第65話 探し物は何ですか

真之介「どこからか情報があったそうですね。どのような情報でしたか、差し支え

   のない範囲でよろしいので、お聞かせ願えないでしょうか」

同心 「ああ、あれですか」

 

 町を巡回中の同心と会った真之介は、この前目明しが言っていた情報について聞いてみた。


同心 「投げ文があったのです」

真之介「投げ文ですか」 

同心 「まあ、こう言うものには得てしてガセも多いのですけど、妙に信憑性があり

   まして、おそらく、盗賊の仲間を抜けた者ではないかと思われます。それで、

   警戒してたのですけど、例の白田屋の泥棒騒ぎがありまして。これで、盗賊も

   しばらく成りを潜めるのではと思っていましたが、あの泥棒騒ぎは撒き餌の

   ようなもので、狙いは別のところにあったようです」

 

 ちょっとした騒動があれば、皆の関心はそちらへ向いてしまう。その間に本命をと言う計画を最初から立てていたのではないかと言うのだ。


真之介「そうでしたか、それはお忙しいところをお引き留め致しまして申し訳ない

   ことで。喉が渇いた時にはいつでも実家の方にお立ち寄りください。渋茶く

   らいはお出しいたします」

同心 「これはかたじけない。その節には饅頭持参で行くとしますか。さすれば、

   山吹色の茶が出るやもしれぬで」

真之介「あいにく、山吹の季節は過ぎております」

同心 「では、来年の楽しみと言うことで」

 

 ここで言う、山吹の茶とは小判のことである。そんな冗談を言い合って同心と別れた真之介が帰宅すれば、すぐには誰も出迎えに来ない。


忠助 「旦那様のお帰りですよ」

 

 忠助の声に慌ててお房がバツの悪そうな顔で出迎える。


お房 「お帰りなさいませ。うふふ…」

真之介「奥方は」

お房 「それが、その…」

真之介「その、どうかなされたのか?」

お房 「その、ちょっと」

真之介「だから、何だ」


 先日まではお伸がいたが、泥棒騒ぎも治まったので今は自宅に帰っている。


お房 「あの、捜し物を…」

 

 ふみが何を探していると言うのだ。

 だが、部屋にはふみも久もいない。


真之介「どこで、何を探しているのか」

お房 「あ、あの、蔵の方へ…」

真之介「蔵?」

 

 庭の隅の方に申し訳程度の蔵がある。


真之介「この家の蔵など、泥棒も見向きもせぬに」


 真之介は蔵へと向かう。


真之介「捜し物は見つかりましたかな」

 

 その声に、ふみと久は驚いてしまう。


久  「まあ、これは、お帰りになられていたとは」

ふみ 「お出迎えも致しませんで、申し訳ございません」

真之介「それより、この様な埃っぽいところで何を捜しておられる。とにかく、外

   へ」

 

 ふみと久が蔵を出ると、さすがに陽がまぶしい。


真之介「だから、何を捜しに」

ふみ 「いえ、あの……」

久  「実は…」

真之介「さては、千両箱でもあるかとお思いで?」

久  「申し訳ございません、私が千両箱と言うものを見たことがないもので、一

   度見てみたいと奥方様に申し上げたものですから」

ふみ 「いえ、私も見たことがないので、一目見たかっただけなのです。本当に見る

   だけで…」

真之介「それで、ありましたかな」

ふみ 「いいえ。でも、どうしてですの」

真之介「御家人の家に千両箱などあるか」

 

 鍵は忠助に任せ部屋に戻れば、お房がいいタイミングで茶を運んで来る。


真之介「また、何を急に思い立って千両箱などと、大名でもあるまいにその様なも

   のがある筈もないわ」

久  「はい、でも、こちらならおありになるのではと…」

真之介「はぁ、あの雪江殿か」

久  「はい、もう、お見えになられますと、そのお話ばかり」

真之介「私が元商人であり、実家は呉服屋で今もそこそこ繁盛しておるで、千両箱

   などその辺に転がっているか」

ふみ 「申し訳ございません」

久  「いえ、私がその気になってしまいましたもので、奥方様にご迷惑を」

 

 と、久はあくまでも、主人を庇う。


真之介「いや、別に気にせずともよい。言っておくがこの家に千両箱などない。ま

   あ、実家にはある。見たければ、この次にでも」

お房 「ええっ!あの、その節には、私もご一緒させて。よろしいでしょうか。うへ

   へへ」

 

