第75話 咲いて咲かれて

----あれは、この間のお侍…。


 お夏は踊りの稽古の帰りに、真之介を見かける。お駒から真之介と会っても素知らぬ顔をするようにと言われているが、それにしても、侍がこんなところにどんな用があると言うのだろう。


----ひょっとして…。


 そうだ、そうに違いない。身分違いの旗本の娘なんぞ嫁にするから、窮屈でかなわないのだ。きっと、息抜きに町娘とでも逢引でもするのだろう。しかし、この先にそんな待合などあったか…。

 だが、その時、ふと我に返る。例え、武士の妻であろうとも女は女ではないか。ましてや、真之介の妻の名は確か、ふみと言った。そのふみと、お夏はこれまた真之介が間違えるほどよく似ているのだ。これが捨てて置かりょうか。

 このままではいけない。相手をつき止めて、先ずはお駒にチクってやろう。いや、男の浮気に寛大なお駒だから、笑って済ますかもしれない。それなら、実家の本田屋へ。いや、こちらも息子には甘いだろう。ならば、なんでも屋のお澄に。

 あのお澄と言う女、亭主がいるくせに真之介に気があることくらい、お夏も知っている。きっと、浮気するならこの私となんて、嫉妬に狂うに違いない。二人して、真之介の屋敷へまっしぐら。お夏も、ふみに会ってみたい。

 そして、嘆き悲しむ美女三人。絵になる…。

 そんな、妄想を抱きつつ、いつしか真之介の後を追うお夏だったが、ふいに、見失ってしまう。少しがっかりしたが、別に、真之介のことはいい。顔は似てても住む世界の違うお人だ。あれが夢之丞だったら、決して許しはしない。

 先日、久々に夢之丞に逢うことが出来た。最初はそれこそ、嬉しくてどうしようもなかったが、それにしてもこんなにも長い間逢えないとはおかしい。役者にしたいようないい男が役者になったのだ。周りの女が放っておくものか。


----さては…。


 ついに、お夏の焼き焼きモードにスイッチが入る。


お夏 「お前さん!もしかして、浮気してるんじゃないだろうねえ!私ゃ姉さんみた

   いに心広くないからさ、浮気なんかしたら、承知しないよさ!そんなことした

   ら、お前さん殺して、私も死んでやる!」

   

 と、夢之丞の胸倉を掴んで言ったものだ。


 そして、お夏が角を曲がろうとした時、すれ違った男がいた。


----夢之丞…。


 お夏は慌てて後を追う。わかっている。ここはファンの振りして声をかけるだけだ。


お夏 「夢之丞さん」

 

 聞こえなかったのか、夢之丞はすたすたと歩いて行く。


お夏 「夢之丞さん!」

 

 声を張り上げても気づかない。


----何さ、振り向いてくれたっていいじゃない。私の声わかるでしょ。ほら、お前さんの大事な恋女房のお夏さんじゃないか。


 こうなったら意地だ。ここは是が非でも追い付いて、満面の笑みでどこへ行くのか聞いてやろうと、お夏は必死に夢之丞の後を追う。

 それにしても、こんな時間にどこへ行くと言うのだろう。こんな昼日中から…。

 そして、夢之丞がふいに立ち止まる。お夏も息を整えつつ、様子を伺う。本当はすぐにも食らいついてやりたいが、ここまできたら、現場を押さえなければ白を切られたらどうしようもない。


----やっぱり…。


 それにしても悔しい。あんなこと言って置きなから、こうして人目を忍んで逢引するだなんて…。


----私と言うこんなにも美しい女房がいながら、浮気するとは何事ぞ。こうなったら、相手の女共々地獄を見せてやる!


 じりじりしながら、相手の出現を待つお夏の腹の中は煮えたぎっていた。

 そして、人影が近づいて来た。でも、これは人違いだとお夏が思ったのも束の間、夢之丞の前に現れたのは、何と、男…。


----ええっ!そんな、そんな…。

お夏 「お前さん!」

 

 思わずお夏は叫ぶ。いや、これが叫ばずにいらりょうか。


お夏 「お前さーん!」

 

 今、夢之丞の隣に居るのは男、それもあの真之介ではないか。

 そして、振り向いた二人の目には、お夏は映ってないのか、すぐに見つめ合う同じ顔の男と男。


----駄目よ駄目駄目!女でもいけないけど、男と、それもあの侍だなんて…。いくらなんでもしどい、しどすぎるぅ!女の心配ばかりしてたけど、男もアリとは…。いや、絶対、駄目!それだけは絶対駄目!この世に絶対なんて、やっぱりあるんだよ!先ずは私が許さない。許さないったら許さない!おのれ、清十郎!待ちやがれぇぇぇ。


 そして、寄り添うにして待合宿に入って行く、二人の男。

 お夏も後を追うが、待合の者達に止められる。


お夏 「離して!ここを通して!あの二人の男の一人は私の亭主なんだよ!ああ、こう

   なったら、全部言ってやる。一人は中村夢之丞と言う役者で、本名は清十郎

   と言う私の亭主なんだ!それでさ、歳は二十三。そうだよ、五つもサバ読んで

   んだよ。ふん、ざまあ見やがれ。全部言ってやった。ねっ、わかっただろ。

   だから、離して!ここを通して!お願い!お願いぃぃ」

 

 と、いくら懇願しても、宿の中へは入れてくれない。


お夏 「何さ、あんた達。か弱い女の味方じゃないのかい。私ゃ、女房だよ。いく

   らここが逢引き宿だからって、そりゃ、ないさ。それに、あれは男同士じゃ

   ないか。こんなの間違ってる!それも女房のいる男がそんなことしていいと

   思ってんのかい!それに、それに、あの男はいけない。あの男だけは駄目な

   んだよ。だから、ここを通しとくれ!」

 

 それでも、通そうとはしない。


お夏 「やい、清十郎!中村夢之丞と言う役者!このサバ読み役者!逃げてないでとっ

   とと出てきやがれ!もう、お前のことはぜーんぶばれてんだ。もう、お前は終

   わりだよ。清十郎も、中村夢之丞も終わりさ。終わったんだよ!」

 

 それにしても、相手があの真之介だなんて…。


----この私が、男に負けるだなんて…。それも、あの男に…。


 お夏は、へなへなと座り込んでしまう。


お夏 「いやあああああ!!」

 

 と、断末魔の叫び声を上げ、ついに、地面に倒れ込む。

 苦しい、苦しい、この胸…。

 もう、このまま、死んでしまいたいぃぃ…。



お駒 「お夏ちゃん」

 

 その時、声がした。

 誰だろう。こんなところで自分のことを知ってる人に会うなんて。いや、もう、どうでもいい。今の自分の気持ちをわかる人など誰もいないのだから…。


お夏 「わあ゛あ゛あ゛あ゛あああああぁぁぁぁぁ」

お駒 「お夏ちゃん!しっかりおし!」

 

 ああ、その声は…。


----姉さん?えっ、どうして姉さんがこんなところに居るの?

