第83話 じんちくむがい

拮平 「お願いです!お願い致します!」

 

 拮平が畳に頭をこすりつけて頼むのだ。


真之介「わかった。わかったが、今すぐに返事は出来ぬ。私も今は自由に動けぬで

   な」

拮平 「それは重々、承知しておりますが、何卒、何卒…」

ふみ 「旦那さま、何とかなりませぬか。このままでは白田屋が…」

 

 もう、ふみも久もお房までが涙ぐんでいる。

 拮平が珍しく神妙な顔つきでやって来た。何事かと思えば、一緒に旅へ行ってほしい。その旅の目的とは弥生ことお七に逢いに行くことだった。

 真之介たちも気にかけていたが、あまりにも早い展開ではないか。

 店はたたみ、既に弥生たち親子は次兄の養子先に向かったと言う。仏壇と身の回りの物を荷車に載せての夜逃げ同様な旅立ちだったと言う。

 そして、受け取ったと言う婚姻解消の金も返却されてきたが、受け取ったのは末兄だった。

 仲人から破談の申し入れと共に金を差し出されたが、父親は受け取らなかったが、末兄が帰りを急ぐ仲人を追いかけその金を受け取り、自分だけのものにするつもりだったが、それが見つかってしまう。

 後のことは末兄を除く兄弟たちに任せられることになり、婚礼用の桐箪笥に鏡台などは手付かずのまま、その他の家具と共に売りさばかれ、やがて、店も売りに出される。その金で、店の者たちに暇金を支払い、残りは長兄が持って後を追う段取りになっていた。

 それでも、弥生は白無垢だけは持って行ったと言う。

 その話に目頭が熱くなったのは、女たちだけではなかった…。

 それもこれも、拮平に何も知らされないうちに起きてしまったことなのだ。

 拮平は後悔した。弥生に何もしてやれなかった自分、腹など壊していた自分が不甲斐ない…。

 このままでは終われない!


拮平 「お父つぁん、いくら店が大事だからって。俺だって、心を持った人間なん

   だよ。一寸の虫にも五分の魂って言うだろ」

嘉平 「そんなことは言われなくても知ってるさ。だけどさ、世の中にゃどうにも

   ならないこともあるんだよ」

拮平 「だからって。だからって、他の誰のことでもない、俺のことだよ。お父

   つぁんからすりゃ、自分の息子でしかないにしてもだよ。俺も、もう大人。

   大人なんだよ。その大人の嫁取りを反対するのはわかるけどさあ。いくら何

   でも、後からこの家に入って来たような女に、なに仕切られてんだよう!」

嘉平 「あれはさ、確かにお芳が、お芳の勇み足だよ。その点についちゃ、私も反

   省してるさ」

拮平 「その勇み足やらせたのは、お父つぁんじゃない。最初っから、あの女の尻

   に敷かれて。まあ、お父つぁんはそれでいいかもしんないけど、俺はたまった

   もんじゃないさ」

嘉平 「だけどさ、お芳はお芳で、店のことを思って…」

拮平 「じゃ、俺の気持なんかどうでもいいってこと」

嘉平 「そう言う訳じゃなくて、傷は浅い方が治りも早いだろ」

拮平 「全然、浅くありません。お陰ですっかり深くなりましたって言ったら、ど

   うする」

嘉平 「……」

拮平 「でもさ、もういいよ。覆水盆に返らずだから。今からどうあがいたって、

   どうにもなりゃしない…。でもさ、このままじゃ、俺が一番歯がゆいんだ。

   何もできなかった、しなかった自分がさ。そこでだよ」

嘉平 「……」

拮平 「けじめ付けたいんだ」

嘉平 「けじめ…」

拮平 「そう、少なくともこのままじゃ終われない」

嘉平 「で、どうしたいと?」

拮平 「も一度弥生さんに逢いたい。逢って、どうなると言うものでもないけど。

   今どうしてるか気にもなるし…。とにかく逢って。逢いたいんだ」

嘉平 「しかし、逢えば、また、つらくなるだけじゃないかい」

拮平 「今だって、十分つらいさ」

嘉平 「それじゃ、行先は知ってんのかい。そこは遠いのかい」

拮平 「多分、二、三日で行けると思う」

嘉平 「それで、誰、連れて行くのさ」

拮平 「真ちゃんと」

嘉平 「真之介は、行くと言ったのかい」

拮平 「それは、これから」

嘉平 「そっち、先にやっといで。真之介が承知したら、旅費、二人分出してやる

   わ」

拮平 「えっ…」

 

 昔の旅は大変だった。とにかくひたすら歩くのである。歩くだけならいいが、旅人を狙う護摩ごまの灰など良からぬ輩が横行している。さらには旅慣れないだけでなく、人のいい拮平では道中どんな目にあわされるかわかったものではない。その点、真之介は悪知恵が働く。さらに、今は形だけでも武士なのだ。用心棒にはもってこいだ。

 ちなみに「護摩の灰」とは、もともとは密教で護摩木を焚いて祈る「護摩」で燃やす木の灰のこと。天然の物を燃やすとわずかの灰しか残らないが、それを頂いて帰る信者もいる。そこで、高野聖こうやひじりの扮装をし、弘法大師の護摩の灰と偽り、街道筋で押売りした者の呼び名から転じて、騙して物を売ったり、押売りする者を護摩の灰と呼ぶようになった。 


嘉平 「だから、それからの話だよ。早く、真之介のところへ行って来な」

 

 と、嘉平から急かされ、やって来たと言う次第なのだ。

 嘉平にすれば、それで、拮平に踏ん切りがつくのなら、また、無事に帰ってくれるなら、二人分の旅費くらい安いものだ。だが、拮平は今までの拮平ではなかった。


拮平 「それと、お芳さんのこともだよ。もう、これからは、店の為を口実に俺ん

   ことに口出さないでもらいたいんだけどさ。そりゃ、事と次第によっちゃ。

   また、何か、反対と言うこともあるかもしれないけどさ。そん時ゃ、反対だ

   けにしてもらえないかねえ。何かにつけて、先走らないように、一応、言い

   聞かしといてくれませんかねえ。もっとも、すでになめられてるお父つぁん

   が言っても暖簾に腕押しだけどさあ。一言位言っといてもらわないとね。こ

   ん次何かしたら、俺だって黙っちゃいないよ。お父つぁん、隠居させ二人し

   て向島辺りの鄙びたところへ隠居所用意するからさ。それと、あの仲人とも

   もう付き合いはごめんだよ。いいね、忘れないでよ。じゃ、今からちょっく

   ら、真ちゃんちまで行ってくらぁ」

 

