第84話 留守にて…

 こんなものだろうか…。

 久し振りに夫に逢えたと言うに、取り立てて感動がないのだ。

 それも、帰って来たらあれも話そう、これも聞いてもらおうと思っていたのに…。

 思えば、真之介が旅立った日、何か手持ち無沙汰に感じられ、ふみは実家へ帰える。輿入れした娘が帰って来れば母は嬉しいものだが、今の加代にとって、ふみは別の楽しみを持って来てくれる。これを喜ばずして、何を喜ぶと言うのだ。

 今日も園枝が顔を出す前に手土産と共に一両の包みを、受け取る気満々の加代へそっと渡す。


加代 「まあ、いつも済まないわねえ」


 と、早々に胸元に仕舞い込む。また、同い年の義妹、園枝はふみの手土産の最中を食べながら言うのだ。


園枝 「これでは、喉に詰めてしまいます。それに、粒餡は消化が悪くて…」

 

 主語を省いた園枝の言葉に一瞬戸惑うも、つまり、最中では赤ん坊が食べられないと言うのだ。赤ん坊も食べられる菓子とはどんなものがあるのだろうと思案するもとっさには思い浮かばない。そんな、ふみを見越したかのように、尚も言う。


園枝 「ああ、姉上には、まだ…」

 

 結局のところ、それを言いたいのだ。それは父や母も同じであった。

 子はまだか、まだ子が出来ぬとは…。

 それを言われてつらいのは当のふみなのに、親からも責められては立つ瀬がない。思わず、もう、実家に帰るのは止めようかと思ってしまう。

 娘の顔が一両小判にしか見えない母。それだけではない、母が元気になったのも、真之介の姉の嫁ぎ先の薬種問屋から定期的に届く、漢方薬のお陰ではないか。いや、何より、それもこれも、ふみが真之介に嫁いだからだ…。

 もし、あの時、ふみが仁神安行の側室になったとしても、実家はその恩恵を受けたと思うが、ふみに今のような自由があっただろうか…。

 思えば、きつい祖母であったが、あの側室話に反対してくれたことに今は感謝している。そうなのだ。もう、実家の心配をするのは止めよう。何かあれば、言って来る。いや、すぐに兵馬が飛んでくる。

 近頃は実家に帰るたびに、こんな気持ちになるのだが、それでも、母のことが気になり帰らずにはいられない。だが、そこは既に慣れ親しんだ自宅ではなく、やはり嫁いだ身の実家でしかない。

 そして、現在の我が家に帰ってみれば、いるべき人の姿はない。その夜、ふみの布団だけが敷かれた寝室は、ものすごく広く感じられたものだ。

 思えば、輿入れした当座は目覚めれば、隣に男が寝ていることに驚きもし、顔を合わせただけでドキマギしたものだが、それも今は、側にいて当たり前。その真之介が側にいないことがこんなにも空しいことだとは…。

 真之介は今頃、旅籠で拮平と並んで寝ているのだろうか。肝心の弥生はどうしているのだろうか…。

 そんなことを考えているとなかなか寝付けず、いつになく、朝寝をしてしまうが、起きても、何もする気になれない。そんな時、うれしいことに佐和が訪ねて来てくれた。


ふみ 「まあ、佐和殿、ようこそ。嬉しいですわ、ちと、暇しておりましたの」

佐和 「それはまた。では、真之介殿は」

ふみ 「実は…」


 と、ふみは拮平と弥生の顛末を話して聞かせるのだった。


佐和 「そうでしたの。本当に気の毒な話で…。それで、あの、ふみ殿…」

 

