第76話 女と重荷

 春は気まぐれ、夏は儚く、秋は騒がしく、冬は長い。


ふみ 「旦那様、まだ朝顔が咲いております」

 

 季節は秋と言うに、こぼれ種から目を出した朝顔が小さな花をつけていた。


真之介「本当だ」

 

 朝食の後、真之介とふみは庭の草木を眺めていた。


忠助 「奥方様、兵馬様がお見えになられました」

 

 忠助の声に、思わずどきりとしてしまう真之介とふみだった。


真之介「これはお越しなされませ。お出迎えも致しませんで」

 

 と、暗澹たる気持ちを抑え二人が座敷へ上がれば、そこには苦虫をかみつぶしたような兵馬と、小さくなっている供侍の川原がいた。


真之介「お早うございます。今日も良いお天気で気持ちの良い朝ではありません

   か」

----恐れていたことが起きてしまったか…。


 兵馬は黙ったままだ。


 これから、何を話題にすればいいのやら。やはり、ここは…。

 その時、茶が運ばれて来る。兵馬が黙って飲み干せば、久はすぐに二杯目の茶を持ってくる。


兵馬 「熱い!」

 

 そうだった。茶とは一杯目はぬるめを二杯目は熱い茶を半分、三杯目は熱い茶を多めに出すものであることくらい兵馬も知っている。なのに、今日はそれすらも失念しているようだった。それくらいショックが大きかったのか…。

 真之介もこれからどう話をつなげて行けばいいのか思案に暮れる思いだったが、ここはもう避けて通れない。


真之介「その後、園枝殿のご様子はいかがですか」

 

 兵馬の妻の園枝は出産のため実家に帰っていた。


兵馬 「生まれました」

真之介「それはおめでとうございます」

兵馬 「何がめでたいものですか、生まれたのは女です。これのどこがめでたいの

   です。あの役立たずが!」

 

 兵馬は吐き捨てるように言う。


真之介「その様なことを言うものではありません。無事に生まれて何よりではない

   ですか」

兵馬 「あれだけ大騒ぎして、どうして男を生まないのです!」

真之介「こればかりは人の力ではどうにもならないことです。私にも姉がおります

   し、兵馬殿にも、ふみと言う姉がいるではありませんか。ですから、次は

   きっと男の子が生まれます。あまり、お気を落とされませぬように」

兵馬 「気落ちではなく、腹立たしくてならないのです。どうして、男ではないの

   ですか、どうして…」

真之介「それより、いつお生まれになったのです。園枝殿もお元気ですか」

兵馬 「そんなこと…。子を生むのは女の務めです。出産など、病気ではありませ

   ん」

真之介「私の母は、私を生んで間もなく亡くなりました。それほど、出産と言うの

   は女にとって大変なことなのです」

兵馬 「それでも、元気な男子を生んだではないですか。私は子供の頃から、ずっ

   と病気と闘って来ました。この病弱な体を呪いもしました。そして、やっと

   の思いで、ここまでになったのです。それに比べれば、子を生むことくら

   い、何ほどのことがありますか。犬でも子を生みます。それも一度に数

   匹…」

真之介「兵馬殿!」

 

 兵馬のあまりの言葉に、真之介も思わず声を荒げる。


真之介「女は命がけで子を生むのです。二代将軍秀忠公の正室、おごうの方様は八人

   のお子様をお生みになられました。そのことを家康様は男の戦に匹敵すると

   労われたそうです。また、お江さまも最初は女ばかりお生みになられ、女腹

   ではと言われながらも、その後、男子二人をお生みになられたではないです

   か」

兵馬 「それは、将軍家のこと。私は、わが三浦家は最初に男子が生まれなければ

   いけないのです。そうでなければ、そうでなければ…」


 それにしても、女が生まれて落胆する気はわからないでもないが、この異常とも言える怒りは何なのか…。 


兵馬 「女など、女など…。いりません!」

ふみ 「兵馬!」

 

 それまで黙っていた、ふみのいつにない押しの利いた声だった。


ふみ 「その役立たずの女である姉の許に、そのことをわざわざ言いに参ったので

   すか」

 