お駒 「お夏ちゃん、お夏!」

お夏 「あぁ、姉さん」

お駒 「姉さんじゃないよ、早く、起きな!いま何時だと思ってんだい」

お夏 「姉さん、夢、夢が…」

お駒 「えっ、夢見てたの」

お夏 「そうじゃなくて、夢之丞、清十郎の奴が、うわあぁぁ」

お駒 「だから、どんな夢見てたの」

お夏 「夢じゃなくて、本当なんだから。夢が男と、あの真之介と言う侍と、そこ

   の待合に入って行ったんだからさ。そうだ、姉さん、早く、連れ戻して。で

   なけりゃ、大変なことになっちまうよぅぉ」

お駒 「いつまでも、なに、寝ぼけてんだい!」

お夏 「えっ、私、寝ぼけて何かない、本当だったら」

お駒 「一体、どんな夢を見たって言うのさ。お民ちゃんがいつまでも経ってもあ

   んたが起きてこないから、様子を見にいくと、布団は蹴散らし、すごいうな

   り声を上げてたから、病気じゃないかと私のとこへやって来てさ」

お夏 「えっ、夢?」

 

 あれは夢だったのか…。

 それにしては、ひどく現実味があった。


お夏 「違う!あれは夢なんかじゃない!姉さん、夢之丞ったらひどいんだよ。寄り

   によって、男と逢引宿に入っちまうんだからぁ」

お駒 「これ、またっ、すごい夢を見たもんだねえ」

お夏 「夢じゃないんだったらあ」

お駒 「じゃ、あんた、今どこに居るの。それに何さ、その格好」

 

 掛け布団はどこかへ行ってしまい、そして、乱れた寝間着姿…。

 夢之丞の夢だった…。

 言われてみれば、今の自分は、自分の部屋の敷き布団の上で乱れた寝間着姿。お夏は慌てて足の出た裾を直し、胸元を合わせる。道理で、横たわった地面が妙に柔らかいと思った。

 でも、夢でも許せない。例え、夢でも夢之丞の奴、男となんかと逢引宿にしけ込みやがって…。


お夏 「ねっ、しどいと思わない。夢之丞が夢の中でも私のこと、裏切ってさ。そ

   れも、それも、その相手と言うのが、その、その…」

お駒 「また、ろくでもない夢見てから。でも、夢の話じゃないか。そんなこと

   で、一々気をもんでたら、身が持たないよ」

お夏 「違うのよっ。その相手の男と言うのが、ほら、あの侍、真之介とか」

お駒 「えっ!」

 

 さすがにこれには、お駒も驚くしかない。


お夏 「同じ顔の男がさ、私がお前さーんって呼んでんのに、知らん顔じゃなく

   て、何でもない顔で私の方を向いたかと思えば、今度は二人して見つめ合っ

   て、宿ん中へ入って行ってさあ。これが許せると思う…。だから、私、夢之

   丞のこと、みんなバラしてやった。本当の歳は二十三で女房持ちって」

お駒 「わかったから、早く着替えて支度しないと今日はお茶と踊りの日じゃな

   いの」

 

 お夏が何かと落ち着きがないので踊りの他にお茶も習わせることにした。その二つがダブる日もある。

 そうだった。今日は午前中が踊り、午後からはお茶の稽古だった。 


お夏 「でもねっ」

お駒 「その話は帰ったら、聞いてあげるからさ。早くしないと遅れるよ」

 

 お夏は急いで顔を洗い、ご飯に味噌汁かけたのをかき込み、それからは落ち着いて化粧、着替えをし、まるで何もなかったかのような顔で出かけて行った。

 それにしても、夢とはいえ、お夏はすごい夢を見たものだと思う。

 真之介と夢之丞のボーイズラブ。

 無さそうで有りそう、有りそうで無さそう。でも、ちょっと面白そう。お夏が帰って来るのが楽しみなお駒だった。

 お夏は端唄は駄目だったが、踊りだけは一生懸命やろうと思っている。いずれは千両役者の妻になるのだ。芸事の一つくらい出来なくては恥ずかしい。

 それでも、久しぶりの娘気分にわくわくしていた。何より楽しいのが稽古仲間たちと帰りにお茶することだった。ここに通ってくる娘たちのほとんどが役者の通う稽古場と知った上でやって来るのだ。直接役者たちと会える訳ではないが、それでも何か情報があるのではとの期待を持って通ってくる。

 そんな中に、中村市之丞の筆名、春亭駒若の一翼を担っているお駒の従妹であるお夏がやって来た。たちまち、お夏は娘たちから質問攻めにあう。


お恒 「市之丞さんてどんな人?」

お節 「それより、綾乃助さんに会ったことは?」

お郁 「楽屋行ったことある?」


 等々、姦しいことこの上ない。


お夏 「市之丞兄さんは気さくな人よ。私のことも可愛がってくれて。でも、い

   ざ、芝居のこととなると、そりゃ、厳しいって、夢之丞さんがそう言って

   らして」

 

 と、夢之丞のアピールも怠りない。


お郁 「そうだ、お夏さん。夢之丞とは従兄?はとこ?だっけ」

----何さ、夢之丞だけ、呼び捨てかい。

お夏 「いえ、夢之丞さんはお駒姉さんの父方の親戚なの。私は母方の従妹」

お節 「ふーん、じゃ、血縁じゃない訳か。でも、いいわねえ。役者と一つ屋根の

   下に居られるんだから」

お夏 「お節さん、それは違う、違うわよ」

 

 お夏は慌てて否定する。


お節 「ああ、市之丞とお駒って人、夫婦ってわけじゃない。そうだった、別に住

   んでんだ」

お郁 「そんなことより、綾乃助さんに会ったことは?」

お夏 「それは、まだ」

お恒 「でも、楽屋行ったことあるんでしょ」

お夏 「一度だけ」

お節 「いいな、私も楽屋行ってみたい」

 

 実際の楽屋とは物が置いてあったり、人の出入り激しい所でそんなにきれいなところでもない。自分の部屋が持てる有名役者ならともかく、夢之丞はまだ大部屋なのだ。だが、こんな話はまだいい。この、お郁とお恒はちょっと違うのだ。

 最初は単なる好奇心かと思っていた。それに、この二人はまだ十五歳なのだ。実際は十九歳のお夏から見れば、まだほんの子供にすぎない。世の中にはませたガキもいるが、それともちょっと違うようだ。