 今は真之介の前でひたすら低姿勢で頼み込む拮平だった。拮平にしても、実のところ一人旅は不安なのだ。それでも行きたい。弥生に逢いたいのだ。


----お願い、真ちゃん…。


 そうだ、旅費のこと忘れてた。


真之介「そうだな…」

ふみ 「そうなさいませ」

真之介「そうするか」

ふみ 「はい」

真之介「では、留守を頼む」

ふみ 「かしこまりました」

----えっ、何、まだ、話の途中だって言うのに、夫婦してのこの成立感…。

拮平 「ありがとうございます。つきましては、うちの親父が言うことにゃ、さの

   言うことにゃ。旅費は負担させていただくとの事でございます」

 

 これには、真之介だけでなく、そこにいる者たちは一応に驚いてしまう。


真之介「それは、また…」

拮平 「いえいえ、こちらからお頼み申すことなので、当然のことと申しておりま

   した。ああ見えて、うちの親父。隠し金持ってんですよ」

真之介「左様か、ならば。早急に予定を立てねば」

 

 この時代の旅と言えば関所や通行手形を思い浮かべるが、この通行手形とはパスポートの様なもので、当人の住所氏名年齢はもちろん、顔の特徴、信仰の類も記載されていたと言う。もし、途中で亡くなった場合の葬儀等の要望も書き込まれることもあった。

 関所破りは磔刑と言う重罪であるが、これも厳しいのは一部だった。緩やかな関所も多く、少し遠回りすれば抜けられる道もあった。

 また、武士は通行手形を持たなくても旅が出来た。それでも、関所でのあれこれ質問に答えるのが面倒で持参する者も多かったと言う。その関所も至る所にあるわけではなく、今回はそんなに遠くでもないので、手形の必要はない。

 現代の不動産広告における、徒歩一時間とは六キロを指すが、江戸時代の人は足が丈夫だから、八キロくらいは歩け、また「お江戸日本橋七つ立ち」の七つとは午前四時のことである。それにしても、午前四時に出発して午後六時に宿に着く。途中休憩を挟んでも、約十二時間九十六キロ歩くのである。何にしても、昔の旅は大変だった。

 旅の装束も、多くの旅の目的は移動であるからして、ひたすら歩かなくてはならない。そのための身軽な服装となる。

 武士の場合は、手甲てっこう脚絆きゃはん旅用羽織、菅笠、腰の大小にはカバーをかける。

 手甲とは作業用にも使われる、布や皮で出来た手の甲を覆うものである。日焼けなど、手へのダメージを防ぐ。脚絆とは、着圧効果のあるレッグウォーマーの様なものであり、また、武士の旅用羽織は刀を差していても歩きやすいように、背縫いの裾が割れている。さらに袴の裾には黒い布が当てられていたり、ニッカポッカの様な袴もある。

 背中に掛けられた荷の中身は、タバコ、筆記用具、メモ帳、手ぬぐい、髭剃り、歯ブラシなど最低限の必需品しか持たない。薬は印籠の中。つまり、印籠とは紋は入っていも、薬入れでしかない。

 町人の場合も、手甲、脚絆、菅笠、羽織は着用しているが、着物の裾は端折って帯に差し込む。荷は振り分けにして肩に掛けるが、拮平の場合は例の胃薬を印籠に詰め込んでいた。

 ちなみに、やくざの定番スタイルの、縞の合羽に三度笠だが、これはすべて飛脚のパクリ。飛脚の笠は、それこそ晴雨兼用であり、江戸と上方を月に三度往復したところから、三度笠と呼ばれるようになった。雨の日でも走らなくてはいけない飛脚にとって、合羽も必需品である。

 この素晴らしき飛脚の道中スタイルをやくざが見逃す筈はない。そこで、丸パクリしたのだ。

 そんなこんなで、いざ出立の日。拮平はそっと家を抜け出すつもりだった。今日のことを皆知ってるとはいえ、いつもより早い朝である。廊下も静かに歩き、顔を洗いに井戸端に行こうとした時、台所に明かりが付いていた。


お熊 「若旦那、お早うございます。さあ、早く顔を洗ってらっしゃいな」

 

 言われるまでもなく、歯磨き洗面を済ます拮平だったが、それにしても、お熊がこんなに早く起きていたとは思いもせず、そればかりが、炊き立てご飯の匂いがする。


お熊 「さっ、朝茶ですよ。朝茶は十里戻っても飲めって言いますからね」

拮平 「こんなに早く、ありがとよ」

お熊 「おにぎりも作っておきましたからね」

拮平 「熱かっただろうに、済まないね」

お熊 「いいえ、私ゃ、面の皮はそんなに厚くないですけど、手の皮はすっかり厚

   くなってますから、これくらいなんでもないですよ」

拮平 「お熊…」


 お熊の心づくしの朝茶を飲み、まだ、ほんのり温かさの残る握り飯を持ち、お熊に見送られながら拮平は旅立って行った。

 そして、お熊が台所に戻ってみれば、そこには嘉平がいた。


お熊 「大旦那…」

嘉平 「拮平は行ったかい」

お熊 「ええ、たった今」

嘉平 「そうかい、朝早くから済まなかったね」

お熊 「いいえ、それより起きてらしたのなら、お見送りしてあげればよかったの

   に…」

嘉平 「いやいや、私なんかに見送られない方が…。その方が拮平にとって気楽だ

   ろうよ」

 

 夕べ、拮平に旅費を渡した。


拮平 「いや、お父つぁん、いくら二人分とはいえ、こんなにはいらないよ」

嘉平 「残りは向こうのお袋さんにでもあげとくれ。邪魔になるもんじゃなし」

拮平 「……」

 