 娘が生まれたとの一報を受けた兵馬は体を震わせ、黙って立ちあがり屋敷を出たのだった。行く当ては、真之介のところしかないにしても、じっとはしていられなかった。この胸の内を吐き出したかった。


兵馬 「いけませんか」

ふみ 「そなたにはやさしさと言うものがないのですか。それが子を生んだ妻に対

   する言葉ですか。一番に跡継ぎを生まないことがそんなに悪いのなら、妻も

   そうやって責めたのですか。いずれ、園枝殿も子を連れて戻られる筈、その

   生まれたばかりの母と子にも同じことを言うのですか。それではあまりにも

   冷たすぎます」

兵馬 「冷たいのは母上です」

ふみ 「どうして、母上が冷たいのです」

兵馬 「母上は姉上ばかりかわいがっていたではないですか」

ふみ 「何を言うのです!母上がいつ、私ばかりかわいがりましたか」

兵馬 「そうではないですか。母上はいつも姉上と一緒でした。私は側に寄ること

   も出来ませんでした」

ふみ 「それは違います!それは、お祖母様がそなたを離さなかったのです。生まれ

   てすぐに取り上げられ、母上は乳を飲ます以外は抱くことも叶わなかったの

   です。それを、その様に思っていたのですか」

兵馬 「私はそうは聞いておりません。どう言う訳か、母上は嫡男である私より、

   姉上の方が可愛かったのです」

ふみ 「母上がその様におっしゃられたのですか」

兵馬 「今となっては母上は何も言いませんけど、姉上が輿入れなされてからは随

   分とお寂しそうでした。でも、私も子供の頃はそうでした。私が病気の時も

   側にいてくれたのはお祖母様でした。母に見捨てられた私を世話をしてくれ

   たのはお祖母様です」

ふみ 「違います!それは違います。先ほども言いましたように逆です。お祖母様が

   兵馬を離さなかったからです。母上はいつも兵馬を案じておりました。病気

   の時も、お祖母様が休まれた夜中にそなたの側で看病していました。覚えて

   ないのですか」

 

 母が夜中に看病しても昼間に眠ることは許されなかった。そのことも後に母が体調を崩す原因の一つだと、ふみは思っている。


兵馬 「知りません!やはり、姉上は母上の味方なのですね」

ふみ 「私や母がだれの味方と言うのですか!」

川原 「若殿!それは本当にございます」

 

 その声は、供侍の川原だった。


川原 「私も父や母から聞いております。母はよく、奥方様がお気の毒だと申して

   おりました。姫様がお生まれになった時、お祖母さまは奥方様を、やはり役

   立たずとかなりお責めになられたそうです。そして、ようやく若君がお生ま

   れになると、姫様がおっしゃったとおり、本当にわが子を抱きしめる事も出

   来なかったそうです。ご病気の時に側に行こうものなら、どうして、後継ぎ

   である兵馬の方を丈夫に生んでやらなかったと。毎日のようにお責めになら

   れたとか」

兵馬 「何を今更…。その言葉を信じろと申すか!」

川原 「本当にございます。私の両親だけではありません、家中の者は皆知ってお

   ります」

兵馬 「それを、私だけが知らぬと…」

川原 「はい」

兵馬 「そうやって、皆で私を愚弄致すのか!」

川原 「愚弄ではございません。ただ、お耳に入れる事がはばかられたのです」

兵馬 「どちらにしても、同じことではないですか。わかりました。もう、何も申

   しません。失礼」

 

 と、立ちあがった兵馬だったが、少しよろけそうになる。


川原 「大丈夫でございますか」

 

 川原も立ち上がる。


兵馬 「うるさい!お前の顔など見とうないわ」

川原 「申し訳ございません、失礼致します」

 

 部屋を出て行く兵馬の後を追う川原だった。


ふみ 「申し訳ございません」

真之介「いや、何もふみが謝ることはない」

 

