第64話 背中合わせの…

 あわただしい一夜が明けた。

 それでも、白田屋は大変だった。そんな中、鼻息も荒く一番張り切っていたのが他ならぬ拮平だった。

 昨夜、例によって、腹痛を起こした拮平が夜中に厠へと向かった時、話声の様なものが聞こえた。その頃には泥棒騒ぎのことなどすっかり忘れていた拮平だが、使用人の誰かがこれまた厠へやって来たのだろうくらいに思った。

 だが、次の瞬間、揺れる影が見えた。


----ひょっとして、幽霊…。恐い…。


 臆病なくせに、恐いもの見たさの好奇心が抑えられない拮平が、影の方に近づいて行けば、月明かりの下、蔵から出て来た人影と出くわしてしまう。

 そして、あの断末魔の様な悲鳴を上げてしまう。さらに、拮平の悲鳴に呼応するかのように、小判の落ちる音が…。

 その声で店の者はもちろん、隣の本田屋のこの度はお伸の警護ではなく、夜警として雇われた浪人者までが何事かと駆けつけて来る。当然、まだ、警戒態勢を解いてない岡っ引きや役人もやって来たのだが、皆、気を失っている拮平より、夜目にも光る散らばった小判に目が行ってしまう。

 そこには、口の開いた千両箱と小判が散乱していた。やがて、二人の泥棒が捕まる。

 取り調べの結果、蔵の中に入り、最初に千両箱を抱えた男が蔵から出た時、夜をかぎ裂くような拮平の悲鳴に驚いた男が思わず千両箱を落としてしまう。実はその千両箱は中身が半分ほどしか入ってなく、また、鍵も掛けてなかった。それで、落とすと同時に小判が散らばったと言う訳だ。

 パニくった泥棒二人はそれでも小判をかき集め懐に入れるも、逃走中に何枚か落としてしまう。取り敢えずは小判を回収するも、白田屋嘉平の申告額よりは、五十両ほど不足していた。

 だが、いくら泥棒が逃げたであろう道を探しても一両の小判すら見つからなかった。さすがにこれはおかしいと嘉平を問い詰める。


役人 「さては、税金逃れか!」

嘉平 「申し訳ございません。つい、見栄を張りまして…。でも、五両足りませ

   ん。これは、本当でございます」


 肝心の拮平だが、気が付くと同時に厠に飛び込みしばらく出て来ないのだ。


手代 「あれっ、一人いません」

 

 白田屋には小僧は五人いたが、そのうちの一人の姿が見えないのだ。まだ、子供なので、恐がってどこかに隠れているのではないかと探してみるも、どこにも見当たらない。

 やがて、厠から出て来た拮平をお芳が睨みつける。


お芳 「ちゃんと、手ぇ洗ったかい!」

拮平 「洗ったわ!」

お芳 「お役人様の前でみっともない!」

拮平 「何言ってんだい!泥棒捕まえてやったんじゃないか!」

お芳 「腰抜かしたくせに、大きなこと言うんじゃないよ!」

拮平 「何だと!」

嘉平 「これ、二人とも、それこそお役人様の前ですよ」

----何さ!自分は余計な見栄張ったくせに!


 これは、拮平、お芳のみならず、そこにいた全員が思っていることだった。

 しかし、これが、あの有名な白田屋の同い年の義母と息子の喧嘩なのかと、役人達は笑いをこらえるのに必死だった。

 そして、わかったことはこの二人の泥棒を手引きしたのは、何と姿を消した小僧だった。さらに、捕まった泥棒二人も共に十七歳と言う若さであり、この三人は同郷だった。何をやっても長続きしない十七歳の二人が江戸に出て来て、偶然に小僧と出会う。


小僧 「大旦那は若い嫁に鼻の下伸ばしてる。嫁は金使いが荒い。若旦那は至って

   呑気。女中達は気が強い。店の者は意地が悪い」

 

 そして、小僧は極めつけを言う。


小僧 「蔵の鍵の在り処知ってる」

 

 その言葉に俄然色めき立つ二人の若者。そして、小僧の手引きで蔵に入って見れば、千両箱が一つあった。もっとあるかと思ったが、取り敢えずは千両箱を抱え、蔵を出た時だった。とんでもない叫び声に驚き、思わず持っていた千両箱を落としてしまう。

 千両箱の材質は檜か松。縦40㎝、横14.5㎝、深さ12.3㎝、重さ15kg以上と言うものだが、何しろ、泥棒も始めてなら千両箱を見たのも初めて。抱えただけで天にも昇る気持だった。千両箱の重さや中で金が動いたことなどに気が回る筈もなかった。