 八百藤は婚姻解消の慰謝料を返して来たが、それをそのまま受け取るわけにはいかない。拮平がけじめをつけたいと言うのなら、縁がなかったとはいえ、一度は白田屋の嫁として迎えるはずだった娘に対する嘉平のせめてもの気持ちだった。

 当時の旅も必要な小銭以外あまり現金を持ち歩かない。宿場には両替商があり、そこで為替を現金に換えてもらうのだ。 

 拮平は為替を油紙に包み、胴巻きに巻いた。嘉平の用意してくれた旅費は、小銭と為替合わせて十両近くあった。二人分とはいえ、片道三日もあれば着く距離である。そして、待ち合わせ場所で真之介と落ち合う。側には忠助がいた。


忠助 「では、旦那様、行ってらっしゃいませ。若旦那も道中くれぐれもお気を付

   けになってくださいませ」

真之介「うん、では行って来るで、留守を頼む」

 

 かくして、二人の旅は始まった。 

 だが、そんな二人の後を付けて行く一つの影があった…。


真之介「おい、拮平。もっとゆっくり歩け」

拮平 「何だよ、真ちゃん。もう、疲れてんの」

真之介「別に、疲れてるわけじゃないが、先は長いのだ。疲れないように歩くの

   も、旅のうちだ」

拮平 「でもさ、少しでも早く逢いたいしさ」

真之介「その気持ちはわかるが、いずれ、疲れてくる。体力の配分を考えろ」

拮平 「でも、足が勝手に動くんだよね」

真之介「それなら、もっと歩幅を大きく取れ」

拮平 「歩幅って、そんなに変わらないじゃん」

真之介「わずかのことでも、長い距離にはその方が疲れない」

拮平 「ふうん」

 

 と、拮平も歩幅を大きく取って歩きだすが、すぐに元に戻ってしまう。

 それでも、夜が明け、日が昇って来ればさすがに熱くなって来る。


拮平 「熱くなってきたね、少し休もうよ」

真之介「先程、一里塚で休んだばかりではないか。次の一里塚までは、まだ少しあ

   る。だから、焦るなと言ったではないか」

 

 一里塚とは、旅行者の目印として大きな道路(街道)の側に一里(約四キロ)毎に設置した塚(土盛り)である。これは中国にも現存する。

 日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。室町時代の一休さんが「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいる。

 一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長九年二月四日(1604年3月4日)江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出す。

 一里塚には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮される。また、植えられた樹木は築いた塚の崩壊を根で防ぐ役割も持っていた。その樹木の多くは榎で、続いて松が多く、杉が一割ほど。その他、栗、桜、檜、樫も植えられていた。やっと、その一里塚までたどり着く。


拮平 「弥生さんもここで休んだんだろうね」

 

 木陰に腰を下ろした拮平が言う。


真之介「そうだな。女の身では大変だったろう」

 

 初めての長旅。それも物見遊山とかではなく、荷車での夜逃げ同様の旅である。いくら、とばっちりでしかなく、弥生に罪はないとはいえ、自分の存在自体が図らずも招いてしまった、一家の不幸なのだ…。


拮平 「それ、思ったら、これくらいのことで弱音吐けないよね…。俺って、やっ

   ぱり、最後の詰め、甘いんだね」

真之介「それだが、逢いたい気持ちはわかるが、逢って、どうするつもりなんだ」

拮平 「うん、今はとにかく逢いたい…。そんで、前に言ったんだよね。全力挙げ

   てお守りしますって。でもさ、それが出来なかったこと、謝りたいんだ…」

真之介「そうか…」

 

 やがて、二人はまた歩き出す。早めに宿に着きたい。早い方がいいのだ。

 人が宿泊する宿には二種類あった。ひとつは旅籠と呼ばれる、朝夕の食事を用意してくれる宿である。東海道では、ひとつの宿場に平均して五十五軒ぐらいの旅籠があった。もうひとつが、木賃宿である。こちらは、料金は旅籠よりもぐっと安く、旅籠の三分の一から十分一の料金で泊まれたが、食事の用意のない素泊まり専用の宿だった。木賃宿に泊まる場合は、米などの食材を持参し、鍋や七輪などを宿から借りて自炊した。

 旅籠と木賃宿、どちらに泊まるかは旅人の自由である。お金に余裕があるならば、毎日旅籠に泊まってもいいが、どれだけお金に余裕があっても、同じ宿に連泊することは原則出来ない。

 宿とは「旅の途中に仕方なく宿泊する場所」であり、夜が明ける午前四時頃には目的地に向かって出発するのが一般的だった。そのため、連泊するのは、急な病気にかかり歩けない場合ぐらいで、そのような時は連泊することを届け出る必要があった。もし届けも出さずに連泊すると、役人が宿までやってきて、手形などを出させ、怪しい人物ではないか取り調べられる。

 ただし、連泊しても怪しまれない「例外」もあった。それは湯治である。湯治の場合は、滞在日数は七日間が一般的だったので、連泊しても怪しまれることはなかった。また、七日間でも足りないときには、さらに七日間延長することが出来た。湯治では、七日間を「一まわり」といって、滞在日数の基準にした。

 このような湯治が一般的に行われるようになったのは江戸時代からで、江戸っ子には、熱海、箱根、那須、塩原、草津などが湯治として人気があった。この地域なら、関所手形なしに、気軽に行くことが出来た。

 真之介と拮平は旅籠に泊まる。

 旅籠とは、元は馬の飼料を入れる籠のことから、旅人の食料を入れる器の意味となり、転じて宿で出される食事から、食事を提供する宿を指す言葉となった。宿泊費は一泊二食、二百文から三百文。

 泊まる宿を決めて中に入ると、すすぎ桶がやって来る。道は舗装されてない、小さ目の草鞋で足は汚れている。足と脚絆を洗い、武士は羽織を脱ぎ袴の裾のほこりを払ってから上がり、町人はからげていた裾を下ろす。

 どちらにしても、足を洗ってもらうのだから気持ちいいことには変わりないが、このすすぎには、足をきれいにする他に、その人の健康状態を知る役割もあった。現代でもそうだが、にわかの病、急死と言うこともある。足を触ればその人の健康状態がわかる。