 ふみから時折、兵馬のことは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。きっと、いくら祖母から溺愛されたとはいえ、仲睦まじい母とふみの間に入れなかったことが、いや、すべての人から愛されなかったことが兵馬には不満だった。だが、本当は母もふみも兵馬を気遣っていた。それを他人である、家来から指摘され、またも腹立たしさが先に立ってしまう。


真之介「では、明日にでも祝いを持って行くか」

ふみ 「えっ、はい」

 

 祝いの品は用意できている。翌日、早速に実家へと向かう。 


ふみ 「母上、私が生まれた時も、やはり父上も落胆されましたか」

加代 「それは、落胆されたと思います。でも、兵馬程では…。お祖母さまにはそ

   れはきつく当たられました」

 

 それは、ふみにも言えることだった。兵馬が赤ん坊の頃は、それこそ側にも近寄れなかった。


祖母 「嫡男であるぞ。むやみに触れるでない!」

 

 その兵馬は病弱だった。その苛々からか、祖母は何かにつけて、ふみと母を理由もなく叱責した。

 ふみには、祖母のやさしい記憶はない。ただ、兵馬の医療費に追われる三浦家を見かねた坂田夫妻が、ふみを大奥へと言って来たことがある。


坂田 「ふみ殿なら、きっと上様のお目に留まります」


 なぜか、祖母は反対した。そして、その後の仁神家から側室にと請われた時も反対した。そのお陰で、今のふみの幸せがあるのだが、どうして反対したのかわからないままに祖母は逝ってしまった。

 その祖母の死を一番嘆き悲しんだのは兵馬である。もう、自分を庇護してくれる人がいなくなったのだから、その気持ちがわからないでもないが、祖母の死後、ふみは母と兵馬の語らいの時を作ろうとするも、兵馬はいつも途中で逃げてしまう。

 それでも、真之介との婚儀が決まってからは久々の慶事とあって、それぞれの気も和んだように見えた。

 しかし、ふみが嫁いでしまうと、母と兵馬の間の長年のわだかまりからか、互いに接し方を模索する日々が続いたと言う。

 そこへ、園枝とのデキ婚。兵馬は妊娠の現実に恐れをなしこれまた逃避してしまう。


加代 「もう、私の言うことなど、何も聞いてくれません。出産は女の役目。男に

   出来る事は何もないと言って、園枝殿に寄りつこうともしないのです」

ふみ 「その時、父上は?」

加代 「父上も注意してくれるのですが…」

 

 そして、生まれたのが女だった。


祖母 「ふみと兵馬が代わっていれば良いものを…」

 

 と、祖母も口惜しそうに言った。

 ふみは、これからの母が心配だった。

 出来るものなら、母を引き取りたい。だが、それは叶わぬこと。親とは長男と暮らすものであり、輿入れした娘の所へなど、もっての他なのだ。

 それでも、園枝が実家にいる間は、出来るだけ母と過ごそうと思った。ただ、希望は孫と触れ合えることだ。兵馬も子供と暮らすようになれば、少しは変わるのではと淡い期待を抱く。だが、当の兵馬はしぶしぶ園枝の実家に行き、舅姑にはきちんと挨拶するも、生まれたわが子に興味すら示さない。


兵馬 「ご苦労であった。次は男の子を頼む」

 

 園枝にそれだけ言って、さっさと帰ったと言う。

 それを聞いて暗澹たる思いだったが、母は何かもう諦めているようにも見えた。


加代 「でも、ふみが幸せそうで、良かった」

ふみ 「ええ、私のことはご心配なく」

加代 「真之介殿は今もおやさしいですか」

ふみ 「はい」

 

 園枝が輿入れして来るまでは、ふみが実家に帰れば母の言うことは決まっていた。


加代 「そなたにばかり苦労をかけて済まない」

 

 と、町人上がりの男の許へ嫁いだ娘を気遣っていたが、園枝の懐妊を知ると態度が変わる。


加代 「まだなの?」

 

 母親としては当然のことかもしれないが、やはり、今のふみにはそれは重荷となっている…。


ふみ 「母上、兵馬のことは旦那様も気にかけてくれてますので。あまりお気にな

   されませんように」

 