 それはある日のこと、いつもは四人でお茶しているが、その日、お節は用があるとかで先に帰り、残ったお郁とお恒にお夏の三人で甘味処に寄る。


お郁 「でも、やっぱりお夏さんはいいわねえ」

お恒 「本当、お駒姉さんから色々聞いてるでしょ」

お夏 「そんなことないわよ。前にも言ったけど、楽屋行ったの一回だけだし、市

   之丞兄さんの部屋にお邪魔しただけだから」

お恒 「じゃ、楽屋出入りも自由なの」

お夏 「姉さんは自由だけど、私は…」

お郁 「それでもいいわよ」

お恒 「ねえ、今度私たちも楽屋に行って見たいの」

お郁 「一度でいいから、お駒姉さんにお願いしてみてくれない」

お恒 「お願い、お夏さん」

お夏 「うん、姉さんに聞いてみるけど、あんまり期待しないで」

 

 と、ここまでは今までと変わりない話だった。


お郁 「そう言えば、綾乃助さんて女の噂ないよね」

お恒 「やっぱり、あれかな」

お郁 「そうね、男同士か…」

 

 お郁とお恒は遠いところを見るような目をしていた。いや、実際に遠いところを見ていたのかもしれない。


お夏 「男同士って」

お郁 「女同士みたいに、ジメジメしてなくて。男と女とも違うし…」

お恒 「何かさあ」

お郁 「何か違うのよね」

お夏 「何が違うの」

お恒 「何がって、お夏さん感じない?」

お夏 「何を?」

お郁 「駄目よ、お恒。ほら、お夏さんにもわかってもらえない」

お恒 「やっぱり、そっかあ…」

お郁 「私たち、ごく少数派だもの…」

お恒 「そうだね、今のところ、私たち二人だけじゃない」

お郁 「二人だけの楽しみでいいんだけどさ、なにか、誰かに知ってほしいような

   ほしくないような…」

お恒 「そうね。でも、お駒姉さんならわかってくれるかも」

お夏 「姉さんならわかるって?」

お郁 「私たちの気持ち、わかってくれそうな気がするの」

お恒 「そう、芝居を書けるような人だもの」

 

 表向きは市之丞が忙しくて書ききれないので、お駒に口述筆記をやらせていると言うことになっているが、お夏は実際はお駒にも文才があって、共同作業だと言ったことがある。


お郁 「そうよね、いくらなんでも、役者やりながらあれだけのものは書けないっ

   て、うちのおっかさんも言ってた」

お恒 「本当、いつ書くのだろうって、みんな言ってたもの。やっぱりそうだった

   のね」

 

 と、わかってくれたのが嬉しかったが、考えてみれば、この辺りは芝居関係者が多く住んでいる。


お郁 「だから、お夏さん。私達、楽屋にも行ってみたいけど、先ずはお駒姉さん

   に会ってみたいの」

お恒 「会って、話聞いてほしいの」

----何さ、本当は楽屋へ行きたい口実なんでしょ。まあ、私も行きたいけど。

お夏 「それなら、私だって聞くわよ」

お郁 「でも、わかってもらえないと思うし」

お夏 「でも、私って、あんた達より年上じゃない」

----実際はさ、四歳年上で、男のことも…。

お恒 「そう。じゃ、男同士って、どう思う」

お夏 「どうって…」

お郁 「ほら、役者にはそう言うの多いって言うじゃない」

 

 それは聞いたことがあるが、お夏は実際のところはよく知らない。それにしても、好きな役者や男の話ではないのか。


お夏 「私には…。いえ、別にそう言う人はそう言う人でいいと思うけど、確かに

   好きな役者がそんな人だと、ちょっとがっかりするかな」

お郁 「ほらね、やっぱり、お夏さんにはわかってもらえない」

お恒 「そうね」

お夏 「えっ、違うの」

お郁 「ええ…」

お恒 「私達、そう言う人たちのこと考えると、胸がキュッとなって…」


 この時代、男同士のいわゆるボーイズラブはそれほど特殊なことではない。武士のいざこざの多くは男同士の色恋の果てと言われている。結婚は家同士の結びつきであり、他の女性と知り合うチャンスとてない。そんな中で、男同士の結びつきはそれほど不自然なことではなかった。そんなボーイズラブに胸を焦がす娘がここにもいた。

 だが、お夏はそれは都市伝説だと思っていた。

 それなのに、今目の前に居る二人の娘がその伝説の張本人とは…。


----都会には、色々な人間がいる…。

お郁 「だからさ、綾乃助さんがそうなのよ。だったら、相手は誰かなあと思っ

   て…」

お恒 「相手が知りたいような知りたくないような…」

お郁 「いえいえ、やっぱり知りたいわ」

お恒 「そう、知りたい」

 

 お夏にしてみれば衝撃的な話だが、ここは話を合わせる事にした。


お夏 「そうね。私もあの綾乃助さんの好きな人って、興味あるわ」

お恒 「でも、それはどんな女かってことでしょ」

お夏 「まあ、今まではそうだったけど、言われてみれば綾乃助さんには浮いた噂

   ないし、ひょっとして、それもアリ?」

お恒 「でも、よかった。お夏さんが拒否反応示さない人で」

お郁 「そう、もう、そんな話聞いただけで、おかしい、異常とかって言われるの

   がオチだから、迂闊に口に出来ないの」

お恒 「やっぱり、お駒姉さんの従妹だわ」

お夏 「ええ、まあ…」

お恒 「ねえ、お夏さん、ひょっとして!」 

お夏 「えっ、なに?」

お恒 「綾乃助さんの相手って、夢之丞だったりして」

----えっ!それにしても、まだ、夢之丞は呼び捨てかい。

お夏 「それは…」

お郁 「夢之丞にも女の噂ないし。何か、聞いてない?」

お夏 「それは、夢之丞さんは、しばらくは恋愛禁止だって。今はとにかく、修行

   の毎日とかで…」

 

 寄りによって、綾乃助の衆道の相手が夢之丞だなんて…。


お郁 「あの二人なら有りそう。お似合いかもしれない」

 