 何か、言いにくそうにしている佐和だった。


ふみ 「どうかなさいましたの、佐和殿」

佐和 「実は、先日の着物のことです」


 佐和は仁神家の茶会に行くための着物を、ふみに借りに来たのだが、ふみも招待されていた。そして、行きがかり上、仕方なく着物を新調することになってしまった。


ふみ 「あの着物が、何か?」

佐和 「それが、あの、月末になっても掛け取りが来ないのです」 

ふみ 「いえ、あれは、別に気になさることはありませんわ」

佐和 「そう言う訳には…」 

ふみ 「佐和殿の着物の色も素敵でしたわね」 

佐和 「ええ…」

ふみ 「私も一度あの色も着てみたいですわ。ですから、今度貸してくださいま

   せ。ああ、私のもお貸しいたします。私も今は少しは着物を持っております

   ので。いつでもどうぞ」

佐和 「ですが、あの着物は…」

ふみ 「それで、いいのです」


 婚礼前の両家顔合わせの時に着て行く着物がなく、急遽、佐和に借りに行った。佐和は快く貸してくれた。その時の嬉しかったこと…。今は真之介もそのことを知っている。久し振りの佐和との語らいは楽しいものだったが、夜はまた一人寝…。

 翌日は義実家へ行く。今は実家より、ここの方が楽しい。皆大事にしてくれる。


お弓 「あの、階段だけはくれぐれもお気をつけられます様に」

 

 姑のお弓には今も言われる。特に、隣の後妻のお芳が階段から落ちて、大騒ぎしてからはしつこいくらいに言う。


お弓 「懐妊なさってるかもしれないのです。本当に気をつけてくださいませ」

お伸 「お姉さま」

 

 何よりお伸が歓迎してくれた。


お伸 「実は、お姉さま、仮祝言が決まりましたの…」

ふみ 「まあ、それはおめでとうございます」

お伸 「でも、仮、ですから」

 

 お伸がはにかみながら言う。


ふみ 「それでも、めでたいことには代わりありません」

お伸 「ありがとうございます」


 その夜は、真之介の部屋にお伸と布団を並べて敷いてもらう。思えば、ふみには弟、お伸には兄が二人と、男兄弟と過ごしてきた。二人ともこの様に、女同士で眠ることは初めてだった。義理とはいえ、姉と妹が出来たことを互いに喜び合うのだった。眠れないままに、真之介の子供時代の話をお伸から聞く。

 ふみは、その日からずっと、義実家暮らし。

 そして、いよいよ、二階から真之介の姿を発見する。ふみは小さな声で叫んでみる。


ふみ 「旦那様、お帰りなさいませ。上をご覧になってくださいませ。私はここに

   おります」

 

 当然、聞こえるはずもなく、真之介は本田屋の前を通り過ぎて行く。身をのり出してみれば、側にはもう一人旅姿の男がいた。その男と何やら、話をしている。


----誰かしら。

 

 やがて、男は去って行き、真之介は拮平と共に、白田屋に入って行く。

 ふみが本田屋に滞在していることは知らないにしても、一刻も早く帰宅しようとは思わないのだろうか…。

 そうだった。今回の旅は拮平の用心棒として行ったのだ。先ずは、無事帰ったことを白田屋に報告しなければならない。旅費も出してもらってる。

 ふみと久は階下に降りて行く。裏庭が見える座敷に、お弓もお伸も、その他、手の空いている者が真之介の帰りを今かと待っている。


一同 「お帰りなさいませ」

真之介「これはまた、お揃いで。ただいま戻りました。皆さまにもお変わりなく」

 

 真之介は立ったまま、道中羽織、袴を脱けば、女中がすすぎを持って来る。足を洗い、それで座敷に上がるのかと思えば、いつの間に用意したのか、忠助が湯道具と着替えを持ち湯に行く。何はともあれ、湯から戻って来る間に酒や肴の用意をする。


お弓 「長旅、お疲れさまでした」

真之介「やはり、家は落ち着きまする」

 