 と言って、こんふぇいとに一両を添えて手渡すふみに、またも母は言う。


加代 「まだなの?」

 

 こればかりはどうすることも出来ないのに、それを一両受け取った後に言うか…。

 それでも、今までの母の苦労を思えば、多少のわがままは聞いてやらねば。いや、今のふみは昔のふみではない。母の期待に添いたい…。

 そのためには、真之介を動かすしかない。


真之介「そうだな。ここは男同士、改めて明日にでも話をしてみますか」

ふみ 「お願いします!」


 翌日、兵馬は供侍の川原といつもの鰻屋の二階に上がれば、真之介が待っていた。


川原 「本日は私までご相伴にあずかりまして、ありがとうございます」

兵馬 「鰻とは、注文を受けてから捌き、焼くのだから時間がかかる。それまでの

   間、こうしてたくあんをつまみに飲みながら待つのだ」

 

 と、受け売りのうんちくを聞かせる兵馬だった。


川原 「そうですか、若殿は博識でいらっしゃいます」

 

 と、そつなく兵馬を持ち上げる川原だった。きっと、毎日気を使っていることだろう。


兵馬 「兄上、先日は大変失礼いたしました」

真之介「いえいえ、誰でも気鬱になる時はあります。だから、たまにはこうして男

   だけで飲むのもよろしいかと思いまして。ところで兵馬殿、エゲレス語の方

   はその後いかがです」

兵馬 「それが、ここのところ…」

真之介「では、また、再開されては」

兵馬 「ですが、兄上。エゲレス語習ったとて、使い道がありません。私など異国

   の人間を見かけたことすらありません」

真之介「これが長崎の役人なら通詞の仕事がありますが、確かに江戸では趣味の範

   囲でしょう。では、一緒に習われてるお仲間とは」

兵馬 「それが…。彼らのほとんどが発音が悪いのです。師匠は私の発音はいいと

   褒めてくれます」

真之介「それは素晴らしいではないですか。では、もっと勉強なされて師匠を目指

   されては。兵馬殿には向いていると思います」

川原 「若殿、それがよろしいかと。そして、私にも教えてください」

兵馬 「それなら、近い内に。じゃが、私は厳しいゆえ、覚悟しておけ」

川原 「はい、かしこまりました。では、明日からでも、お願いします」

 

 その時、廊下を小走りする足音が聞こえたかとおもうと勢いよく障子が開く。


拮平 「真ちゃー、あっ。いや、あの、これは兵馬様もいらっしゃったとは、誠に

   申し訳ありません」

兵馬 「別に気にしておらぬ。いつものことではないか」

真之介「これ、ついに、兵馬殿にも言われてしまったわ」

 

 真之介は拮平も呼んでいた。

 

拮平 「真様も人が悪い。兵馬様もご一緒なら、そうと教えといてくんなま、教え

   といてくださいませよ。知ってたら、失礼のないように、履き替えの足袋の

   一足でもお持ちしましたのに」

真之介「今からでも間に合う。取りに帰るか」

拮平 「まあ、そんなぁ」

----やべっ、お芳のがうつったった。

拮平 「いえ、もうすぐ鰻がやって来るじゃないですか。帰ってたら、冷めちまい

   ますよ」

女中 「お待たせいたしました」

 

 その時、本当に鰻が焼きあがって来た。


兵馬 「拮平、さすがだな」

拮平 「ですから、足袋はこの次と言うことにしてくださいませ」

兵馬 「ほれ、輿入れ前の姉上に声をかけたと言う町人の話を知っておろう。それ

   が、こやつだ」

川原 「ああ、旦那様のご実家の隣の道楽息子ですか」

拮平 「あの、こちらは兵馬様の…」

兵馬 「初めてであったか。供の川原作左衛門だ」

拮平 「お初にお目にかかります。白田屋の拮平にございます。あの、私は決して

   道楽息子と言うのではなく、その」

真之介「さあ、挨拶はそのくらいにして、冷めないうちに」

 