 どうやら、小僧はそのどさくさで逃げだしたようだが、雇って三月、九歳の頭の良くなさそうな少年がどうして鍵の在りかを知ったのか、そのことに衝撃を受けてしまう。

 だが、二人の泥棒に言わせれば、目端が利くくせに馬鹿な振りをするのがうまい少年だった。だから、年上の二人がその話に乗ってしまったと言う。さらに、別に仲間はいないと言う。妙な白猫騒ぎの事も知らない…。

 泥棒を捕まえた役人は一件落着かもしれないが、被害にあった白田屋には様々な修羅場が待っていた。 

 ここのところ、ずっとブルーな二人のうちの一人…。

 人は勝手なことしか言わない。泥棒に入られて、その被害が五両で済んだのなら良かったではないか、逆に儲かったようなものだ。五両なんて、白田屋にとっては、子供の小遣いのようなもの痛くもかゆくもない。

 冗談じゃない!

 当の嘉平にすれば、五両は大金であり何事もなければ、そのまま財布に入れたであろう金なのだ。


----人の金だと思いやがって…。


 それだけではない。身から出たサビとはいえ、つい、見栄を張ったばかりに役人に袖の下を渡す始末。いや、それだけではない。下っ端役人たちは実地検証とかで、ずかずかと庭を踏み荒らし、この庭を元通りにするのにいくらかかると思ってるんだ。さらに、食事まで提供しなければならない。

 さらにさらに、新参者とはいえ、店の者の中に引き込み役がいた。それも、あんな子供が…。

 その子供が、こともあろうに主人つかまえて、若い嫁に鼻の下を伸ばしているだとか。確かに、舞い上がっていた時期もあるが、お芳が輿入れしてからはそれほどのことはない、普通の新婚夫婦だった。それをあんな、うすのろガキからなめられてしまうとは…。また、それがお芳の親戚の知り合いの何のかんのと言うのだから、余計に気分が悪い。別に、お芳の責任と言う訳ではないが、何にしても気が重い…。


----こんな時は、パアッと…。


 憂さ晴らした方がいいかもしれないと思った時。 


拮平 「おとっつぁん」

----また、調子こきに来やがった。

 

 そうなのだ、あの夜、悲鳴上げて気を失っていただけなのに、結果的にそれで泥棒が捕まったのだからいいようなものだが、それをまるで自分が捕まえた、いや、役人呼んだ、五両で済んだのは俺のお陰とまるでヒーロー気取りである。


嘉平 「何だい」

 

 どうやら、まだ、言い足りないと見える。


拮平 「あのさ、少しは元気お出しよ」

嘉平 「もう、大丈夫だよ。私だっていつまでもくよくよなんかしてないよ」

拮平 「だからさ、ここらで一つ、厄払いと行かない?」

 

 親子は考えてることまで同じだっだ。


嘉平 「そんな金、どこにあんのさ。ああ、あの五両が戻ってくれば、それで行こ

   うじゃないか」

拮平 「そんなこと言ってるようじゃ、まだ、くよくよしてると思われるよ。商人

   なんだからさ、こんなときこそ、パアってやらないと」

 

 どこまでも、同じ思いの親子だった。


拮平 「あの五両だって、宣伝費だと思えば安いもんじゃない」

嘉平 「思ってるさ。だから、それでいいじゃないか」

拮平 「そこを、もうひと押し!」

嘉平 「庭の修理代もあるんだよ」

拮平 「あんなのは、女中達にやらせりゃいいんですよ。宣伝と言うものは、家の

   中でやったって何にもならない。あっ、こりゃ、釈迦に説法でしたね。とに

   かく、こう言う時こそ、外に向かってやるのが本当の商人と言うもんで

   しょ。隣を御覧なさいな。何だかんだの話題に事欠かないでしょ。真ちゃん

   が侍になって、旗本の娘もらって、どんだけ金使ったと思ってんの。その

   後、善ちゃんが商売いやだと言い出したものだから、お伸ちゃんに婿娶るこ

   とだって。これ、全部、皆、すべて、宣伝になってんじゃん。だから、どう

   よ、常にあの繁盛ぶり。うちのお芳さんだって、すっかりのせられちゃって

   散々使いまくってるじゃない」

 

 言われてみれば、その通りかもしれない。


拮平 「こう言う時は、静奴でも呼んで、パアっとやるの。パアっとね。静奴はあ

   の通りのおしゃべりだから、あちこちで触れまわってくれるよ」

 