 いくら、この二人の妄想話とはいえ、お夏は冷や汗が出そうだった。


お恒 「でもさ、ほら、夢之丞とどこかの侍と似てるってかわら版に書いてあった

   じゃない」

お郁 「うん、瓜二つだと書いてあったけど、本当かな。お夏さん、そっちの侍に

   会ったことある?」

お夏 「ううん、ないわ」

お恒 「なんだ、やっぱりそうか」

お郁 「そうだよ、だから、お夏さんが夢之丞の話はしても、あの侍の話はしない

   訳だ」

----えっ、私、そんなに夢之丞の話してるかな。

お郁 「その侍、名前なんだっけ」

お夏 「真之介とか」

お郁 「真ちゃんか…」

お恒 「でもさ、同じ顔のそれも他人の男同士って、どうなんだろ」

お郁 「相手の顔は自分の顔でもあるんだから」

お恒 「一度、会わせてみたいね。そう思わない、お夏さん」

お夏 「そうねえ」

お郁 「何だ、気のない振りして。やっぱりお夏さんは夢之丞が好きなんだ」

お恒 「でも、ひょっとして、その二人がそんな関係になったらどうする?」

----やめて!そんな話…。

 

 その夜、お夏は悶々として眠れなかった。今までは夢之丞の浮気ばかり心配して来た。それは当然女限定だった。普通、そうだ。だが、夢之丞の場合、浮気は女だけとは限らないのだ。

 真之介のことはともかく、男ばかりのそれも美形揃いの中に居るのだ。そう言えば、お駒と共に初めて楽屋を訪ねた時、夢之丞はまだ少年のような役者と顔を寄せ合い楽しそうに話をしていた。その時は何とも思わなかったが、言われてみれば気になることばかりだ。

 そして、ようやく眠りに付けたと思ったら、あの夢だ。それも、互いに出会ってすらいない、真之介と夢之丞の逢瀬の夢だった。

 お夏からその話を黙って聞いていたお駒がぽつりと言った。


お駒 「それは別れの夢かも」

お夏 「えっ!!」


 お駒のあまりの言葉に呆然とするお夏だった。


お駒 「お夏ちゃん。いっそ、夢さんと別れたら」

お夏 「そんな、ひどい。姉さん、ひどい」

お駒 「あんたみたいに、女にも男にも焼きもち焼いてたら身が持たないよ。それ

   にさ、役者にとって、女は芸の肥やしなんだからさ、それをよその女に目を

   向けるなってそりゃ無理と言うもの。また、男の心配までするようじゃ、改

   めて夫婦になってもうまくいきっこないさ。あんたなら、いくらでも嫁入り

   口あるから、一度考えてみたら」

お夏 「でも、だって、今は恋愛禁止じゃ…」

お駒 「それは表向きのこと。けど、あんた、よくよく夢、清十郎に惚れたもんだ

   ね」

お夏 「あら、清十郎の方が先に私に惚れたのよ」

お駒 「どっちが先かは問題じゃなくて、今はどうなの」

お夏 「今でも、それは同じよ」

お駒 「それなのに、浮気の心配ばかりしてるじゃないの」

お夏 「それは…。とにかく私は姉さんみたいに寛大にはなれないのっ。役者にな

   る時だって、あいつ、私に言ったのよ。他の女には目もくれないって」

お駒 「だから、くれてないじゃないか」

お夏 「でも、あの世界がそんな男同士の、そんなところだと思わなかったもの」

お駒 「すべての役者がそうと言う訳じゃないさ。第一、市之丞はその気ないか

   ら。とにかく、男でも女でもそんなに焼きもち焼いてるようじゃ、役者の女

   房は務まらないよ。それに大店の主人だって、金持ってる男には妾の一人や

   二人いるさ」

お夏 「……」

お駒 「ほとんどの男は浮気性でさ、そりゃ、浮気しないまじめな男もいるけど、

   それだって、千人に一人もいやしないよ」 

お夏 「だって、ここのところ、ずっと逢ってないし。姉さんは兄さんと逢ってる

   じゃないの」

お駒 「あれは仕事で会ってんの」

お夏 「それでもいいわよ。もう、かわいそうな私…」

お駒 「何が、かわいそうなのさ。少しくらい辛抱おしよ。夢さんは今が一番大事

   な時なんだからさ」

お夏 「そうなんだけど。実は姉さん、踊りの友達から楽屋に行ってみたいと言わ

   れてるのよ。それをぜひ、姉さんにお願いしてって言われちゃって…。

   あっ、これは本当のことよ。別に夢之丞に会いたいとかじゃなくて、うう

   ん、そんなんじゃないの。誰も夢之丞のことなんかなんとも思ってなくて、

   楽屋と言う所を見てみたいって言うの。それで、出来れば、綾乃助さんとか

   に会えたらいいなって。それはもう、しつこいくらい、私頼まれてんの。ね

   え、何とかならない?お願い」


 それにしても、お駒は何をやらせても手際がいい。間もなく、楽屋見物の手はずを整えてくれた。


お夏 「姉さん、本当にありがとう…」

 

 お夏はそれだけでうるうるしている。


お民 「私まで、ありがとうございます」

 

 ついでとは言え、思いがけない幸運にお民も感激していた。

 翌日、三人が待ち合わせ場所に行けば、こちらもめかし込んだ三人の娘が待っていた。


お郁 「まあ、お駒姉さん。お会い出来て光栄です」

お恒 「今日は本当にありがとうございます」

お節 「もう、夢の様で、昨日は眠れませんでした」

お郁 「あら、じゃ、途中で居眠りなんかしないでね」

お節 「まあっ、あんたじゃあるまいし」

お郁 「それ、どう言うこと」

お夏 「もう、それくらいにして、早く行きましょうよ」

お郁 「そうでしたわ。でも、お駒姉さんて素敵な方」

お恒 「ほんと、憧れますわ」

お節 「やっぱり、私たちとは違います」


 と、今までは、楽屋見物に行きたいばかりに、お夏に取り入ってた三人なのに、今日はひたすらお駒を持ち上げる。


お駒 「いいえ、いつもお夏と仲良くしていただいてますもの、喜んでいただけて

   幸いです。でも、綾乃助さんに会えるかどうかはわかりませんよ」

お恒 「そうですわね。お忙しい方ですもの」

お郁 「でも、夢之丞になら会えるかしら」  

----ここに来て、まだ呼び捨てかい。

 

 六人の女たちの短い道中がようやく始まった。

 お駒は娘たちとは少し離れて歩いていた。自分もまだ若いつもりでいたが、ここに来るとさすがに歳の差を感じてしまう。彼女たちは歩く前からずっとしゃべりっぱなし。だが、流行ものを支えているのは誰でもない、これらの騒々しい若年層なのだ。それでも、小屋が近づくと少しはその勢いも治まり、小屋の裏口に回れば、それこそひそひそ声になる。

