第87話 この世の花

 あれが恋と言うものだったのか…。

 子供の頃から側にいて、いつも一緒に遊んでいた。

 長じるに従い、会う機会も減って来たが、それでも仲の良い友には変わりなかった。

 そんなある日、急に互いをまぶしく感じてしまう。

 それだけだった…。

 自分は主の娘であり、相手は家臣の息子に過ぎなかった。


若者 「姫様、おめでとうございます」


 年頃になり、縁組が決まった。そして、輿入れすれば、傍目からは、夫も姑もそれは優しくしてくれた。初めての里帰りの時は、嫁取りが決まった若者を祝福したものだ。

 だが、よく、わからないうちに夫は寄り付かなくなった。本当に、何が気にいらないのかわからないままに。だが、正直、そのことはほっとしていた。

 夫には数人の側室がいた。娘が二人生まれている。だが、その側室のところへ行くわけでもない。まだ、明るいうちから、屋敷を出て行き、夜中に帰ってくることもしばしばあり、朝は遅くまで寝ている。

 そして、わかったことは、夫はかなり飽きっぽい性格であり、側室にも手に入れるまでは熱心だが、すぐに飽きてしまうとか。また、粗暴でもあった。気に入らないことがあれば、物に当たり、人には暴力をふるう。下手に止めだてすれば、側室でも殴られるので、今は誰も止めない。

 そんな、息子を姑は、猫かわいがりしている。息子を怒らせる方が悪い。

 思えば輿入れしたときから、息子の自慢話と共に、若き日の舅の仕打ちを散々聞かされたものだが、舅は暴力を振るうと言うことはなかったようだ。

 さらに、市中での夫の所業が耳に入ってくる。旗本筆頭の嫡男が、供侍と共に、町娘に狼藉を働いている…。

 そんな安行を恥ずかしく思う、正室の亜子つぐこだった。

 さらに、安行がまた、どこかの旗本の娘に目を付けたようだ。だが、先方はなかなか首を縦に振らないのだとか。

 亜子は見上げた娘がいるものだと思ったが、その祖母が頑なに反対しているらしい。また、安行もこの度ばかりは熱心に祖母を説得しているらしかった。


----随分、ご執心だこと…。


 そして、ついにしびれを切らした安行が徒党を組んで、娘を強奪に行こうとするも、その夜、祖母は臨終を迎えていた。


----この度ばかりは、思うようにいかぬらしい。


 それから、祖母の喪が明けるまで、安行の夜遊びはひどくなっていく。さすがに、噂を聞きつけた実家から、代理であの若者がやって来た。その時は、安行はお得意の打って変わりをやってのける。顔つきも、何より、口調が変われば、声音も変わり、その落ち着きぶりには、誰もがすっかり惑わされてしまう。さらに、酒が入れば冗談も言う安行に、そこは男同士、完全に打ち解けてしまう。