 確かに、静奴は座持ちのうまい芸者だが、真之介に岡惚れしているのも気に入らない。どうせなら、泥棒は隣に入ってくれたらと思わずにはいられない嘉平だった。


嘉平 「わかったよ。けど、今日はその気にならないんでね」

拮平 「あら、善は急げっていいますよ」


 今は、その善と言う言葉すら、隣の善之介を連想してしまう…。


嘉平 「明日になれば…」

拮平 「じゃ、明日。久しぶりに親子で盛り上がろうじゃございませんか。あら、

   はいはいっとね」

 

 拮平は浮き浮き顔で部屋を出て行った。 


----結局、自分が遊びたいだけなんじゃ…。


 翌日、嘉平が店に出て見れば、そこには満面の笑みで接客している拮平がいた。


----また、自慢話か…。


嘉平 「いらっしゃいませ」

客  「これは、大旦那。この度は大変でしたねえ」

嘉平 「ええ、お陰さまで」

客  「でも、若旦那がしっかりなさってるんで、この店も安心ですね」

嘉平 「ええ、お陰さまで」

 

 嘉平が客に話を合わせている側の拮平の得意顔がこの上なくうざい。


嘉平 「息子もやっと、目が覚めた様でして、いや、ここまで長かったですから。

   ええ、ようやく。これで、肩の荷が、降りてくれればいいんですけど」

 

 褒められたのか貶されたのか、よくわからないままの拮平だった。それでも、午後になると、商売そっちのけでそわそわしだす。


拮平 「ねえねえ、おとっつぁん、何、着て行くの、おせーて。一緒に行くんだか

   らさ、合わせるってほどではないにしても、あまりちぐはぐにならない方が

   いいと思うんだけどさあ」

嘉平 「今日は行かないよ」

拮平 「えっ、昨日、明日にしようって言ったじゃない」

嘉平 「別に、行くとは言ってないさ。明日ねって言ったまでだよ」

拮平 「じゃ、今日じゃなくて、明日になった訳?」

嘉平 「明日も行かない、明後日も行かない」

拮平 「どうしてさ、話が違うじゃない。これはさ、単なる遊びじゃなくて宣伝活

   動なんだから。早い方がいいよ」

嘉平 「いや、今は緊縮財政で締めてかかることにしたからさ」 

拮平 「いや、宣伝と言うものはさ」

嘉平 「何も金をかけるばかりが宣伝じゃないと今朝気が付いたんだよ。ほら、お

   前が客に泥棒退治の話をしてただろ。それ見て、私は感心したのさ。こう言

   う宣伝活動もあるんだなって。だから、私もお前のこと、持ちあげといただ

   ろ」

拮平 「えっ、あれって、アゲ?サゲ見たいな…」

嘉平 「物事をそう悪く取ってはいけないよ。これからは、互いにアゲアゲでやろ

   うじゃないか」

拮平 「まあ…。それより、今夜、どうすんの」

嘉平 「だから、緊縮財政だって。そんなに行きたきゃ、隣の真之介にでも連れ

   てってもらいな」

拮平 「それなら」

 

 と、手を出す。


嘉平 「何だい、それは。今、緊縮財政で締められるとこは、締めるのさ」

拮平 「あっ、そう。じゃ、何かい。嫁にゃダダ漏れの五百両も使わせといて、息

   子にゃ、泥棒追っ払った息子にゃ、ビタ一文使えないってのかい」

嘉平 「誰が五百両も使ったって」

拮平 「後妻に決まってんじゃないか」

嘉平 「ははぁ…」

 

 どうやら、拮平は元は千両有ったのに、今は五百両しかない。それはすべてお芳のために使ってしまったと思っているようだ。


嘉平 「確かに、昔は千両有ったよ。昔はさ。でもさ、色々あって。そりゃ、お芳

   のためにも使ったけど、お前だって一時期、遊んでたじゃないか」

拮平 「あれは、真ちゃんと…。そんなことより、この度の俺の働きに対して、少

   しは報いてくれてもいいんじゃないの。どこかの…」

----危ねっ。 


 うっかり、鼻の下の長いと言うところだった。


嘉平 「だから、どこかの真之介に連れてってもらいなって言ってるだろ。あると

   ころにゃあんだからさ。うまくおだててアゲて」

 