 楽屋口から入れば、お夏が手本を示すように下駄を下駄箱に入れれば、皆それに倣い、それでも、抜かりなく辺りを見回している。


お駒 「ちょいと、ここで待っててくださいな。すぐ、来ますから」


 と、お駒は奥の方へと向かう。


「はい」と、ここは神妙に答えるも、もう黙ってはいられない娘たちだった。


お郁 「何だ、至って普通のところじゃない」

お夏 「だから、言ったでしょ。楽屋なんて、芝居関係者が出入りしたり小道具や

   何かが置いてあるだけのところだって」

お郁 「そんなものは、それぞれ置くところがあるんじゃないの」

お夏 「でも、その演目に必要なものは出しておかなければいけないし、役者が

   持って出るものもあるでしょ」

お郁 「言われてみれば…」

お恒 「でも、ここのどこかで綾乃助様がお着替えなさるのかと思えば、もう、何

   か、胸いっぱいって感じ」

お節 「お恒さんは綾乃助さんしか見えないものね」

お恒 「そう言う、あんただって」

お郁 「ちょっとあんた達、少しは静かにしなさいよ。どんなところであろうと、

   滅多に来られるような所じゃないんだから」

 

 と、妙に澄まし顔で言うお郁だった。


お節 「確かに、そうよね」

お恒 「ああ、どうか、綾乃助様に会えますように…」


 その時、夢之丞がやって来た。


夢之丞「お夏さん」

お夏 「夢之丞さん」


 ええっ!と、娘たちの歓声が上がり、それから、夢之丞とお夏の小芝居が始まる。


夢之丞「ご無沙汰しております」

お夏 「こちらこそ」

夢之丞「今日は皆さま、ご一緒で。どうも、お駒姉さんから案内役を仰せつかりま

   した、中村夢之丞でございます。よろしくお願い致します」

 

 まさか、夢之丞が案内してくれるとは…。お夏はお駒の心遣いに感謝した。


お郁 「まあ、夢之丞さん。誰よりもお会いしたかったですわ」

 

 一番に口を開いたのはお郁だった。


----あら、綾乃助さんじゃなかったの。それに、やっと、さん付けか。


お郁 「ほんと、こうして近くでお会いできるなんて、それこそ夢の様です」

お恒 「もう、嬉しい、どうしようかしら」

お節 「私、これからは夢之丞さんを応援しますわ、頑張ってください」

 

 と、口々に先ずは役者褒めに余念のない娘たちだが、素の夢之丞も、お夏とのことも知っているお民でさえ、この時は見とれていた。

 そうして、夢之丞の案内であちこち見て回ったのだが、なぜか、先日来た時よりも若い役者が多くいるのが、ちょっと気になるお夏だった。だが、出番が終りまだ息の荒い綾乃助に会えた時、彼女たちのボルテージは最高頂に達した。


お郁 「綾之助さま、素敵!」

お恒 「もう、最高です!」

お節 「ああ、夢なら覚めないで…」

  

 と、先ほどまでの、夢之丞フィーバーはどこへやら、今は綾乃助の袖に縋りつかんばかりの勢いの娘たちだった。


夢之丞「申し訳ありません、綾乃助さんはこれからお召し替えでして」


 綾乃介の後ろ姿を名残惜しそうに見つめる娘たちの後ろで、それとなく体を寄せ合う、お夏と夢之丞だったが、一方で、お駒と市之丞はぶつかり合っていた。


お駒 「あのさ、確かに企画はいいけどさ、何もそこに夢之丞出さなくても…。

   お前さん言ってたじゃないか。夢は見込みある。今は顔だけで売れてるが、

   そのうち中堅どころのいい役者になるって。私だってそう思ってるよ。最初

   はともかく今はいい感じで役者やってるのに。そんな役者をそんなものに使

   わなくたっていいと思うけどね」

市之丞「いやさ、何事も若いうちの経験だしさ。それに、夢の踊り、特別うまいっ

   て訳じゃねえんだけどさ、何かいいんだよな…。華があって、あいつ、何

   か、持ってんだよ」

お駒 「それなら、もっと大事にしておやりよ」

市之丞「でもさ、もう、決まったことだから、お駒が何と言おうとやるよ。これ

   は、きっと当たる」

お駒 「私も当たると思うし、演目に口出す資格もないけどさ、これでも夢之丞の

   後見役のつもりでいるんだから。あぁ、道理で若い男の子が大勢いると

   思った。それにしても、お前さんが若衆歌舞伎のちょいと大人版を思いつく

   とはね」

 

 若衆歌舞伎わかしゅかぶきとは、寛永六年(1629年)に女歌舞伎が禁止となり、その後、まだ前髪のある美少年による舞踊を若衆歌舞伎と言ったが、これも風紀を乱すとして、承応元年(1652年)に禁止となり、その後は野郎歌舞伎が現代まで続いている。

 それを市之丞が幕間に、前髪を剃り落としたとは言え、まだ年若い役者の卵を集めて群舞をやらせようと企画しているのだ。お駒もそれは新しいもの好きの江戸っ子に受けるだろうと思った。だが、そこにこともあろうに夢之丞を出演させるつもりでいる。

 だが、いくら、夢之丞が若く見えるからと言って、そんな十代の集団の中では浮いてしまわないか。いや、何より、もっと役者の修業をさせてほしいとお駒は思っている。


市之丞「なに、しばらくの間だよ。夢の野郎を真ん中に据えてさ、後の連中は夢の

   引き立て役みたいなもんさ。あいつも色々経験した方がいい」

お駒 「それで、座頭は何と?」

市之丞「いいかもしれないとな」

お駒 「夢之丞のことだよ」

市之丞「出せってさ」

お駒 「そうかい、座頭が言うんなら…」

市之丞「お駒さんも座頭にゃ、弱いかい」

お駒 「そう言うことじゃないさ。座頭ってのは興業全体の責任者だからさ。その

   責任者がいいと言うんなら。それで、何人くらいで踊らせんの」

市之丞「まあ、四十七士に倣って、とにかく舞台一杯に並べてみようと思ってさ」


 だが、その企画にしても、お駒が幕間の寸劇もいいけど、あまり出番のない若い役者たちを揃いの衣装で踊らせてみるのも面白いのでは言ったことからなのだ。

 それを市之丞が"拡大解釈"したようだ。そのことについては何も言う気もないし、夢之丞が踊るのも構わない。だが、お駒が言ったのは数人での踊りなのだ。それを市之丞は舞台いっぱいに、若いそれも十代を中心とした群舞をやろうとしているのだ。どこで寄せ集めて来たか知らないが、そこそこの顔立ちの若者を集めて踊りの特訓をしているのだ。そんなにわかダンサーの踊りで客が満足するだろうか。そこで、夢之丞の出番となったと言う訳だ。