 部屋に通されれば、先ずは風呂に入る。宿の風呂と言うのは、一度沸かすとそれっきりで追い炊きをしないから、早く入らないと湯が冷めてしまう。だが、時代も落ち着き、物見遊山の団体客が増えると追い炊きを売りにする宿も出て来る。

 そして、湯から上がった頃に宿帳を持って来るが、武士と町人のコンビは珍しがられ、拮平も一応へりくだってはいるが、別にお供と言うのでもないらしい。さらには然したる用もないのに、女中が入れ代わり立ち代わりやって来るが、今日の真之介は無口だった。対応は拮平に任せていた。


拮平 「別に俺にそんなに気ぃ使わなくていいからさ。少しは相手になってやりな

   よ。みんな、いい男の真ちゃん目当てにやって来るんだからさ」


 女中がいなくなってから、拮平が言った。


真之介「別に、お前に気を使っているわけではない」

 

 真之介は厠に行くふりをして部屋を出る。そして、階段近くにいた女中に声を掛ける。


真之介「ちょっと、変わった客は泊まってないか」

女中 「変わった客?」

 

 真之介は声を潜め、女中に小銭を握らせる。


女中 「そんなお客は見てませんけど…。あっ、見たら、すぐにお知らせします」

 

 昼頃から、どうにも気になっていた。後を付けられているような気がしてならなかった。

 たまたま同じ方向に行くだけかもしれないが、なぜか気になるのだ。それにしても、真之介と拮平を付けて来るとは何者なのか。

 まさか…。

 まさか、お芳が?いや、いくら何でも、お芳もそこまでのことはしないだろう。仮にそれをやったとして、何のメリットがあると言うのだ。

 ならば…。

 いずれにしても気になる。

 夕食が終わり、布団を敷きに来た女中が真之介に目配せをする。そして、廊下の隅で話を聞く。


女中 「うちではないですけどね、隣に泊まってました。ええ、でも、ちょっと変

   だと言ってましたよ」

真之介「どのように変なのだ」

女中 「私たちは毎日いろんなお客を見てますからね。中には訳ありの客もいます

   よ。でも、それは一夜限りのことですから、見て見ぬふりしますけど。そう

   言うのではなくて、何となく、落ち着きがないんだそうです」

真之介「で、連れはいないのか」

女中 「ええ、お一人だそうで」

 

 ひょっとして、あるいは、仁神の手の者と思ったりしたが、武士の変装にも思えないし、やくざ者でもない。

 問題は明日だ。明日は街道から一般道へ入るのだ。その頃には刀カバーを緩めておく必要がありそうだ。とにかく、今夜は早く眠ることだ。部屋に戻れば、拮平が眠そうな顔をこちらへ向ける。疲れたのだろう。拮平はすぐに寝息を立て始めた。考えていても始まらない。真之介も眠る。

 旅籠の朝は早い。午前四時頃には宿泊客は左右に別れて行く。だが、最初の一里塚へ着いた頃にも、その男の姿は見えなかった。真之介は、ちょっと過敏になり過ぎたかと苦笑したものだ。だが、その頃、その怪しい男は必死だった。

 何たることだ。こんな日に限って、寝過ごしてしまうとは…。

 目が覚めてみれば、雀の鳴き声が聞こえ、廊下にはバタバタと足音がする。


女中 「お目覚めですかあ」

 

 と、女中が早く起きてくれないと困ると言いたげな顔で立っていた。

 慌てて、身支度をし、後れを挽回すべく走り出す。そして、やっと、真之介と拮平の後姿に追いつき、安堵するも、真之介たちはきれいな水の側で喉を潤していた。

 男こそ、水が飲みたくて仕方ないのだ。かと言って、一緒に飲みに行くわけにもいかないし、竹筒の水はとっくに飲み干していた。

 また、こんな時に限って、真之介と拮平は何やら談笑しているのだ。早く、立ち去ってくれるのを願うばかりだった。

 ようやく二人が去ると、転げるように水を飲みに行く。かなりの量の水を飲み、竹筒にも入れると少しは落ち着いた。気を引き締めて、またも後を追っていく。

 だが、さすがに急いだ疲れが出て来る。思うように足が運ばない。それでも行き先のおおよその見当はついている。今日のところは何とかなるが、問題は明日だ。

 明日こそ、寝過ごすことなく、しっかり尾行しなくては…。

 しかし、やっと宿場に着いたと思ったら、二人の姿を見失ってしまう。出来るなら今日は同じ宿に泊まりたかったが、寝過ごしさえしなければ大丈夫だ。

 宿の客引きの女をかわしながら歩いていると、何てことだ。前から真之介と拮平がこちらへ向かってやって来るではないか。今までは後姿だけを見て、ここまでやって来たのだ。思わず道の端に避ければ客引き女につかまってしまう。


女中 「さあさ、どうぞ」


 と、見れば、二人は斜向かいの宿に入って行くではないか。客引き女の手を振り払おうとするも、女は腕をつかんで離さない。だが、こうしてはいられない。思い切り女から逃れれば、折よく向かいの客引き女につかまる。そこで、聞いてみる。 



男  「今の男二人の客と離れた部屋があるか」

女中 「ございます」

男  「えっ、それより、どの部屋に入ったのか調べて来てくれ」

 

 そうなのだ、この女中はいとも簡単に部屋があると言ったが、今この場でわかるはずもない。どこの宿でもそうだが、客を逃がすまいと必死なのだ。


女中 「では、見てまいりますから、絶対にここを離れないでくださいよ」

 

 誰が離れるものか。それより、早く調べて来てほしい。苛々しながら待っていると、女中が出てきた。


女中 「わかりました。ちょうどいい角部屋がありますけど…」


 女中は男に体を寄せる。男は巾着から小銭を取り出し、女中に握らせる。宿に入ればすすぎを持ってきた女中に何か言っていた。


女中 「まあ、よろしゅうございましたわね。もう、ぴったりのお部屋がございま

   したわ」

 