 と、全く話を受け付けない。それより、お芳の事が気になる嘉平だった。

 泥棒騒ぎ以降、食欲もなくほとんど自分の部屋から出て来ない。気になって部屋に行って見れば、なんと、布団を敷いて横になっているではないか。


嘉平 「お芳、大丈夫かい」

お菊 「頭痛がされるそうです」

嘉平 「それなら、早く薬を。どうしてもっと早く言わないんだ。お菊もお菊だ

   よ、何をぼんやりと」

お芳 「いえ、お菊が悪いんじゃないんですよ。私が寝てりゃ治るからって言った

   んですから」

嘉平 「お芳…」

お芳 「ええ、もう、大丈夫です」

 

 と、お芳は起きようとするが、何か力が入らないようだった。


嘉平 「いいよ、起きなくても。無理すんじゃないよ。それより、お菊、置き薬に

   頭痛薬あっただろ、早く持っといで」

お菊 「はあい」

 

 と、お菊はけだるそうに立ち上がる。


お芳 「お前さん、大丈夫ですから、本当に寝てりゃ治りますから。そっとしとい

   て下さいな」

嘉平 「そうかい」

 

 嘉平は今夜、拮平と出かけなくて良かったと思った。


嘉平 「何か、食べたいものは」

お芳 「いえ、別に」

嘉平 「そうだ、卵好きだろ。今夜は卵粥を作ろうか」

お芳 「いや、そんな、いけませんよ。私のせいで五両損したんですから、そんな

   高い物なんて食べられませんよ」

嘉平 「お前のせいじゃないよ」

お芳 「いいえ、私があんな小僧を…」

嘉平 「それは済んだことだよ。何より、みんな無事じゃないか。だから、何も気

   にしないで、早く元気になっとくれ。お前が元気でいてくれなきゃ、この家

   は夜は明かりが消え、昼は花が枯れたようだよ」

お芳 「まあ、そんなぁ…」

 

 そして、嘉平が部屋を出て行くと、お芳は半身を起こす。


お芳 「やれやれ…」


  別に頭痛がするわけではない。あれはお菊が咄嗟にそう言ったのだ。そんなことはどうでもいい。だが、力が抜けてしまったのだ。


----まさか、まさか。五百両とは…。


 泥棒が入って持ち出した千両箱には五百両しか入ってなかった。また、千両箱はそれだけだと言う…。


----これが嘆かずにはおらりょうか…。


 別に何万両もあると思って嫁に来た訳ではないが、少なくとも二、三千両はあると思っていた。

 それなのに、五百両しかないとは…。

 それでは、嘉平の死後、自分はどうなってしまうのだ。嘉平には長生きしてほしいけど、ある日、突然別れがやって来るかも知れない。それに引き替え自分はまだ先の長い身。五百両でも不安なのに、あの拮平のことだ。わずかの金で追い出すに決まっている…。


----どうしよう。どうすればいい…。


 その時、廊下を走る足音。


お菊 「ご新造様」

お芳 「うるさいよ、家の中で走るんじゃないと何度言ったらわかるんだい」

お菊 「はあい、すみません。でも、今夜卵だそうですね。それで、つい…」

お芳 「ああ、私、お粥嫌いだから」

お菊 「では、卵は」

お芳 「ご飯にかけて食べるから、お熊にそう伝えて。旦那様の分もね」

お菊 「では、私の…」

お芳 「えっ、何か言った」

 

 先ほどまでの元気のないお芳はどこへやら、そこにいたのはいつものお芳だった。


お芳 「さあ、いつまでもくよくよしてられない。着替え手伝って」

お菊 「は~い」

 

 卵粥のおこぼれの当てが外れたお菊だった。

 その夜、お芳は卵かけご飯を食べながら、実家に帰りたいと言った。


嘉平 「そうだね、たまにはゆっくりしておいで」 

 

 そして、実家で一泊したお芳は母からの手土産を差し出しながら、それとなく言ってみる。


お芳 「お前さん、私も白田屋に来てから大分経ちましたので、そろそろ家の内情

   も知りたいと思いまして…」

嘉平 「いや、内情も何も、これだけのものだよ。まあ、お前にゃ、不満かもしれ

   ないけど、そこそこ不自由はさせてないつもりだけど」

お芳 「ええ、それはもう…。いえね、これでもちょっと使いすぎたかなって、反

   省してるんでよ」

嘉平 「それはまた、いい心がけじゃないか」

お芳 「そんな反省も踏まえて、もっと、この家のことを良く知っておかねばと思

   いまして」

嘉平 「それで、何が望みなんだい」

 