 と、四人は鰻にかぶりつく。


拮平 「しかし、何ですね。鰻と言うのはいつ食べてもうまいもんですね。あの、

   にょろにょろとした気持ち悪いのがこんなにうまくなるんですから。ああ、

   そう言えば、真様。こないだ、お初さんに会いましたよ」


 お初とは真之介の乳母だった女だ。子を亡くしたお初が母を亡くした真之介の乳母となり、それこそ、ずっと一緒に過ごして来た。そのお初も真之介の結婚を機に別の道を歩き出すことになるだが、そこには相応の理由があった。


真之介「お初は元気だったか」

拮平 「元気なんてもんじゃないですよ。ものすごくきれいになってましたよ」

兵馬 「お初とは?」

真之介「私の乳母だった女です」

兵馬 「乳母。ならば、もう、若くもないのでは」

真之介「そうですね、確か四十…」

兵馬 「そんな年増が。拮平の見間違いではないのか」

拮平 「いいえ、ちゃんと挨拶もしましたから」

兵馬 「へえ、何があればその様に。はたまた拮平の目が悪くなったか」

拮平 「私は目はいいんですよ」

 

 拮平は意味ありげに笑う。これはいい機会かもしれない。真之介はお初が真之介の乳母になった経緯を話すことにした。

 十五歳で農家に嫁いだお初は翌年には男の子を出産する。ところがその子が急死してしまう。そして、その責めはお初一人に背負わされた。子供は寝ていたし側に夫と舅がいたと言っても、後継ぎを殺したと殴る蹴るの暴行を受け、ふらふらで実家へ向かうも途中で倒れ、近所の人に運び込まれる。

 それでも何とか回復したお初だったが、もう、婚家へ帰る気はなく、さりとて実家にもいられない。そして、乳の出るお初は真之介の乳母になったのだ。


真之介「ですから、せっかく男の子が生まれても、そうして亡くなることもあるの

   です。私の母は命がけで私を生み、そして、力尽きたのです。でも、赤子と

   言うのは乳がなければ育ちません。幸い、お初との巡り合わせがあったか

   ら、私はこうして生きているのです。世の中には人の力ではどうしようも出

   来ないことがあります。考えてみれば、子供が生まれるのすら奇跡の様なも

   のですし、生まれたからと言って無事に育ってくれるとは限りません」


 兵馬は少し苛立ちを覚えていた。また、説教が始まるのか…。


兵馬 「そのお初は今はどこにいるのですか。兄上の許にはいないのでしょ」

 

 と、話を元に戻そうとする。


真之介「ええ、ふみが輿入れするに当たり、久も付いてくることになりました。そ

   れに家もそれほど広くもなく、何より、久と衝突せぬかと思いまして。久は

   武家の奉公人ですが、私の親のような使用人とではそれこそ水と油です。そ

   こで、私の姉の夫の妹が料理屋に嫁いでいるのです。その妹に子が生まれる

   のでしばらく手伝いに言ってくれぬかと言いました」

兵馬 「それで」

真之介「それが、あっさり承知してくれました」

兵馬 「それは、また」

真之介「ええ、私も拍子抜けしました。私が三歳の頃に今の母が後添えとしてやっ

   てきたのですが、その時も母とあれこれあったそうです。また、私が父から

   小さな店を任されていた時も、父が倒れて実家に戻った時も、それこそ侍株

   を買った時もずっと側に居りましたので、死ぬまで私の側に居るものだとば

   かり思っていました」

拮平 「そうでしたねえ。あの頃のお初おばさんはそれこそ真様命だったのに、ど

   うしてまた、そんなにあっさりと」

 

 真之介の乳母となり、充実した日々を過ごしていたお初だったが、そこへ舅と夫がやって来た。思えば正式に離縁した訳ではなかった。それは、真之介の父が金を払って別れる事が出来た。


真之介「それで終わりではなく、その後はお初の父が、後には弟妹がやって来てま

   した」

兵馬 「それは親兄弟だから、当然のことでは」

 