 と、こちらもチップの催促だ。そして、足がきれいになれば、また、違う女中がやって来る。


女中 「ご案内いたします。こちらです」

 

 多分、また、チップだ。そして、部屋に案内されるが、それより気になるのは二人の部屋だ。


男  「あの二人の部屋は?」

女中 「ああ、この先の奥から二番目の部屋ですよ。ここなら、ぴったりでしょ」

男  「ああ、それで、あの二人、風呂は」

女中 「今、行かれました。上がったら、お知らせしましょうか」

男  「頼む」

 

 と、チップを渡す。とにかく、これで本当に一息つけると座り込むが、すぐに女中がやって来る。


女中 「お風呂、どうぞ。あちらはもう上がられて、部屋に入られました」

 

 男は風呂に行こうと立ち上がるも、またもチップを催促される。

 その後も、食事を運んでくれば、一番に持ってきた。布団を敷きに来れば、これまた一番に来たとかで、その都度、チップを催促される。さらには、明日は早く起こしてくれと頼めば、早番の人に連絡しなければならないのでと、またまた催促される。


----金のかかる日だ…。


 一方の真之介たちは、両替屋に行き為替を現金化して宿に戻ってみれば、どうやら例の男が今夜は同じところに泊まろうとしているようだった。

 そこで、女中を使い、実際は隣の部屋にいたのだが、そこはうまく取りつくろってもらい、人相についても聞いてみれば、これと言って特徴のない顔だと言うが、真之介はピンとくる。多分、間違いないだろう。

 その後も逐一報告が入るが、女中にしてみれば、どちらからもチップを貰える楽なスパイ活動だった。

 翌朝、男はそれこそ一番に起こされ、またもチップを要求される。まだ、眠いところへ、思わぬもの入りだが、そんなことは言ってられない。そっと部屋を抜け出せば、確かにまだ、誰も起きてないようだった。男は先を急ぐ。今日は待ち伏せするのだ。

 今朝は拮平の方が先に起きた。やはり、今日こそ弥生に逢えると思うと目も覚めてしまう。やがて、真之介も目覚め、周囲もざわざわとしてくる。

 女中から、例の男は先に行ったと聞く。ともかく、二人も出発する。これからの道程は昨日の両替商で聞いていた。


真之介「ここらで腹ごしらえをするか」

 

 だが、その少し先に男は隠れていた。今日は後れどころか先手を打つ。宿は一番に出たし、腹ごしらえも済ませた。これからは、二人の後ろに回るのだ。

 しかし、ここからの尾行は難しい。脇道に入れば、人通りも少なく、逆に自分の姿が目立ってしまう。だが、そこは用意万端抜かりはなく、実は古着屋で着物を買い、道中笠も買ったのだ。そして、今度はごく普通の旅人姿で後を追う。

 それでも、細道へ入って行けば後を付けづらい。二人を見失わないよう、また、怪しまれないよう、慎重に付けて行く。


----何だ、今度は町人姿か…。


 どこかで着替えたのか、例の男は執拗に付けてくる。

 真之介はそれとなく、振り向いてみた。男は慌てて笠で顔を隠す。


真之介「おい、振り向かずにそこを曲がれ」

 

 拮平は言われるままに道を曲がる。

 男は角まで小走りし、そっと曲がった二人の姿を確認する。すると、二人はまた、角を曲がったのだ。


----ここで見失ってなるものか!


 男は急いで追いかけ次の角を曲がるが、二人の姿がない。


拮平 「おい!」

 

 その時、後ろから拮平の声がした。


----やべえ。


 男は素知らぬ態で歩き出せば、前から真之介が現れる。


拮平 「この、ゲジ野郎!」


 男はかわら版屋の繁次だった。


拮平 「お前と言う奴は、どれだけゲスなことすりゃ、気が済むんだよう!ゲジと言

   う名前だけじゃ足らず、全くゲジゲジみたいな野郎だなあ。おいっ、なんと

   か言えよ、この野郎!」

 

 今日の拮平の怒りは半端ない。


繁次 「いや、これは、後を付けたことは申し訳ありません。でも、これも俺のか

   わら版屋としての気持ちなんで」

拮平 「何がかわら版だ。ほんと、何でも屋の言う通りじゃねえか。人の不幸で飯

   を食いやがって。ああ、それだけならまだいいさ。さらに、今度は何を。骨

   までしゃぶる気か!このゲジゲジのゲス野郎!」

繁次 「違いますよ。違いますったら…。若旦那、これは言い訳に聞こえるかもし

   れませんが、あの一連の記事書いたのは俺じゃなくて、佐吉なんです。そ

   りゃ、相棒ですから、俺にも責任がないとは言いません。だからっ!俺は、

   あのお七さんのその後を、傷つけてしまったその後を知りたかったんです

   よ。それで、そのことを記事にして、読者に知らせなきゃと思って、こうし

   て後をつけて来たと言う訳なんですよ…」

拮平 「うるせっ!結局、今度は不幸話で儲けようって算段じゃないか!真ちゃん!そ

   のすごい刀で、こいつ試し切りしてやってよ。俺、穴掘るからさ。ここなら

   絶対見つからねえ」

真之介「そうだなあ…」

 

 刀カバーは既に外してある。そして、真之介は刀の柄に手を掛ける。


繁次 「あの、命ばかりはお助けを。お願いします。お願いでございます。どう

   か、もう少し話を聞いてください。この通りです」

 

 と、必死に頼む繁次だった。


拮平 「おい、俺たちの旅のことを誰に聞いた」

繁次 「それは、俺の勘です」

拮平 「何ぃ!勘だとぉ!この野郎、まった、いい加減なことぬかしやがって!」

 

 今日の拮平はいつもの拮平ではない。


繁次 「本当なんです!本当ですったら!八百藤さんが店をたたみなすったんで、近

   くでその行き先を聞いてみたんですが、俺がかわら版屋だと知っているのか

   どうか、誰もはっきりしたことは教えてくれません。それでも聞き歩いてい

   るうちに大体のところはわかりました。そんな時、白田屋の大旦那が両替屋

   から出て来るのを見かけたんです。でも、そん時ゃ、別に何とも思いません

   でした。大店の旦那が両替屋行ったって不思議でも何でもありません。で

   も、その後、若旦那が菅笠を買ってるとこ、お見かけしたんですよ。さら

   に、手甲脚絆も…。そんで、ピンときたんです!これは八百藤のお嬢さんに

   逢いに行かれるんだって…。白田屋の人たちも今じゃ、俺んこと避けてます

   からさ」

 