 核心を突かれたかのように、お芳は一瞬ぎくりとする。


お芳 「こうなったら、何もかも知りたいと思いましてね。その、蔵の中の事も

   知っておきたいんですよ」

嘉平 「そうかい、それは構わないよ」

 

 あっさりと承諾する嘉平に驚きを隠せないお芳だった。


----こんなに、簡単とは…。


お芳 「では、鍵を下さいな」

 

 あの泥棒騒ぎ以来、蔵の鍵は嘉平が持ち、寝るときは布団の下に敷いていた。


嘉平 「その前に、拮平からも貰っといで」

お芳 「拮平から?」

嘉平 「ああ、今ね、蔵の鍵は二つにしたんだよ。で、一つは拮平が」

お芳 「まあ、そんなあ…」

 

 と、冷静でいられなくなったお芳だった。


お芳 「いつ、そんなことを。私に黙って、鍵を二つにするなんて、一体、どう言

   う了見なんです!」

嘉平 「どう言う了見も何もありゃしないよ。お前が実家に帰ってる間に、拮平が

   さ、そうしようって。いい案じゃないか」

お芳 「そんな、そんなあ。それなら、どうして、私が戻ってくるまで待ってくれ

   なかったのよ!」

嘉平 「拮平が、善は急げって言うもんだから」

お芳 「そんな、拮平拮平って、随分と拮平の言うこと聞いてさ!私にゃ何の相談も

   なく、そんなこと決めるなんて。ああ、そうですか、やっぱり後入りじゃ信

   用出来ないんですか。お前さん、あの時、お前さん私に何と言いました。こ

   れからは何でもお前と二人相談し合って行くからと言ったじゃないですか!

   よもや、忘れたとは言わせませんよ!それをぉ」

嘉平 「そりゃ、言ったけどさ。別に悪い話じゃないし、用心に越したことはな

   い。錠前を二つにするなんて、拮平にしてはよく思いついたものだ。だけ

   ど、それを何をそんなに怒ってんだよ」

 

 どうせ、真之介が入知恵したに決まっている。


お芳 「これが怒らずにいられますかってんだ!それならさ、その鍵、どうして私に

   持たせてくれないんですか!全く…」 

 

 お芳が実家に帰った日、拮平が真剣な顔でやって来た。


拮平 「おとっつぁん、俺、考えたんだけどさ」

嘉平 「何を」

 

 この時は、またろくでもないことを言いだすのだろうと思っていた。


拮平 「あの、蔵の事なんだけど。今までは鍵入れの一番奥に入れてたんで、あん

   な小僧に見つけられてしまったじゃない。それで、今はおとっつぁんが常に

   持ち歩いているし、夜は布団の下に敷いてんだよね」

嘉平 「そうだけど」

拮平 「それでさあ、その、蔵にもう一つ錠前付けない?そして、その鍵はあたし

   が持ってるっての、どう?やはりさ、泥棒って、鍵の多いとこは嫌うそうだ

   よ。だから、今度は鍵を二つ付けたってあちこちで言っときゃ、泥棒に狙わ

   れないで済むって訳だよ。ねっ、いいと思わない」

嘉平 「うーん、確かに…」

拮平 「それでも心配なら、蔵の周囲に鳴子を付けようじゃない。夜って静かだか

   ら、ちょっとした音でも響くよ。どう、いいと思わない。まあ、鳴子はとも

   かく、錠前増やすのは絶対にアリだよ」

嘉平 「そうだなあ…。お前、今日は中々いいこと言うじゃないか。どうして、

   もっと早くその事に気が付かなかったんだろうねえ」

拮平 「そりゃ、何てたって、おとっつぁんは白田屋の主人だからさ。後始末とか

   なんかで色々あってさ、そこまで気が回らなかっただけだよ」

嘉平 「お前、本当に、今日はどうしたんだい。さては…」

拮平 「さてもお手もないよ。この美声で泥棒追っ払ったの、誰でしたっけ」

嘉平 「それより、早速に錠前付けようじゃないか。誰かに言って、錠前屋に行か

   せな」

拮平 「実は、もう、呼んであんの」

嘉平 「何だい、随分手回しのいいこと」

拮平 「善は急げですからね」

 