 お駒もその特訓ぶりを見たが、いくらなんでもこれはひどい。村の盆踊りレベルではないか…。


市之丞「お前たち!しっかり踊れ!ちゃんとやらなきゃ、舞台には立てねえぞ。ここ

   の全員が立てる訳でじゃねえ。舞台に立てなきゃ、金も稼げねえし、女も

   寄って来ねえ!だから、しっかりやれ!隣の奴、蹴落とすつもりでやるんだ、

   わかったか!」

若手 「はあい」

市之丞「なんだ!その返事は!」

若手 「はいっ!」

市之丞「まったくもって…」

 

 市之丞に叱咤されて少しは気が引き締まった感じの若者たちだったが、それよりも側に居るお駒が気になる。


若手 「あれが、噂の」

若手 「きっと、そうだよ」

若手 「年上の女もいいな」

若手 「師匠にすれば、年下の女」

若手 「俺達ゃ、恋愛禁止…」

市之丞「なに、ごたごた抜かしてやがる。もう一度、最初からやってみろぃ。お

   い、夢はどうした」

お駒 「夢さんは、娘たちの案内係だよ」

市之丞「そうだったな」

 

 その時、摺り足が聞こえたかと思えば、娘たちが歓声を上げながら顔を覗かせる。


夢之丞「あっ、そこは」

 

 夢之丞の制止も聞かず、好奇心旺盛な娘たちはどの部屋も覗きたがり、入ってみればそこは若手集団の稽古場だった。まさか、こんなに大勢の若い役者たちがいるとは思いもしなかった。

 驚いたのは若い役者たちも同じだ。男ばかりの楽屋裏にお駒がやって来ただけでも新鮮なのに、いきなり数人の若い娘たちが入って来たのだから…。


夢之丞「兄さん、申し訳ありません。あの、ここは、ちょっと」

 

 と、娘たちを部屋から連れ出そうとする夢之丞を市之丞が制止する。


市之丞「いやいや、これは美しいお嬢様方、ようこそお越しくださいました。つい

   でにちょっと見てやって頂けませんか。今度、これらの者が幕間踊りを致し

   ますもので、お披露目前の感想などお聞かせ願えれば幸いです」

お郁 「まあ、あの、こんなに大勢の方が踊りを」

お恒 「素敵!」

お節 「ぜひ、拝見させてください!」

 

 娘たちに異存ある筈もなく、市之丞の合図で踊りが始まる。思わぬものを見る事が出来た娘たちはそれだけでうっとりしている。その反応の良さに、市之丞は気を良くしていたが、娘たちが帰ったあとで雷を落とす。


市之丞「何だ、今の踊りは!おい、何か文句あるか。言わなくてもわかってる。急な

   ことで焦ったとか言いたいんだろ。舞台とはな、生ものなんだ。毎日同じ芝

   居やってりゃ、同じように踊ってりゃいいってもんじゃないんだ。何があっ

   ても落ち着いて踊れ。心から踊れ。もっと真剣に稽古しろ!」

 

 コンビでもグループでも売れぬ。そんな連中を集めて山盛りどころか、箱売りしようとしている市之丞だった。

 だが、当の若者たちの関心はお夏に集まっていた。


若手 「夢之丞兄さんの側にいた娘、かわいかったな」

若手 「かわいいなんてもんじゃないさ」

若手 「すごく、きれい」

若手 「あの娘じゃないか、お駒姉さんの従妹って」

若手 「そっか、名前なんて言うんだろ」

若手 「お夏さんとか言ってたな」

若手 「案外、夢兄さんが目、つけてたりして」


 お駒の遠縁に当たる夢之丞、お駒の従妹のお夏。この二人が接近しても不思議はない。

 だが、お夏の憂いは他でもない、このヤング集団なのだ。

 こんなにも若い男たちに囲まれて、夢之丞は大丈夫だろうか。男ばかりのこの世界で、魔がさしたりしないだろうか…。

 お夏はその後も鬱々としていた。お郁達には感謝され、ちょっと奢ってもらったりもしたが、なぜか食欲もわかず、どうにも気が晴れない。その後に夢之丞と逢えた時も、はじめは涙を流して喜んでいたかと思えば、すぐに嫉妬の炎を燃やしてしまう。


お夏 「お前さん!よもや、男なんかと!」

夢之丞「俺も兄さんも男にゃ興味ねえよ」

お夏 「もし、そんなことになったら、只じゃすまないからね。男でも女でも、

   私ゃ、どっちでも絶対に許さないから!」

夢之丞「わかってるよ。だから、苦しいからこの手放してくれよ。久しぶりにこう

   して逢ったと言うのに、近頃のお前はどうかしてるぜ」

お夏 「どうもしてないよ。浮気は駄目!それだけ」

 

 それにしても、お夏がこうも嫉妬深いとは…。


夢之丞「姉さん、少しはお夏に言ってやってくださいよ。今から、あれじゃ、先が

   思いやられます」

お駒 「私も色々言ってんだけどさ、その時はわかったって言うのに、夢さんと逢

   うとああなんだから」

夢之丞「それじゃ、なんですか、俺の顔がそんなにムカつくとでも?俺だって、お夏

   と早く正式な夫婦になろうと、これでも一生懸命やってんですよ。それなの

   に…」

お駒 「そうだよね。確かに近頃のお夏ちゃんは少しおかしいんだよね。側にいる

   私だって、よくわからないんだからさ」

 

 それはお夏自身にもよくわからない。急に苛々してくるのだ。


----なんだろう。この気持ち…。


 そんなある日、仕事部屋でうたた寝をしていたお駒の所へ慌ただしくお民がやって来た。


お民 「ご新造さん!大変です」

お駒 「どうしたの」

お民 「お夏さんが、お夏さんが…」

お駒 「お夏ちゃんがどうした」

お民 「急に倒れました」

お駒 「えっ!」

 

 行って見れば、廊下でお夏が派手に倒れているではないか。

 

お駒 「お夏ちゃん!どうしたの。お民ちゃん!お医者呼んできて!すぐに!」

 

 医者が診察している間、気が気でないお駒だったが、医者はこともなげに言う。


医者 「懐妊です」

お駒 「えっ!?」

 

 何と、お夏は妊娠していたのだ。

 先ずは市之丞を呼び、今後のことを話し合わなければならない。


市之丞「困ったことになりにけりだなあ」

お駒 「なにが困ったことだよ。子供が生まれるんだよ。それを嘆いてどうすんの

   さ。それより、これからのことだよ」

 

 夢之丞に妻がいる事も隠しているのに、子供とは…。市之丞も頭が痛い。


市之丞「取りあえず、バレないうちに、お夏をどこか、どこかへ…。親は元気なん

   だろ」

お駒 「元気だけどさ」

 

 お駒もお夏も農家の娘だが、今はどちらも兄の代になっている。特にお夏の母は嫁の折り合いが悪い。そこへ、事情を説明し金を持たせて里帰りさせたとしても、そんなものは一時しのぎにすぎない。