 食事が終われば、皆が気にかけている弥生のことを話さなければならない。

 真之介は、繁次が後を追って来たので、拮平一人で行かせたこと、帰り道も繁次が一緒なのと、あまり、話は出来ず詳しくは知らないことを簡潔に話すのだった。


真之介「それと、繁次も仕事ですので、あまり悪く思わないでやってください。誰

   かに聞いたわけでなく、勘で後を付けて来たのですから。そして、拮平も今

   しばらくはそっとしてやってくれませんか。いずれ、話してくれる時が来る

   でしょうから」 


 その夜はそのまま泊まる。疲れているのか真之介はすぐに眠ってしまう。ふみは、別に弥生のことではなくても、話がしたかったが、それは明日へ持ち越すことにした。そして、家に帰ればまたも言う。


真之介「やはり、わが家が一番だ」

ふみ 「それは昨日もおっしゃいました」

真之介「それは、母がいたからだ」

 

 ふみも自分の居場所はここしかないのだと思う。


真之介「そうだ、昨日は言いそびれてしまったが、ふみと久、お房からの贈り物を

   弥生が涙を流して喜んでいたそうだ。よろしく伝えてくれと」

ふみ 「そうでしたか…」

 

 ふみも久もお房も、それ以上は言葉にならない。


真之介「それで、留守中はどのように」

ふみ 「先ずは実家へ帰りました」

真之介「母上はお元気であられたか」

ふみ 「はい、お陰様で」

真之介「それはよかった」

ふみ 「ええ…。でも、ちょっと聞いてくださいませ。手土産に最中を持って行っ

   たのですが、園枝殿が…」

真之介「また、どうなされた」

ふみ 「最中では喉に詰めてしまうし、粒餡は消化が悪いとか申しますの」

真之介「はて、最中くらいでその様では、何も食べられないではないか」

ふみ 「いいえ、赤ん坊が食べられないと申すのです。赤ん坊も食べられるような

   菓子とはどの様なものがございまして。本田屋の母上にお聞きしようと思っ

   ていたのですが、うっかりしておりました」

真之介「それなら、次からは煎餅、それも硬い煎餅をお持ちすればよい」

ふみ 「そんな硬いもの、赤ん坊は食べられないではないですか。そんなもの持っ

   て行けば、それこそ、また、何を言われますやら」

真之介「確かに、赤ん坊は硬い物を食べられぬが、持たせておけば舐める。また、

   そういう硬い物の方が散らからなくていい。赤ん坊に饅頭など持たせてみ

   ろ。それこそ、大変なことになるわ」

ふみ 「はあ…。旦那様は何でもよくご存じですこと」

真之介「お伸がそうだった。硬い煎餅やスルメをよく持たされていた。赤ん坊は生

   きることが仕事だから、それが食べられるものかどうかを一番に知ろうとす

   る。だから、気を付けなければ何でも口に入れてしまう。また、硬いからと

   言って、こんふぇいとやあられでは喉に詰めてしまう。それに、長く味のす

   るものを持っている時は大人しい」

ふみ 「でも、あの園枝殿のことです。今度は硬すぎて、母上が食べられないとか

   言うと思いませんか」

真之介「ならば、金槌も一緒に」

ふみ 「金槌!?」

 

 これには久も開いた口がふさがらない。


真之介「それも使い古しの錆びたのではなく、新しい小振りのを持参し、硬すぎて

   食べられないとか言われれば、それを出せばよい。別に、木槌でもよいが、

   金槌の方が衝撃があると思うが」

久  「ああ、なるほど!さすが、旦那様でございますわ」

 

 と、感心しきりの久だった。


ふみ 「次は、その様に致します」

 

 ふみから金槌を差し出された時の、園枝の顔が見ものだ。そう思うと実家へ帰りたくなるが、ふみにとって今の実家は金槌だけでは帰れない。そこには、娘の顔が一両小判にしか見えない母がいるのだ。

 また、園枝が細かいところに難癖をつけるのも、兵馬とうまくいってないからだ。そこへ、まだ子はないものの、幸せそうなふみがやって来る。妬ましさから、つい、余計な一言を言ってしまうのだ。人は自分が幸せであれば他者にも優しくなれる。