 と、早速に錠前が取り付けられ、その鍵は拮平が持つことになったと言う訳だ。


----こんなんなら、実家に帰るんじゃなかった…。


 お芳は悔やまれてならない。だが、その時はこの白田屋に五百両の金しかないと知ってショックだった。こう言う時はやはり頼りになるのは実家しかない。

 お芳の実家には両親と祖母、兄夫婦がいた。そして、皆一様に白田屋に五百両の金しかなかったことに落胆する。


お芳 「どうしよう…」

兄嫁 「それは、こうなったら、もう、へそくりするしかありません」

 

 口火を切ったのは兄嫁だった。


兄嫁 「そのためには、まず、その蔵の中を徹底的に調べて、書画骨董の類の価値

   も知ることです」

お芳 「そうね、言われてみれば…。今までは金があると思ってたから、あんな

   埃っぽい蔵の中のことなんか興味なかったけど。でも、今は蔵の鍵は嘉平

   が肌身離さず、寝るときは布団の下に敷いてるから、まあ、手には入れやす

   いけど」

兄嫁 「そう言うのではなく、私も少し使いすぎた、反省してるとか言って、この

   家のことをもっとよく知りたいからとか言って鍵をもらうのです。ええ、わ

   かってますよ。お芳さんがそんな人でないことは、でも、こう言う時は下手

   に出た方がいいんですよ。その後で、今度は帳簿を確認するのです。ひょっ

   としたら、裏帳簿なんかあったりして」

お芳 「まさか、裏帳簿だなんて…」

兄  「いや、それはありうる事だよ、お芳。あれくらいの店なら、やってて当然

   だよ。つまりさ、どこもやってるってことだよ。うちに来る患者の中にもそ

   んな商人がいてさ。そりゃ、はっきりとは言わないけど、それくらいわかる

   さ」

兄嫁 「でもね、焦っちゃ駄目ですよ。いいですか」

 

 兄嫁は必死だった。わがままで金使いの荒い小姑が、金持ちの男をつかまえてやっと嫁に行ったと思ったら、今度は思ったほど資産がなくて、ひょっとしてそんなことで出戻って来られたのでは堪ったものではない。

 その後、散々入れ知恵されたお芳だったが、最後に祖母に凄まれる。


祖母 「いいかい、お芳。男から、金を毟り取るくらいの根性持たなきゃ、駄目だ

   よ」

 

 そんなこんなですっかり、戦闘モード全開で帰って来たというのに、敵もサルもので、先ずはこちらが引っかかれてしまった。だが、このまま引き下がってなるものかと、お芳は気持ちを引き締める。先ずは拮平を呼びださなければいけない。


お菊 「若旦那、部屋にはいません」

お芳 「部屋にいなきゃ、その当たり探してみな。それくらい気が効かないのか

   ねぇ。もういいよ、私が探すから、ここ、片しといて」

お菊 「はあい」

お芳 「お菊、お前はいつも返事が長いね」

お菊 「はい」

 

 取り敢えず庭に出てみれば、何とそこには拮平がいるではないか。


お里 「若旦那、もう、くたびれました」

拮平 「子供が何を言ってんだい。くたびれるなんて、十年早いよ」

お里 「子供でもくたびれる時はくたびれますったら」

 

 拮平とお里は、捜査で踏み荒らされた庭の手入れをしていた。


----へえ、珍しいことしてんじゃない。明日、雨が降らなきゃいいけど。


 だが、間違ってもそんなことを言ってはいけない。


お芳 「まあ、感心だ事。少しは休んだら」

 

 これには、拮平もお里も驚いてしまう。あのお芳の口から、ねぎらいの言葉が出るとは…。


拮平 「これは、おっかさん。何か御用ですか」

 

 拮平が帯に挟んでいた裾を引けば、お里は、これで今日の作業は終りと期待する。


お芳 「いえね、私もおとっつぁんから、蔵の中の整理を頼まれたもので。聞け

   ば、錠前が二つになって、その一つをお前が持ってるそうじゃないか。だか

   ら、その鍵を渡して」

拮平 「ええ、私もここに持ってますけど、ちょうど良かった。では、一緒に中へ

   入って整理しますか」

お芳 「えっ、どうして、私がお前と一緒に入らなきゃいけないの」

拮平 「あっ、そうでしたね、私だって、誤解されたくないですから」

 

 いつもなら、それはこっちの台詞だと言い返すお芳だが、今はそれも控えなくてはならない。何と言っても、拮平はもう一つの鍵を持っているのだ。


拮平 「お里、皆呼んどいで」

お里 「はぁい」

 

 お里は元気よく駆けて行く。


お芳 「皆って?」

拮平 「皆は、皆ですよ」

 