 ピンときたと言うのは本当だろう。何しろ、あの仁神髷切りの時も、口の堅い何でも屋の態度から、感じ取ったのだから。


真之介「それにしても、あの妙な虚無僧もどきは何だ」

 

 繁次は最初は見様見真似の虚無僧姿だった。


繁次 「それは、普通に後付けたんじゃ、すぐに見つかってしまいますから」

真之介「その方が逆に怪しかったわ」

繁次 「そうですか。俺にゃ変装は向きませんか」

 

 虚無僧とは「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の者で、尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧のことである。多くは小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を差す。はじめは普通の編笠をかぶり、白衣を着ていたが、江戸時代になると徳川幕府によって規定される。

 托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の服に、男帯を前に結び、腰には袋にいれた予備の尺八を下げ、首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋てんがい」と呼ばれる深編笠をかぶる。足には五枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。

 旅行時には藍色の綿服、脚袢、甲掛、わらじ履きとされた。なお、よく時代劇で用いられる「明暗」と書かれた偈箱げばこは、明治末頃から見受けられるようになったもので、虚無僧の姿を真似た門付芸人が用いたもの。因みに「明暗」に宗教的な意味合いはなく「私は明暗寺みょうあんじの所属である」という程度の意味でしかない。

 江戸時代には、皇室の裏紋である円に五三の桐の紋が入っており「明暗」などと書かれてはいなかった。江戸期においても偽の虚無僧が横行していたが、偽虚無僧も皇室の裏紋を用いていたようだ。


真之介「左様か。だが、それもここまでだ。このまま引き返せ」

繁次 「そんな、せっかくここまで来たのに…」

真之介「お前にとっちゃ、せっかくかも知れんが、やっと逃れて来た先まで追いか

   けられる身になってみろ。それも何も悪いことしてねえのによ。少しは察し

   てやれ」

拮平 「そうだよ…。頼むから、このまま帰ってくれないか。いや!もう、そっとし

   てやってくれないか。頼むよ、繁次よ」

繁次 「でも、事件の影でこんな不幸な人を出してしまった責任は俺たちにもある

   わけで、そのことに知らん顔は出来ませんし、これからの戒めのために

   も…」

真之介「わかった。拮平、ここからはお前一人で行け。俺は、今からこいつ縛り上

   げて街道筋まで引っ張って行く。暴れたりすりゃ、腕の一本くらい切り落と

   してやる」

繁次 「そんな…」

真之介「命取られるよりいいだろ…。待てよ、お前本当に一人か」

繫次 「一人ですよ、本当に一人ですよ」

真之介「それじゃ、お前の相棒はどうした」

繫次 「あんなの、もう相棒でも何でもありませんよ!あの佐吉の野郎、今じゃ、

   一端のかわら版屋気取りでさ。だから、とっくに相棒も解消してますよ。本

   当ですったら…。それに、今度のことだって、誰にも何も言ってやせんよ。

   親方にゃ、母方の爺さんがもう長くないんでとか言って、休み貰いました。

   本当ですよ。自分の金でここまで来たんですから…。全く、どうして、俺は

   こんなにも相棒に恵まれないんでしょうねえ。最初の相棒は、口の軽いチャ

   ラ男。次はしっかりしてると思ったら、自分さえ良ければいいと言う情のな

   い奴で…。旦那と若旦那が羨ましいですよ。それもこれも、やっぱ、俺に人

   望がないんですよ」

拮平 「ちょいと、繁次さんよ。今日の俺にゃ、そんな泣き落としは通じないよ。

   言っとくけど、今までののん気な俺はもういないんで」

繫次 「……」

真之介「拮平、そんなことより、早く行け」

拮平 「ありがとう。じゃあ、行くわ」

 

 と、繁次に向かって手を上げ、走り出す拮平だった。


真之介「さて、これから、どうするか」


 ここへ来る道中の間にも、真之介は拮平の思いを聞いた。今更、逢ってどうなると言うものでもない。


拮平 「そうだよね。でも、やっぱり、今の弥生さんが気になるし、何もしてあげ

   られなかったから…。だから、いい櫛買って来た」

 

 この前の櫛はそんなに高価なものではない。江戸は火事が多い。一度火事になれば、命さえ危うい。生き残っても、焼け出されれば何も残らないが、それでも履物は履いて逃げるので、江戸っ子は履物に金をかけた。さらに、女は前髪のたぼに小さな櫛を差している。この櫛は単なる飾りと言う訳でなく、いざと言う時、金に換えられるように櫛にも金をかけていた。

 拮平は本当なら、白い壺にこんふぇいとを入れたのを持って来たかった。今度は赤いこんふぇいとで「や」と書いて。だが、それでは慣れない旅の荷になる。その点、櫛は軽い。父からの金もあるし、櫛と金を渡すことが出来ればいいのだ…。しかし、途中で妙な輩が後を付けていることに真之介が気が付く。


真之介「俺が引き留めておくから、もしもの時にはお前一人で行け」

 

 と、真之介は薄い包みを差し出す。


真之介「うちの女三人からだ」

拮平 「奥方…」

 

 出発前夜、ふみが半襟と為替を差し出して来た。


ふみ 「これを弥生に…。何も悪いことをしてないのに、これではあまりに理不尽

   にございます。気の毒でなりません。これが私たちに出来るせめてもの気持

   ちにございます。久もお房も金を出してくれました」

久  「私は些少にございます」

お房 「私も…」


 拮平は、ふみ、久、お房からの為替と半襟を包んだ油紙を押し戴くのだった。


真之介「それは、いざという時のものだ。そのまま弥生に渡せ。それで、これは私

   から」


 だが、繁次も堪らない。借金までして、ここまで来たのだ。


真之介「おい、歩け」

繫次 「どちらへ」

真之介「俺たちは、引き返すんだ」

繫次 「あの、旦那、ちょっと、様子を見るだけでも。どんな暮らしなのか、見る

   だけでも駄目ですかね」

真之介「駄目だ。さては、腕の一本切り落とされたいか。俺が口先だけで脅してる

   と思うか」

繫次 「いえ、決して、そんなことは…」

真之介「拮平じゃねえが、本当に、人っ子一人通りゃしねえ。ここで、人切りやっ

   ても大丈夫だなぁ。おい…」

 