 だが、そんなお房の期待とは裏腹に、その節は中々やって来なかった。まさか、真之介が忘れているとは…。


お房 「奥方様、いつになったら、でしょうか」

ふみ 「さあ、それは、私にも」

久  「そんなに急かすものではありません」

お房 「でも、久様、あれから、もう…」

 

 ふみも久も千両箱を見たい気は山々だが、真之介の留守を狙ってこっそり蔵を覗いたことを知られただけでも気恥かしいのに、さらに、いつかと催促など出来る筈もない。


ふみ 「待つことです」

お房 「はあ…」

 

 そして、例によってその日は突如やって来た。真之介とは思いつけば即行動に移す男なのだ。最初はそのペースに付いて行くのが大変だったが、それも今は何とか慣れることが出来た。だが、この日はお房が中々姿を現さない。


久  「お房、何をしてるの」

 

 久が台所側のお房の部屋に行って見れば、そこにはまだ長襦袢姿のお房がいた。


お房 「どれ着て行けば、迷ってぇ」

久  「どれって、あっ、これがいいわ」

お房 「本当にこれでいいですかぁ」

久  「これがお似合いよ。だから、早くしなさい」

----どれ着ても同じだし、そんなに数ある訳でもないのに。

久  「旦那様方をお待たせするものではありません」

お房 「はい!」

 

 やっと、全員揃う。


真之介「戸締りは大丈夫か」

忠助 「はい、それは、私が確認しました」

  

 そして、本田屋では今日は一階の客間に通される。ふみと久はどうしていつもの二階の部屋ではないのかと思ったが、お房はやがて目にする筈の千両箱も初めてだが、この客間も初めてなので一層落ち着かない。

 そこへ、お妙が茶を運んで来た。婚礼の決まったお伸には、新たに雇い入れた主婦が三交代で一日中張り付くことになったので、お妙は店の茶汲み係になっていた。


真之介「お妙、変わりないか」

お妙 「はい」

真之介「お前のいい話はまだか」

お妙 「まだでーす」

真之介「そう、あっさり言うでない」

お妙 「では、しつこく待っていますので、誰か紹介してくださいませ」

真之介「母に言っておく」

お妙 「えっ、旦那様がご紹介くださるのでは?」

 

 その時、番頭に続いて千両箱を抱えた亀七と何も抱えてない鶴七がやってきた。


亀七 「よっこらしょ」

 

  亀七が千両箱をそろっと畳の上に置く。やがて、蓋が開けられそこには妖しく輝く小判の束。一斉に注がれる眼…。

 まさに、壮観であった。誰もの目が釘付けとなる中、特に、お房は興奮していた。


お房 「あ、あのあの、あの。その、ちょ、ちょっ」

真之介「お房、どうした」

 

 大量の小判にお房はおかしくなりそうだった。


お房 「あの、こ、小判に、さわら、わらわら、わらわせて、くださぁませ」

 

 真之介は小判を一つお房の手に載せてやる。


真之介「帯封を切るでないぞ」

お房 「は、はい」


 箱一杯の小判の色艶に目もくらみそうだが、小判二十五枚のこの上ない重み…。

 うっとりしているお房に、お妙は軽蔑気味の目を向けていた。


----自分の金でもないのに…。


鶴七 「あの、旦那様。隣の蔵には五百両の金しかなかったというのは本当なんで

   しょうか」

亀七 「ちょっと信じられないんですけど」

真之介「さあ、よその懐具合はわからぬでなぁ」


 と、番頭をちら見する。


番頭 「左様でございますとも」

 

 こちらも無難に答えておく。


亀七 「では、うちの蔵には千両箱が今幾つ、あるのでしょうか」

鶴七 「お前はそれこそ今、蔵に入ったではないか」

亀七 「いえ、それが入り口に近くに、これ一つだけ置いてありました」

鶴七 「これとは何だ、大事なお金を、これとは。でも、亀も私も奥まで入ってま

   せん」

番頭 「私も存じません。この一つの千両箱だけはいつも入り口近くに置いてある

   ものですから。知りたければ、一番番頭さんか、ご新造様にお聞きすること

   ですね」

 

 と、番頭が言えば、真之介もすました顔で言う。


真之介「私も以前は知っておったが、今はここの主人ではない故、知らぬ」

 

 その時、小太郎とお伸がやって来た。


真之介「おお、小太郎、来てたのか」

小太郎「はい。これは奥方様、先日はありがとうございました」

 