お駒 「お前さん。ちょっと離れた所へ家を借りてやっとくれよ。そこへ、お夏

   ちゃんの母親呼ぶからさ」

市之丞「まあ、それしかないだろうなあ。んじゃ、いい様にやってくれ。後のこと

   はお駒にまかすわ。ああ、夢にゃ、折を見て俺から言っとくからさ」

お駒 「そうかい」

 

 と言って、お駒は手を出す。


市之丞「何だい」

お駒 「何だじゃないよ。金に決まってるじゃないか。何かい、その金まで私に出

   せって言うのかい」

市之丞「そりゃ、お夏はお前の従妹じゃないか」

お駒 「お夏は従妹でも、これから売り出す夢之丞の子供なんだよ。それにさ、お

   夏の母親に挨拶くらいしてくれたってバチは当たらないと思うけど。お前さ

   ん、夢之丞の親代わりだろ」

市之丞「お前だって、後見役だろ」

お駒 「だからさ、一緒に。出来れば夢さんも。きちんと挨拶させなきゃ」

 

 お駒は先ずは自分の母親宛てに一両の金を送る。手紙を読んだ母親は隣村の妹、お夏の母親を伴い浮き浮きとやって来た。


お秋 「あれま。お駒がやっと嫁に行くのかと思ったら、お夏ちゃんの方に子が出

   来たとは…」

 

 お駒の母、お秋は幾分呆れ顔で言う。


お冬 「冗談じゃないよ!」

 

 お夏の母、お冬は声を荒げる。


お冬 「何だい、お駒ちゃんと一緒に暮らしている、踊りとお茶やってると言うか

   ら安心してたら、このざまじゃないか。それで、相手の男は!」

お駒 「叔母さん、それは今も言ったように相手は役者ですから」

お秋 「ああ、今は舞台だね。それなら、今夜」

お駒 「今夜もちょっと」

お冬 「ええっ!嫁の親が来たって言うのに、顔も出さないのかい」

お駒 「ですから、こには訳がありまして。だから、こうして来てもらったんじゃ

   ないですか」

お秋 「お冬、いいじゃないの。そんなに焦らなくてもさ。ここはゆっくりと骨休

   みも兼ねて、お夏ちゃんの面倒見ておやりよ」

お冬 「まあ、そうだけど。婿が顔を見せないとは…」

お駒 「それは、近いうちに引き合わせますから。今後のこともありますし」

お秋 「だからさ、お冬、しばらくはゆっくりさせてもらおうよ」

お冬 「まっ、姉さん。人事だと思って。呑気なこと」

お秋 「そうじゃなくて、ほら、役者の世界って、私たちとは違うんだからさ。先

   ずは向こうの言い分も聞いてやろうよ。その上で、ぴしゃりと言ってやるん

   だよ。そん時にゃ、私も付いてるしさ。先ずはお夏ちゃん、ついでに骨休め

   骨休め」

 

 お秋は物見遊山気分でいる。


お冬 「それにしても、お駒ちゃんのみならず、うちのお夏までがあんな河原乞食

   とだなんて…。やっぱり、ここにおいてたのが悪かったんだ」

お秋 「ちょいと、お冬。何勘違いしてんのさ。お夏ちゃんが男と共に、お駒んち

   へ転がり込んだんだよ。その男が役者になったって訳。そうだよね、お駒」

お駒 「ええ、まあ…」

お冬 「それにしても、お夏のあの器量ならいくらでもいい所から話があっただろ

   うに。せめて、堅気の人と一緒になってほしかったね」

お夏 「おっかさん、姉さんが悪いんじゃないの」

 

 その時、お夏が起きて来た。


お冬 「お夏、起きても大丈夫なのかい」

お秋 「何だね、病気でもあるまいし、私らなんぞ、姑から一日も寝かせてもらえ

   なかったじゃないか」

お冬 「だから、お夏にはそんな思いさせたくないって言う親心。姉さんだって、

   娘に子が出来りゃわかるよ」

お秋 「うちにも外孫はいるよ」

 

 お駒には姉もいて、日帰りできない距離に嫁いでいる。


お冬 「おや、それなのにそんな気持ちもわからないとは」

お秋 「あのさぁ、うちの娘は姑に里帰りもさせてもらえなかったんだよ」

お駒 「おっかさんも叔母さんも、もうそのくらいにしてよ。それより、お夏ちゃ

   んのこれからの方が大事なんだから」

お冬 「だからって、お駒ちゃん。その相手の男が顔を見せないんじゃ、どうしよ

   うもないじゃないの」 

お駒 「それは、先ほども言ったように」

お夏 「おっかさん、姉さんには本当にお世話になってんだから、少しは…」

お冬 「だから、ふいに家を出ちまったお夏がお駒ちゃんとこに居ると知って、ど

   れだけ安心したことか。それで、色々と世話になってることを聞いてこれで

   も感謝してたんだよ。でもさ、お夏なら、もっといい所から話はなかったの

   かねえ。それを思うと…」

お秋 「呆れた。まだ、そんなこと言ってるよ。清十郎とか言う男と二人して、

   お駒の所に転がり込んで来たんじゃないか」

お冬 「それにしても…」

 

 と、話はまたも堂々巡り。


お秋 「とにかく、私は疲れたから一休みしたいね」

お駒 「お民ちゃん、布団敷いてよ」

お秋 「それにしても、お駒は大したもんだよ。女一人でこれだけの家を構えてる

   んだから」

お冬 「そりゃ、後ろに付いてる人が…」 

お秋 「何だってぇ」

 

