第59話 白袴の紺屋

お里 「若旦那、若旦那!」


 叫びながら、お里が駆けて来た。


真之介「おい、恋女房が来たぞ」

お里 「若旦那!もう、どこをうろついて、いえ、駄目じゃないですか。お忙しい

   旦那様の足をお止しては」

拮平 「お里、急な用でもないのに、大人の話に割り込むんじゃないよ」 

 

 お里は聞こえぬ態で、真之介に頭を下げる。


お里 「まあ、いつもうちの若旦那がご迷惑ばかりおかけしまして、申し訳ありま

   せん。もう、適当にうっちゃといて下さいませ」

真之介「いつ見ても、しっかりした受け答えで痛み入る。中々出来た…じゃない

   か」

拮平 「まだ、子供」

真之介「今は子供でも、後二、三年もすれば。ああ、それを待っているのか。これ

   は失礼した」

拮平 「まだ、子供!」

真之介「子供でもしっかりしておる。あ、そうだ」

 

 兵馬のことはこのお里に頼んだ方がいいのではないかとさえ思った。幾ばくかの小銭を握らせると、お里の顔はパッと明るくなる。


真之介「そう言う訳でな、くれぐれも頼んだぞ」

お里 「はい!お任せ下さいませ。兵馬様に酒を勧めぬよう、私がしっかりと見張

   りますので」

真之介「いざとなれば、少しくらい蹴飛ばしても構わぬ」

お里 「ええ、その時は向こう脛、思いっきり蹴飛ばしてやります」

拮平 「真ちゃん、駄目だよ。癖になるよ」

お里 「それより、若旦那、早くお帰り下さい」

拮平 「えっ、ひょっとして、おとっつぁんに何か?」

お里 「そんな、縁起でもない。荷が着いたんですよ」

拮平 「なぁんだ、荷かい」

お里 「何だじゃなくて、若旦那は荷の係じゃないですか」

拮平 「えっ、荷の係?はっ、そんなの知らねぇよ」

お里 「今日から、そうなったんです」

拮平 「だから、知らないって」

お里 「ご新造様がお決めになったんです」

拮平 「そんなの、知ぃらねっ」

お里 「そしたところが、その前に若旦那が消えてしまってたんで、もう、みんな

   で手分けして探していますよ」

拮平 「えっ!」

 

 実際は、お芳がこれからは荷物の管理くらいは拮平にやらせようと提案したに過ぎないのだが、そのことを伝えようとした時に拮平の姿はなかった。そこで、水仕事などしたくないお里がいつものように探し役を買って出る。今日はその甲斐あって思わぬ臨時収入にあり付いた。隣の真之介旦那は気前がいい。 


真之介「これは、長々と引き留め済まなかったな。拮平、早く帰って仕事に精を出

   せ」

----そう言う真ちゃんは、今夜精を出すんだね。

 

 それは、お里の前なので口には出せない。

 お里に手を引かれるようにして帰って行く拮平の後姿はおかしくもあり、なぜか、大人になりきれない拮平だっだ。

 そして、しばらく歩いていると、今度は弟の善之介とばったり会う。


真之介「お前は一体、何を着て歩いてるんだ」

善之介「おや、これは兄さん。まあ、久しぶりに会ったと言うに、随分なご挨拶

   じゃないですか」

真之介「お前なあ…」

善之介「おや、もう、お忘れですか。これは兄さんの町人時代の着物じゃないです

   か。子供の頃、弟が兄のお下がりを着るのは当たり前ですけど、私は大人に

   なってからもこうして兄さんのお下がりを着てんですよ。どう、これぞ弟

   鏡!ってもんでしょ。えっ、なに、その顔。ああ、私にゃ、こんな高尚な柄は

   似合わないとでも」

真之介「その羽織の裏は何だ」

 