若者 「よき殿御ではございませんか、仲良くなされませ」


 亜子との別れの挨拶の時に言う。


亜子 「あれは、外向きの顔である。そなたも迷わされたか」

若者 「その様なことはございません。私も人を見る目は持っております」


 この時、亜子は目の前の男に少し失望する。

 それから、数日後のある朝。表向きの方が何やら、騒がしい。女中に調べさせに行けば、何と、安行が離れに担ぎ込まれたとか。

 さすがに気になり、離れに向かうも家来に止められてしまい、急ぎ安行付きの女中が出て来る。


女中 「あの、若殿はご病気にございます。今はどなたともお会いになられませ

   ん。どうぞ、お引き取りくださいませ」

亜子 「何を言うか。夫の病を妻に見過ごせと言うのか。そこをどけ。どかぬか!」

女中 「いいえ、何とおっしゃれらようとも、ここをお通しする訳にはまいりませ

   ん!どうしてもとおっしゃるのなら、どうぞ、私をお切りになってからにして

   くださいませ」


 殺されても、ここを通さないとは、尋常ではない。


八千代「ならぬ!ならぬ!」


 その時、安行の母の八千代のけたたましい声が響く。


八千代「つ、亜子殿。あちらで、お話を…」


 と、息も荒く、亜子の腕をぐいと引っ張る。一体、何が起きたと言うのだろう。病気ならば、そのことを伝えてくれればいいことなのに、それを妻にも言えぬとは…。

 訳も分からぬままに、八千代の部屋に連れて行かれ、亜子の腕をつかんだまま、崩れるようにその場に座り込んでしまう姑だった。


八千代「落ち着きなされ。落ち着きなされ…」


 いや、落ち着かなくてはいけないのは、八千代の方である。亜子は茶を持って来るように言いつける。


亜子 「一体、何があったと言うのです」

八千代「いいですか。病気なのです。安行は病気なのです」

亜子 「はい」

八千代「それで、それで、しばらくは誰も会うことが出来ません」

亜子 「私は妻にございます」

八千代「それでも駄目です」

亜子 「どうしてにございます」

八千代「どうしても、どうしても…。とにかく、安行が誰にも会いとうないと言っ

   てますので、決して近づかぬように、いいえ、近づいてはいけません!」

亜子 「……」

八千代「とにかく、ここは、私に任せて。息子のことは、母である私が一番よく

   知ってます」

亜子 「わかりました。では、ご病名だけでもお教えください。妻たるものが、病

   名も知らないでは」

八千代「そ、それは。まだ…」

亜子 「お医師は何と」

八千代「そ、それは…。そういうことではないのです!わああああああ」


 安行の身に一体何が起きたと言うのだろう。


八千代「とにかく、とにかく、今は、このまま、私に任すのです!いいですか」

亜子 「あの、安行殿は、心の病ですか」

八千代「そ、そう、心の病です!そうですそうです、心の病です!」


 この時、八千代の顔が緩んだように見えた。


八千代「ですから、亜子殿。ここは、しばらく、私に任せてくれませんか。しばら

   く、ほんのしばらくの間です。お願いします…」

亜子 「わかりました」

八千代「まあ、何と、出来た嫁よ。では、では、よろしいわね。心の病ですよ」


 と、気持ち悪いくらいの猫なで声で、亜子の手を取るのだった。

 こうなって来ると、どうしようもないので、その場はそれで治めた亜子だったが、屋敷内には異様な静寂が蔓延する。そして、亜子も予想だにしなかった事実に突き当たる。

 何と、安行は何者かに髷を切り落とされたと言う。にわかには信じ難いことだが、輿入れに付いて来た女中が手をまわし、かわら版まで手に入れてきた。


----まさか、これ程とは…。


 亜子が言葉を失ったのは、安行が髷を切り落とされたこともだが、この男のこれまでのあまりの所業には思わず目眩に襲われそうだった。それでも、気を取り直し、側室たちにも話を聞いてみれば、薄々は知っていたようだが、同じくここまでとは思ってなかったようだ。

 心配した実家の母が安行の見舞いと称してやって来たが、その頃には八千代も腹をくくっていた。ひたすら、心の病を強調し、食べきれないほどのご馳走攻めにし、母を退散させる。

 それからは誰もが時が過ぎ去るのを待つしかなかった。

 そして、亜子が安行の顔を見たのは、あの役者たちを屋敷に呼んだ時だった。それまでは、離れに側室を呼ぶことはあったが、亜子にだけは会おうとしなかったのに…。

 それにしても、まだ寸足らずの髪で、閉じ込められているのが余程我慢できなかったと見え、あろうことか、女ばかりの茶会の席に顔を出すとは。

 今は人の妻になっている、ふみと言う女にそんなにも会いたかったのか…。

 ある時、急に八千代が女ばかりで茶会をしたいと言い出した。その時は別に何とも思わなかったが、何と、そこに安行を袖にして、元町人のにわか武士の許に輿入れした、ふみも呼んでいたのだ。そこに、言い知れぬ八千代の悪意が感じられたが、亜子も、ふみにいささかの興味もあった。

