいものですな」

真之介「やはり、餅は餅屋と言いますから」

友之進「ところで、八目鰻と言うのは、これが鰻とは縁もゆかりもないものだそう

   ですね」

 

 この八目鰻とは、鰻と言う名称が付いているが、分類上は魚類でないとされる無顎類である。その形状が鰻に似ており、また、目が八つある訳ではなく、体の両側に七対の鰓孔が一見目の様に見えるところから、本来の目と合わせて「八つ目」と命名されている。

 当時は、白米中心の副食の少ない食事であったため、ビタミン不足による夜盲症(鳥目)の発症率が高かった。その夜盲症には、八目鰻がいいとされていた。


真之介「では、次は八目鰻にしますか」 

友之進「いえ、馳走になってばかりで…」

真之介「八目鰻もなかなかうまいものです。鰻とは触感も違います」

友之進「そうですか…。いや、肝心の話を致さねば。で、具体的にはどのように」

真之介「妻から目を離さないで頂きたいのです。それだけです」

友之進「わかりました…。実は、私は、あの牛川と猪山がいなくなれば、若殿も落

   ち着かれるのではと思っておりましたが、どうにも…」

 

 それは、兄の所業を憂う弟の顔であった。


友之進「それと、大殿にはお会いなされましたか…」

真之介「いいえ、私は大殿にお会いしたことはございません」

友之進「そうですか…」

真之介「体調を崩されていると、お聞きしておりますが」

 

 兄だけでなく、父も気になっているのだ。やはり、自由に見舞いにも行けぬのだろう。


真之介「尾崎様のご婚礼までにはよくなられることでしょう」

友之進「そう願っております」

 

 そんな友之進と別れ、帰宅してみれば、佐和が来ていた。


真之介「これは、お越しなされませ」

佐和 「お邪魔しております。こんなにも早く、次の茶会とは…。それに、お聞き

   と思いますが、茶会と申しましても茶室とかではなく、普通にお茶を頂くと

   言う集まりなのです。先日は白田屋が現れまして、よくわからないうちに終

   わりましたけど。この度は、何か…」

真之介「私は先日、あちらの若殿から呼び出しを受けまして」

佐和 「その話は先程、ふみ殿より伺いました。それで、若殿のご様子は?」

真之介「取り立ててお変わりのご様子は。きっと、お屋敷の中ばかりでお過ごしな

   ので退屈なされてるのです。それで、私をお呼びになられたのでしょう」

佐和 「あの、その、髷の方は…」

真之介「それが、まだ寸足らずと言いますか。それと、少しお太りになられ…」

佐和 「そうですか、と言っても、私はあちらの若殿にお会いしたことはございま

   せんし、取り立ててお会いしたいとも思いませんけど…」


 これには真之介もふみも苦笑するしかなかった。


ふみ 「旦那様、この度は手土産は何に致しましょうか」

 

 前回は壺屋の壺最中だった。


真之介「さあ、無難なところで」

ふみ 「では、硬い煎餅に致しましょうか」

 

 真之介は笑っている。


佐和 「あら、何かございましたの」

ふみ 「それが、先日、実家へ帰りました折に」

 

 ふみは、手土産の最中を兵馬の妻の園枝が、これでは赤ん坊が喉に詰めると言った時の話をする。


ふみ 「それも、最中を食べながら言うのです。ああ、姉上にはおわかりにならな

   いですわねって」

佐和 「まあ…」

ふみ 「でも、赤ん坊も食べられるようなお菓子って何がありまして。そこで真之

   介に聞いてみたのです」

佐和 「それで」

ふみ 「ならば、硬い煎餅を持って行くようにとおっしゃられて。赤ん坊に味の付

   いたものを持たせておけば、しばらくは大人しく舐めているそうです。それ

   でも、あの園枝殿のことですから、今度はこんなに硬くては母上が食べられ

   ないとか言いそうではないですか」

佐和 「そうですわね」

ふみ 「金槌も一緒に、と」

佐和 「まあ!それで、ご実家へは」

ふみ 「まだ、帰ってはおりません…。決めました。この度の茶会の手土産も硬い

   煎餅にします」

佐和 「私も同じく」

 