 お伸が兄の家で過ごしていた時、真之介は小太郎も呼び、二人は久しぶりの逢瀬を楽しんだのだ。


真之介「今日は、また」

小太郎「はぁ、たまにはと、お声が掛かりまして…」

真之介「そう言うことか」

 

 お弓は真之介の家で、二人が逢ったことを知らなかったようだ。


お伸 「お姉様」

 

 と、お伸はふみの側に行くが、千両箱に目を見張る。


お伸 「まあ、千両箱ですね。私も初めて見ました」

 

 これには、ほとんどの者が驚かされる。お伸が千両箱を見たのが初めてとは…。

 だが、ふみにはわかる気がした。お伸とは数日一つ屋根の下で過ごしたが、その時に自分との違いを痛いほど感じた。

 旗本の娘と商家の娘では身分からして違うので一括りにはできないが、早くに父を亡くしたとはいえ、母と兄二人に愛され実に伸びやかに育ったお伸と違い、ふみは両親揃っていたが、祖母が嫡男である兵馬を溺愛し、ふみと母には辛く当たっていた。それらのことは致し方ないにしても、お伸との決定的な違いは貧富の差である。貧しさゆえに町人上がりの男の許に嫁いだふみに比べ、経済的にも恵まれていたお伸は、千両箱に興味を持つこともなく生きて来たようだ。


真之介「今、この店に千両箱が幾つあるのかと言う話になっておって、ひょっとし

   て小太郎なら知っているのでは」

小太郎「とんでもございません。どうして、私が知ってるとお思いなのですか」

真之介「そうだな。だが、幾つくらいあると思う」

小太郎「それも、全く見当が付きません」

真之介「では、小太郎が婿入りしての、初仕事は千両箱の数を数えることだな」

小太郎「はぁ、蔵の鍵を預かりましたら、真っ先に」

亀七 「その時は教えて、いえ、私も一緒に蔵の中に、ねっ、小太郎さん」

 

 と、亀七が身をのり出す。


鶴七 「小太郎さんじゃなくて、若旦那だろ」

小太郎「いえいえ、婿入りはまだ先のことですから。どうぞ、皆さまお気遣いな

   く」 

番頭 「では、この当たりでよろしいですか」


 と、番頭が言えば、お房が名残惜しそうに小判を返し、蓋が閉められる。


亀七 「今度は鶴が持ちます」

鶴七 「ついでにお前持てよ、力仕事はお前の担当じゃないか」

亀七 「これくらい持てなくては、泥棒は出来ないよ」

鶴七 「私は鍵を開ける」

亀七 「それなら一つしか持ちだせない」

鶴七 「仕方ないな」

 

 と、鶴七が千両箱を持ち上げる。


真之介「おい、この店はいつから泥棒飼うようになったんだ」

番頭 「いえ、飼ってたのではなく、勝手に湧いてきたようです。ご心配なく、今か

   ら蔵の中に閉じ込めてやりますので」

 

 と、番頭が言えば、千両箱を持っていた鶴七は少しよろける。


亀七 「大丈夫かい、千両箱は。ああ、良かった。鶴がつるっと落としたんじゃ、

   面白くないからさ」

鶴七 「何だい、そりゃ」

亀七 「そりゃ、決まってんじゃん。大事なのは、ンじゃなくて、千両箱」

鶴七 「そんなこと言うんなら、亀、お前が持てよ。背中に載せるのとか得意なん

   だろ」

亀七 「いや、鶴の羽根に包まれた方が絵になるって、それで町を歩けば、人気が出

   ること間違いなし」

鶴七 「人気なのは千両箱の方だ」

亀七 「それがわかってるとは素晴らしい。さすが、本田屋の鶴ちゃん」

鶴七 「だからっ。いや、もういいからさ。そこをどいとくれ。これ結構重いんだか

   らさ」

亀七 「まあ、お似合いだこと」

鶴七 「いいから、どけよ」

番頭 「これ、二人ともいつまでも馬鹿やってないで。そんなんじゃ、蔵の開いた

   口もふさがらないよ」

亀七 「はぁい、どうもお邪魔しましたぁ」

 

 番頭と鶴亀コンビが部屋を出て行く。


お房 「面白かったぁ、ふっふぁぁぁぁ」

 

 と、ひとしきり笑ったお房だったが、すぐに真顔になる。 


お房 「旦那様、千両箱の重さってどれくらいなんですか」

真之介「四貫(15㎏)くらいだ」

お房 「わっ、重いのですね」

 

 だから、二階ではなく一階だったのだ。


お弓 「まあ、遅くなりまして。ちょうど知り合いの方が見えられたものですか

   ら」

 