 茶会が始まり、八千代が何を仕掛けて来るのかと、皆の注目を集める中、飛び込んできたのが白田屋と言う足袋屋だった。この白田屋の軽妙さに座はすっかりなごみ、笑い声さえ起きる。

 あれは、きっと、真之介が送り込んだのだろう。ふみも終始毅然としていたが、そこには妻としての自信も感じられた。こんな夫婦がいるのかと、ふと羨ましくもあった。

 そんな、ふみのことを聞きつけると、しびれを切らした安行が次の茶会にサプライズゲストとして登場する。だが、ふみの従姉の絹江によって、安行はまたも忘れかけていた恥辱を味わうことになる。

 その絹江の失態を更年期を持ち出し、ふみは必死であの場を治めようとしていた。亜子の援護もあり、またも不発に終わった八千代の「ふみ計画」だった。だが、どうやら次を計画しているようだ。当然今度は、雪江、絹江の従姉姉妹は呼ばないばかりが、ふみの友達の佐和も外すらしい。

 そこで、亜子も行動を起こす。思えば、役者たちを招いた時、センターで踊っていた夢之丞が、あの家来の若者に似ている気がしたものだが、踊りが終わり近くにやって来た時に見て見れば、ちょっと感じが似ている程度だったが、その夢之丞に似ているという、本田真之介が現れた時には驚いてしまう。この二人、本当に似ていた。

 その後、ふみの顔を見た時、今までに味わったことのない感情で胸が潰れそうになった。

 きっと、仲の良い夫婦なのだろう…。

 羨ましくもあったが、これが自分の定めなら、ふみをあの姑と夫から…。いや、もう、二人にこれ以上悪あがきは止めてほしい、止めさせたい。亜子は芝居見物に出かけることにした。


----あの時、声を掛けておいてよかった。


 芝居が終わり、市之丞と夢之丞を座敷に呼ぶ。


市之丞「これは、奥方様。早速のお運び、ありがとう存じます」

夢之丞「本当にお越しいただけるとは、まさに、夢のようでございます」

亜子 「夢ではない。夢之丞だけに、夢と言いやるか」

夢之丞「これは…」

 

 その後は、芝居の話に花が咲く。


亜子 「ほんに、芝居とは楽しいものよ。久々にこのように笑ろうたわ」

市之丞「お喜び頂けて幸いにございます」

亜子 「話は変わるが…」

 

 座敷には、亜子と実家から付き添ってきた女中、市之丞と夢之丞の四人だけである。


亜子 「本田真之介と連絡が取れるか」

市之丞「はい」

亜子 「どのようにして」

市之丞「はい、実は私は役者の他に戯作物も書いておりまして。先程ご覧になられ

   ました狐の話も私が書いたものにございます」

亜子 「ほう、先程の戯作物をな」

市之丞「はい、こちらの方は、春亭駒若と言う名で執筆致しております。それに致

   しましても、役者と戯作物の二足の草鞋と言うのも、これが、中々に大変で

   ございまして。そこで、私の口述筆記をやらせている女がいるのでございま

   す。それが、この女と言うのが意外に文才がございまして。まあ、それで口

   述筆記をやらせているようなものですけど、それが、私の意を汲んだように

   仕上げてくれるのです。本当に助かっております」

 

 近頃の市之丞は戯作物の話になると、お駒と言う協力者がいることを隠さないのはいいが、今夜の市之丞は、いつに増して、口がなめらかなのだ。 


市之丞「そればかりか、あの皆様から、大変ご好評いただいております、幕間の群

   舞の発案は、何と、その女なのでございます。いえ、その、ちょっとした発

   案を、私があのように仕上げたのでございまして、まあ、役者と戯作者の二

   足の草鞋に加え、舞台監督までと、それは忙しくさせていただいて…」

夢之丞「兄さん」

 