 すぐに女中達が集まって来る。その中には片付けの終えたお菊もいた。


拮平 「あら、こりゃまた、今日は特にきれいなお姉さん方。どうしよう、僕、

   困ってしまう」

お熊 「若旦那、呼びだしといて、何が困るんですか」

拮平 「それが、今から、皆して、蔵の中に入んの。それでさ、男は僕一人。襲わ

   れたらどうしよう。襲っちゃやーよ」

お熊 「まあ、そう言うことでしたの。それはさぞ、ご期待なさってるでしょうか

   ら、皆して若旦那を襲って差し上げましょうよ」

女中1「はあい!」

女中2「以下、右も左も全部まとめて、はあい」

女中3「では、どこから」

女中1「脇の下から手を入れて、こちょこちょ」

女中2「もっと下よ」

女中1「足袋脱がして、足の裏こちょこちょ」

女中3「もっと上よ」

女中1「ええっ」

女中2「いやあぁぁ」

女中3「まあ、そんなあ」

お芳 「お黙り!」

 

 キャッキャッと騒ぐ女中達に、お芳のきつい一声が浴びせられる。  


お芳 「何、ふざけてんだい!私はさあ、大事なご用で蔵の中に入るんだからさ。

   早く、鍵!」

拮平 「わかりました。では」

 

 と、拮平は財布の中から蔵の鍵を取り出し、自ら錠前に差し込む。


拮平 「さっ、どうぞ、開きましたよ」

 

 お芳はとっさに言葉が出ない。まさか拮平が目の前で鍵を開けるとは思わなかった。


拮平 「おや、どうされたんですか。おとっつぁんから鍵、預かってんでしょ」

 

 嘉平は拮平から鍵をもらって来るようにと言った。つまり、お芳は鍵を持ってないのだ。


拮平 「あらっ、入らないんですか。それとも、鍵もらってないとか」

お芳 「だから、その鍵を貸して」

拮平 「もう、仕舞っちゃいましたよ」

お芳 「いいから、鍵を早く!」

拮平 「だから、私の分は開いてるじゃないですか。後はおっかさんがもう一つの

   鍵穴に鍵を入れればいいだけじゃないですか」

 

 お芳は黙って去って行く。お菊が後を追う。


お熊 「若旦那、何です、あれ」

拮平 「さあ」

お熊 「で、蔵の中の話、これからどうなるんですか」

拮平 「鍵一つしかないから、また、今度ってことじゃない」

女中1「あら、残念でしたわね、若旦那」

女中2「何よ、あんたの方が残念じゃないの」

女中3「そう言うあんたの方こそ」

女中1「どっちもどっちでしょ」

拮平 「もう、その話は、お止し!」

 

 お芳の前では絶対言わない、言えない言葉を拮平が言い、皆して大笑いしていた時、再びお芳が今度は嘉平と一緒にやって来た。

 これから起きるであろうことに、思わず胸弾ませる女中達だった。


お芳 「ねっ、お前さん、この通りよ」

 

 錠前が一つ開いているのを見た嘉平は自分も鍵を取り出し、お芳に渡す。錠前を開けたお芳に続いて嘉平、拮平と蔵の中に入って行く。


嘉平 「あっ、お菊、それから他の者も、ここはいいから早く仕事しな」

 

 と、嘉平に追い払われてしまう。女中達は渋々引き下がるしかなかった。ただ、お里は植木の近くに隠れることを身振りで伝える。

 蔵の中では、拮平とお芳が嘉平から説明を受けていた。蔵とは火災避けの建物だから、火事で焼失しては困る貴重品が収納されている。


嘉平 「まあ、うちはざっとこんなものだよ」

 

 と、言われてもお芳にはそれぞれの価値がどのくらい物であるのかよくわからない。


----黙ってるけど、拮平にはわかってるんだろうか…。


 その夜、お芳と嘉平は背中合わせに寝ていた。


-----こうなったら、次は、裏帳簿か。それにしても、拮平の奴、錠前を二つにするなんて…。そっか、真之介か。あの、半士半商のにわか武士め!