 今の真之介の目はぞっとするほど恐い…。

 拮平が言っていた。真之介は人を切りたくて侍になったと言う話。誰もがたちの悪い、真之介と拮平の間だから通じる冗談だと思っていたが、ひょっとして、ひょっとすれば、ひょっとするかも…。

 今来た道を引き返すしかない繁次だった。


真之介「とっとと、歩け」

 

 そうは言われても、振り返ることさえできない繁次の足取りは重い…。


真之介「まあ、お前もせっかくここまでやって来たに悔しいかもしれんが、後は察

   して書いてやれ。一番つらいのは誰でもない、お七と言う娘だ」

 

 真之介は弥生と言う名を伏せた。


繫次 「はあ…。はい、わかりました。兄さんの養子先の厄介になってんですよ

   ね。今までの様にはいかないでしょうねえ」

 

 もしかしたら、拮平から何か聞けるかもしれないと思った。そして、やっと、宿にたどり着く。今日は男三人で泊まる。だが、拮平が帰って来たのは深夜近くだった。


真之介「逢えたか」

拮平 「うん」

真之介「元気にしてたか」

拮平 「うん」

真之介「それはよかった」

 

 側に繁次がいるので、そんな会話しかできないが、拮平はすぐに布団に潜り込む。繁次が厠へ立った時、真之介は拮平の印籠を開けてみる。思ったほど薬は減ってなかった。子供の頃、すぐに腹を壊す拮平に特別な薬だと言って、ふくらし粉を飲ませてみれば、それは見事に効いた。拮平の胃炎は神経性のもので、足袋屋の若旦那で日頃はのん気そうにしている拮平だが、その実、ものすごく繊細なのだ。だから、この薬が手放せなかったのに、それだけ強くなったと言うことか…。

 今も本当は悲しいに違いない。これが真之介一人なら自分の気持ちをぶちまけただろう。だが、繁次がいるのでそれもできない。

 そんな疲れ果てた様子の拮平を目の当たりにすれば、繁次も胸が痛む。

 取材とは何だろう…。

 取材とは、先ずは、事件の捜査関係者からの報告を聞き、さらに、その被害者、加害者の関係者から話を聞くことだ。

 そこから見えてくるものもあると言うが、関係者の話がすべて真実とは限らない。また、思い込みもある。それは、色んな記事を書く記者にも言えることである。言葉一つで、一人の人間を追い詰めてしまうこともあるのだ。

 繁次も拮平が寝ている間に、また、翌朝の出立のどさくさに紛れて、自分もあの道を行ってみようかとも思った。尋ね尋ねて行けば、江戸からやって来た訳ありの親子のことだ、すぐにわかるだろう。

 それぞれの立場、思いもあるが、自分はかわら版屋なのだ。やはり、知りたい。知り得たことを書きたい。

 何より、このまま手ぶらで帰りたくない。だが、自分が何か書けば、佐吉が、いや、別のかわら版が、今は静かに暮らしているお七をまた追いかけないとも限らない。迷っているうちに夜が明けた。

 

真之介「拮平、帰ったら久しぶりに茶屋遊びでもするか」

拮平 「そうだね」

真之介「静奴呼んで、馬鹿騒ぎするか」

拮平 「ああ、俺もここのところ、そっちの方、ご無沙汰だったからなあ」

真之介「帰って一寝入りしたら、早速繰り出すか」

拮平 「ああ、やっぱ、密花も呼ぼうよぅ」

真之介「そうと決まったら、頑張って、半時でも早く帰らねばな」

拮平 「そうだね」

 

 そんな真之介と拮平の後ろを繁次は歩いていた。


----いい、相棒じゃないの。


 相棒に恵まれなかった自分がつくづく恨めしい。だが、拮平は一生の伴侶になるはずだった相手を失ったのだ。

 一番は火付けをした八百屋のお七と言う娘が悪いのだが、同じお七と言う名であったが故に嫌な思いをした女もいれば、中には縁談が壊れてしまった娘もいる。そして、極め付けが丙午生まれの女。

 当たるも八卦当たらないも八卦の類でしかないのに、佐吉と陳元斎ちんげんさいと言う怪しげな占い師が組んで、丙午生まれの女を徹底的に叩きのめした。

 その全てに合致したのが、八百藤のお七と言う娘だった。それだけで、好奇の目にさらされ、果ては家業まで立ち行かなくなる。当然、拮平との縁談は破棄され、諦めきれない拮平はこうしてはるばる逢いに来た。

 二人の間でどんな会話が交わされたか知る由もないが、そして、最後は別れるしかない二人なのだ。

 繁次はやるせない気持ちで歩きながら、それでも、次に書くかわら版の原稿を頭の中に叩き込んでいた。いや、そうでもしなければ、このまま歩き続けられそうになかった。

 そして、繁次にとってはとてつもなく長い旅がようやく終わりに近づく。白田屋の前で、真之介と拮平と別れる。


繫次 「どうも。とんでもない邪魔をしました。若旦那、どうぞ、お力落としの無

   いように」

拮平 「うん、もう、大丈夫だよ」

繫次 「それはようございました」

 

 さあ、これから、帰ってすぐに書かなきゃ。

 かわら版屋に戻って来た繁次は親方に挨拶した後、風呂に行き、一寝入りする。そして、何か訳のわからない夢を見、ふいに目覚める。こうなったら、何が何でも書くっきゃない。

 夜も白む頃、ようやく書き上げ、親方の許へ持って行く。


親方 「よかろう」

 

 すぐに、版下、刷りに回される。


佐吉 「これ、売れますかね」

 