 亜子と女中が苛ついているのがわからないのだろうか。


市之丞「これは申し訳ございません。実はその女と言うのが、何を隠そう、本田様

   とお親しいのです。何でも、雨宿りの茶店でのご縁だとか」

亜子 「その女の名は」

市之丞「お駒と申します」

亜子 「お駒。春亭駒若」

 

 中村市之丞のどこにも、春亭駒若の要素はない。


亜子 「ならば、そのお駒に。いや、これはそなたたちを信用してのことである。

   決して他言するでない」

市之丞「かしこまってございます。決して、他言するようなことは致しませぬ」

夢之丞「私も、固くお約束申し上げます」


 市之丞と夢之丞は、身が引き締まる思いだった。


亜子 「今後、ふみ殿が、拙宅へ参られることがあっても、何も心配には及ばぬ。

   この私が決して、ふみ殿より目は離さぬとな。静代とも話は付いていると」

市之丞「承知いたしました。必ずお伝えいたします」

夢之丞「あの、それでは本田様の奥方様も、お屋敷の方に…」

 

 お夏とも似ていると聞いている、ふみのことも、気になる夢之丞だった。


市之丞「これ、夢之丞。その様に、立ち入ったことを」

亜子 「よいわ。私はこれ以上の恥の上塗りを避けたいだけなのだ。知っての通

   り、わが殿はあの体たらく…。それが、やっと髪が伸びたもので、姑と二人

   して、何やら仕返しをしたいらしい。そこで、手始めに、ふみ殿を茶会に呼

   んだまでは良かったが…」

 

 白田屋の乱入により、なし崩しになった話は、亜子の輿入れから付いて来た女中が話をする。


夢之丞「白田屋の若旦那がでございますか…」

亜子 「存じおるか」

夢之丞「はい、ご贔屓いただいております」

 

 もっとも、最近は拮平の方にも、色々とありご無沙汰になっている。


市之丞「ご存知かと思いますが、本田様と白田屋の若旦那は幼馴染でございまし

   て、その本田様に夢之丞が似ているのが楽しいとかおっしゃられまして」

亜子 「それにしても、あの白田屋も面白い男であった。息災にしておるか」

市之丞「はい」

 

 今度はいやに短い返事でしかしない、市之丞に代わり夢之丞が答える。


夢之丞「何ですか、近頃はご商売の方がお忙しいようでございます」

亜子 「それは、良きこと。では、よいな。決して、他言無用である。これはその

   白田屋にも内密に」

市之丞「はっ、承知致しましてございます」

夢之丞「お約束いたします」


 屋敷内の誰かを真之介宅に使いにやれば、どうしても感づかれてしまう。それでなくとも今の八千代は神経質になっている。その機嫌取りに告げ口する者がいるだろう。いや、必ずいるに違いない。だが、安行の正室である亜子がまさか、役者を連絡係に使うとは夢にも思わないだろう。

 それにしても、芝居がこんなにも楽しく、面白いものだったとは…。

 そして、月が替わり、亜子はまたも芝居見物としゃれこむ。屋敷に戻り、同行した女中たちと観て来た芝居の話に花を咲かせていた時だった。女中が急ぎ廊下をかけて来た。


女中 「申し上げます。若殿様のお見えにございます」


 安行が…。

 どうやら、退屈のあまり、何かの気まぐれを起こしたらしい。


安行 「何やら、楽しそうなご様子」

亜子 「まあ、これは、ようこそお越しなされませ」

安行 「何を夫婦の間でその様な他人行儀な」

 

 とっくの昔に他人ではないか。


亜子 「して、本日はいかなるご用で」

安行 「いやいや、楽しそうにされていたではないか」

亜子 「ああ、昨日芝居見物に参りましたので」

安行 「ほう、確か、この間も行かれたそうだが」

亜子 「はい」

安行 「芝居とは、その様に楽しいものであるか」

亜子 「それはもう。いかがですか、次は殿もご一緒に」

 