 一番は生まれたのが娘だからと言って、見向きもしない兵馬が悪いのだが、園枝の感じからしても、歩み寄ろうと言う気もないように思える。


ふみ 「あの、翌日は佐和殿がお見えに。それで、先日の着物の心配をされてまし

   たけど、あれはあれでよろしいのですわね」

真之介「うん、良い」

ふみ 「それと旦那さま。お伸殿の仮祝言はどのようになさいますの」

真之介「まあ、内輪のことだから…。ならば、そろそろあの部屋を引き渡さねば」

ふみ 「あの部屋と申しますと」

真之介「今はまだ私の部屋となっているあの部屋のことだ」

ふみ 「えっ、いえ、あの、それでは…」

真之介「何をその様に、うろたえておる」

ふみ 「どうして、あの部屋を」

真之介「あの部屋は代々主人の部屋だ。それを善之介の代になっても、母が私のた

   めにそのままにしてくれていた。だが、小太郎が主人となれば、私がいつま

   でもあの部屋に居座るわけにはいかぬ」

ふみ 「あの、では、これから私たちはどこに泊まるのです」

真之介「泊まる?」

 

 真之介は、ふみが義実家とは言え、他所で泊まることを楽しみにしていることは知っている。


真之介「ああ、今度からは客間に泊まればよい」

ふみ 「客間ですか…。客間は一階ではございませんか」

真之介「嫌か?」

 

 ふみはそれでは嫌なのだ。


久  「奥方様は、お二階でお休みになりたいのです」

真之介「はあ、そう言うことで。隣の善之介の部屋が空いている。今度からはそこ

   で、よろしいか」

ふみ 「ええ、まあ…」

 

 あの部屋からの眺めが好きだったのに…。


真之介「何か、まだ不足の様で…。だが、これは致し方ないこと。一つの店に、主

   人は二人いらぬ。また、いてはいけないのだ」

ふみ 「はい、でも、まだ、先のことでございますわね」

真之介「仮祝言の前には空けねば」

ふみ 「そうですか…」

真之介「善之介の部屋も子供の頃は私もそこで寝起きしていた」

ふみ 「わかりました。私も本田屋の嫁にございました」

真之介「……」

 

 懸念していたことが現実になりそうだった。ふみに、本田屋の嫁になってもらっては困るのだ。降嫁したとは言え、呉服屋の嫁になってもらっては困るのだ。母や妹と仲良くしてくれるのは嬉しいが、あまり、店に馴染まれても困る。

 ふみは旗本の娘なのだ。

 思えば、ふみをあの家に泊めってしまったのが間違いだった。これからは、自分も実家に泊まらぬようにしなければ…。

 逆に、小太郎は早く店に馴染んでほしい。子供の頃は店に出ていたとはいえ、桔梗屋での修行の方が長いのだ。今はたまに、お伸の婚約者として店に顔を出しているが、拮平のことがあったりして、引継ぎが後回しになっていた。

 何と言っても、今年まだ十七歳。真之介が店を継いだのは十五歳の時であるが、息子と婿では訳が違う。最初は手助けしてやらねば。

 武士の子であった小太郎とその父親とはひょんなことから出会い、当時の真之介は父から小さな太物屋を任されていた。浪々の身を真之介に助けられた親子だったが、長年の無理がたたった父親は小太郎を真之介に託しながら亡くなる。

 その後、真之介の父が倒れ、小太郎を連れて本店に戻る。小太郎はお伸と共に寺子屋に通わせていたが、やがて、店で働きたい。数年後には今度は他所の店で修行したいと言うので、桔梗屋に預かってもらう。

 その頃に、いずれはお伸と夫婦にして店を持たせようと言う話が持ち上がり、お伸も異存はないようだった。だが、それも、せめて小太郎が十八歳になってからのことだった。

 そこに、ふみの弟の兵馬がお伸に食指を伸ばしてきた。どうやら、婚礼前の両家の顔合わせの時から、お伸を気に入ってたらしい。それが、妻帯してからは本田屋へよくやって来ると言う。


善之介「あれは、お伸が目当て。そのうちに側室にって言われるよ」

 