 と、二人して笑う姿に、ふみの成長を見る思いの真之介だったが、相手は手ごわいのだ。ふみが席を外した時、佐和にも頼んでおく。


真之介「佐和殿、お願いがあります。どうか、ふみの側を離れないでやってくださ

   いませんか。この度は私は何も出来ません。私の不徳ゆえ、恨みを買ってし

   まいました…」

佐和 「それは逆恨みと言うものです。でも、その様なことが通用する相手ではあ

   りませんわ。わかりました。絶対にふみ殿から離れません。いいえ、一緒に

   門をくぐり、一緒に帰ってまいります」

真之介「ありがとうございます。心強い限りです。よろしくお願いします」

佐和 「いかに旗本筆頭のお家柄とはいえ、ご自分の息子の不行跡を棚に上げて、

   仕返しをしようなどと、それも手の込んだやり方で…」

 

 これが、母親のゆがんだ愛と言うものだろう。そして、息子も決して忘れてないのだ…。

 そのご、友之進の使いだと言う男が手紙を持って来る。手紙には、静代と言う奥女中は確かに承知したと書いてあった。真之介はその手紙をふみにも見せる。


真之介「今回、私が出来るのはここまでだ。後はそなた自身がのり切るしかない」

ふみ 「はい、重々、心してまいります」

真之介「よいか、先ずは落ち着け。そして、決して一人になるでない。佐和殿もふ

   みの側を離れぬと約束してくれた。この静代と言う奥女中も信頼がおけると

   思うが、あの奥方には歯が立つまい。よって、決して、奥方の挑発にのらぬ

   よう…」

ふみ 「はい、そこのところはしっかりと胸に刻んでまいります」

久  「私も奥方様を必ずやお守り致します」

 

 そして、茶会当日。忠助が途中まで佐和の分の手土産を持って付いて行く。佐和の女中に手土産の箱を手渡した忠助はそこから引き返すと見せて、こっそり後を付けて行く。四人の女が仁神家の門を入ったのを確認してから戻るのだった。それだけでも見届けなければ、忠助も何か気が済まない。

 こんなもどかしいことはない。何も出来ないことがこんなにももどかしいとは…。


兵馬 「兄上」

 

 そんな真之介の気持ちを知る由もない男がやって来た。それも供侍もつれず一人でやって来た。いや、今、一番、話をしたくない相手かも知れない。


兵馬 「あれっ、姉上は」

真之介「今日はお一人ですか」

 

 旗本以上の武士は外出時には必ず供を連れていた。供もなしで歩くのはパジャマ姿で歩くのと同じだった。


兵馬 「ああ、うるさいので、抜け出してきました」

真之介「お旗本の嫡男がそのような無作法をなさるものではありません」

兵馬 「それより、姉上は」

 

 その時、お房が茶を運んできた。


兵馬 「おう、お房か。しばらく見ぬうちに…。幾つになった」

お房 「十五です」

兵馬 「ほう、もう、十五か」


 お房が黙ったまま去ったかと思えば、すぐに戻って来た。


お房 「あの、若殿様。お供の方が…」

川原 「失礼致します。これは勝手に上がり込みまして申し訳ございませぬ。やは

   り、こちらでしたか。若殿、勝手に、お一人で出かけられては困ります」

 

 兵馬の供侍の川原だった。


兵馬 「ここへ来ずとも良かろうに」

川原 「そうは参りません。若殿に何かあれば、私の責任です」

兵馬 「聞いてください、兄上。私には落ち着くところがないのです。赤ん坊は泣

   くし、園枝はうるさい、いえ、近頃では父も母も、おまけにこ奴までうるさ

   くて。もう、いたたまれません。ですから、こっそり屋敷を抜け出して来た

   と言う訳です」

川原 「それは若殿が、すべてのことからお逃げになるからです。少しは受け入れ

   る気持ちになられては」

兵馬 「それが、うるさいと申しておるのだ!」

お房 「いいえ、若殿の方がうるさいです」


 そう言い放ったのは、何とお房だった。これには、さすがの兵馬も驚いてしまう。そして、真之介は相変わらず黙ったままだ。


川原 「それはそうと、今日は奥方様は」

真之介「出かけております」

 

 その時、忠助が戻って来た。


忠助 「ただいま戻りました」

 

 それは、ふみと佐和が一緒に仁神家の門をくぐったと言うことだ。


真之介「ご苦労」

兵馬 「兄上を置いて、どこへ。ああ、佐和殿のところですか」

川原 「では、こちらは、男ばかりでお話すると言うのは」

兵馬 「そうするか。お房、酒を持て」

川原 「若殿!昼間から酒などいけませぬ」

兵馬 「たまにはいいですよね。兄上」

お房 「生憎、酒を切らしております」

 

 そう言ってお房はすぐに立ち上がり、台所へ向かう。


兵馬 「今日のお房はどうしたと言うのだ。一々絡んでくるわ」

 