 と、お弓が入って来た。


お弓 「お妙、台所に行って、夕食の用意を伝えて来て」

小太郎「では、私はこれで失礼致します」

 

 小太郎が立ち上がろうとする。


お弓 「まあ、いいではありませんか。こうして皆揃ったのですから。ああ、一人

   いないのはいつものことです」

 

 家を出たと言っても、そんなに遠くにいる訳でもないのに、弟の善之介はあまり実家には帰らないようだ。   

 やがて、そのまま客間で夕食となる。


お房 「あ、あの、私もこちらでよろしいのですか」

 

 自分の前にも膳が運ばれて来たので驚いてしまうお房だった。


お弓 「今日は特別ですよ」

 

 この客間に通されただけでも嬉しかったのに、まさか、ここで一緒に食事が取れるとは。お弓の笑顔がまぶしかった。


----ひょっとして、上げ膳、据膳…。


 これが喜ばずにいらりょうか。こうなったら、お妙の恨めしそうな目付きもこの上なく心地いい。お房はお妙にもちゃんと挨拶したのに、なぜか、あまりいい顔はされなかった。

 こうなったら、そんなことはどうでもいい。仕事とはいえ、毎日食事の支度をしている者にとって、人の作ったものを食べられるだけでも幸せなことなのだ。それもご馳走の上に、食後のお菓子までと、千両箱も見たお房にとっては、最良の一日だった。

 翌日、ふみと久の話題はやはり昨日の真之介が言っていたことが気になる。


久  「奥方様、本当に旦那様はご実家の蔵の千両箱の数をご存じないのでしょう

   か」

ふみ 「いいえ、それはないと思います。あの旦那様が…。きっと、すべて把握され

   てます」

久  「そうですわね。では、隣の白田屋の蔵に五百両しかなかったというのは」

ふみ 「それこそ、余所のことですから、本当のところはわかりませんけど、あの嘉

   平と言う人物はあれで、中々の者と聞いてます」

久  「ちょっと目には好々爺のようの様ですけど、人は見かけによらないと言うこ

   とですか」

お房 「はあい、お茶をお持ちいたしました」

 

 昨日から、ずっとテンションの高いお房だった。


ふみ 「まあ、元気のいいこと」

お房 「はい、もう、これだけが取り柄で、えへへへ」

久  「自分で言ってれば、世話はないわ」

お房 「ええ、昨日も本田屋のご新造様が、明るくて元気がいいわねって。実は、

   お小遣いも頂いちゃいました、へへっ」

ふみ 「それは良かったこと」

お房 「さあ、そろそろ夏の支度をしなくっちゃ」

 

 だが翌日、とんでもない夏支度を目の当たりにする、ふみと久だった。

 朝、いつものように朝食の膳に付いた、ふみと久は思わずその目を疑う。何と、膳の上の茶碗には麦飯が盛られているではないか。これには、ふみも久も、とっさに言葉が出ない。

 まさか、この屋敷で麦飯が出てくるとは…。だが、当の真之介がその麦飯を普通に食べているので、ふみも久も箸を取る。そして、食事が終われば、洗い物をしているお房に久が詰め寄る。


久  「一体、あれはどう言うこと」

お房 「あれって、何ですか」

久  「何って、どうして麦ご飯なの」

お房 「えっ、ああ、あれですか。えっと、ご存じなかったのですか」

久  「何を?」

お房 「あら、言い忘れたみたい。いえ、でも、もう知ってらっしゃると思ったり

   したもので…」

 

 その時、ふみも台所にやって来た。


久  「だから、何なの。早く言いなさい」

お房 「あの、食べ物には、体を温めるものと冷やすものがあって」

久  「それくらい知ってますよ」

お房 「ですから、米は体を温めるもので、麦は体を冷やすのだそうです。なので、

   こちらでは夏が近づくと麦ご飯になるんですけど、やっぱりご存じなかったの

   ですね。私も、つい、昨日の千両箱で浮かれてしまって、言いそびれてしま

   いました。申し訳ございません」

久  「そう…」

お房 「でも、私も、どちらかと言えば、夏でもお米のご飯がいいんですけど、それ

   はぜいたくと言うものですよね。うちの旦那様はおやさしいし、昨日の様に

   おいしいものも食べられたりするのですから、本当、ぜいたくです」

 