 兵馬はこともなげに言う。


真之介「金の無心ですよ。それが二十年以上も続いたのですから、いい加減嫌にな

   ります。そこで、弟たちに絶対に行き先を教えないでくれ。それでもどこか

   で会う様なことがあれば、その時はきっぱりと断るからと言って出て行きま

   した」

兵馬 「良かったではないですか」

真之介「ええ、私の方も願ったり叶ったりで言うことないのですけど。お初にとっ

   てはさらに良いことが待ち受けていたようです」

兵馬 「へえ、どんなことです」

真之介「その行った先の料理屋が芝居小屋の近くで、芝居関係者、役者も店に来る

   そうです。そして、今はその役者の一人と付き合ってるそうです」

兵馬 「何と言う役者ですか」

真之介「そこまでは知りません」

 

 その時、拮平が軽く咳払いをする。


拮平 「知ってますよ」

真之介「えっ!」

 

 まさか、拮平が知っていたとは…。


真之介「誰だ!どこの何と言う役者だ。おい、早く言え!」

拮平 「まあまあ、真様よ。そうお急ぎにならなくとも。まだ、鰻が」

真之介「急ぐわ。至急、火急」

拮平 「まあ、そんなあ」

----あらぁ、またお芳になっちゃってるよ。

兵馬 「拮平、早く教えぬか」

拮平 「まあ、兵馬様まで」

 

 その間も川原はひたすら食べることに専念している。


拮平 「よろしゅうございます。それでは!お初さんの恋のお相手は、あろうこと

   か、あったのでありました」

真之介「だから、それを早く言え」

拮平 「急いてはいけません。急いては事をし損じる」

真之介「何もし損じなどせぬわ。お前と一緒にするでない」

拮平 「だから、あろうことが、あったのでありました」

 

 自分しか知らない。また、それを知りたがる者がいる。ああ、何たる至福の時…。

 この時とばかりに、じらしにかかる拮平だったが、その時、真之介が立ち上がる。


拮平 「おや、真様、いずこへ」

真之介「帰る」

拮平 「えっ。まだ、鰻が」

真之介「いや、用を思い出した。では、お先に失礼。勘定は拮平が」

拮平 「まあ、そんなあ。真様から誘っておいてえ。なんで、あちきがぁ。いや、

   その、わかりました、わかりましたから、もちっとお座りになってくんなま

   しぃ。もう、真様の意地悪!」

真之介「いつまでもその手にのると思うか」

拮平 「だからぁ、申し訳のないのくんなましのそうでありんす」

兵馬 「なんだ、それは」

 

 兵馬が笑えば、川原も思わず吹き出す。


真之介「ならば、早く言え」

----そうだった。これ以上じらすと後が恐い…。

拮平 「はい、では。発表致します!お初さんの相手は。あろうことか、あのっ、

   役者の!げっほげっほのげほほほほぉ…。ああ、苦しかった」

 

 またも、真之介に睨まれてしまう。


拮平 「はい、中村市之丞さんです」

真之介「……!?」

 

 真之介は一瞬聞き間違えたのではと思ってしまう。


兵馬 「ああ!あの時の。兄上にそっくりな夢之丞と一緒に座敷に来ていたあの役者

   か…」

拮平 「正解です。何も出ませんけど」

 

 真之介は言葉が出てこない。


拮平 「おや、やはり、真様にとっては、衝撃の告白でしたか」

真之介「それは、本当のことか…」

拮平 「本当ですったら。なんで、この私が真様に嘘など」

真之介「いや、よくあるお前の勘違い」

拮平 「そんなことはありません」

真之介「いや、それでも、信じられられぬわ。何しろ、勘違い・早とちりさせれ

   ば、この江戸でお前の右に出るものはいない。まさに天下一品。その勘違い

   のお陰で今までどれだけ迷惑被ったことか。断じて、信用できぬ」

拮平 「信用できないと言うより、信じたくないんでしょ。まあ、その気持ちはわ

   かりますけんど。自分の母親の様な女が若い役者に狂ってるなんて、思いた

   くもありませんよね。お初さん、あんなおばさん。まあ、どうなろうと私の

   知ったこっちゃありませんので、はい」

 