 善之介は羽織の裏を見る。


善之介「紅葉だけど」

真之介「いくら、季節の先取りとは言え、夏にもなってないうちから、紅葉を着る

   とは。絵描きのくせに季節感もないのか」


 日本には、裏地文化がある。見えない裏地にこだわるのが、本当の洒落しゃれと言うものだ。着物の柄もそうだが、見えない裏地も季節の先取りをする。


善之介「ああ、私は兄さんの様に着る物にこだわりませんので。ちょっと違うかも

   しれませんけど、紺屋の白袴の様なものですよ」

真之介「多いに違うわ。紺屋の白袴の本当の意味を知らんのか」

善之介「知ってますよ、それくらい。仕事に忙しくて、自分の袴を染める暇もな

   いってことでしょ。似たような言葉に、医者の不養生、坊主の不信心、髪

   結い髪結わずってね」

真之介「ことわざと言うものには、色々意味合いがあるものだ。紺屋の白袴にも、

   その品を使わないのに専門家の顔をしておるという悪い意味や、自分の作っ

   たものは意外に使わないものだと言う、意外性の意味もある。だが、本当の

   意味は、紺屋が白袴を穿くのは、染料の藍の染み一つ付いてない、それほど

   の腕を持った職人であることの誇りなのだ。だから、紺屋はわざと白袴を穿

   くのだ」

善之介「そう言えば、聞いた様な…。でも、世間じゃ、急がしくてと言う方が罷り

   通ってますよ」

真之介「世間はともかく呉服屋の息子のくせして、そんな事も知らんとは…。

   あぁ、だから、主人の座を降りたのか。それは賢明である」

善之介「そうでしょ。中々やるなと思いませんか」

真之介「誰が思うか。とにかく、お前は呉服屋の息子で、しかも絵描きではない

   か。季節感くらい大事にしろ」

善之介「以後、気を付けます」

真之介「それに、絵描きと言うなら、たまには着物の柄くらい描いてみろ」

善之介「そうですね…。そうだ。では、兄さんのために、特別に、長襦袢に裸の女

   が絡みついてるのなんてのを描いてあげますよ。兄さんにぴったりでしょ。

   それ、どこの女の前で脱ぎます?」

真之介「そんな長襦袢、誰が着るか」

善之介「まあ、そんな、遠慮なさらずとも」

真之介「するわ。それなら聞くが、お前は裸の女は描けても、花柄ひとつ描けんの

   か」

善之介「わかりました。その女に花を持たせますので、お楽しみに」

真之介「ったく。ところで今は、実家からの帰りか」

善之介「いえ、ちょいと、野暮用で」

真之介「野暮用なら後にして、これから一緒に実家に行かぬか」

善之介「だから、ちょっと」

真之介「たまにはおっかさんに顔を見せてやれ」

善之介「おっかさんは私の顔より、兄さんの顔見た方が喜びますよ。じゃ、おっか

   さんによろしく」

----やれやれ…。


 真之介は一人で実家に向かうことにする。裏口から入った真之介の姿を見た女中はすぐにお弓を呼びに行く。


お弓 「まあ、真之介さん。ちょうど良かったですわ。ちらし寿司を作りました

   の」

真之介「何かあったのですか」

お弓 「ええ、お伸のお友達がいらして、今日はうちでお泊まり会なのです」

真之介「そうですか。あぁ、その先で善之介に会いました。近くおっかさんの顔を

   見にくるそうです。何ですか、今日は野暮用があるとかで…」

お弓 「あれは、もういいのです」


 実の息子より、先妻の息子の方が自分を気遣ってくれるとは…。


お弓 「それより、夕食はどうされます。ああ、ふみ様がお待ちですね。では、お

   寿司を少しお持ちになられますか」

真之介「これは、ふみが喜びます」

 

  外は夕暮れだった。小僧に寿司の重を持たせようとしてくれたが断る。帰りには日が落ちてる。街灯などほとんどない時代、夜は大人でも滅多なことでは外出しない。

 それにしても、今日は何かしら細々こまごまとした日だった。だが、寿司の重を持って帰宅すれば、ふみが沈んでいる。真之介には、こちらの方が気にかかる…。


真之介「実家に立ち寄ると母がちらし寿司を持たせてくれた」

ふみ 「あっ、申し訳ございません。すぐにお夕食の用意を致します。まあ、母上

   様がわざわざお作り下さったのですか」

真之介「わざわざと言う訳ではないが、作りたくなったそうだ」


 しかし、その後の夕食では、ふみはちらし寿司ばかり食べていた。それは別に構わないのだが、他の物に箸が向かないと言うより、どこか上の空なのだ。


真之介「どうかなされたのか」

 

 食事も終わり、真之介は聞いてみた。実家の三浦家に何かあれば、こうしてゆっくり座っている筈もないのに、何を思い悩んでいるだろう。


ふみ 「……」

久  「実は、旦那様」


 代わりに久が答える。


久  「今日の昼間に、奥方様の従姉の雪江様と絹江様がお見えになられ…」

 

 真之介が、ふみの従姉の雪江と絹江の姉妹に会ったのは二度程、それも挨拶程度でしかない。だが、この二人が真之介の留守にやってきては、色々香ばしいことをやらかしてくれることは聞いている。


ふみ 「実はその、雪江殿がお金を貸してほしいと…」

 

 ふみがようやく口を開いた。


真之介「いくらだ」

ふみ 「五両ほど」

真之介「五両」

 

 一両を現代の価値に換算することは非常に難しく、四、五万円から時代によっては十万円ともそれ以上とも言われ、決して安い金額ではない。


真之介「それで、どうなされた」

ふみ 「そんなお金はないと今回はお断り致しました」

真之介「今回は?」

ふみ 「申し訳ありません」

久  「以前に一両。雪江様も絹江様も大変押しの強い方ですので、奥方様もつ

   い…」

真之介「それは賢明なことで、金を貸す時は返してもらわなくともいいと思える額

   を貸し、その金を払わないうちは次の貸しは断ることだ。それでよかったで

   はないか」

 

 今回断ったことは、ふみにしては上出来だと思った真之介だが、それにしてはまだ何かあるようだ。


真之介「まだ、何か?」

久  「あの、これは、はしたない憶測かもしれませんが…。奥方様も以前の支払

   いがまだのことをおっしゃったのです。そう致しますと、絹江様と何やらお

   話になられて、出直しますとお帰りにならなれました。それで…」

真之介「わかった、皆まで申さずとも良い」

 