 そんな善之介は、真之介から店を引き継いだ時から、いずれはお伸夫婦にバトンタッチする気だったと言うが、本当のところは当人にしかわからない。

 何にしても、早くしなければ、兵馬からお伸を側室にとの申し出があれば、ましてや、その姉を妻としているのだ。それこそ断れるものではない。

 善之介は家を借りてくれること、生活費を出してくれることを条件に、家を出る。身の回りの面倒は近所の年寄りに頼んだ。

 そして、兵馬を牽制するため、形だけのお伸の婿娶りを世間に公表する。婿は小太郎と決まっているが、正式なものではない。

 兵馬がもう少し、思慮深い男であればまだしも、登紀と言う札付きの女と懇ろになったことは致し方ないにしても、子供が出来たと言われ、慌てて真之介に泣きついてきた。その後、二股かけていた女とデキ婚。そして、生まれたのが娘。それ以来、妻にも娘にも寄り付きもしないと言う。

 いくら何でも、こんな男に、妹はやれない。

 また、仮祝言が済めば、母も少しは肩の荷も下りることだろう。娘時代の軽率な行動によって、自分も傷つき、一人の女中を死に追いやってしまった。そのことから、必要以上にお伸を縛り付けることに…。それも、後少しで、母もその呪縛から解放されるだろう。

 だが、その前にやらねばならないことがある。

 拮平だ…。

 茶屋遊びの約束をしている。飲んで騒げば、拮平も少しは元気が出るだろう。いや、拮平に元気になってもらわねば困る。

 いつも明るく、町行く娘だけでなく、誰とでも気楽に話が出来、決して相手を不快にさせない。そんな白田屋の若旦那が沈んでいるのだ。無理もない。

 本気で惚れた女と結納を交わし、後は祝言を待つばかり。だが、火付け犯の女と同じ名前、同じ稼業、さらには同じ丙午年と三拍子揃っていたことから、次々と不運に見舞われ、拮平とも破談になる。

 そして、拮平に手紙を残して家族と共に追われるように去って行った。だが、拮平はそのままでは終われなかった。拮平の父、嘉平も息子の気持ちに応えるべく、弥生に逢いに行くことを許した。さらに、同行してくれることになった真之介の旅費も負担する。

 だが、あろうことか、かわら版屋の繁次が持ち前の勘で二人の旅立ちを知り、虚無僧もどきの姿で後を付けて来た。それに気が付いた真之介に脅され半分、拮平の心情に理解半分、結局のところ、拮平一人で弥生に逢いに行くこととなった。それでも、その後は逃げだして弥生の許に行くでなく、二人と一緒に戻って来たのだから、繁次も心根はいい奴なのだ。


ふみ 「旦那様」

真之介「ん…」

ふみ 「先程から黙ったまま、何を考えていらっしゃるのですか」

真之介「色々と」

ふみ 「私はお留守中ずっと旦那様のことばかり思っておりましたけど、旦那様は

   見知らぬ土地でどのようなことを思われていたのですか」

真之介「旅とは歩くことでしかない。一日中、とにかく歩く。当然のことだが、歩

   かねば進まぬ。まさに足が棒になるとはこのことだ」

ふみ 「でも、景色のいいところもあったのでは」

真之介「確かに。だが、これが物見遊山の旅なら、もっと楽しめたと思う…。拮平

   も最初は少しでも早く弥生に逢いたい一心で張り切っておったが、すぐに疲

   れてしまい、その後は私に合わせて歩くようになった。だが、弥生も同じ道

   を歩いたのだ。それも失意の心で…」

ふみ 「そうでした…。私もすっかり今の暮らしに慣れてしまっておりました。旦

   那様の許へ輿入れしてからは、空がこんなにも広かったのかと思いましたも

   の。それまでの私が見ておりました空は、実家の庭から見上げる四角い空

   が、空でした。でも、旦那様に町や川に連れて行っていただきましてから

   は、空の大きさ広さに驚いたものです。でも、今はそれも普通のことになっ

   ています」

真之介「このような暮らしに慣れていただき、ほっとしております。最初はどうな

   ることやらと…」

ふみ 「弥生はどうしているでしょうか…」 

真之介「あの拮平の嫁になろうとした娘だ。いつまでも、くよくよしないだろ

   う…。私たちも弥生のことを忘れずにいてやろう」


 真之介も、弥生に逢えなかったことは残念に思っている。一目だけでもその顔を見たかった。だが、それも致し方ないことである。今は、拮平が早く元気になってくれることを願うばかり。