 ふみと久は庭へ出る。


久  「それにしても、姫様、まさか、こちらで麦を食べるとは、夢にも思いませ

   んでした」

ふみ 「ええ、私も驚きました。では、実家での私達は体を冷やしてばかりいたの

   ですね」

久  「その様ですけど、それにしても、いくら体を冷やすものだからと言って、取

   り立てて麦を食べなくてもいいと思うのですけど」

 

 俗に「江戸患い」と言う病気がある。脚気のことだが、米ばかり食べてビタミン不足になるところから起きる病気である。地方から来た人たちが、江戸の食事に馴染むとかかりやすく、これが地元に帰れば麦やヒエ、アワなどを食べるので、脚気の症状も治まるところから江戸患いと呼ばれていた。

 真之介は、湿度の高い夏には体を冷やすものを食べた方がいいと言う知識で、知らぬ間に脚気を回避していたのだ。


ふみ 「ええ、でも、お房の言う様に、私もすっかりぜいたくに慣れてしまったの

   かもしれません」

久  「それは、私も…」

ふみ 「あら、久、少し太ったのではありませんか」

久  「えっ、そうですか。でも、姫様もふっくらなさって」

ふみ 「それにしても、刺激のある暮らしだと思いませんか」

久  「ええ、色々と、旦那様には驚かされます」

ふみ 「一年前には想像すらできませんでした」

 

 知行(土地)を持たぬ旗本はどこも生活が苦しいものだが、そこに病人がいると尚更である。弟の兵馬は体が弱く、そのための医療費がかさみ、麦粥を食べて凌いだこともある。そして、兵馬が何とか健康を取り戻し、これで一息つけると思ったのも束の間、今度は母が倒れた。これでは、気に染まぬがあの仁神安行の側室になるしかないのではと思っていたところに、真之介との縁談が持ち込まれる。

 片や、旗本筆頭の家柄ではあるが、かなりの乱暴者と噂のある男。片や、町人上がりのにわか武士。

 仲人の坂田夫妻の勧めもあり、結納金百両で真之介との縁組を受ける。ところが、差し出された結納金は百二十五両と提示した額より多かった。


お弓 「百では割り切れます」

 

 と、姑のお弓が言ったそうだ。父はその中から、二十五両をふみに手渡す。


播馬 「これは、そなたのものだ」

 

 ふみは久たちと久しぶり町へ出た。欲しいものもあったが、真之介の実家である店を見て見たかった。だが、途中で久とはぐれてしまう。地理などさっぱりわからぬところで途方に暮れていた時、通りかかった若侍が助けてくれた。

 だが、翌日の両家の顔合わせの席にいたのは、何と、昨日の若侍だった。驚くとともに、ホッとしてふみだが、実は真之介はこの縁組にのり気ではなく、ふみにも思いとどまる様に迫るのだった。そうは言われても、ふみには断ると言う選択肢はなく、受け入れてもらうしかなかった。

 一抹の不安を抱えたままの輿入れとなったが、最初はそれこそ、何をどうしていいのかもわからなかった。実家の旗本屋敷に比べれば、御家人の家など狭いものであるが、それにしても畑の類がないのは意外だった。庭に花や木はあるが、大根はおろか葱さえも植えてないのだ。

 ふみは、どこの家でもそれくらいは植えているものだと思っていた。聞けば、真之介の乳母であるお初は農家に嫁ぎ、そこで、生後間もない長男を亡くしたことで殴る蹴るの暴行を受け、やがて、真之介の乳母となるのだが、土いじりなどしたくもないと言うことで、何も植えないままになっていた。その乳母も今はよそに行っている。

 また、今は笑い話となっているが、まだ、二人の仲がぎこちなかった頃、真之介がふみに、話のきっかけの様な感じで聞く。


真之介「何か、食べたきものあらば何なりと。食べ物の好みはわからぬゆえ」

ふみ 「あの、かまぼこ…」

 

 と、遠慮がちに言えば、その夜の膳にはかまぼこが載っていた。その中にひと際きれいなかまぼこがあった。そして、そのかまぼこを口に入れた瞬間、思わずふみは固まってしまう。


真之介「どうなされた」


 まさか、傷んでいる筈はない。


ふみ 「模様だと思ったら、わさびでした…」

真之介「姫は、板わさをご存じなかったのか…」

ふみ 「板わさ、ですか」

 

 白いかまぼこに黄緑色の筋が入っていた。ふみはこんなかまぼこもあるのかと、ちょうどその筋のところを噛んだのだ。だが、それは模様ではなく、わさびだった。


真之介「下々では、かまぼこにわさびを挟んだのを板わさと言いましてな」

 