 今日は珍しく余裕たっぷりの拮平だった。


兵馬 「しかし、あの市之丞とはな。男と女は思案の他と言うが本当だな」

川原 「その市之丞と申す役者は若いのですか」

兵馬 「そうだな。役者の歳はわからぬからな。三十過ぎかな。拮平」

拮平 「多分、そんなところでしょ。ねえ、真様」

真之介「知るか」

 

 まさか、お初の相手がお駒の、あの市之丞だったとは…。

 

----うっふぁ。真ちゃん、動揺してるな。どうよ、この俺の爆弾発言…。これからが楽しみ。

 

 真之介は、それでも半信半疑だった。


拮平 「どう、驚いた?それともびっくらこいた?」

真之介「まあ、そう言うこともあるのだなぁ」

----まったまたぁ。無理しちゃって。

川原 「では、そのお初と言う乳母殿は、やはり、美しいのでしょうね。そんな十

   も年下の男と、だから」

拮平 「いいえ、至って、普通のおばさん」

川原 「それがそんなにきれいになるのですかね」

 

 食欲が満たされた川原の関心は女へと向かう。


拮平 「ええ。別に顔立ちが変わったとかではないのに、なんか、生き生きし

   ちゃって。女って、あんなに変わるものなんだなあって思いましたよ」

川原 「そう言えば、姫様もお美しくなられました。いえ、もともと美しい方です

   けど、以前はいつも暗い顔されてました。それが、今はぱぁっと花が咲いた

   ように明るくなられて。やはり、今がお幸せだからですね。若旦那様」


 真之介は、三浦家では、若旦那様と呼ばれている。


真之介「はあ、ありがとうございます」

川原 「女を美しくさせるのも、そうでなくするのも、男次第という訳ですか。で

   は、どのように致せばよろしいのでしょうか」

真之介「取り立ててその様なものはありません。まあ、縁あって夫婦になったので

   す。なんだかんだ言っても、二人して生きて行かなければならんのです。そ

   こは、互いに一歩ずつ譲り合えばいいのです。その気持ちがあれば、何とか

   やっていけます」

川原 「そうですか。実は私にも縁談がありまして…。それで、若旦那様ご夫婦の

   様に仲良くやりたいなと思いまして」

真之介「それは、おめでとうございます」

川原 「そうですか。一歩ずつ譲り合うのですか…」

 