 あの拮平が沈んでいたのでは、町にも活気がないと言うものだ。ここは約束通り、茶屋へと繰り出すか。

 早速に拮平を誘いに行くが、裏口近くでジョンを連れたお里に会う。


真之介「お里、若旦那は」

お里 「留守です」

真之介「どこへ行ったか知らぬか」

お里 「知りません」

 

 と、いやに、今日のお里は素っ気ない。ジョンだけはしきりに尻尾を振っている。


真之介「どうした、若旦那に叱られたか」

お里 「そう言う訳ではないんですけど」

真之介「どう言う訳だ」

お里 「今も若旦那、あんまり元気ないし」

真之介「だから、こうして誘いに来たんだ。男はな、飲んで騒げば元気になるもの

   だ。だから、もし戻ったら隣にいるからと伝えてくれ」

お里 「わかりました」

真之介「そう言う、お前も元気出せ」

 

 と言って、真之介はお里に小銭を握らせる。


お里 「いつも、ありがとうございます」

 

 お里にすれば、玉の輿計画のキープ要員だった拮平の縁組があれよあれよと言う間に決ってしまう。かと言って、どうすることも出来ない…。だが、あろうことか、娘火付け犯と同じ名、同じ家業、同じ齢と言うことで破談となる。これで、一安心かと思えば、そこにいたのは今までに見たこともないような拮平だった。


----そんなに、あの娘のことが好きだったのか…。


 それでも、いずれは諦めるだろうと思っているが、やはり、どうにも元気のない拮平だった。


----まっ、仕方ないさ。  


 そして、拮平が帰って来る。


お里 「若旦那、お隣でお待ちですけど」

拮平 「誰が」

お里 「誰がって」

 

 隣で待っていると言えば、真之介に決まっているではないが。その他に誰が待っていると言うのだ。それくらい…。


拮平 「主語を省くんじゃないよ」

お里 「そうですか。では、お隣の本田屋さんのご長男で、今はお侍になられた本

   田真之介様がお待ちです」

拮平 「これはまた馬鹿丁寧に」

お里 「いいえ、

拮平 「なんだい、そりゃ」

お里 「そんなことより、早くお行きになった方がよろしいのではないですか。

   お隣の本田屋さんさんのご長男で、今はお侍になられた本田真之介様がお待

   ちになられている、お隣の本田屋さんへ」

拮平 「そんじゃ、行くとするか。それには先ず着替えなきゃ。着替えだしとく

   れ」

お里 「そうですね」

 

 と言って、お里は箪笥の引き出しの中から着物を取り出す。


お里 「一枚、二枚、三枚、四枚…」

拮平 「これ、お里。番町皿屋敷か」

お里 「五枚。いいえ、いつぞやお誂えになられたとか言う着物が五枚ありますの

   で、残念ながら、ここで終わりです」

拮平 「何が残念だい」

 

 拮平はその中から、一枚選ぶ。


拮平 「えっと、これに合う帯はっと」

お里 「ひぃふうみぃよういつむうななやぁ…たくさんありますね」

 

 着替えを済ませた拮平はいそいそと出かけて行くが、脱ぎ捨てられた着物を衣文掛けに掛けながら、お里はふと思う。


----茶屋遊びって、どんなことするんだろ。


 黄昏の町を歩いて行く、男二人、心も二つ…。

 

 そして、拮平が消えた…。

 

 






















 






















  




  

 


















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