 如何に髪が伸びたとはいえ、いきなり、芝居見物をする度胸はないだろう。


安行 「いやはや、奥方が役者狂いをなさるとは」

亜子 「月に一度の芝居見物を役者狂いと言われますか」

安行 「あの夢之丞とか申す、役者が気に入られたようですな」

亜子 「気に入ってはいけませぬか」

安行 「いや、その、深みにはまらねばよいがと思ったまでのこと」

亜子 「ええ、私も髷を切られぬよう、気を付けまする」

 

 怒り心頭の安行は立ち上がりざまに、湯吞と固焼き煎餅が盛られた高坏を蹴り、鋭い目で亜子を睨みつけたかと思うと、散らばった煎餅を踏みつけながら、部屋を出て行く。


女中 「姫様…」


 実家から、輿入れに付いて来た女中は憂いを隠せない。


女中 「折角のお越しだと言うに…。きっと、若殿も反省なされているのです。そ

   れをあのようなことをおっしゃられては…。殿方と言うのは、ご自分に非が

   あるとわかっていても、それを指摘されることは好まぬものです」

亜子 「今更、何ともないわ」

女中 「いいえ、そうではございません。夫婦とは互いに歩み寄ることが肝心なの

   です。若殿もそのことに思い当たられて、お越しになられたのです。少し

   は…」

亜子 「もう、よい」

女中 「そんなこと!そんなことはございません。姫様、姫様はご自分のお子様が欲

   しいとは思われませぬか。姫様もまだお若いのですから、お子様をお産みに

   なられませ。そのためには、若殿と仲良うなされることです」


 確かに、子を欲しいと思わぬではなかった。だが、訳もわからぬうちに安行の足は遠のいた。昼間、顔を合わせても素知らぬ態で他の側室との戯れを見せつけるだけでなく、安行の粗暴な性格。すぐに人や物に当たる。今も、菓子を足蹴にしただけでなく、踏みつけて行ったではないか。

 この固焼き煎餅は、ふみと佐和の二度目の手土産だった。ふみの従姉の絹江が安行の機嫌を損ねてしまったのが、八千代には面白い筈はなく、それでも、最初の手土産の壺最中は味見していたが、今度ばかりは、ふみの手土産など見向きもしない。

 女中の一人が、固いけど味がいいと言うので、亜子も食べて見る。


亜子 「これは中々…」


 最も、今、女中が散らばった破片を片付けている煎餅は、その時のものではない。新たに買いに行かせたものだった。どちらにしても、それを踏みつけて行くとは…。食べ物に対する感謝の念もないのだ。

 それだけではない。安行の異腹の弟、尾崎友之進に下らぬ用を言いつけ外出させ、友之進の許嫁を呼び出し手籠めにしたと聞いた。その許嫁は自害した。さらに、町に出ては娘たちにも狼藉を働いている。