 お房も、ふみのことが気がかりなのだ。ましてや、座して待つしかない真之介の心情を思えば、いかに知らぬこととはいえ、兵馬の能天気さが疎ましく、つい、酒がないなどと言ってしまった。そして、改めて新しい茶を出す。


兵馬 「しかし、この家も姉上がいないと、何か物足りない気がしますな」

川原 「それは、どこの家でもそうだと思います。やはり、女の方の力は偉大で

   す」

兵馬 「まだ、嫁も迎えておらぬと言うに、わかったようなことを言いおって」

川原 「近く、私も嫁を迎えます」

兵馬 「ああ、それで、やっと私の気持ちがわかると言うものだ」

川原 「いえ、こちらの若旦那様のお気持ちがわかるようになればいいなと思って

   おります」

兵馬 「そなたの主人は誰だ。私ではないか。先ずは私の気持ちをわかれ」

川原 「その若殿が尊敬なさっているお兄上なのですから、私も…」


 川原はさすがにずっと黙ったままでいる真之介が気になる。


兵馬 「兄上、先程から、ずっと黙ったままではございませんか。姉上と喧嘩でも

   なされたのですか。本当は姉上はどちらへ」

真之介「仁神様の茶会に招かれました」

兵馬 「ええっ!」


 これには驚くしかない、兵馬と川原だった。


兵馬 「どうして、その様になことを。兄上はお忘れになったのですか、姉上と仁

   神の息子とのこと!」

川原 「いいえ、お忘れになっているのは若殿の方です」

兵馬 「私が何を忘れたと言うのだ」

川原 「ほら、あの、仁神髷切り事件のことです」

 

 川原の声が次第に低くなる。


兵馬 「それがどうした。今はそんなことはどうでもよいわ」

川原 「ですから、あれは…」

 

 川原が兵馬の耳元にささやく。


兵馬 「……!」

 

 やっと思い出したようだ。


兵馬 「ならば、余計にでも、その様なところへ姉上一人で行かせるなど…。姉上

   に何かあらば、どうされるおつもりか!」

真之介「手は打ってあります」

兵馬 「じゃと言うて、姉上をおめおめとその様なところへ出向かせるなど。兄

   上、それはいくら何でもひどすぎませんか!」

真之介「では、どの様にすればよろしいので」

兵馬 「そんなものはお断りすればいいだけではないですか」

真之介「お旗本からのご招待を正当な理由もなくお断りできますか」

兵馬 「そんな理由くらい、何とでも…。側室話の時でも、お祖母様は毅然として

   お断りになられてました」

真之介「この度は茶会へのお招きです」

兵馬 「茶会くらい…」

川原 「若殿、それは無理と言うものです。あの仁神様ですよ。一度は何か口実を

   つけて断ったにしても、また、次のお誘いがあるに決まってます」

兵馬 「ならば、初回くらい断ればよかったのでは」

真之介「この度は二度目です。いずれにせよ、下手にお断りしては角が立ちます」

兵馬 「それにしても、二度も行かせるなど…。それで、兄上は平気なのですか」

川原 「若殿、先程、本田様は手を打ってあるとおっしゃっられたではないです

   か」

兵馬 「どの様な手を打たれたと言うのです」

真之介「あちらの奥女中に、ふみから目を離さぬようにとお願いしております」

兵馬 「その様な奥女中が当てになるものですか」

真之介「あちらのお屋敷にも、若殿の所業を快く思わぬ者はおります。それに、ふ

   み一人が茶会に招かれたわけではありません。良識ある方たちもいらっしゃ

   ると思います。何より、今のふみは、娘時代のふみではございません」

川原 「そうですとも!今の奥方様は実に落ち着いていらっしゃる。母上様も頼りに

   されているではないですか」

兵馬 「そなたには所詮他人事なのだ」

真之介「私には他人ごとではございません!こうして、無事に帰ってくれることを祈

   るしかないのです。それしか出来ない、このもどかしさをお察しください」

兵馬 「それにしても…」

 

 お房が新しい茶と煎餅を持って来る。


川原 「ですから、ここは、お茶を頂きながら、奥方様のお帰りをお待ち致しま

   しょう」

 

 仕方なく湯呑を持った兵馬の前に、川原が煎餅の器を置く。


兵馬 「硬い!」

 