 考えれば考えるほど眠れないお芳だったが、一方の嘉平は忌々しいほどに気持ちよく眠っている。

 翌日、少し朝寝したものの、お芳は行動を開始する。だが、驚いたのは使用人たちだ。今まで店に出ることなどなかったお芳がやって来たのだ。


お芳 「番頭さん、帳簿を見せて頂けませんか」

 

 それでも、お芳にすれば低姿勢で言った。


番頭 「これはまた、藪から棒に、どうなされたのですか、ご新造様」

お芳 「いえ、私も今まで呑気過ぎたのを反省しましてね。少しはお店の事も知ら

   なくてはと思いまして」

番頭 「それは、お心がけの良いことで。でも、いきなり帳簿と申されましても」

お芳 「店が儲かっているのか、損しているのか知らなくては、大根一本買うの

   だって考えなくちゃいけませんから」

----今まで散々使って来たくせに、大根一本の値段、知ってんのかい。


 そんなことはおくびにも出さず、番頭はあっさりと帳簿を差し出す。お芳はさっそく開いて見るもすぐに呑み込める筈もなく、それでも頁をめくっていたが、すぐに取り上げられてしまう。


番頭 「ご新造様、ちょっとお貸し願います」

 

 番頭が何やら書き込み、そして、手代に何か指図をする。さらに、もう一人の番頭がやって来たりと居心地の悪いお芳だったがそれでも粘り、再び帳簿を手にする。


番頭 「おわかりになられましたか。はい、今のところ、お店としては損はしてお

   りませんけど、それくらいの儲けでは…。でも、ご新造様が節約なされると

   おっしゃるなら、私達も今以上に頑張らねば、はい」

 

 要はお芳にそこに居座られては邪魔だと言っているのだ。


----そこそこ儲かってるとしたら、裏帳簿は…。


  その後もあれこれ探りを入れるてみるも何もわからないどころか、逆に番頭から叱責されてしまう。


番頭 「ご新造様。その様なこと、罷り間違っても口になさいませんように。

   うっかりお役人の耳に入れば、それこそ痛くもない腹を探られてしまいま

   す。それから、これはきっぱり申し上げておきますけど、よそのお店はいざ

   知らず、この白田屋にその様なものはございません!」

----番頭のくせに、私を馬鹿にして…。

 

 お芳は泣いて嘉平に訴える。


嘉平 「お芳、お前が店のことを気にしてくれる気持ちはわかるけど、それなら、

   どうしてもっと奥内のことをやってくれないのかね。そりゃ、拮平にも悪い

   とこはあるよ。それは親の私が一番よく知ってるさ。だけど、お前にも歩み

   寄りが足りないと思わないかい。それから、女中や小僧たちの話を聞いてや

   るとか、もっと、そっちの方に気を使ってくれないかね。それもやりたくな

   いなら、店の事にも首を突っ込まないでくれよ。昨日今日の人間が帳簿見

   たって何もわかりゃしない。商売ってそんな簡単なもんじゃないんだから

   さ」

お芳 「でも、だって」

嘉平 「ああ、それなら、これからは私が少しずつ教えてあげるよ。それでいいだ

   ろ」

 

 何か、良い様に言いくるめられたような気がしないでもなかったが、所詮は素人の悲しさ、それ以上は何も出来ない。  

 お芳はまたも実家へ帰る。


お芳 「もう、私には何も教えてくれないんだから」

兄嫁 「どこの家でも、最初はそんなものですよ。それで、蔵の中の物は?」

 

 と、兄嫁が皮肉たっぷりに言う。


お芳 「だから、何もわからないって言ってるじゃない!わからない言葉並べられる

   ばっかりで」

兄嫁 「わからなければわからないで、どうして紙にでも書いて来なかったんです

   か」

お芳 「それじゃ、姉さんは書画骨董の価値がわかるとでも」

兄嫁 「ええ、少しは…。ああ、私の身内にはちょっと詳しい人もいるので」

お芳 「そんなこと、どうして先に言ってくれないの!」

兄嫁 「ああ、そうでしたか、それは悪うございましたね。でも、頭のいいお芳さ

   んの事だから、価値はわからなくとも、紙に書いて持って来るだろうと

   思ってましたので」

 

 大工の棟梁の娘だった兄嫁が町医者に嫁いで来たのだから、治療や薬の知識に乏しいことは知っているくせに、そのことを散々あげつらい、自分には医学の知識があり、計算も早いの、漢字もたくさん知っているのと散々自慢したではないか。


祖母 「お前も苦労するねぇ」

お芳 「お婆ちゃん…」 

 

 どこが苦労なものか、金目当ての結婚のくせに、それが思ったほどではなかったと不満を言いに帰って来ただけではないかと、兄嫁は心の中で毒付いていた。

 その後のお芳は、せめて蔵の中くらいは把握しておこうとするも思うように捗らず、苛々を募らせる。

 だが、蔵の中に関心があるのはお芳だけではなかった。







 














 



























































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