 そんな男の、子を…。

 いや、八千代があれほど、我が夫や姑こき下したにもかかわらず、我が息子の所業には何も言わない事への失望と絶望…。

 妻と母では、そんなにも人格が違うものなのか…。

 とにかく、今の亜子には、安行と何かをしようと言う気はさらさらない。ましてや、子作りなど…。

 それよりも、子を持つことが恐ろしくさえ感じてしまう時がある。それが男子ならば、余計に…。

 輿入れしてからの亜子は、姑の八千代から舅と大姑と対する不満を嫌と言うほど聞かされた。その時は、八千代の大変さに同情すらしたものだ。


八千代「私はあの様な姑にはなりませんから、亜子殿は安心なさってくださいね」


 亜子にとってはこの上なくうれしい言葉だった。その時、何やら騒がしい。


亜子 「どうしたのです」


 様子を見に行って来た女中が言った。


女中 「姫様がお召し上り物をお戻しになられましたそうで」

八千代「また…。行儀の悪い」

亜子 「あの、それは、どこかお悪いのでは」

八千代「いいえ、いつものことです。まったく、お蘭といい、乳母といい。娘ごと

   きに手を焼いて…。そうです。今日こそ言ってやらなければ」 


 と立ち上がり、亜子も一緒に、お蘭と言う側室の部屋に行けば、小さな女の子が苦しそうに横たわっていた。


八千代「どうして、きちんとした躾が出来ないのです」

お蘭 「申し訳ございません」


 お蘭も乳母も身をすくめるようにして座っている。


亜子 「あの、お医師を呼んだ方がよろしいのでは」

八千代「それほどのことは」

亜子 「いいえ、まだ、お小さいのですから」

八千代「そうですね、では、そうするように」


 このことは、後にお蘭から畳に頭をこすり付けんばかりに感謝される。

 それにしても、自分の孫ではないか。その孫が苦しんでいると言うのに、思いやる様子もないのだ。


八千代「ああ、私は、側室には厳しくしております。そうしなければ、あの者たち

   はすぐに付け上がりますから」


 聞けば、安行の側室たちは町方の娘であったり、武士とは言えない足軽の娘だったりと身分が低く、それが気に入らない。そこで、八千代が旗本の娘を迎えるも一年足らずで亡くなってしまったそうだ。


八千代「身分の低い者はすぐに付け上がります。娘を産んだくらいで大きな顔をさ

   れてはたまったものではないわ」

 

 娘を産めば、能無し、役立たずと言われ、かと言って、誰もが男子を産めるとは限らない。果たして、自分は男子を産めるだろうか…。

 その頃の安行はまだ優しかったが、それから、すぐに足が遠のいてしまう。また、八千代も素知らぬ顔をしている。そして、気付いた。正室など、ほんのお飾りでいいのだ。

 だが、そのお飾りに八千代は縋りついてきた。安行を髷を切られて戻った時は半狂乱だった。


八千代「つ、亜子殿。決して、決して、安行を見捨てぬよう。どうぞ、この屋敷に

   留まって欲しい。兄上にはご病気だと申したが、信じてもらえたか…。そこ

   で、妻である亜子殿が兄上を思い止まらせていただけぬか」

 

 何事かとやって来た母は何とか追い返せたが、今度は今は当主となっている兄がやって来るようだ。当時、兄は参勤交代で江戸詰めの最中であった。事と次第によっては、亜子を離縁させてもいいと言っている。


八千代「亜子殿。頼む、頼みます、これ、この通り…」

 

 正室である亜子に実家に戻られては、安行の不行跡を認めたことになってしまう。それは、舅姑に限らず、家来、女中たちの願いでもあった。彼らはお家が大事であった。安行が髷を切られたことは、対外的にはごまかせても、正室が実家に連れ戻されるようなことあらばそれは家の恥となる。それを恐れているのだ。

 結局、亜子は婚家へ留まることになるのだが、実家へ帰ったとて、何ほどの違いがあると言うのだろう。

 まだ、母は健在であるが、実は、我が母にも失望を隠せない。娘にとっての母は、女としての手本である。優しくも厳しい母を亜子は尊敬していた。だが、いざ、姑の立場となれば、やはり違った。

 亜子も最初の内は気付かなかったが、兄嫁には陰でねちねちと言っていたらしい。それだけでもショックだったのに、母は平然と言ったものだ。


母  「娘と嫁は違います。だから、そなたもしっかりするのです」

 