 その時は真之介も板わさを肴に飲んでいた。ふみは酒を飲まないが、ふみの膳にも板わさがあった。


ふみ 「そうなのですか」

真之介「ご実家ではこのような食べ方はされなかったのですかな」

 

 ふみにとって、かまぼこは晴れの日くらいしか食べられないものだった。毎日の食事のほとんどが庭でとれた野菜であり、魚と言えばメザシくらいなものだった。

 だから、結納の品の鯛の特にかぶと煮のおいしかったこと。そして、顔合わせの時の梅花亭の料理はどれを食べてもおいしく、日頃食の進まない母でさえあれこれ食べていた。その中にきれいな黄色の四角い食べ物があった。何だろうと思いながらも口にしてみれば、それは得も言われぬおいしさだった。


利津 「まあ、これが卵焼きですか。何て、おいしいのでしょう」

 

 ぶと、坂田の妻が言ったので、これが卵焼きと言うものだと言うことを知った。卵など、兵馬のための卵粥の残りを食べたくらいしかないふみだった。そして、食べ終わる頃になって気が付いた。膳の上のものを全部食べていた。真之介の前である事も忘れる程に食べることに夢中になってしまっていたのだ。

 こう言う席では、少しくらい残した方が良かったのではと一瞬後悔もしたが、食べ物を残すなど到底できない事だった。だが、見れば誰も何も残していなかった。あのおっとりとした感じの妹のお伸でさえ全部食べていたので、ホッとしたことを覚えている。

 その後の輿入れの前日、祝言、三日にわたる本田屋での披露宴、あいさつ回りと疲れたがご馳走は続いた。やっと、新婚生活のスタートとなるが、それでも、毎食白米のごはんであるし、何より、毎日のように魚が食べられるのが嬉しかった。その魚も至って普通の大衆魚だが、ふみや久にとってはこの上なくおいしいものだった。それにしても、いきなりの麦飯には逆の意味で驚いてしまった。

 そんなある日、台所に黒く丸い物体が転がっていた。


ふみ 「何でしょう」

久  「何でございましょう」

 

 二人ともさっぱりわからない。触って見れば野菜か果物の様な感じだが、こんなに大きくて黒い野菜や果物があっただろうか…。


真之介「何か、珍しいものでもあったか」

 

 いつの間に来たのか後ろに、真之介が立っていた。


ふみ 「あの、旦那様。これは一体何でございますか」

久  「この様なもの、初めて見ました」

真之介「それはよかった。これで、また、私の蘊蓄が披露できると言うものだ。こ

   れは西瓜と言ってな、ウリ科のつる性植物である」

 

 西瓜の原産地南アフリカ。11.12世紀に中国に伝わり、ヨーロッパには16世紀初頭、アメリカには17世紀に伝わった。

 日本へは17世紀中期、隠元禅師が中国から種を持ち帰ったとされているが、鳥羽僧正の鳥獣戯画に西瓜らしい絵が描かれ、僧義堂の「空華集(1359年)」に西瓜の詩があるところから、もっと古い時代に伝わり、平安時代後期には作られていたのではと言われている。尚、緑地に黒い縞模様は昭和以降であり、それまでは黒地の無地皮だった。 

 黒い皮に果肉の赤が生首を連想させるところから、江戸初期には敬遠されていたが、平和な時代になると、夏の果物として切り売りもされるようになり、ただ、現在の西瓜ほどの甘みはないが、限られた種類の食料しかない時代、西瓜は夏のさっぱりしたおいしい果物だった。

 西瓜なら、ふみも食べたことはあるが、その時は切り分けられたものだった、そう言えば、皮が黒かったような気がする。


真之介「と言う訳で、これからご実家へお持ちするので早く支度を。初物なので喜

   ばれると思う」

ふみ 「あの、私の実家へでございますか」

真之介「そうだ」

ふみ 「旦那様のご実家へは」

真之介「ああ、もう、八百屋から届いておるわ。だから、早く支度を致せ」

ふみ 「は、はい」

 

 またしても、真之介のせっかちが始まった。その時、忠助とお房が入って来る。


忠助 「旦那様、西瓜を井戸に吊るしておきました」 

真之介「では、今夜は冷たい西瓜が食べられるな。お房」

お房 「はい!」

真之介「さて、何を着て行くか」

 

 もう、いつもこれなのだ。人に支度を急かせておいて、いざとなれば、自分は着て行くものに迷う。だが、着るのは早い。この時代、着物は日常着だから、袖を通し前を合わせ帯を結ぶことなど誰でも容易く出来るが、真之介はいつ見てもビシッと決まっていた。それは仕立てのいい着物に加え、真之介の姿勢の良さによるものだ。玄関では丸い風呂敷包みを持ったを忠助が待っていた。