 川原は兵馬をちらと見る。


兵馬 「私のところは、姉上と違って園枝がわがまますぎるのだ。一緒にするでな

   い」

川原 「奥方様も、その様におっしゃられてました」

兵馬 「なにぃ。いつ言ったのだ。それはいつのことだ」

川原 「ですから、ここで、若殿が一歩譲ればいいのでは。ねえ、若旦那様」

真之介「そのとおりです。兵馬殿が譲れば園枝殿も譲ってくれます」

兵馬 「どうして、あんな役立たずに、私が譲らなければならんのだ」

真之介「それでも一歩譲るのです」

兵馬 「どうして、男の私が譲らねばならぬのです。女が譲るのが先でしょ。譲っ

   てくれれば、こちらも譲ります。とにかくあんな役立たずに、何も譲る気

   はありません」

川原 「でも、若殿。人生先はまだ長いのですから、夫婦、親子仲良く暮らすのが

   一番ではないですか」

兵馬 「うるさい!妻もおらぬお前に何がわかる」

川原 「もうすぐ、私も妻を迎えます。仲良くやろうと思ってます。文句言って暮

   らすのも一生なら、明るく生きるのも一生ですから」

兵馬 「そんなこと言ってられるのは今のうちだ。いざ、嫁が来てみろ。うるさい

   ばかりで跡継ぎも生まぬ、はずれ嫁かもしれん」

川原 「どうしてそのように悪く言われるのです。若殿と奥方の馴れ初めは?」

兵馬 「あれはもののはずみだ。いや、行き遅れの園枝が焦っていたのだ」

川原 「それに引っかかったのですか」

兵馬 「引っかかっただと…。まあ、そんなとこだ」

川原 「でも、その時はうれしそうだったじゃないですか」

兵馬 「だから、一時の気の迷いだ。それで人生棒に振ってしまった」

真之介「何を言われるのです。兵馬殿はこれからの人ではないですか。人は誰でも

   重荷を背負っております。どうすることも出来ない重荷を女にばかり背負わ

   せるものではありません。女は命がけで子を生むのです。男であれ、女であ

   れ、人の命です。その命を慈しむ心をお持ちください。五体満足に生まれ、

   両親の仲がいいことが子供にとって一番の幸せです。それでも、一歩譲る気

   にはなられませんか」

兵馬 「はあ、まあ、そうですね」

 

 これ以上のお説教はもうたくさん…。


兵馬 「それより、拮平。お前の嫁取りの方はどうなっているのだ。そして、お芳

   とか言ったな、あの後妻」

 

 話を逸らそうとする兵馬に、自分の無力さを感じる真之介だったが、拮平が思いがけない話をする。


拮平 「私の方も相変わらず、ちっとも面白くないんで、ちょいと気分転換に寺巡

   りでもしようかなって思ってんですけど」

兵馬 「それはまた、年寄りみたいなことを」

拮平 「でも、これがたまにはいいんですよ、たまには。よろしければ、ご一緒致

   しませんか」

兵馬 「そうだなあ…」

 

 このまま家に居ても面白くない。


兵馬 「うん、行ってみるか、たまには」

 

 はたから見れば、兵馬と拮平は身分は違えど気の合う友達のようだが、最愛の祖母亡き後、よりどころを亡くしていた兵馬にとって、拮平の様に気を許せる存在が欲しかったのだろう。最初は真之介にすり寄るが、この男は思った以上に侍だった。だんだんに鬱陶しくなってきた。それに引き換え、拮平は足袋屋の呑気な息子でしかない。


兵馬 「どこの寺へ行くのだ」

拮平 「それは、朝起きた時の気分で」

兵馬 「だが、私はあまり遠くへは行けぬ。旗本は御家人と違って、余所で泊まる

   ことが出来ないのだ」

 

 と、真之介を見やりながら言う。


拮平 「それでしたら、にわかの腹痛、足をくじいたとかで帰れませんでしたなん

   て、駄目ですかね。お供の方の他に下働きの者を連れてって、その者を報告

   に帰らせる。これって、ちとまずいですか」

川原 「それは面白い。そう言う手もある。若殿、そう致しましょう。一日くらい

   大丈夫ですよ」

兵馬 「お前は連れて行かぬ」

川原 「それは駄目です。私が行かなければ大殿が承知なさいません。私は大殿か

   ら直々に、若殿の」

兵馬 「うるさい。わかったわ」

 

 舅の播馬はいい若者を兵馬の供侍にしたものだ。鰻屋を出て、兵馬たちと別れた真之介は拮平と歩く。


真之介「どこの寺へ行くのだ」

拮平 「かっぱ寺だよ。それ以外に行きたい寺なんてないよ」 

真之介「この前、かっぱ寺に行った時、坊主にこき使われたとか言ってなかった

   か」

拮平 「あれから、俺も成長したよ」

真之介「そうか。いや、私もどうしようもなくて困っておったところだ」

拮平 「あれじゃあねえ…。そりゃ、俺もいい加減なとこあるけどさ。やっぱり、

   婆さんに甘やかされるとああなっちまうのかなあ」

真之介「まだ、自分が甘えたいのに、子が出来てしまった」

 

 真之介は財布から金を取りだし、拮平に渡す。


拮平 「でも、あんまり期待しないでよ。一日や二日、寺に居たからと言ってどう

   にかなるってもんじゃないよ」

真之介「わかっておる。それくらいのことで、人が変わるのならだれも苦労はせ

   ぬ」

拮平 「でもさぁ、こうして真ちゃんと歩くのって、なんか久ぶりの感じしない」

真之介「ああ」

拮平 「明日もいい天気だね」

 

 それよりも、お初の話が衝撃だった。


----まさか、市之丞とは…。






 



































 

  

 



 






 
























 

    

  

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