 そんな不安を抱えて輿入れしてきたが、婚家の姑と夫の優しさにその時は思わず涙したものだが、それはほんの束の間の夢でしかなかった。

 嫁と姑…。

 どちらも、女と女。

 如何に、時代が変わろうとも、女にとっては永遠のテーマである。

 そこには色んなドラマがあるものだが、八千代の場合はわかりやすいと言うか、すべてが安行中心なのだ。どの家でも長男は長男と言うだけで大切にされた時代である。すべて、長男が受け継ぐのだから、それは当然と言えるにしても、安行のすることにほとんど異を唱えない。

 安行の好きなものは好き、嫌いなものは嫌いになる。側室にしても、安行が気に入っている間は優しく接しているが、一旦飽きれば、後は知らん顔。亜子とて、その例外ではないが、それでも家柄に対する敬意は払っている。

 そんな安行が、ある旗本の娘を気に入ってしまう。だが、好条件を提示するも、なかなか首を縦に振らない。祖母が反対しているのだとか。ヤキモキしているうちに祖母が亡くなり、その喪が明けるまでは側室話も一時お預けとなってしまう。

 それが、あろうことか、その娘の縁組が決まり喪が明けるとすぐに輿入れすると言う話が聞こえて来た。色めき立った安行が相手の男に接触をはかり、なんと、芸者遊びにいそしんでいるとか。

 確か、八千代は芸者が嫌いな筈。舅が一時期芸者にのめり込んでいたことから、毛嫌いしていたのではなかったのか。だが、その答えは単純だった。

 金は相手の男持ち。これなら、いいのだ。だが、ある夜、その男と別れた後で安行は何者かに襲われ、髷を切られ、町はずれの木に括りつけられていたとか。供の牛川と猪川も別の場所でこちらは元結を切られ長襦袢で、これまた木に縛られていた。異腹の弟、尾崎友之進が安行を探し出し、駕籠で連れ帰って来る。

 それから、二年余りようやく、安行の髪も髷が結えるほどに伸びてきた。これで、少しは懲りただろうと思っていたのに、今度は母子ともに、髷を切ったであろう張本人への復讐心に燃えているのだ。

 さらに、今度は質が悪い。憎き、その男、本田真之介への復讐はともかく、今はその男の妻となっている、ふみへも憎悪が向けられている。

 いや、安行はまだ、ふみが忘れられないのだ。真之介の髷を切った後は、ふみも手に入れる。

 これが、母と息子、共通のリベンジ計画。

 そして、あの「絹江舌禍事件」から二月あまり過ぎた頃、またも八千代は茶会を催す。

 最初の茶会では、月に一度の集まりと言っていたが、前回のことでそうもいかなくなり、ひょっとして、このまま中止になるのではと女中たちは噂していたが、めげない八千代であった。

 この度の茶会に、雪江、絹江の姉妹が呼ばれないのは周知のことであるにしても、まさか、ふみと仲の良い佐和まで外すとは…。


----大丈夫よ。


 亜子は、ふみとアイコンタクトを取る。 

 皆、これから起きる「何事」かに期待を膨らませている中、茶会は始まる。

 だが、何も起こらない。

 八千代は終始にこやかであったし、また、幾人かの女性たちは用意していたであろう子や孫の面白話に夫への愚痴も交え、表面だけの和やかさで場をつないでいると言うのに、何も起こらない。

 笑い声の絶えないまま、女子会は終わろうとしていた。


八千代「まあ、こんなに笑ったのは久々です」

 

 と、八千代が言えば、さらに、笑いが起きる。


奥方 「そうですわ。この様に楽しい場を設けてくださり、私たちも感謝しており

   ます」

   「笑うと言うことは、体にとてもいいそうです」

   「でも、あまり笑い過ぎては、ほら、笑いじわが…」

   「あなたはまだ、お若いのだから、それほどでも。私など、とっくに諦めて   ましてよ」

   「まあ、そんなあ」 

 

 と、またも笑いが起こり、散会となる。

 だが、これは、誰が考えても「嵐の前の静けさ」でしかないことは明白だった。

 八千代の腹の中、目線はどこにあるのやら…。




 




































  

























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