 お秋とお冬の姉妹は決して仲が悪い訳ではない。会えば言いたいことを言い、それが互いのストレス発散になっているのだ。

 その夜は仕出し料理を交え、それこそ、女だけの宴会となる。

 そして、翌日の夜。市之丞と夢之丞こと清十郎がやって来た。さすがに緊張を隠せない清十郎だった。  


お冬 「おやまあ、役者にしたいようないい男はやっぱり役者になったんだね。ま

   あ、これなら、お夏と並んでも悪くはないね。それで、名前は清十郎だった

   ね。で、役者名は」

夢之丞「はい、中村夢之丞と申します」

お秋 「それ、芸名って言うんだよ」

お冬 「とっちだって、同じようなもんじゃないか。それで、お夏のことはどうす

   るつもりなんだい」

市之丞「どうもこうも。ただ、今は大っぴらに出来ないのです。そこのところは何

   卒…」

お冬 「その、やっぱり女房がいちゃまずいってこと?」

市之丞「はい…」

か冬 「で、いつになったら?早くしないと子供生まれちまうじゃないの」

市之丞「いつと言われましても…。今、すごい企画が持ち上がっておりまして。先

   ずはその企画を成功させるためには、この夢之丞が不可欠なものでして」

お冬 「そうかい。まあ、私にゃ、芝居のことはよくわからないけど…。それで、

   給金の方はちゃんとこっちへ渡してもらえるんだろうねえ」

市之丞「給金と言われましても。いえ、あの、暮らし向きの方は今まで通りと言う

   ことで」

お冬 「でもさ、これからはここでお駒ちゃんと一緒ってんじゃなくて別に暮すん

   だろ。それで、本当に大丈夫?まさか、どこかへ追いやって、後は知らん顔

   なんてないだろうねえ」

市之丞「断じてそのようなことはございません。それで、今後のことですが」


 やはり、この界隈に居ては人目に付いてしまう。そこで、お夏は子が生まれるまでの間、町はずれの座頭の知り合いの許へ身を寄せる手筈になっていると言う。


市之丞「ですから、そこへおっかさんも一緒に行って頂きたいのです。なにしろ、

   この夢之丞は座頭からも目を掛けられておりますので、心配には及びませ

   ん。それとも、里の方へ…」

お冬 「いや、里はちょっと…。それで、子が生まれた後は?」

市之丞「それはこれから考えますので。いえ、決して悪いようには。先ほども申し

   ましたように、夢之丞はこれからの役者として、皆、期待しておりますの

   で…」

お秋 「お冬、大丈夫だよ。何てたって、うちのお駒が付いてるんだから。多分、

   この市之丞さん、お駒がいなくちゃ、困るんだよね」

市之丞「あ、はい」

 

 お秋はお駒が子供の頃から、本好きで物語を書いたりしていたのを知っている。そして、お駒が市之丞こと、春亭駒若のゴーストライターだと言うことにも薄々気が付いている。


お冬 「姉さんがそんなに言うんなら、私も骨休めがてら、お夏と江戸暮らしての

   も悪くないけどさ…」 

市之丞「そうしていただけると願ったり叶ったりです」

夢之丞「おっかさん、私もがんばりますので、お夏と生まれて来る子をよろしくお

   願い致します」

 

 と、頭を畳にすりつける夢之丞だった。


お秋 「まあ、よかったじゃない。ところで、市之丞さん。何か忘れちゃいません

   か」

 

 今度はお秋が市之丞を見据えて言う。

 

お秋 「お夏ちゃんのことは随分手まわしよく、片を付けたけどさ。肝心のお駒の

   ことはどうしてくれるんです」

お駒 「おっかさん、今は私のことはいいのよ」

お秋 「よかないよ。なんだかんだ言ってるうちに、お夏ちゃんに先越されちゃっ

   たじゃないか。お前も早く子供の一人くらい生まなきゃ。その前に、市之丞

   さん。あんた、おかみさんいないんだろ。それなら、どうしていつまでもお

   駒を放っておくのさ。まさか、一生このままってことはないよね。ああ、そ

   うかい、それならそれでいいよ。でも、私ゃ知ってんだよ。うちのお駒は子

   供の頃から頭がよくて、本読んでたし、物語書いて近所の子供たちに読み聞

   かせてたんだからさ」

市之丞「いや、おっかさん、そのことにつきましても、今はどうにも…」

お秋 「今はって。今ってね、いつでも今なんだよ。だから、今のことじゃなく

   て、いつなの。明日とは言わないけどさ、いい加減はっきりしてほしいもん

   だね」

市之丞「ですから、今の企画が成功しませんことには、私も身動きが取れません」

お秋 「へえ、企画って何やんの」

 

 お秋はお駒に聞く。


お駒 「大がかりな幕間踊り」

お秋 「踊りくらい」

お駒 「それが、大勢でやるの」

お秋 「そんなのが大変で面白いのかね」

お駒 「ええ、若くてかわいい男の子集めてにぎやかにやるの。その真ん中が夢さ

   んよ」

お冬 「まあ、そうなの」

 

 お冬が夢之丞を見ながら言う。


夢之丞「はい、市之丞兄さんは振付から舞台装置までとすべての責任者です。本当

   は今大変お忙しいのに、今日はこうして私とお夏のためにご足労頂いたよう

   な訳でして。ここはひとつ、おっかさんも叔母さんもしばらくお待ち頂けな

   いでしょうか」

お冬 「そうだ、姉さん。お夏とお駒ちゃん、一緒に祝言するって言うのどうか

   ね。ねえ、そうしようよ」

お秋 「まあ、そうだね…」

 

 しばらくして、周囲にはお夏は母の看病で里へ帰ったと言うことになったが、一人、お郁だけは納得していなかった。

 

お郁 「だってさ、急に、おかし過ぎない?」

お恒 「おかしいって、おっかさんが病気なんだから、別に…」

お郁 「でもさ、何かおかしんだよね。あのお夏さあ、本当に十七かな。それにし

   ては、妙に落ち着いてたりしてさ。かと思えば急に苛々してたじゃないの」

 

 お郁はすぐにお夏を呼び捨てにした。人は去った者には容赦しない。


お節 「確かにそう言うとこあったけど、それと、おっかさんの病気とは関係ない

   じゃない」

お郁 「だけど、あのお夏から、おっかさんの話なんて聞いたことないし、急に病

   気と言われてもさあ」

お節 「お郁ちゃん、何が言いたいの」

お郁 「実は、まあ、私の勘なんだけど…」

お節 「うんうん」

お郁 「だから、勘なんだけど」

お恒 「何さ、勿体付けないでよ」

お郁 「あれ、おっかさんじゃなくて。お夏の方じゃない」

お節 「でもさ、仮にそうだとしても、それですぐに親元に帰るかな。先ずは医者

   にかかったり薬飲んだりするじゃない」

お郁 「だから、重い病気だったりして」

お恒 「重いって?」

お節 「そんなには見えなかったけど」

お郁 「まあ、病気にも色々あるから」

お恒 「まさか、不治の病とか?」

お郁 「そこまでは…。私は何も言ってないわよ」


 お郁に根拠がある訳ではなかった。お夏と言う女がふいに表れ、通り一遍の挨拶で姿を消したことが気に入らないのだ。どうせなら、不幸になればいい。人の不幸は…。


----早く、蜜が届かないかなあ…。


 だが、中村座の斬新な幕間踊りが評判を取る頃には、みんな、お夏のことなどすっかり忘れていた。

 ただ、お駒だけは、櫛の歯が抜けたような喪失感を味わっていた。お夏がいた時は鬱陶しくもあったのに。


----何かしら、これは…。


 それにしても、子供とは欲しがっている所には出来ないものなのか。



































































  






















 









 

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