 早速に煎餅を噛んだ兵馬が声を上げる。それは、ふみが仁神家への手土産にしたのと同じ煎餅だった。川原もすぐに口に入れるが、ガリッといい音を立てた。


川原 「これはまた、美味な煎餅ではないですか」

兵馬 「だが、この様に硬くては」

川原 「確かに硬いですが、これくらいは大丈夫です。え、若殿はまだお若いの

   に、もう硬いものがだめなのですか。日頃から柔らかいものばかりお召し上

   がりになるからでしょう。少しは硬い物も、はっ?」

 

 その時、川原はお房が差し出して来たものに、思わず笑いそうになる。

 それは小振りの真新しい金槌だった。


川原 「これで煎餅を割ってから食べよと言うのか、これ」

お房 「はい」

 

 と、すました顔で答えるお房だった。その金槌こそ、この次、ふみが実家に帰る際の手土産の煎餅に添えられるものだった。


川原 「だそうです」

 

 と、川原は笑いをこらえながら言う。 

 兵馬の妻の園枝が、最中では赤ん坊が食べられないと言ったことから、真之介が次は持たせておけば舐められる硬い煎餅を持って行くようにと言った。だが、あの園枝のこと、今度は母が食べられないとか言いだすに決まっている。その時のための金槌だったが、ついでの折に購入して置いた。その硬い煎餅を、今日は仁神家への手土産とし、自宅用にも買った。

 それを、まさか、兵馬への茶菓子はともかく、まさか、金槌の出番があろうとは…。


兵馬 「そのようなものはいらぬ」

 

 と、兵馬がまたも煎餅に歯を当てるも、やはり途中で止まってしまう。


川原 「若殿、ご無理なさいませんように」

 

 木村は兵馬から煎餅を取り上げ懐紙の上に置き、金槌で割ってから再度すすめるも、素直に食べる筈もなかった。

 これにはさすがの真之介も苦笑するしかなかった。また、お房はと言えば、子供みたいな人、そんなまなざしで兵馬を見ていた。

 そうなのだ。男の成長は一定のところで止まってしまうが、女とは成長を続ける生きものだ。お房とは三年近く、ふみとは二年、共に暮らしてきたが、ふみもお房も着実に成長している。

 それに引き換え、兵馬はいつ、その成長が止まったのだろう。二歳上の川原にはまだ伸び代があるようだ。

 そして、ふみが帰って来た。


兵馬 「姉上!大丈夫ですか。大変だったでしょうに」

 

 と、誰よりも先に駆け寄るのだった。


ふみ 「兵馬、来ていたのですか」

兵馬 「来ていたではありませんよ。ずっと心配してたのです」

ふみ 「ただいま、戻りました」

真之介「ご苦労であった」

ふみ 「着替えてまいります」

 

 と、真之介と顔を見合わせた、ふみは久と共に自分の部屋に入る。


兵馬 「何ですか、あれは…」

真之介「ご覧のとおりです」

川原 「ですから、若殿がそんなにヤキモキされることはないのです。それより、

   輿入れされた姉上より、ご自分の奥方様やお子様のことをもう少し気遣って

   おあげになられることです」

兵馬 「うるさいっ」


 兵馬は着替え終わった、ふみに再度詰め寄る。


兵馬 「それで、どうだったのです」

ふみ 「どうもこうも、もったいなくもお旗本の奥方様たちとご一緒にお茶を頂き

   ながら、女同士のおしゃべりをして来ただけです。まあ、おいしいものの話

   から夫の愚痴までと、それはそれは姦しいものでした」

兵馬 「でも、あの仁神のところですよ。あ奴は姉上を…」

ふみ 「何を、過ぎたことをいつまでも言っているのです。昔は昔、今は今です」

 

 その後も、ふみは兵馬の話を受け流す。そんな、ふみを真之介はいとおしくも頼もしく見ていた。


ふみ 「それより、母上はお変わりないですか。父上も」

兵馬 「ええ、お元気です。では失礼します」

 

 と、兵馬は立ち上がる。


ふみ 「まあ、せっかく来たのにもう帰るのですか。一緒に夕食をと思いましたの

   に」

兵馬 「結構です」

真之介「まあ、そうおっしゃらずに。ああ、酒は買いに行かせましたので」

兵馬 「そうですか…」

 

 そして、夕食後、いくらか気分を良くした兵馬は帰って行った。


ふみ 「相変わらずで、申し訳ありません」

真之介「それより、実際のところはどうだった」

ふみ 「それが…」 


 真之介もそうだが、ふみも夕食に形ばかりの箸を付けたに過ぎなかった。


ふみ 「思いも寄らぬことに…」


 

 




 















 



 











 













  

 







































 







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る