 刷り上がったかわら版をひったくるように読んだ佐吉が言う。


繫次 「さあな」

佐吉 「それにしても、かわら版がお涙頂戴とは。伍助さん、どうやって売るんで

   すかね」

 

 繁次の元相棒だった伍助は今は売りの方に回っている。口が軽いので、版記者には向かない。だが、売りに回ると、調子のいい節と言葉で道行く者の足を止めさせる。

 だが、今回の記事は、罪人と同じ名、同じ稼業の娘、同じ齢…。同じ齢は丙午であった。それだけで追い詰められていき、やがては婚礼話も破談。そして、一家は石持て追われる如く、代々の住処すら手放すまでに至った経緯を自戒の念を込めて繁次は必死に書き上げた。売れる売れないより、書かずにいられなかった…。

 この記事に感動した伍助は、いつもと違って、哀調を帯びた節回しで売ると言うより、訴えた。それが功を奏してか、繁次の書いた記事は「泣けるかわら版」として、評判を取る。


佐吉 「伍助さん、うまかったもんなあ」

 

 売れたのは伍助の売り方が良かったからだと減らず口を叩く佐吉だった。この記事が思いの外、受けたのが気に入らない。


繫次 「そうだよな、全くその通りだ。伍助に足向けて寝られねえ」

佐吉 「今の時代、ああいうのも売れるんですね」

 

 佐吉は悔しくてならないのだ。このかわら版屋の売り上げ記録は繁次が持っている。八百屋お七の事件はすべてのかわら版屋が取り上げた大事件であるが、真之介が起こした、仁神髷切り事件は何と言っても、繁次自身が目撃者なのだ。第五版まで出して、すべて増刷完売したと言う。 

 思えば、繁次に憧れてこの業界に足を踏み入れた佐吉だった。佐吉の頭の中にあるのは、売れる記事を書くこと。そして、いつかは繁次の記録を抜くことだった。

 その機会は意外と早くやって来た。その時の佐吉はそう思った。 


 事件にはいい事件と悪い事件がある。いい事件とは、被害者が若い女。また、加害者が若い女でも構わない。その両方が揃えば言うことなしの事件である。書けば売れる。 

 今回は、殺人でも強盗でもないが、若い娘が火付けをしたのだ。小火で済んだとはいえ、火付けは殺人より重罪である。そして、市中引き回しの上、火あぶりの刑。

 その火付け犯と同じ名前、同じ年の娘がいた。これは縁起でもない。ひょっとすると、この娘も同じようなことをしでかすかもしれない。何より、丙午なのだ。我が兄を苦しめた丙午生まれの女なのだ。お七と言い、もう一人のお七だってそうに違いない。そこで、佐吉は陳元斎と共に、一大キャンペーンを張る。

 それは成功した。唐人と言う触れ込みの怪しげな占い師でしかなかった陳元斎は今や時代の寵児となり、元斎の占い本は飛ぶように売れ、彼の許へは老若男女が押し寄せていると言う。

 そのことは別に構わない。元斎も占いの勉強をしたのだ。だが、彼の活躍に一役かった佐吉に、元斎は一度、鰻屋に連れてってくれただけで後は知らん顔だそうだ。

 元斎に利用されたんだと、先輩たちに言われた。それは一番年若の自分の活躍を妬んでいるのだと思ってはいるが、どうにも癪に障ってならない。売上こそ、繁次には及ばなかったが、それでも上位に食い込むことができた。あの時の興奮は忘れようとしても忘れられるものではない。

 だが、繁次はまたもヒットを飛ばした。


----泣けるかわら版か…。


 佐吉は焦っていた。どこかにネタは転がってないか…。


先輩 「事件が起きないってことは、天下泰平でさ。そん時ゃ、小ネタ探すしかね

   え。どれ、ちょっくらネタ元へ行って来るか」

 

 と、先輩たちは出かけて行くが、佐吉にはそのネタ元とやらがない。繁次は役者ネタに強いし、ああ見えて、白田屋の若旦那拮平はエゲレス語が得意だとか。そこから、外国ネタなど仕入れて来るとか。さらに、小ネタには事欠かないであろう、にわか侍の真之介や何でも屋とも親しい。

 それが、あの同じ名前の八百藤のお七は白田屋拮平の恋人だった。そのことから、真之介や何でも屋にも敬遠されてしまう。


----何とかならねえかなあ…。


 そんなある日、佐吉は真之介と拮平が歩いているのを見かける。

 これは、何かあるかもしれない…。

 佐吉は後を付けることにした。二人は何やら談笑しながら歩いている。それでも、佐吉は気を抜くことなく、いや、心躍らせながら付いて行った。

 それにしても、夕暮れの道を男二人が語らいながら歩いて行くのだ。行き先くらい見当つきそうなものだが、今の佐吉にそんな気持ちの余裕はない。

 この二人の行くところ、事件アリ…。

 やがて、二人の男は灯りの並ぶ道へと入って行く。何のことはない。茶屋に入っただけだ。

 これが、噂の茶屋遊びか…。

 しがないかわら版屋には縁のない町だが、これでもかわら版屋だ、色んなことを知らなくてはいけない。ついでに町を歩いてみようと足を踏み出すも、すぐに場違いであることに気づかされる。やって来るのは裕福な武士や大店の旦那衆ばかりだ。早々に町を抜け、版屋に戻ってみれば、そこにはまだ繁次がいた。


佐吉 「兄貴、まだいなすったんですか」

繫次 「ああ、今、帰るとこだ」

佐吉 「そういや、真之介旦那と白田屋の若旦那が連れ立ってましたよ」

繫次 「そうかい」

佐吉 「あれは、茶屋遊びですかね」

繫次 「そうだろうねえ」

佐吉 「何か、気になりません?」

繫次 「別に。あの二人が茶屋へ行こうが、吉原に行こうが、ちっとも不思議じゃ

   ねえ」

佐吉 「そうですかあ…」

繫次 「じゃ、俺は先、帰るぜ」

 

 と、出て行こうとした、繁次は振り返える。


繫次 「あんまり、焦りなさんなよ」

----へへっ。一度、これ、言って見たかったんだよな…。



























 









 


















 










 
































































 

















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