ふみ 「まあ、忠助。これをどのようにして包んだのですか」

 

 忠助は西瓜を包んだ風呂敷を解いて見せた。解くと言ってもくぐらせたのを元に戻しただけであった。


久  「丸いものがこんなに簡単に包めるとは」

 

 久も感心している。

 日本の風呂敷と言うものは便利なもので、また、その包み方にも工夫がみられる。西瓜の様に丸いものを包む時は真ん中に置き、隣り合った端と端を真結びにする。その時結び目の下に空間を作っておく。そして、そのどちらか一方の結びをもう一方の空間に通す。これで、丸いものも安定して持てるのだ。

 ふみも久も風呂敷の色々な包み方は知っているが、丸いものを包むと言うことはなかった気がする。

 だが、ふみは気が重い。ここのところ、実家へ帰るのも控えている。

 実家には妊婦様がいるのだ。デキ婚だ、一族の恥だと騒がれたものの、輿入れしてしまえば生まれて来る子供は初孫であり、三浦家の大事な跡取りと大事にされているのはいいが、ふみはどうしても弟嫁の園枝が好きになれない。最初から上から目線で、ふみの前ではことさらにその腹を突き出してくる。


園枝 「姉上はまだですの」

ふみ 「ええ…」

園枝 「私より先に輿入れされたのに、兄上の夜遊びはまだ治まりませんの」

ふみ 「えっ、夜遊びとは?」

園枝 「ええ、かなりのものだとか」

久  「あの、奥方様。こちらの旦那様は別に夜な夜な遊び歩いてらっしゃる訳で

   はございません。以前はともかく、今はご夫婦仲睦まじくされておいでで

   す」

 

 たまらず、久がフォローしたつもりだったが、それは逆効果になってしまう。


園枝 「さようか。それなのに、どうして?」

 

 と、尚もねちねちと絡んでくる。高慢な妊婦の前では何を言っても無駄なのだ。

 今日は真之介がいるので、それほどのことはないと思うが、もう、実家を自分が生まれ育った家と思ってはいけない。母のことは気になるが、その母も今では孫の誕生のことで頭がいっぱいなのだ。


園枝 「まあ、兄上。お久しぶりです」

真之介「これは、こ無沙汰を致しております。園枝殿にはお変りもなく」

園枝 「ええ、変わりあるような無いような。それより、西瓜をお持ちくだされた

   そうで、ありがとうございます。もう、近頃はあれもこれも食べたくて仕方な

   いのです。うれしいですわ」

真之介「喜んでいただけて幸いです」

園枝 「それにしても、お忙しいのですか。あまりお顔を見せられないものですか

   ら」

真之介「はぁ。ご存じかも知れませんが、実家近くで泥棒騒ぎがありまして」

園枝 「ああ、あの白田屋と言うのは、兄上のご実家のお近くでしたわね」

真之介「隣です」

園枝 「まあ、それはさぞ驚かれたことでしょう」

真之介「それが、その様な情報があり、各店とも警戒しておりましたので、何と

   か…」

園枝 「でも、ご家族の方達は」

真之介「その時は妹は私の家に居りました。実家の方は警護も頼んでいましたし、

   母は気丈ですから」

園枝 「あら、それなら、こちらにもお連れ下さればよろしかったのに、ねえ、姉

   上」

ふみ 「いえ、お邪魔と思いまして」

園枝 「まあ、兄上の妹なら、私にとっても妹ではございませんか。ご遠慮なさる

   ことはありませんわ」

 

 遠慮してほしいのはお前の方だ。真之介にしなだれかからんばかりの距離で座っているではないか。武士でなくとも人の妻がその様なはしたないことをするとは。また、嫌な顔をするだけで何も言わない母にも歯がゆさを感じるふみだった。

 その時、舅の播馬と兵馬が入って来た。園枝は真之介から体を離す。


真之介「これは父上、兵馬殿、お邪魔致しております」

播馬 「うむ、息災で何より」 

加代 「殿、今日は真之介殿が西瓜を持って来てくれましたの」

播馬 「ほう、西瓜とは珍しい。して、それはどこに」

真之介「今、井戸で冷やしておりますので、今宵にでもお召し上がりください」

播馬 「それはかたじけない」

兵馬 「初物を食べると七十五日長生きすると言いますからね、兄上」

真之介「兵馬殿、その後、エゲレス語の方は如何ですか」

兵馬 「実は。頑張っております!」

真之介「そうですか、それは良かった」

園枝 「ええ、もう、私のことより、そちらの方が」

兵馬 「黙れ!男の話に口出すでない」

 