 おそらく、以前借りた一両の工面をし、今度は五両貸せとやってくるのではないかと思ってるのだ。


真之介「私がいる時にやって来ればいいのだが」

久  「それが、あのお二人は、不思議と旦那様のお留守がわかるようで、まるで

   狙いすましたかのようにお留守にばかりやって参ります」

真之介「では、私が籠の鳥になるか。まあ、そうもいかぬで、ここはお断わりする

   かお貸しするかは奥方の裁量にお任せする」

ふみ 「あの人たちに貸したくありません!最初に貸した私が馬鹿でした。従姉だか

   らと言っても何かしてくれた訳でもなく、それこそ寄り付きもしませんでし

   た。それが、旦那様との縁組が決まりましてからは、手のひらを返して来

   て…。でも、私もこちらに輿入れ致しましてからは、少し浮かれておりまし

   た。それで、つい…。後悔しております」

真之介「嫌なものはお断りすればいい。あぁ、私に断ってほしいのか」

ふみ 「いいえ、自分で断ります」

真之介「それは見上げた心根で安心いたした。それなら、思い煩うこともなかろう

   に」

ふみ 「でも、本当にそれが、出来るかと言われますと…」

久  「あの、旦那様。こう言う場合は、どのように言えばよろしいのでしょう

   か。何しろ、あのお二人と来たら、決して口で引けを取るような方たちで

   はないのです」

真之介「ならば、すべて、私のせいにすれば良い。思った以上にケチだとか、細か

   いとか。確かに私は元商人であるゆえ、収支はきちんとせねば落ち着かぬ。

   奥方の財布の中身は知らぬが、後は一文たりとも計算が合わぬと言うことは

   ない」

 

 そのことはふみも久もよく知っている。とにかく計算が早い。さらに、記憶力もいい。


真之介「だから、五両などと言う大金、到底自由に出来ぬ。家計は真之介が握って

   いると、ひたすらそれで逃げるしかない」

ふみ 「はい、そのように、やってみます」

久  「それがよろしいですわ。奥方様」

真之介「しかし、五両もの金を何に…」

 

 十両盗めば首が飛ぶ時代である。


ふみ 「それは…」

久  「それは、確かにお金も入り用でしょうけど、幾らくらいなら貸すか…。そ

   の、値踏みをしているのではと思われます。おそらく一両返しに来た時、で

   は、五両貸せ。あわよくばその一両と共に六両借りるつもりかと思われま

   す。そして、そして、返す気もないかと…」

 

 口ごもるふみに代わり、久も苦しそうに言った。


ふみ 「私の身内のことでお心を煩わせまして、申し訳ありません」

真之介「何も、そなたが謝ることはない。どこの身内にも厄介な人間はおる。なら

   ば、これ以上の貸し仮りは避けた方がよい。いや、避けるべきだ。その一両

   はやったものと思われよ」

ふみ 「はい」

 

 ふみは真之介と初めて会った日のことを思い出していた。

 卑しくも旗本の娘が町人上がりのにわか武士に嫁ぐのだから、それ相応のことをしてもらわなければ。それにしても、結納金百両とは自分でも吹っ掛けたものだと思っていた。だが、実際の結納金は切り餅(二十五両包み)が五つ積まれていた。百では割り切れるとのことだった。

 父がその切り餅を一つ手渡してくれた。ずっしりと重い小判二十五枚だった。また、忘れられないのは、それまでの支払いを終えた父が安堵のあまり、倒れ込むように眠ってしまった事だ。

 ふみも外に出て見たくなった。当然買いたいものもあるし、金を持って町を歩いてみたかった。それと、結婚相手の真之介の実家も見てみたかった。

 久と源助を供に、久しぶりの外出だったのに、間の悪いことに、雪江と絹江に出くわしてしまう。金目当ての縁組と散々当て擦りを言われ、それまでの華やいだ気分はすぐに萎えてしまい、久や源助ともはぐれ、途方に暮れている時に、一人の商人風の男が声をかけて来た。

 父や弟、その他ごく親しい者以外の男とはろくに口も聞いたことのないふみには、これまたどうすればよいのか戸惑うしかなかった。そんな時、一人の若侍が男を追っ払ってくれた。

 その後、久や源助とも合流でき、ふみは若侍に会釈だけしてあわただしく帰って行ったものだ。

 だが、翌日の両家の顔合わせで、結婚相手の真之介があの若侍だったことを知る。仲人の坂田は真之介がこの婚姻を喜んでいると言っていたが、実際はあまりのり気でなく、ふみにも考え直すように迫った。

 その時、ふみは言った。


ふみ 「私がお気に召しませんか」

 

 その一言で、真之介の気持ちが固まったのだと、ふみは思っている。

 ふみがそんな感慨に浸っていた時。


お房 「あら!まあ!これはこれは!ようこそ」

 

 これは雪江と絹江がやって来た時の、お房の台詞だった。

 そして、二人はまたも真之介の留守にやって来た。


 























 










 









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