 園枝はそっぽを向いてしまう。


加代 「兵馬、園枝殿は妊娠で気が立っているのです。その当たりを少しは思いやら

   ねば」

兵馬 「はい、お邪魔の様で。では、兄上、あちらへ参りましょう。そして、異国

   の話など聞かせてください」

真之介「それなら、当家にお越しください。新しく異国関係の本も入りました」

兵馬 「そうですか、では、明日でもよろしいですか」

真之介「どうぞ、お待ちしております」

園枝 「では、私もご一緒に、よろしいですわね、兄上」

兵馬 「そなたは、その様な体で出歩くではない。何かあったら、どうするのだ」

園枝 「あら、屋敷でじっとしているより少しは動いた方がいいのですよ、ねえ、

   母上」

 

 と、ふみを横目に見ながら言う園枝だった。


加代 「ええ…」   

 

 加代も仕方なく相槌を打つ。これにはさすがの真之介も藪蛇だったかと後悔する。兵馬をなだめるつもりで言ったのだが、これでは先が思いやられる。


兵馬 「いや、明日は遠慮せよ。明日は男同士の話がある」

園枝 「だったら、父上は男ではありませんの」

兵馬 「父上はエゲレス語にはご興味なく、白田屋の拮平も呼ぶで」

園枝 「どうして白田屋を呼んで、私は駄目なのですか」

真之介「いえ、決して駄目と言う訳ではありませんが、あの拮平と申す男は至って

   がさつ者でして、園枝殿に不快な思いをさせるやもしれませんので」

園枝 「その様ながさつ者と一緒で何が楽しいのでしょ」

真之介「それが、がさつ者ではありますが、エゲレス語にかけてはこれが中々のも

   のでして」

園枝 「まあ…」

播馬 「これ、園枝殿。男には男の付き合いというものがある。あまりに口出しを

   するでない」

 

 それまで黙っていた播馬に駄目だしをくらうも、何かと敵愾心を募らせる園枝だった。 


園枝 「では、姉上はお退屈では」

ふみ 「いえ、私もいささか…」

加代 「えっ、ふみもエゲレス語を?」

 

 加代が目を丸くしている。


ふみ 「はい、亭主の好きな何とかでして」

園枝 「はあ、姉上もでしたの、それはそれは」

 

 一人、面白くない園枝だった。

 その夜、西瓜を切り分けたのは真之介だった。 

 ちょっと押せば転がって行きそうな丸いものをどのように切るのだろうと思っていると、それは縁側で始まった。まな板の上に西瓜をのせ両端を切り落し、縦半分にすれば鮮やかな赤色に、ふみと久は思わず声を上げる。その半分の西瓜の果肉の方をまな板にかぶせるように置き、中心の部分を棒状に切って行く。普通西瓜はくし形に切るが、これをそのまま食べ進めれば顔の輪郭に沿うことになり、果汁が顔に付くこともある。そこで、片手で持てる程度の三角状にするが、棒状だとさらに食べやすい。

 子供の頃、年寄りから聞いた話だが、昔の西瓜の果肉は極小の粒の集合体の様で歯ごたえもあり、現在のしっとりした果肉とは違っていたそうだ。


ふみ 「しゃりしゃりしておいしいです」

久  「よく冷えておいしいです」

 

 おいしいものの前では皆笑顔になる。お房は大きめに切ってもらった西瓜に黙々とかぶりついていた。

 きっと、今頃は実家でも西瓜を食べていることだろう。この時ばかりはきっと皆なごやかな気持ちになると思うが、兵馬と園枝が今からあれでは先が思いやられる。いやいや、子供が生まれればうまくいくだろう。それこそ、余計な御世話だ。

 やはり、ふみも早く子供が欲しい。そう言えば、佐和のところも子供はまだだ。ふみより一年以上前に輿入れしたのに。どうして、待ち望んでいるところには出来ないのだろうと思ってしまう、ふみだった。

 翌日、兵馬がやって来た。


兵馬 「西瓜、おいしかったです」

真之介「喜んでいただけて何よりです」

 

 その時、部屋に子犬が入って来た。


兵馬 「犬を飼われたのですか」


 

 
















 





























 


































 








 




 































 

 

 








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